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東條英機とは?

東条 英機
とうじょう ひでき

【生年月日】
1884年7月30日
【出生地】
日本 東京府東京市麹町区
(現:東京都千代田区)
【没年月日】
(1948-12-23) 1948年12月23日(64歳没)
【死没地】
日本 東京都豊島区
【出身校】
陸軍士官学校(第17期)
陸軍大学校(第27期)
【前職】
関東軍参謀長
【所属政党】
大政翼賛会(1941年 - 1944年)
【称号】
陸軍大将
従二位
勲一等旭日大綬章
功二級金鵄勲章
ドイツ鷲勲章
聖マウリッツィオ・ラザロ勲章
【配偶者】
東条かつ子
【子女】
東条英隆(長男)
東条輝雄(次男)
東条敏夫(三男)
杉山光枝(長女)
東條満喜枝(次女)
鷹森幸枝(三女)
キミエ・ギルバートソン(四女)
【親族】
東条英俊(祖父)
東条英教(父)
東条千歳(母)
東条寿(弟)
伊藤万太郎(義父)
杉山茂(娘婿)
古賀秀正(娘婿)
鷹森立一(娘婿)
東条由布子(孫)
【サイン】

第40代 内閣総理大臣

【内閣】
東条内閣
【在任期間】
1941年10月18日 - 1944年7月22日
天皇
昭和天皇
初代 軍需大臣

【内閣】
東条内閣
【在任期間】
1943年11月1日 - 1944年7月22日
第25代 商工大臣

【内閣】
東条内閣
【在任期間】
1943年10月8日 - 1943年11月1日
第53代 文部大臣

【内閣】
東条内閣
【在任期間】
1943年4月20日 - 1943年4月23日
第50代 外務大臣

【内閣】
東条内閣
【在任期間】
1942年9月1日 - 1942年9月17日
その他の職歴

第57代 内務大臣
(1941年10月18日 - 1942年2月17日)
第29代 陸軍大臣
(1940年7月22日 - 1944年7月22日)
陸軍次官
(1938年5月30日 - 1938年12月10日)

東条 英機(とうじょう ひでき、1884年(明治17年)7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年(昭和23年)12月23日)は、日本陸軍軍人政治家階級陸軍大将栄典従二位勲一等功二級

現在の百科事典文科省検定教科書等では新字体で東 英機と表記されることが多い。

軍人として陸軍次官陸軍航空総監陸軍大臣参謀総長、政治家として内閣総理大臣(第40代)、内務大臣外務大臣文部大臣商工大臣軍需大臣を歴任した。

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 生い立ちと経歴
    • 2.2 陸軍歩兵将校となる
    • 2.3 陸軍省動員課長
    • 2.4 関東軍時代
    • 2.5 陸軍次官
    • 2.6 陸軍大臣
    • 2.7 首相就任
    • 2.8 太平洋戦争
      • 2.8.1 開戦
      • 2.8.2 海軍による真珠湾攻撃と東條首相
      • 2.8.3 戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下
      • 2.8.4 大東亜会議主催
      • 2.8.5 三職の兼任
      • 2.8.6 退陣
      • 2.8.7 東條英機暗殺計画
      • 2.8.8 重臣会議
      • 2.8.9 終戦工作への態度
    • 2.9 敗戦と自殺未遂
      • 2.9.1 GHQによる救命措置
      • 2.9.2 未遂に終わったことについて
      • 2.9.3 米軍MPによる銃撃説
      • 2.9.4 戦陣訓
    • 2.10 東京裁判
      • 2.10.1 東條の国家弁護
      • 2.10.2 判決
      • 2.10.3 仏教への信仰
      • 2.10.4 死刑執行
    • 2.11 死後
      • 2.11.1 遺骨と墓
      • 2.11.2 合祀
  • 3 政治手法
    • 3.1 戦争指導者としての東條
    • 3.2 軍事責任者としての東條
    • 3.3 民政に対する態度
    • 3.4 懲罰召集や敵対者迫害との批判
  • 4 評価
    • 4.1 批判的な評価
      • 4.1.1 政治姿勢に対する批判
      • 4.1.2 その他、国内での批判など
    • 4.2 好意的な評価
      • 4.2.1 昭和天皇からの信任
      • 4.2.2 国内の好意的な評価
      • 4.2.3 外国からの好意的な評価
  • 5 腹心の部下とされる人物
  • 6 私生活・逸話
  • 7 遺言
  • 8 子孫
  • 9 栄典
  • 10 東條英機を描いた作品
    • 10.1 小説
    • 10.2 映画
    • 10.3 テレビ
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
    • 12.1 一次資料および当事者の証言、回想録
    • 12.2 その他
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

概要

永田鉄山死後、統制派の第一人者として陸軍を主導し、現役軍人のまま第40代内閣総理大臣に就任(東條内閣、在任期間は1941年(昭和16年)10月18日 - 1944年(昭和19年)7月18日)。在任中に太平洋戦争(開戦4日後の閣議決定における呼称:大東亜戦争)が開戦。

権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、1944年(昭和19年)2月からは慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任した。

敗戦後に拳銃自殺を図るが、連合国軍による治療により一命を取り留める。

その後、連合国によって行われた東京裁判にて開戦の罪(A級)および殺人の罪(BC級)として起訴され、1948年(昭和23年)11月12日絞首刑の判決が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日巣鴨拘置所死刑執行された。享年65(満64歳)。

生涯

生い立ちと経歴

1884年(明治17年)7月30日、東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で生まれた。父は陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)東條英教、母は福岡県出身の徳永千歳。英機は三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。

東條氏(安房東條氏)は安房長狭郡東條郷土豪で、江戸時代宝生流ワキ方能楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系である。英機の父英教は陸軍教導団の出身で、下士官から将校に累進して、さらに陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に秋山好古など)、陸軍中将で予備役となった。俊才と目されながらも出世が遅れ、大将になれなかったことを、本人は長州に睨まれたことが原因と終生考えていたという。

陸軍歩兵将校となる

青年期の東條

番町小学校四谷小学校学習院初等科(1回落第)、青山小学校東京府城北尋常中学校(現・都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校。

1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校を卒業(17期生)し、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。1907年(明治40年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。

1909年(明治42年)、伊藤かつ子と結婚。

1910年(明治43年)、1911年(明治44年)と陸軍大学校(陸大)に挑戦して失敗。東條のために小畑敏四郎の家の二階で勉強会が開かれ、永田鉄山岡村寧次が集まった。同年に長男の英隆が誕生。

1912年(大正元年)に陸大に入学。

1913年(大正2年)に父の英教が死去。

1914年(大正3年)には二男の輝雄が誕生。

1915年(大正4年)に陸大を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。

1918年(大正7年)には長女が誕生、翌・1919年(大正8年)8月、駐在武官としてスイスに単身赴任。

1920年(大正9年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、1921年(大正10年)7月にはドイツに駐在。同年10月27日に南ドイツの保養地バーデン=バーデンで永田・小畑・岡村が結んだ密約(バーデン=バーデンの密約)に参加。これ以前から永田や小畑らとは勉強会を通して親密になっていたという。

1922年(大正11年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。 1923年(大正12年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる(いずれも陸大教官との兼任)。同年に二女・満喜枝が誕生している。 1924年(大正13年)に陸軍歩兵中佐に昇進。 1925年(大正14年)に三男・敏夫が誕生。 1926年(大正15年)には陸軍大学校の兵学教官に就任。 1928年(昭和3年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。 1929年(昭和4年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。同年には三女が誕生。

歩兵第1連隊長に補された東條は、歩兵第1連隊(以下歩1)の将校全員の身上調書を取り寄せ、容貌・経歴・家庭環境などを暗記し、それから着任した。陸大を受験する隊附の少尉・中尉には、隊務の負担を減らして受験勉強を助ける配慮をした。

帝国陸軍において、陸軍大佐たる連隊長と兵卒の地位は隔絶しており、平時に兵卒が連隊長と話をすること、兵卒が連隊長を近くで見ることなどはありえず、儀式の時に100メートル以上離れて連隊長の姿を見るのがせいぜいであった。内務班で新兵に対する陰惨な私的制裁が連日連夜にわたって加えられていたのは周知の事実であるが、それを敗戦に至るまで全く知らなかった高級将校が実在したほど、連隊長が部隊の実情を知らず、兵卒に対して無関心であることが当たり前であった。

そのような風潮の中で、東條は部隊の実情を知るための具体的な行動を執り、兵卒を思いやる異色の連隊長であった。東條は、各中隊長に、兵卒として歩1に入営が予定されている者の家庭を事前に訪問して、家庭環境を把握するよう指示した。連隊長たる東條が自ら内務班に入って兵卒一人一人から話を聞き、兵卒の食事に対しても気を配った。こうした部下思いの東條は「人情連隊長」と呼ばれて好評であった。

1931年(昭和6年)8月1日には参謀本部総務部第1課長に就任し、翌年四女が誕生している。

この間、永田や小畑も帰国し、1927年(昭和2年)には二葉会を結成し、1929年(昭和4年)5月には二葉会と木曜会を統合した一夕会を結成している。東條は板垣征四郎石原莞爾らと共に会の中心人物となり、同志と共に陸軍の人事刷新と満蒙問題解決に向けての計画を練ったという。編成課長時代の国策研究会議(五課長会議)において満州問題解決方策大綱が完成している。

1933年(昭和8年)3月18日に陸軍少将に昇進、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。1934年(昭和9年)8月1日には歩兵第24旅団長(久留米)に就任。

陸軍省動員課長

張作霖爆殺事件(1928年6月4日)の3か月前(3月1日)の木曜会の会合で、対露戦争を準備するべき旨を述べ、その目標として「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル事」を述べており、これに従って木曜会の結論も米国参加に備えながら「満蒙ニ完全ナル政治的勢力ヲ確立スル」としている。陸軍少壮グループによって形成されていた木曜会は24期の石原莞爾鈴木貞一根本博や東条のボスであった永田鉄山岡村寧次などが揃い、すでに世界恐慌の前に満蒙領有の方針が出されていたのであり、後に二葉会と合流し、武藤章田中新一らも加わり一夕会が結成されている。

関東軍時代

1935年(昭和10年)9月21日には、大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。このとき関東軍将校の中でコミンテルンの影響を受け活動を行っている者を多数検挙し、日本軍内の赤化を防止したという。1936年(昭和11年)2月26日に二・二六事件が勃発したときは、関東軍内部での混乱を収束させ、皇道派の関係者の検挙に功があった。同年12月1日に陸軍中将に昇進。

1937年(昭和12年)3月1日、板垣の後任の関東軍参謀長に就任する。

支那事変(日中戦争)が勃発すると、東條は察哈爾派遣兵団の兵団長として察哈爾作戦に参加した。チャハルおよび綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功は目覚しいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという。

陸軍次官

第11代航空本部長(航空総監兼務)東條英機中将

1938年(昭和13年)5月、第1次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官陸軍航空本部長に就く。次官着任にあたり赤松貞雄少佐の強引な引き抜きを人事局課長・額田坦に無理やり行わせる。同年11月28日の軍人会館(現在の九段会館)での、陸軍管理事業主懇談会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に英米とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては英米との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し、「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と新聞報道された。

板垣の下、参謀次長・多田駿、参謀本部総務部長・中島鉄蔵、陸軍省人事局長・飯沼守と対立し、板垣より退職を迫られるが、「多田次長の転出なくば絶対に退職願は出しませぬ」と抵抗。結果、多田は転出となり、同時に東條も新設された陸軍航空総監に補せられた。

陸軍大臣

1940年第2次近衛内閣の閣僚らと

1940年(昭和15年)7月22日から第2次近衛内閣第3次近衛内閣陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。

近衛日記によると、支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だったという。

1941年(昭和16年)8月2728日両日に首相官邸で開催された『第一回総力戦机上演習総合研究会』に近衛内閣の陸軍大臣として参加し、総力戦研究所より日米戦争は「日本必敗」との報告を受ける。

10月14日の閣議において日米衝突を回避しようと近衛文麿首相が「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と唱えたという。

これにより外交解決を見出せなくなったので翌々日に辞表を提出したとしている。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とし、第3次近衛内閣は総辞職した。

近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。

また対米英開戦を諌めた関東軍第4師団経理局長・網本浅吉陸軍少将を、自分に逆らったとしてその場で免職。網本は敗戦後の1945年(昭和20年)9月、全てを明らかにして自殺した。

首相就任

1941年(昭和16年)10月18日総理大臣官邸での初閣議を終えた東條内閣の閣僚らと
1941年(昭和16年)10月18日東條内閣の閣僚らと
東條英機と汪兆銘(汪兆銘政権)(1942年12月)

近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人である東久邇宮稔彦王を推す声が強かった。

皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめながら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受けもよいということで、近衛や重臣達だけでなく東條も賛成の意向であった。

ところが内大臣木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、昭和天皇の承認を取り付けてしまう。

この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで「戦争回避にもっとも有効な首班だ」というふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。

木戸は後に「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。…優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。

東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。

天皇への絶対忠信の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の東郷茂徳を据え、一旦、帝国国策遂行要領を白紙に戻す(この時、陸軍省に戻って来て執務室までの道中「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞっ」と叫びながら歩いたという)。

さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、すぐにということではなく、中国国内の治安確保とともに長期的・段階的に徹兵するという趣旨の2つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。またこれら妥協案においては、日独伊三国同盟の形骸化の可能性も匂わせており、日本側としてはかなりの譲歩であった。

東條率いる陸軍はかねてから中国からの撤兵という要求を頑としてはねつけており陸相時の東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。支那事変は数十万人の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊と一億国民が戦場や内地で苦しんでいる」「駐兵は心臓である。(略)譲歩、譲歩、譲歩を加え、そのうえにこの基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲り、それが外交とは何か、降伏です」「支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだから、せめて駐兵くらいは当然のことだ」とまで述べていた。

しかし内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解とは全く相違いしたもので、あくまで戦争回避を希望する昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとしたことがよく窺える。外相の東郷が甲案・乙案をアメリカが飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信有り気だったという。

しかし、日本政府側の提案は民主党政権のフランクリン・ルーズベルト大統領率いるアメリカ政府側の強硬な姿勢によって崩れ去ってしまう。11月末、アメリカ政府側は名目上はコーデル・ハル国務長官の名で、実際はソ連のスパイだったハリー・ホワイト財務次官補のもとに作成されたハル・ノートを提示し、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であり、日本軍の中国からの即時全面徹兵だけでなく、満州国の存在さえも承認しないという最強硬な見解を通告してきた(ただしハル・ノートには満州は含まれていないという説がある)。

ハル・ノートを目の前にしたとき、対米協調をあくまで主張してきた東郷でさえ「これは日本への自殺の要求にひとしい」「目がくらむばかりの衝撃にうたれた」といい、東條も「これは最後通牒である」と認めざるを得なかった。

これによって東條内閣は交渉継続を最終的に断念し、対米開戦を決意するに至る。対米開戦決定を上奏した東條は、戦争回避を希望し続けていた天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから上奏中に幾度も涙声になったといわれる。

また後述のように、開戦日の未明、首相官邸の自室で一人皇居に向かい号泣しながら天皇に詫びている。こうして東條とその内閣は、戦時下の戦争指導と計画に取り組む段階を迎える。

なお現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、映像での院内撮影を初めて許可したのは、就任直後の東條である。1941年(昭和16年)11月18日に封切られた日本ニュース第76号『東條首相施政演説』がそれである。

東條は同盟国であるナチス・ドイツアドルフ・ヒトラーのやり方を真似て自身のやり方にも取り入れたとされている。東條自身は、極東国際軍事裁判で本質的に全く違うと述べているが、東條自身が作成したメモ帳とスクラップブックである「外交・政治関係重要事項切抜帖」によればヒトラーを研究しその手法を取り入れていたことが分かる。東條が多用した「今や……であります」という言い回しは、当時の青少年たちにも真似された。

また東條は組閣の際に自らの幕僚を組閣本部に参加させないなど、軍事と政治の分離を図る考えを持っていた。これは軍事と政治が相互に介入を行うことを忌避する考えによるものであった。

東條は首相就任に際して大将に昇進しているが、これは内規を変更して行ったものである。

太平洋戦争

開戦

『寫眞週報』第二百四十九號 (1942年12月2日), 大東亞戰爭一周年. 東條内閣總理大臣の英姿である.
東條英機、軍服

1941年(昭和16年)12月8日、日本はイギリスとの間で太平洋戦争に突入し、間もなくアメリカとの間にも戦いを開始した。マレー作戦真珠湾攻撃を成功させた日本軍はその後連合国軍に対して勝利を重ね、アジア太平洋圏内のみならず、インド洋アフリカ沿岸、アメリカ本土オーストラリアまでその作戦区域を拡大し、影響圏を拡大させた。なお、開戦4日後の12月12日の閣議決定において、すでに戦闘中であった支那事変(日中戦争)も含めて、対連合国の戦争の呼称を「大東亜戦争」とするとされた。

この時の東條はきわめて冷静で、天皇へ戦況報告を真っ先に指示し、また敵国となった駐日の英米大使館への処置に関して、監視は行うが衣食住などの配慮には最善を尽くす上、「何かご希望があれば、遠慮なく申し出でられたし」と相手に配慮した伝言を送っている。しかし8日夜の総理官邸での食事会を兼ねた打ち合わせの際には、上機嫌で「今回の戦果は物と訓練と精神力との総合した力が発揮した賜物である」、「予想以上だったね。いよいよルーズベルトも失脚だね」などと発言し、緒戦の勝利に興奮している面もないわけではなかった。同じ8日夜には、日本放送協会ラジオを通じて国民に向け、開戦の決意を「大詔を拝し奉りて」という演題で表明した。

海軍による真珠湾攻撃と東條首相

連合国は「東京裁判(極東国際軍事裁判)でハワイへの攻撃は東條の指示」だったとし、その罪で処刑した(罪状:ハワイの軍港、真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)が実際には、東條首相(当時)が、日本時間1941年(昭和16年)12月8日にマレー作戦に続いて行われた真珠湾攻撃の立案・実行を指示したわけではない。開戦直前の東條は首相(兼陸軍大臣)ではあっても、統帥部の方針に容喙する権限は持たなかった。東條が戦争指導者と呼ぶにふさわしい権限を掌握したのは、1944年2月に参謀総長を兼任して以降である。

小室直樹栗林忠道に関する著書の中で、東條は海軍がハワイの真珠湾を攻撃する事を事前に「知らなかった」としているが、1941年(昭和16年)8月に海軍より開戦劈頭に戦力差を埋めるための真珠湾攻撃を研究中と内密に伝達され、11月3日には海軍軍令部総長・永野修身と陸軍参謀総長・杉山元が昭和天皇に陸海両軍の作戦内容を上奏するため列立して読み上げた。ハワイ奇襲実施についてもこのときに遅くとも正式な作戦として陸軍側に伝わっており、東條自身、参謀本部作戦課に知らされている。また、11月30日には天皇よりハワイ作戦の損害予想について下問されており、「知らなかった」とするのは正確ではない。

しかし、そもそも東條自身が東京裁判において、開戦1週間前の12月1日の御前会議によって知っていたと証言しているとおり、海軍の作戦スケジュール詳細は開戦1週間前に知った状況である。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾攻撃や外務省による開戦通知の遅延は東條の責任に帰することはできないものであった。

戦局の行き詰まり・東條首相罵倒事件・求心力の低下

緒戦の日本軍の快進撃も、日本軍が予想を上回るスピードで勝ち進んだ結果、占領地域が東南アジア一帯に伸びたばかりか、戦線が国力を超えるアメリカ本土沿岸からアフリカ沿岸、オーストラリアにまで伸びたことや、ミッドウェイ海戦の敗北によりその勢いは陰りを見せ始める。さらに1943年に入るとヨーロッパアフリカ戦線ではドイツ国防軍が完全に劣勢に回り、さらにイタリア王国が連合国に対して降伏するなど、やがて大戦末期には日本は1国でイギリスやアメリカ、オーストラリアやニュージーランドをはじめとする複数の連合国に対峙することを余儀なくされた。

参謀本部は戦局を打開するため、オーストラリアを孤立化させる目的のFS作戦等を考案し、ガダルカナル島を確保するべく海軍はこの付近に大兵力を投入する作戦に出た。陸軍にも応援を要請しておこなわれた過去3度にわたるガ島争奪作戦はいずれも失敗する。多くの海戦がおこなわれ、第一次ソロモン海戦南太平洋海戦などでは日本側はアメリカ軍やオーストラリア軍の多くの軍艦を撃沈撃破した。しかし日本側の損害も少なくなく、とくに日本側の陸軍輸送船団はガダルカナル到着以前にその多くが撃沈され、輸送作戦のほとんどが失敗に終わった。このためガダルカナル方面の日本軍地上部隊は極度の食糧不足と弾薬不足に陥り、作戦どころの話ではなくなってしまった。しかし参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り

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出典:wikipedia
2019/10/19 09:45

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