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東松山市とは?

ひがしまつやまし
東松山市
箭弓稲荷神社

 | 
東松山市旗 | 東松山市章
1954年9月13日制定

【国】
日本
【地方】
関東地方
【都道府県】
埼玉県
市町村コード
11212-7
法人番号
4000020112127
【面積】
65.35km

【総人口】
92,223[編集]
(推計人口、2020年5月1日)
人口密度
1,411人/km
【隣接自治体】
坂戸市熊谷市比企郡滑川町吉見町鳩山町川島町嵐山町
【市の木】
マツ
【市の花】
ボタン
【市の歌】
「東松山市歌」
【東松山市役所】

【市長】
森田光一
【所在地】
355-8601
埼玉県東松山市松葉町一丁目1番58号
北緯36度2分31.8秒東経139度23分59.7秒

【外部リンク】
公式ウェブサイト

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村



ウィキプロジェクト

東松山市(ひがしまつやまし)は、埼玉県のほぼ中央に位置する人口約9万人のである。

概要

埼玉県の地理的中部に位置し県内の地域区分では西部地域(または川越比企地域)の北端に位置する。

多くの街道が集まる交通の要衝として、古くは鎌倉時代から松山城(現在の行政区域は比企郡吉見町に存在するが、松山城跡自体は当市と隣接している)の城下町、その後は松山陣屋陣屋町として発展した比企地域の中心都市である。

池袋東武東上線で50分程度、TJライナーで45分という環境から東京のベッドタウンとなっている。

国際ウォーキング大会でアジア最大規模の「日本スリーデーマーチ」が開催される。

やきとりの街である。日本三大焼き鳥の街と言われている。

気候は太平洋式気候に属する。その影響により、冬には秩父颪が吹き、かなり寒くなる。

人口は1990年初頭にピークに達し、2010年まで市人口におけるウェイトが高い団塊世代世帯の子供の独立などで微減状態になっていたが、最近は高坂地区あずま町の宅地開発等があり微増傾向にある。また、当市付近は大学が多く、20歳前後の人口が多い。

市勢


東松山市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 東松山市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 東松山市
緑色 ― 日本全国
 | 
青色 ― 男性
赤色 ― 女性


東松山市(に相当する地域)の人口の推移

総務省統計局 国勢調査より

2018年4月1日現在、92,025人。

地理

埼玉県のほぼ中央に位置しているため、埼玉のへそ宣言をしている。

当市内を北緯36度線が通っている。関越自動車道練馬起点36.4km地点(西本宿地内)にはその旨が書かれた標識が設置されており、アメリカ合衆国ラスベガスや、イランの首都テヘランと同緯度であることが表記されている。

地形

当市中央部から西部・南東部にかけて東松山台地、南部には高坂台地が広がり、両台地上には東武東上線の駅があることもあり市街地や住宅地が多いほか、北部は比企丘陵、南西部は岩殿丘陵の東端部に当たりその立地を活かした新興住宅団地が多いようである。また、都幾川越辺川流域周辺は低地となっており田園風景が広がっているが、高度成長期以降は東京のベットタウン化拡大にともなって宅地化が進んでいる。

隣接している自治体との関係

歴史

現在の市の中心部にあたる地域は市制施行前まで松山町と呼ばれ、元を辿れば1333年上杉氏麾下の上田友直によって築城されたとされる松山城の城下町として発展した街である。城下町時代は松山城大手門に至る、鴻巣道沿いの現在の松本町から本町あたりが最も賑やかだったそうである。このあたり松山新宿と呼ばれていた一方、街道筋にあたる本町から材木町のあたりは松山本郷と呼ばれていた。また、現在の本町1丁目交差点は札の辻と呼ばれ高札場が設けられていた。室町時代から戦国時代にかけて扇谷上杉氏が松山城一帯を支配するが、上杉朝定川越夜戦で敗死すると、松山一帯は北条氏の領土となった。

徳川家康が関東入国すると、松山城には松平家広が入城し松山藩を立藩した。近代的な城郭都市に発展する可能性も潜めていたが、家広の跡を継いだ松平忠頼浜松城に移封となると松山城は廃城となった。廃城後、この地域は最終的に川越藩の藩領となり、城に近い松山新宿は次第に廃れ、現在の市街地に当たる松山本郷が町の中心になっていったとされる。

江戸時代には、江戸幕府によって五街道脇往還の整備が進められ、当市域でも、江戸から高坂を経て上州に至る川越・児玉往還(川越道)と、八王子から高坂・松山を経て日光に至る日光脇往還道が整備され、松山宿高坂宿宿場町として賑わった。

幕末になると、川越藩川越城主である松平直克前橋城に居城を移転し前橋藩となると、飛び地となった比企郡高麗郡入間郡埼玉郡周辺のおよそ6万石の統治を行うために、1867年松山陣屋が設置され、武家やその関係者、家族らの移住によって人口が2倍近くに増え、現在の埼玉県域でも有数の人口を持つ町奉行が管轄する町となった。しかし、幕末という事もあってわずか5年足らずで廃藩置県を迎える事になった。

明治時代になると、入間県熊谷県を経て埼玉県域となり、市域では主に「士族授産」事業として旧松山陣屋士族が中心となって松山製糸工場(後の日本シルク)など工場や銀行などの企業が起こされていった。

交通機関では、1903年には松山町を経由する東上鉄道(現:東武東上本線)が計画され、1923年に武州松山駅まで開通。市域には高坂駅・武州松山駅(現:東松山駅)の2つの駅が設置されるなど、交通網も整えられていった。

第二次世界大戦中には、唐子地区に陸軍松山飛行場が建設され、また隣接する吉見町の吉見百穴近辺では中島飛行機(現・富士重工業)の地下工場が建設され、市域に工事関係者が多く集まるなど軍事色が濃い町ともなった。

1954年7月1日、埼玉県下12番目(現在の市の数は40市)、県内の東上線沿線では川越市に次いで2番目の市として市制施行を行い、東松山市となった。

高度成長期になると東京のベッドタウンとして交通の便がよい東松山駅や高坂駅周辺を中心に人口が増加した。高坂ニュータウン東松山マイタウンに代表されるような住宅団地が次々と造成された。

1954年9月13日、市章を制定する。

1975年8月8日には、関越自動車道川越IC-東松山IC間が開通し、交通・物流の拠点地点化が進む。

市町村合併

明治の大合併

1889年4月1日に行われた明治の大合併により、で市域では以下の枠組みで合併となった。

※ 平村は現在の比企郡ときがわ町西平にあった同名の比企郡平村と区別するためにそれぞれ東平村・西平村となり、本宿村は現在の川越市東本宿にあった同名の比企郡本宿村と区別するためにそれぞれ西本宿村・東本宿村となったものである。

昭和の大合併

1954年7月1日比企郡松山町大岡村唐子村高坂村野本村が合併し、東松山市となる。

平成の大合併

平成の大合併ブームの中、当初は比企広域市町村圏組合構成全10市町村での合併を構想。2003年に、比企郡川島町・比企郡鳩山町を除く8市町村で任意の合併協議会が設けられたが、協議が難航し解散。その後、隣接する比企郡吉見町と法定合併協議会を設置するも、新市名をはじめとする様々な分野で条件が折り合わず、東松山市議会による離脱決議を受けて解散し、協議は終了する。

2006年秩父郡東秩父村との飛び地合併について一部報道機関により報じられたこともあったが、当市を当事者とする市町村合併に関する協議は、公的な形では行われていない。

行政

歴代市長

【代】
【氏名】
【就任日】
【退任日】

初代 | 田中実 | 1954年7月1日 | 1958年8月4日 | 
2代 | 中里勇吉 | 1958年8月5日 | 1974年8月4日 | 
3代 | 芝崎亨 | 1974年8月5日 | 1994年8月4日 | 
4代 | 坂本祐之輔 | 1994年8月5日 | 2010年8月4日 | 正しくは「祐」は旧体字(示右)
5代 | 森田光一 | 2010年8月5日 | 現職 | 

行政機構

2008年4月1日現在、職員数は747名(特別職・再任職員含む)。

行政職組織(議会、市民病院事務部等を含む)10部・45課、医療職組織2部・16科。

主な市の施設

主な専用運動施設

国の行政機関

県の行政機関

比企広域市町村圏組合の施設

再開発・土地区画整理事業

整備計画

事業中の土地区画整理事業

事業完了した土地区画整理事業

その他

以下の区画整理事業は、地域住民の反対や事業が長期に渡ることなどから凍結・休止された。

議会

東松山市議会

詳細は「東松山市議会」を参照
【会派名】
【議席数】
議員名(◎は代表者)
きらめき | 4 | ◎高田正人、坂本俊夫、利根川敬行、福田武彦
市民クラブ | 4 | ◎関口武雄、大内一郎、岡村行雄、村田文一
明和会 | 4 | ◎斎藤雅男、井上聖子、中島慎一郎、堀越博文
創和会 | 3 | ◎鈴木健一、安藤和俊、米山真澄
日本共産党 | 3 | ◎蓮見節、石井祐一、浜田敦子
黎明会 | 3 | ◎藤倉憲、大山義一、田中二美江
【計】
【21】

埼玉県議会

詳細は「2019年埼玉県議会議員選挙」を参照
【候補者名】
【当落】
【年齢】
【党派名】
【新旧別】
得票数
松坂喜浩 | 当 | 58 | 無所属 | 現 | 無投票
横川雅也 | 当 | 39 | 自由民主党 | 現 | 無投票

経済

企業

当市では、明治維新直後から旧松山陣屋士族によって松山製糸工場(現:日本シルク)に代表されるような企業が盛んに起こされた。重工業の進出は1940年(昭和15年)にヂーゼル機器(現:ボッシュ)が当市に同社初の工場を設置したことに始まる。現在においてもボッシュ東松山工場は同社の日本国内における中心的な工場で、この工場の誕生によって自動車機器(現:ボッシュに統合)などのボッシュ関連会社が市内に多く設置され、当市の経済に大きく関わることになった。

高度成長期になると、1975年関越自動車道東松山インターチェンジが開通し、新郷地区に東松山工業団地が造成されるなど、交通アクセスを生かした工場の進出が進んだ。当市は埼玉県のほぼ真ん中で県内各地に向かう幹線道路が集まる場所であり、また広域アクセスにおいても関越自動車道に加え、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)に近いことから、近年では物流拠点として開設する企業が目立っており、2012年から葛袋地区に造成中の東松山葛袋産業団地(仮称)の分譲が好評なことから、さらに今後5年間で石橋、松山、宮鼻、大谷地区に工業団地を新設すると発表した。

本社を置く主な企業

2010Happy Mail