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東欧革命とは?

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【東欧革命】


【種類】
民主化運動
【目的】
共産党一党独裁制の打倒、民主政治の樹立、市場主義経済への移行
【結果】
(1)共産党国家の連続的崩壊、非共産党国家の成立(2)冷戦の終結
【発生現場】
ポーランド
ハンガリー
東ドイツ
ブルガリア
チェコスロバキア
ルーマニア
リトアニア
エストニア
ラトビア
ソビエト連邦
ユーゴスラビア
アルバニア

東欧革命(とうおうかくめい)は、1989年ソビエト連邦(ソ連)の衛星国であった東ヨーロッパ(特にワルシャワ条約機構)諸国で共産主義体制が連続的に倒された革命である。1989年革命と呼ばれる事もある。

目次

  • 1 概説
    • 1.1 範囲
    • 1.2 名称
    • 1.3 意義
  • 2 経過
    • 2.1 前史
    • 2.2 予兆
    • 2.3 各国の状況
      • 2.3.1 ソビエト連邦
      • 2.3.2 ポーランド
      • 2.3.3 ハンガリー
      • 2.3.4 汎ヨーロッパ・ピクニック
      • 2.3.5 ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一
      • 2.3.6 ブルガリア
      • 2.3.7 ビロード革命
      • 2.3.8 ルーマニア
  • 3 革命の原動力
    • 3.1 文化背景の違い
    • 3.2 テレビの力
  • 4 革命の影響
    • 4.1 冷戦の終結
    • 4.2 脱共産化
    • 4.3 歴史認識の混乱
  • 5 脚注
  • 6 関連項目

概説

ソ連が、経済危機に伴う国力の低下によって東ヨーロッパでの影響力を弱めたことを背景に、1980年代末市民や労働者によって共産主義政権が次々と倒された一連の民主化革命。

1989年11月のベルリンの壁の崩壊、12月のルーマニアの政変、同月のチェコスロバキア共産党の一党支配の崩壊、90年9月のポーランドの非共産党系内閣の誕生などをいう。

範囲

大きく分けて3種類の捉え方がある。

  1. ポーランド(6月18日)とハンガリー(10月23日)における非共産党国家の成立に始まり、11月9日ベルリンの壁崩壊11月17日チェコスロヴァキアビロード革命を経て、12月25日ルーマニアチャウシェスク政権の崩壊に至るまでとする、「1989年に起こった革命」という狭義的な捉え方。
  2. 加えて1991年のエストニアラトビアリトアニアバルト三国のソビエト連邦からの分離独立、同年12月のソビエト連邦の崩壊に至るまでとする、「1989年革命からソビエト連邦の崩壊まで」という広義的な捉え方。
  3. さらにソ連崩壊後の、ユーゴスラビア紛争(1991年 - 2000年)、アルバニア社会主義人民共和国の崩壊(1992年)まで含める最も広義的な捉え方。なお英語版の記事(en:Revolutions of 1989)はバルト三国、ソビエト連邦、ユーゴスラビアでの出来事も含まれている。

名称

「東欧革命」「1989年革命」以外にも、「東欧民主化革命」(発生当時はこの名称が一般的であった)、共産党一党制国家のソビエト連邦が崩壊する序章となった点から「共産主義の崩壊」といった名称も見られる。また英語では「Spring of Nations」(「諸国民の春」、1848年革命)から、「Autumn of Nations」(「諸国民の秋」)という名称も作られた。なお「1989年革命」は中国の六四天安門事件に至る反体制運動も含む呼称として用いられることが多い。

本項目においては、歴史学の分野で一般的となりつつある「東欧革命」を表題とした。

意義

東欧革命は、冷戦を終わらせた出来事として有名であるが、民衆自身が立ち上がって一党独裁制寡頭政治(共産党政府)による横暴を倒し、民主政治を立てた革命としても有名である。

20世紀世界史でも重要な出来事であり、これにより東欧諸国が次々と民主化した。また東欧革命を皮切りにして、東欧以外の地域でも民主主義へ移行する国が増えた。

2018年現在、ヨーロッパ史で「現代」というと、この東欧革命以後の時代を指す例が一般的である。

経過

東欧革命

ポーランド民主化運動
ハンガリー民主化運動
汎ヨーロッパ・ピクニック
ベルリンの壁崩壊
ドイツ再統一
ビロード革命
ルーマニア革命



事態の推移、経過をなるべく時系列通りになるように簡潔に記す。個々の事件についての詳細は右テンプレートを参照されたい。

前史

1987年東ベルリンで行われたワルシャワ条約機構会議での東欧共産主義諸国の首脳達。左からフサーク(チェコスロバキア)、ジフコフ(ブルガリア)、ホーネッカー(東ドイツ)、ゴルバチョフ(ソビエト連邦)、チャウシェスク(ルーマニア)、ヤルゼルスキ(ポーランド)、カーダール(ハンガリー)。この会議から4年以内に、この写真に写っている全員が権力の座を奪われることになる。

東側社会主義国の民衆がソ連型社会主義の一党独裁政権に対して民主化を要求して立ち上がった事例は、1953年のベルリン暴動1956年ハンガリー動乱1968年プラハの春など東欧革命以前にも存在し、ハンガリーナジ・イムレチェコスロバキアアレクサンドル・ドプチェクのように民衆の要求に応えて改革を試みた政治家もいた。しかし、その度に出動したソ連軍によって民衆の運動は鎮圧され、改革派の政治家も処刑されたり党から追放されるなどした。ハンガリーではカーダール・ヤーノシュが比較的穏健な統治を行ったものの一党独裁制が改められることはなく、チェコスロバキアではグスタフ・フサークが「正常化体制」と称して改革派を党から追放し、強権的な体制が強化された。

予兆

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年6月)

1986年4月にソ連で起きたチェルノブイリ原子力発電所事故によりソ連国内が急激に衰退した事が1989年の東欧革命の起きた主要理由とされる。 1980年代のバルト海領域によるモスクワや自治権の要望の強まり、1988年になるとクレムリンはソ連国内と幾つかの地域でコントロールを失った。

東欧革命の予兆は、1978年ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世ローマ教皇に就任したことに始まる。共産主義政権側の人々でさえも尊敬するヨハネ・パウロ2世の存在は、それまで政府と反体制運動との間の力ずくの闘争であったポーランドの民主化運動の大転換を促すものであった。この大転換は1979年6月に祖国ポーランドを訪問した教皇がワルシャワで行った演説のなかでの「みなさん、(共産主義体制を)恐れてはいけません。」との言葉により、まず大衆の確信により始まった。

ポーランド人民共和国ではポーランド統一労働者党による一党独裁的な支配が続いていたが、1956年ポズナン暴動によりヴワディスワフ・ゴムウカ政権も一定の自由化を許容せざるを得なくなり、スターリン主義からの脱却、農業集団化の廃止、カトリック教会への迫害停止などが行われ、表面上は民衆に擦り寄る政治が行われた。

しかし1970年代に入ると改革路線は行き詰まり、経済も停滞するようになった。このような中、1970年代後半にポーランド国内で民主化を希求するユダヤ系活動家は反共団体「Workers' Defence Committee」を設立し、1980年グダニスク造船所における労働者たちの自発的なデモをきっかけに、独立自主管理労働組合「連帯」が結成されると、民主化運動は大衆の衝動に引っ張られる形で、一時的に急進化・暴徒化した。この「革命」運動を抑えるためヴォイチェフ・ヤルゼルスキ書記長により戒厳令が敷かれた。

また、ヨハネ・パウロ2世は1981年1982年の二度にわたり暗殺未遂の被害にあっている。1982年の暗殺未遂事件は教皇が行っていた歴史的規模の教会改革に反発した守旧派のスペイン人神父による犯行であったが、1981年の事件では犯人メフメト・アリ・アジャトルコ人であったものの、教皇をソ連にとって最大の脅威となる人物として危険視していたソ連のKGBおよびKGBと結託したブルガリア共産主義政府の関与が明らかとなっている。トルコ人の犯人は共産主義者たちの口車に乗せられていたようで、後に獄中でヨハネ・パウロ2世と面会したとき、教皇に深く謝罪したとされ、教皇も彼を快く許している(2005年に教皇が亡くなったとき、アジャは深い悲しみに暮れ、長く喪に服したという)。

このときから、穏健派の中心メンバーおよび若手メンバーにより、ポーランドの民主化の実践面も精緻な理論化が行われた。メタ思想としてまず「市民」および「穏健主義」に関する理論は既に1971年の時点でオックスフォード大学のポーランド人哲学者レシェク・コワコフスキによる『スターリンの国家群:希望と絶望に関する見解』などといった研究により完成されていたので、問題は実践面の理論および計画であった。次なる課題は市民の形成および穏健主義の「定着」という実践であった。カリフォルニア大学バークレー校のポーランド人文学者で後にノーベル文学賞を受賞したチェスワフ・ミウォシュによりコワコフスキの哲学は一般の言葉に乗せてポーランド国内外のポーランド人に向けて正しく翻訳された。(1983年にはコワコフスキとミウォシュがともに日本を訪問、長野県軽井沢町長野市で国際シンポジウムに出席し、自分たちの理論すなわち「市民」と「穏健主義」の体系を日本人に紹介した。会場にいた日本人のうちどれだけの者が彼らの思想を理解できたのかは不明であるが。)穏健派グループは熱心に組合員たちを説得した。

単なる労働運動でなく民主化運動と化した「連帯」においてはレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)議長の指導のもと組織の内部が改革され、組合の下部組織だけでなく指導層でも穏健派により急進派が説得される形で急進路線が放棄されて、「連帯」の穏健路線が確定した。連帯内部での穏健派のメタ思想の指導者には先に挙げたコワコフスキやミウォシュがいた。実戦理論においてはアダム・ミフニクヤツェク・クーロンがいた。ミフニクやクーロンは南部の山岳地帯にたびたび赴き、山の中でチェコスロバキアの民主化運動「憲章77」の指導者ヴァーツラフ・ハヴェル(のちのチェコ共和国大統領)たちと民主化運動の計画を練った。

この時の穏健派にはほかに、後にポーランド共和国大統領となるブロニスワフ・コモロフスキ(この当時は政治犯として長い間投獄されていた)やポーランド共和国首相となるドナルド・トゥスク(この当時は名門グダンスク大学でポーランド近現代史で歴史学の修士号を取得したのち、造船所の下請けの塗装業者として零細企業を経営、自らも親方として船の塗装をして働きながら、さらに「連帯」の組織内で穏健路線のための活動を熱心に行っていた)などがいた。いっぽう急進派の筆頭としてはのちにポーランド共和国大統領となるレフ・カチンスキとのちにポーランド共和国首相となるヤロスワフ・カチンスキの双子がいた。

さらにポーランドの経済学者や経済官僚たちはワルシャワ経済大学およびワルシャワ大学の出身者たちを中心として、ポーランド経済の安定化および持続的成長の実践的理論を模索していた。彼らの中には、のちに1990年1月より「バルツェロヴィチ・プラン」(「ショック療法」とも呼ばれる)を実行しハイパーインフレを鎮めかつ生産投資を急速に増加させてポーランド経済を一気に立て直したレシェク・バルツェロヴィチ、およびポーランド国立銀行(中央銀行)総裁のマレク・ベルカがいた。バルツェロヴィチはすでに1970年代前半にアメリカに留学し、1974年にはニューヨークの名門セント・ジョーンズ大学で経営学修士号を取得しポーランドに戻っていたが、のちには「連帯」と行動を共にして、政権党であるポーランド統一労働者党を除名処分され、連帯の指導的理論家の一人となった。ベルカはこの時代はアメリカに渡り、コロンビア大学シカゴ大学で経済学研究を行っていた。

在外ポーランド人の学者や官僚のなかにもこういった人々がいた。彼らの中には後にポーランド共和国財務相となるヤン・ヴィンツェント=ロストフスキがいた。イギリスロンドンの生まれであるヴィンツェント=ロストフスキはこのころロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で経済学と歴史学の研究、そしてポーランドの「連帯」の支援活動を続けていた。また、アメリカではこのころジミー・カーター政権であったが、その安全保障担当補佐官ズビグニュー・ブレジンスキーがポーランド生まれのポーランド人であることは広く知られたところである。ブレジンスキーはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とも密に連絡を取り合っていた。

このように、ポーランドでは民主化に向けてのメタ理論、実践理論、実践計画、そして役者たちがこのとき全て揃ったのである。

情勢が安定すると、ポーランドでは政府と反体制運動との間での非公式協議が幾度か開催され、段階的・穏健的な改革へ向けて進展した。この協議は当初の準備協議の段階では連帯のヴァウェンサ(ワレサ)議長率いる民主化運動の代表団と、政府側の代表団が向き合う形で行われた。会談の模様はテレビとラジオで全国に中継され、国民はこの行方を固唾を飲んで見守った。双方による激論の続いた準備協議は成功裏に終わり、次いで本協議が行われることとなった。のちの1989年に開催されることとなるこの本協議は対立する双方が向き合うのではなく、巨大な円卓を囲んで行ったことから、「円卓会議」と呼ばれている。このように対立から協力へ、急進から穏健へ、と方針転換したことで、ポーランドの民主化は体制側と反体制側の対話が進み、理論面・制度面・社会面で地盤が固まっていった。円卓会議の現場も全国にテレビとラジオで中継され、全国から意見が寄せられた。ポーランドでは国民すべてが参加した形で民主化に向けた協議が行われた。このこと自体が既に民主化の印であったのである。

ただ問題は、ポーランドをはじめとしたヨーロッパの共産圏一帯を政治的・軍事的に支配するソビエト連邦の存在であった。ポーランドによる民主主義・市場経済への体制転換が少しでもクレムリンを刺激した場合、ソビエト連邦によるポーランドへの政治的・軍事的な反動介入が起こる恐れがあったのである。実際にソ連は常にポーランドの政府高官たちを呼びつけては恫喝しつづけていた。ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ書記長もベラルーシ(当時はソ連の白ロシア共和国)の深い森の中の小屋に呼び出され、ソ連の高官たちより恫喝を受けている。ヤルゼルスキは、民主化運動を巡ってソ連を刺激しすぎないことを第一に、ソ連から「ノルマ」として課されていた輸出用高級石炭の生産をいかに安定して継続するか、つねに頭を悩ませていた。

その後に起こった東欧革命の本格的展開は、1985年ソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」により起こった。これは、ソビエト連邦の政治・経済の硬直を打開するために開始された政治改革であり、外交でも従来のソビエト連邦の外交政策の転換を図った。ゴルバチョフの外交に対する新方針は、一つは冷戦体制に基づいた旧来の外交政策を緊張緩和の方向に転換する事(新思考外交)、もう一つは、ソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」の撤廃であった。このペレストロイカに則った「新思考外交」は、1988年3月の新ベオグラード宣言の中にも示され、またフランク・シナトラのヒット曲「マイ・ウェイ」から「シナトラ・ドクトリン」と呼ばれた。

「新思考外交」に対する東欧諸国の反応は様々であった。その中で、ポーランドとハンガリーは、情勢の変化を巧みに読み取り、また共産党内での体制変革の要求、ソビエト連邦に対する不信感から、この機会を利用して積極的に国内改革に取り組もうとする動きが起こった。

上記のポーランドの民主化は一気に具体化することになり、1989年には先に述べた世界史的事件「円卓会議」が開催され、体制側と反体制側の対立はまさに言葉通りの「大団円」で決着、「国民全体が参加する改革」の準備が最終的な仕上げの段階に入り、あとは実施するのみとなっていた。もはやポーランドにとっては、ソ連の情勢だけが問題であった。

他方、ハンガリーでは共産主義政権側が「グヤーシュ社会主義」とよばれる経済政策のもと、西側(とくに西ドイツオーストリア)の資本(対内投資)を積極的に導入し、これを経済的担保とすることで「上からの改革」を行う路線を採った。(ただし、対内投資の増加は対GDP比対外純債務を増加させ、後にハンガリー経済は長い深刻な経済停滞の時代を迎えることとなるのであるが。)

各国の状況

ソビエト連邦

1985年ソビエト連邦ミハイル・ゴルバチョフ政権が始めた「ペレストロイカ」により起こった。これは、ソビエト連邦の政治・経済の硬直を打開するために開始された政治改革であり、外交でも従来のソビエト連邦の外交政策の転換を図った。ゴルバチョフの外交に対する新方針は、一つは冷戦体制に基づいた旧来の外交政策を緊張緩和の方向に転換する事(新思考外交)、もう一つは、ソビエト連邦が持っていた東側諸国の共産党国家に対する統制、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」の撤廃であった。このペレストロイカに則った「新思考外交」は、1988年3月の新ベオグラード宣言の中にも示された。

ポーランド

ポーランド人民共和国の無計画な経済政策は急激で膨大な食品価格のインフレをまねき、これにより暴力的なプロテストが各地に広まり多数の死者が続出、軍が出動し暴動鎮圧し終わった。莫大な借金を作り出した 。急激な賃金の大幅な下落と食料物資不足や貧困が続き暴力的なストライキが繰り返された。政府は反政府を潰す為に戒厳(ポーランドの戒厳令)を導入。ワレサ(レフ・ヴァウェンサ)率いる非共産党系の自由主義勢力である独立自主管理労働組合「連帯」の活動が進み、体制側と反体制側の代表者が集まって「円卓会議」を続けた結果、1989年6月18日に一部不完全な自由選挙を初めて行った。ポーランドは民主化に向けて一定の自由選挙、次いて完全自由選挙という二段階プロセスを踏む国民同士の激しい対立を避けた穏健な体制移行を採用した。共産党(ポーランド統一労働者党)系のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領のもとで「連帯」系のタデウシュ・マゾヴィエツキ内閣が成立し、政権移譲が行われた。後に完全自由選挙の下で大統領上下両院の選挙が行われ、制度的な民主化が行われた。この1989年6月18日の普通選挙により、ポーランド統一労働者党ならびにポーランド人民共和国は解体され、多党制に基づくポーランド第三共和国が樹立された。

詳細は「ポーランド人民共和国」を参照
詳細は「ポーランド民主化運動」を参照

ハンガリー

ハンガリー人民共和国はでは社会主義労働者党(共産党)政権による「グヤーシュ共産主義」とよばれる経済政策のもと、西側諸国(西ドイツオーストリア)の資本(対内投資)を積極的に導入し経済的担保とすることで「上からの改革」を行う路線」が採られており、1980年代初頭には既に経済の自由化や議会の複数候補制などの改革を進めていたが、1988年5月に社会主義労働者党のカーダール・ヤーノシュ書記長が引退すると、社会主義労働者党内ではより急進的な改革を主張する勢力が実権を掌握するようになった。1989年2月に急進改革派は事実上の複数政党制を導入し、3月には円卓会議(ハンガリーの円卓会議)が遂行された。5月にはネーメト内閣がハンガリーとオーストリア間の国境を開放し、鉄のカーテンに穴を開けた。この「鉄のカーテンの撤去」なくして、東欧革命を語ることは出来ない。6月、ハンガリー動乱で処刑されたナジ・イムレ元首相の名誉回復と改葬を行い、6月25日には社会主義労働者党は一党独裁制を完全に放棄した。8月19日、ハンガリーの野党勢力と社会主義労働者党の急進改革派は汎ヨーロッパ・ピクニックを発生させた。これを機にハンガリー国内で難民化していた東ドイツの市民がオーストリア経由で西ドイツへ脱出するようになり、東ドイツのベルリンの壁崩壊へと繋がっていった。

1989年10月には、社会主義労働者党は社会民主主義政党のハンガリー社会党へと改組、さらに10月23日には新憲法「ハンガリー共和国憲法」が施行され、ハンガリー人民共和国は終焉した。

詳細は「ハンガリー民主化運動」を参照

汎ヨーロッパ・ピクニック

1989年8月19日。ハンガリー国民のために開放されていたハンガリー・オーストリア国境を1000人ほどの東ドイツ市民がハンガリー社会主義労働者党の改革派や旧オーストリア・ハンガリー帝国皇室・ハプスブルク・ロートリンゲン家当主のオットー・フォン・ハプスブルクらの協力によって集団越境し、オーストリア経由で西ドイツに亡命した事件。この事件が報道されるや、東ドイツ市民が大挙してハンガリー、チェコスロバキアに押しかけ西ドイツへの脱出を試みた。ベルリンの壁の存在意義は相対的に低下し、11月の歴史的なベルリンの壁崩壊をもたらすきっかけとなった。

詳細は「汎ヨーロッパ・ピクニック」を参照

ベルリンの壁崩壊とドイツ再統一

分断国家であるドイツ民主共和国(東ドイツ)では「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くしてしまうことは、東ドイツと言う国家の存在理由の消滅を意味していた。このことを東ドイツ首脳部は知っていたため、ハンガリーやポーランド、さらには後ろ盾であるソビエト連邦で改革が始まっても、その波に抗い続けていた。最高指導者のエーリッヒ・ホーネッカー(ドイツ社会主義統一党(SED)書記長国家評議会議長)は国家保安省(秘密警察)を使って国民に対する締め付けを強め、1988年にはソ連の雑誌さえ発禁処分にしていた。

しかし、1989年5月にハンガリーがオーストリアの国境を開放すると、ハンガリー・オーストリア経由で西ドイツへ脱出しようと多くの東ドイツ市民が東ドイツから逃げ出すようになった。既に改革を進めていたハンガリー政府は東ドイツ市民の逃亡を助ける形で1989年8月には汎ヨーロッパ・ピクニックを成功させ、さらには9月になると正式に東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させるようになった。

国民の大量出国やライプツィヒ月曜デモ等で東ドイツ国内は混乱していたが、ホーネッカーは事態を楽観視し、改革には背を向け続けていた。10月6日に東ドイツ建国40周年記念式典に参加したミハイル・ゴルバチョフはその際行われたSEDの幹部達との会合で自らの進めるペレストロイカを押し出した演説をしたのに対し、ホーネッカーは自国の社会主義の発展を自画自賛するのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべてSEDの党幹部達を見渡すと、舌打ちをした。これによって、ゴルバチョフが改革を進めようとしないホーネッカーを否定したことがSEDの幹部達の目にも明らかになった。これを機にエゴン・クレンツギュンター・シャボフスキーらのSED党幹部達はホーネッカーの失脚工作に乗り出し、10月17日にはSEDの政治局会議でホーネッカーの書記長解任動議が可決、翌10月18日にホーネッカーは正式に退任し、失脚した。

ホーネッカーの後継者となったエゴン・クレンツ政権は、1989年11月9日、翌日から施行予定の出国規制緩和策を決定した。その日の夕方、クレンツ政権のスポークスマン役を担っていたシャボフスキーはこの規制緩和策の内容をよく把握しないまま定例記者会見で「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められ

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出典:wikipedia
2019/09/17 19:27

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