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松井稼頭央とは?

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松井 稼頭央 (松井 和夫)
埼玉西武ライオンズ 二軍監督 #77

選手兼任コーチ時代
(2018年春季キャンプにて)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
大阪府東大阪市
【生年月日】
(1975-10-23) 1975年10月23日(44歳)
【身長
体重】
177 cm
85 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投両打
【ポジション】
遊撃手二塁手外野手三塁手
【プロ入り】
1993年 ドラフト3位
【初出場】
NPB / 1995年4月5日
MLB / 2004年4月6日
【最終出場】
NPB / 2018年10月6日
MLB / 2010年5月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴
  • 埼玉西武ライオンズ (2018 - )

【国際大会】

【代表チーム】
日本
五輪
2003年(アジア予選)
WBC
2013年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


獲得メダル
日本
ワールド・ベースボール・クラシック
 | 2013 | 野球

松井 稼頭央(まつい かずお、本名:松井 和夫(読み同じ)、1975年10月23日 - )は、大阪府東大阪市出身の元プロ野球選手(内野手外野手、右投両打)・コーチ。現在は埼玉西武ライオンズ二軍監督

2004年にMLBニューヨーク・メッツに移籍した、日本人初の内野手メジャーリーガー。同年から7年間MLBでプレーし、2011年からNPB(東北楽天ゴールデンイーグルス)に復帰した。シーズン長打NPB記録保持者。1997年にかつて石毛宏典が着用していた背番号「7」を受け継ぎ、ニューヨーク・メッツに移籍するまでの7年間でチームの中心選手として3度のリーグ優勝に貢献したことで「(二代目)ミスターレオ」と呼ばれて親しまれた。

妻はタレント松井美緒

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 西武時代
    • 1.3 メッツ時代
    • 1.4 ロッキーズ時代
    • 1.5 アストロズ時代
    • 1.6 ロッキーズ復帰
    • 1.7 楽天時代
    • 1.8 西武復帰
    • 1.9 引退後
  • 2 表記名について
  • 3 選手としての特徴
    • 3.1 打撃
    • 3.2 走塁
    • 3.3 守備
    • 3.4 故障
    • 3.5 評価
  • 4 身体能力
    • 4.1 スポーツマンNo.1決定戦
  • 5 人物
    • 5.1 KAZUO's BURN!
  • 6 日本代表
  • 7 日米野球
  • 8 詳細情報
    • 8.1 年度別打撃成績
    • 8.2 MLBポストシーズン打撃成績
    • 8.3 第22回アジア野球選手権大会(アテネ五輪アジア予選)での打撃成績
    • 8.4 WBCでの打撃成績
    • 8.5 年度別守備成績
    • 8.6 タイトル
    • 8.7 表彰
    • 8.8 記録
    • 8.9 背番号
    • 8.10 入場曲
    • 8.11 国際大会出場歴
  • 9 関連情報
    • 9.1 テレビ出演
    • 9.2 CM出演
    • 9.3 関連書籍
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

経歴

プロ入り前

幼稚園時代から野球漬けの毎日を送っていたが、それまでは規定がありチームに入れなかったものの、小学校3年生時に近所の上級生に誘われて若江ジャイアンツに入団。当時のエースに後に西武ライオンズでチームメートとなる犬伏稔昌がいた。犬伏が卒業すると投手として試合に出してもらえるようになったが、チームが所属していた地区は強豪揃いであり小学生時代は全国大会には出場できず、八戸ノ里中学生時代も決勝戦で敗れ、全国大会には出られなかった。小学生時代からずっと悔しい思いをしてきたため、高校に入ったら絶対に甲子園に行くと心に誓ったという。

PL学園時代は1年生の投手としては唯一春の大会でベンチ入り(背番号11)。1年の秋季大会では肘を痛めていたため松井自身は投げることができなかったが、チームは勝利し、春のセンバツに出場(背番号1)。準々決勝で先発に指名された。医者からは30球から50球が限度と言われていたが、痛み止めの注射を打ってマウンドに上がった。試合が始まると球が走らず、3回途中2失点でマウンドを降りた。その後チームは2年生時の夏、3年生時の春ともに甲子園出場を逃す。自身も背番号10でベンチ入りはしていたものの怪我のためほとんど投げられなかった。肩や肘がようやく治ったものの、3年生時の夏の大会直前の強化合宿でぎっくり腰になった。死ぬ思いで治療に専念し、大会に入っても腰に違和感はあったものの、試合当日何とか投げられる状態に回復した。松井は大阪府大会1回戦、2回戦とも9回まで投げ抜き、16奪三振を記録した試合もあった。決勝戦では近大付高金城龍彦との投げ合いとなった。PLは3点を先取し、松井も4回まで1安打ピッチングだったが、5回に連打で2点を取られ、7回にも金城の二塁打がらみで逆転を許す(3-5)。8回にもスクイズで1点を追加され、3-6で敗れた。試合後にはベンチ横で涙を流す一幕もあった。

ドラフト前に読売ジャイアンツ中日ドラゴンズ福岡ダイエーホークスから話があったが、巨人とダイエーからは投手ではなく野手として指名するという話だった。1993年のドラフト会議で西武ライオンズが3位指名で交渉権を獲得し、契約金5000万円、年俸450万円(金額は推定)で入団した。西武からは野手として指名された。背番号は「32」。

西武時代

1994年、高校時代にPL学園監督の中村順司から投手は9人目の野手だと教わり、当時は守備が得意だと思っていた。フィールディングもいいと言われ、送りバントされたら必ず走者を刺してやろうと狙っていたタイプだったが、野手としてプロ入り直後に自信を喪失したという。イースタン・リーグの試合では悪送球をいくつもしたといい、24失策を記録。走塁も素人同然で、スライディングやヘッドスライディングの技術は皆無であり、どんなタイミングだと頭から帰ればいいのかもわからず、足がベースまで届かずにタッチアウトになったこともあったという。同年のイースタン・リーグでは打率.260、4本塁打、11盗塁を記録した。スイッチヒッターにも転向し、当時の打撃コーチを務めていた谷沢健一によると、この年のキャンプで松井のバッティングを見たが、体がピッチャー方向へ突っ込んでどうしようもないスイングだったことから、谷沢が思いつきで「左で振ったことがあるか」と聞いたのがきっかけだった。右打席で突っ込むということは、右半身の力が左半身に比べて強すぎる可能性があることから、左打席では引く方の腕、つまり右腕が大切だと考えたためである。その後は松井の努力により、左打者の打ち方をみるみるうちに吸収していった。この年の一軍出場はなかった。また同年開幕前に登録名を本名の「松井和夫」から「松井稼頭央」に変更している。

1995年マウイキャンプの際、同じ遊撃手の奈良原浩の守備が溜息が出るほど上手であり、奈良原の動きを後ろからじっくり見て、少しでも近づけるように真似をさせてもらったという。4月5日の近鉄バファローズ戦で一軍初出場し、2日後の日本ハムファイターズ戦で代打で初打席に立ち、初打席、初安打、初打点を記録した。その後試合に出る機会が少なく二軍に落ちる。10日間ほど試合に出たらすぐに一軍に上げてもらえるということだった。その後一軍に上がると、以降は西武を退団するまで一度も二軍に落ちなかった。この年は69試合に出場し、21盗塁を記録。盗塁死はわずか1で、盗塁成功率は.955を記録した。オフにはウインター・リーグに参加した。

1996年、開幕から遊撃手のレギュラーを掴んだ。序盤は打てず、早出特打ちに励んだ。夏には調子を上げ、9月には初の月間MVPを受賞。シーズンを通して全130試合にフル出場し、リーグ2位の50盗塁を記録。盗塁死は9で、盗塁成功率は.847を記録した。本塁打は1本に留まったものの、打率はリーグ9位の.283を記録。この年から不動のレギュラー遊撃手として活躍し、西武を退団する2003年まで全試合に出場し続けた。オフには『筋肉番付』で活躍し(後述)、若い女性ファンを中心に人気が爆発したという。また来季から背番号を32からダリン・ジャクソンが付けていた「7」へ変更することになった。

1997年、前半戦だけで39盗塁を記録し、その内三盗は9度走り全て成功。打率も前半戦終了時点で.318を記録し、オールスターゲーム初出場を果たす。オールスターゲーム第1戦では1試合4盗塁の新記録を樹立しMVPを獲得。4盗塁は12球団No.1の盗塁阻止率を誇る古田敦也から決めた。4盗塁目は澤崎俊和と古田のバッテリーが松井に細心の注意を払ったにも関わらず三盗を決め、オールスター戦史上初の1試合に三盗を2度成功という記録も同時に達成した。またオールスターのスピードガンコンテストでは球速149km/hを記録した。第2戦でも古田から1つ盗塁を決め、シリーズ新記録となる計5盗塁を記録した。優勝決定試合では同点本塁打を放った。同年は初めて打率を3割に乗せ.309でリーグ4位となり、62盗塁でパ・リーグ盗塁王になるなどリーグ優勝に貢献。62盗塁中三盗は二桁に上った。パ・リーグにおいてシーズン60盗塁以上を記録したのは1983年大石大二郎以来だった。シーズンMVP西口文也に譲ったが、投票の合計ポイントは1位の西口、2位の伊東勤に次ぐ3位だった。ヤクルトスワローズとの日本シリーズでは第2戦に突き指をしながら2安打を放ち、第3戦で猛打賞を達成。敢闘賞を受賞した。

1998年、6月26日からの福岡ダイエーホークス3連戦で連続猛打賞を達成するなど、1試合3安打以上は21回記録。また、6月28日のダイエー戦ではプロ野球史上4人目、パ・リーグ史上初の初回先頭打者ランニング本塁打を記録した。2年連続となる盗塁王に輝き、打率もチームで唯一3割台に乗せた(.311、リーグ5位)。安打数は179安打を記録したが、1位のイチローには2安打及ばず、最多安打のタイトルの獲得はならなかった。その他、連続試合出塁39試合、そして前述の猛打賞21回はリーグ1位だった。シーズンMVP投票では1位票数ではイチローに及ばなかったものの合計ポイントで上回り、自身初のシーズンMVPを受賞した。横浜ベイスターズとの日本シリーズでは、第3戦に走者一掃の3点2塁打を放ったものの、全6試合で24打数5安打(打率.208)4打点2盗塁、得点0と精彩を欠き、チームも日本一を逃した。

1999年、それまで1、2番で起用されることが目立ったが、シーズン途中には3番に定着。7月から8月にかけて23試合連続安打、9月には1試合3二塁打を記録。シーズン通算では初の最多安打、そして3年連続となる盗塁王のタイトルを獲得。本塁打は自身初の二桁本塁打となる15本塁打を記録し、垣内哲也と並びチーム最多の本塁打を放った。打率はリーグ2位の.330を記録し、3位の城島健司の.306に2分以上の大差をつけたが、イチローの.343には及ばず、首位打者獲得はならなかった。OPSは.871を記録し、規定打席到達者ではタフィ・ローズ、イチロー、フィル・クラーク松中信彦に次ぐパ・リーグ5位だった。その他、連続試合安打23試合、連続試合出塁39試合、猛打賞17回はリーグ1位であり、得点圏打率.324は諸積兼司に次ぐリーグ2位、出塁率.389も2位の大島公一には5厘差、3位の吉永幸一郎には3厘差に迫るリーグ4位と好成績を残した。

2000年、元旦にタレント菊池美緒と入籍。キャンプでは故障で途中帰京し、シーズン中には両足を痛めたもののかばいながら出場を続け、全試合出場を果たした。シーズン序盤では1、2番での起用も目立ったが、それ以降は3番での起用が多く、一時は4番として起用されることもあった。6月7日の近鉄戦ではスイッチヒッターとしては松永浩美以来となるサイクル安打を達成。同月17日のオリックス・ブルーウェーブ戦ではプロ初となる4番で起用される。シーズン通算の打率はリーグ5位の.322と前年より低下したものの、本塁打は自身初の20本超えとなるリーグ10位の23本塁打を記録し、2年連続でチーム最多の本塁打を放った。また、福岡ドームでの試合ではバスターで本塁打を放つ離れ業を見せた。OPSは前年を上回る.932を記録、リーグ平均を考慮しても前年を上回る数値だったが、前年は上回っていた中村紀洋小笠原道大が数値を向上させ、前年故障により6試合出場に留まったナイジェル・ウィルソンの復活、前年規定打席にわずかに届かなかったシャーマン・オバンドーフランク・ボーリックの規定打席到達もあり、規定打席到達者ではパ・リーグ日本人選手では5位、リーグ全体では8位だった。また、74長打はリーグトップだった。走塁面では前年に比べ盗塁企図数が29、盗塁数が26と減少し、3年連続で受賞していた盗塁王を逃した。守備面ではリーグ最多の21失策を記録、果敢にチャレンジした松井ならではのエラーが多かった。この年はイチローの日本最終年であり、最終試合に松井がイチローに挨拶に行ったところ、「あとは稼頭央に任せた」と言ってもらえたという。

2001年、前年に続き主に3番で起用される。故障の影響で指名打者での出場も多かったが、140試合にフル出場した。3月28日のオリックス戦で小倉恒を相手に18球粘り、1947年松井信勝が記録した19球にあと1球と迫った。7月8日には通算1000本安打を達成。818試合目での達成はイチロー、ブーマー・ウェルズ与那嶺要に次ぐ歴代4位だった。オールスターゲームでは全3戦にフル出場し、第1戦、第2戦と2試合連続本塁打を記録した。第1戦では本塁打を含む3安打を放ち、1997年のオールスター第1戦以来2度目のMVPを獲得。その1997年の第1戦以来となるパ・リーグの勝利に貢献した。この年はパ・リーグ総本塁打数が大幅増加するなどパ・リーグ全体が投低打高化した中、松井自身は打率は.308でリーグ9位と前年より低下し、本塁打も前年より1本増となる24本でリーグ14位に留まった。この年入団した アレックス・カブレラスコット・マクレーンが松井を上回る本塁打数を記録したため、3年連続でのチーム最多の本塁打とはならなかった。翌年以降もカブレラに譲ることになる。その他、2ストライク時の打率はパ・リーグ規定打席到達者2位の.275(244打数67安打)を記録した。一方で満塁時の打率は.071(14打数1安打)で、パ・リーグ規定打席到達者中もっとも低かった。走塁面では2リーグ制以降、20盗塁以上では史上初となるシーズン盗塁成功率100%を記録(26盗塁)。この時点で通算260盗塁、盗塁死49で盗塁成功率.841と高い盗塁成功率を記録。オリックス戦では最近3年間盗塁死がなく、1998年10月9日に盗塁失敗後21連続で盗塁成功。守備面では失策が前年に比べ減少し、守備率を.980台に乗せた。また、この年でベストナイン受賞は5年連続となり、パ・リーグ遊撃手としては大橋穣の連続受賞記録(1972年-1976年)に並んだ。

2002年、開幕から1番で起用された。今季も指や右肩などの怪我に悩まされたが、全140試合にフル出場した。前年から一転、新ストライクゾーン導入がありパ・リーグ全体の打撃成績が落ち込む中、松井自身は2度月間MVPを受賞するなど好調で、5月にはパ・リーグ史上2人目となる2試合連続サヨナラ本塁打を記録し、6月にはスイッチヒッターとしては史上初となる5試合連続本塁打を記録。7月13日のオールスターゲーム第2戦では死球を受け左ふくらはぎを負傷したが、出場志願した後半戦開幕戦から2試合連続本塁打を記録した。チームのマジック点灯がかかった8月16日の大阪近鉄戦では、チームは3回表終了時点で近鉄に9点差を付けられたものの4回表に西武打線が松井の左翼前安打を始まりに7連打で逆転。その後再び追いつかれるも7回裏に決勝打となる本塁打を放った。9月24日のオリックス戦では6回に中堅へ本塁打を放ち、パ・リーグ新記録となるシーズン82長打を達成。その後9月27日のダイエー戦では2長打を放ち、1950年小鶴誠が記録した日本プロ野球記録の85長打に並んだ。更に10月2日の近鉄戦の3回に二塁打を放ち、日本プロ野球新記録となるシーズン長打86を記録した。最終的にシーズン88長打を記録。終盤には首位打者小笠原道大に1厘差に迫るなど、首位打者争いも演じた。最終的には首位打者小笠原道大に8厘差と迫るリーグ3位の打率.332、本塁打はカブレラ、ローズ、中村紀洋に次ぐリーグ4位の36本塁打、その内前述の2試合連続サヨナラ本塁打を含むサヨナラ本塁打3本のパ・リーグタイ記録を記録した。シーズン36本塁打は一番打者としてプロ野球新記録であり、遊撃手としてシーズン35本塁打もパ・リーグタイ記録であった。安打数は当時歴代3位タイとなる193安打を記録し、3年ぶりとなる最多安打のタイトルを獲得した。OPSはパ・リーグ規定打席到達者ではカブレラ、小笠原道大に次ぐパ・リーグ3位の1.006を記録した。盗塁数はシーズン途中までリーグ最多の盗塁数を記録していたが、最終的には谷佳知に盗塁王のタイトルを譲った。しかしながらリーグ2位の33盗塁を記録し、史上8人目、スイッチヒッターとしては史上初のトリプルスリーを成し遂げた。2000年から3年連続で3割20本20盗塁も記録。守備面では前年に比べより守備率を向上させ.985とし、4年ぶりとなるゴールデングラブ賞を受賞した。ベストナイン投票ではパ・リーグ遊撃手部門にて満票で選出され、6年連続での受賞。パ・リーグ遊撃手としては大橋穣を超え、セ・リーグを含めても吉田義男が記録した連続受賞記録に並んだ。シーズンMVP投票ではカブレラに次ぐ2位だった(カブレラが636点、松井が471点)。同年でNPB通算4000打数に到達し、通算打率は.311で同年終了時点で歴代8位、遊撃手では歴代1位に立った。

読売ジャイアンツとの日本シリーズでは第1戦に上原浩治から初回先頭打者安打を放ち、第3戦には工藤公康から右へ本塁打を放つなど2安打を記録したが、第2戦、第4戦では安打が出ず、チームは4連敗を喫した。11月には共に日本シリーズに出場した上原とユニセフハウスを訪れ、アフガニスタンの子どもたちへの支援金として200万円を当協会事務局長に手渡した。

2003年、前年に引き続きシーズンを通じてほぼ1番を任される。自身が初めてのスランプと評するほどの不振に陥った。2002年の新ストライクゾーンから従来通りのゾーンに戻ったにも関わらず三振数が増加。124三振はリーグワースト2位だった。打率、本塁打も打率.305(リーグ14位)、33本塁打(リーグ4位)と成績を落とした。前年リーグ2位を誇った長打率もリーグ9位に転落。走塁面でも開幕直後に盗塁失敗が嵩みスランプに陥った他、6月に右足首への自打球の影響も重なり、残り7盗塁に迫っていた通算300盗塁を96試合目にようやく達成。最終的に盗塁数13、成功率.565と両者とも1995年の一軍初出場以降自身シーズンワーストを記録。守備でも2年連続となるゴールデングラブ賞を受賞したものの3年ぶりに守備率が.980を下回るなど走攻守全てで精彩を欠いた。通算記録では前述の300盗塁の他、150本塁打を達成。また8年連続全試合出場(1996年-2003年)、1143試合連続出場を記録。1997年から7年連続で打率3割、170安打以上、遊撃手としてベストナインを受賞、ファン投票によってオールスター選出され続けた。2003年終了時の通算打率は.309で、この時点でNPB歴代9位(4000打数以上)。

シーズン終了後にはアテネオリンピックのアジア予選に出場。オフには8月24日に取得したFA権を行使し、アーン・テレムを代理人とし、11月17日にメジャー挑戦を表明。

メッツ時代

2003年12月10日にニューヨーク・メッツと3年2010万ドル+出来高で契約した。背番号は7を希望するがホセ・レイエスが着けていたため断念。球団からは5番と25番を提示され、「足して7になる」という理由で25を選択。契約にはニューヨーク・ヤンキースロサンゼルス・ドジャースアナハイム・エンゼルスを除くチームへのトレード拒否権が盛り込まれていた。

2004年、2月29日、守備練習中に右手中指のつめの部分を負傷し、オープン戦初戦に出場できなくなった。3月8日にオープン戦初出場。けがをした右手中指の影響でまだ守備にはつけないため1番指名打者として出場した。15日には初めて遊撃の守備に就き守備力を高く評価されたが、29日には右手首を痛めて試合に欠場。オープン戦では打率.192と不振に陥った。

開幕戦である4月6日のアトランタ・ブレーブス戦で、前年度に21勝を挙げたラス・オルティスからメジャー史上初となる開幕戦新人の初球初打席本塁打を記録した。しかしその後は4月までで打率.256、2本塁打、OPS.758、1盗塁とやや停滞。5月のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではランディ・ジョンソンから本塁打を放つなど、5月までで打率.265、5本塁打、OPS.783、6盗塁を記録。しかし6月には月間打率.223を記録するなど不振に陥り、6月25日のシンシナティ・レッズ戦に欠場し、西武時代から続いていた連続試合出場が1213試合でストップした。しかしながら7月には2日のニューヨーク・ヤンキース戦(サブウェイ・シリーズ)で2本塁打を放つ活躍を見せ、同月29日までで月間打率.339、OPS.904を記録していたが、7月30日のブレーブス戦で二塁カバーに入った際に激しいスライディングを受け、左足脛を負傷する。その後も強行出場を続けていたが痛みが引かず、8月4日のミルウォーキー・ブルワーズ戦に欠場。7日のセントルイス・カージナルス戦で2番・遊撃でスタメン復帰し2安打を放ち、8日から3番に座ったが、11日に腰痛で欠場。15日まで5試合連続で欠場し、16日には故障者リスト入りとなる。8月以降は合計12試合にしか出場できず、最終的にシーズン全162試合中114試合にしか出場できなかった。シーズン通算では1年目から規定打席をクリアしチーム最多となる125安打、32二塁打、2三塁打を放った一方、打率.272、7本塁打、OPS.727、14盗塁とやや物足りない成績に終わった。オールスター前までに7本塁打、12盗塁を記録していたのに対しオールスター明けは故障もあり本塁打は記録できず、盗塁も2盗塁に終わった。一方で比較的投手有利の球場として知られるシェイ・スタジアムを本拠地としながらもホームでの成績が打率.274、OPS.731とアウェイ時をやや上回る成績を残した。遊撃守備については失策数の多さが目立った。最終3試合は二塁手として出場している。失策数の多さに関して球団側は松井が捕手のサインがしっかり読み取れず球種を把握できていないことと関係があると判断し、松井に眼鏡の着用を要請したこともあった。失策数の多さはマイク・ピアッツァの拙守や、守り辛いと言われる本拠地シェイ・スタジアムの内野グラウンド、メッツ内野陣全体の連繋のまずさなども背景として存在した。またレンジファクターはリーグ遊撃手中3位であり、松井の守備が「大リーグ失格」と腐されるというのは不公平という意見もあった。故障療養のため家族とともにフロリダに滞在中にはハリケーン・アイバンが直撃。球場にて避難生活を送った。

2005年、前年シーズン後半に腰痛で約1カ月半戦列を離れたことからケガをしないことを目標に掲げた。守備面では今季から二塁を守ることになり、「勝負の年だと思う。二塁手でレギュラーを勝ち取るという強い気持ちを持って、1年間元気よくやりたい」と語っている。開幕戦のシンシナティ・レッズ戦で、前年に続き初打席で本塁打を放ち、2年連続開幕戦初打席本塁打を記録。6月16日のオークランド・アスレチックス戦では二塁上でジェイソン・ケンドールと交錯して故障者リスト入り。復帰後は9月16日のブレーブス戦までで12試合連続安打を記録するなど打率.309、OPS.777を記録していたが、そのブレーブス戦で右太ももの裏側に違和感を訴え、9回の守備から退き、その後は欠場が続いた。27日のフィリーズ戦で代打で10試合ぶりに出場するもセカンドゴロに倒れ、連続試合安打が12で途切れた。結局今季は8月以降は好調だったものの87試合の出場に留まるなど、前年の成績を下回った。オフには西武の同僚だった熊澤とおると個人トレーナー契約を結び、基礎練習を徹底して行った。

2006年、自主トレは「けがをしない体づくり」をテーマに行った。しかし3月16日のオープン戦で滑り込んだ際に右ひざを痛め、マイナーで開幕を迎える。メジャー昇格初戦となった4月20日のサンディエゴ・パドレス戦の初打席では日本人初のランニング本塁打を打ち、メジャー4人目となる3年連続シーズン初打席本塁打を達成。しかし、打率は.200と低迷した。

ロッキーズ時代

ロッキーズ時代(2007年)

2006年6月9日にイーライ・マレーロ(クリス・マレーロの叔父)との交換トレードでコロラド・ロッキーズへ移籍した。ロッキーズの広報担当者は、松井を当面AAA級コロラドスプリングス・スカイソックスでプレーさせることを明らかにした。

2006年、6月12日にAAA級コロラドスプリングスに合流。ロッキーズでの守備位置がまだ確定しておらず、この日は2年ぶりに遊撃を守った。21日にまたも腰痛で欠場。7月24日に復帰し、8月22日にメジャーに復帰した。移籍後の同年のメジャー成績は32試合出場、打率.345、2本塁打、19打点、8盗塁、OPS.896。遊撃手、二塁手、代打で出場した。自主トレではバリー・ボンズが声をかけてくれたのを機に、合同で打撃練習も行った。ボンズは松井にいろいろなアドバイスをしてくれたという。

2007年、腰痛で離脱し、5月15日に復帰した時点でチームは16勝23敗と大きく負け越していたが、復帰した松井が2番に固定され、ウィリー・タベラスとの俊足コンビが復活して以降チームは好調。 終盤にはタベラスの離脱により、「1番・二塁」に定着。チームの終盤14勝1敗という驚異的な快進撃にトップバッターとして貢献。チームはワイルドカードによるプレーオフ進出を果たした。ポストシーズンでは、10月4日のフィラデルフィア・フィリーズとのディビジョンシリーズ第2戦で逆転満塁本塁打を放つ。この日の開催地はフィラデルフィアでメッツ時代の松井を知っていたニューヨークの記者もいたのだが、松井自身は「今はコロラドにいるので、ニューヨークのことは話す必要がない」と試合後コメント。チームはリーグチャンピオンシップシリーズアリゾナ・ダイヤモンドバックスをスイープでリーグ初優勝を決め、球団創設以来初となるワールドシリーズ出場を果たした。ワールドシリーズでは元チームメートの松坂大輔岡島秀樹が所属するボストン・レッドソックスとの対決となり、第3戦には松坂から初回先頭打者安打を放った。チームは第4戦で敗れたが、自身のポストシーズン通算成績は打率.304、OPS.847と好成績を残す。同年は前述の離脱やジェイミー・キャロルとの併用もあって104試合の出場に留まり、規定打席には到達できなかったものの、中盤以降は二塁の定位置をほぼ手中にした。8月終了時には打率3割を誇り、最終的に.288を記録。また、リーグ9位となる32盗塁を記録し、盗塁死4で成功率.889を記録。rWARでは3.4を記録し、MLBのスタメン二塁手30人中12位と、少ない出場数にもかかわらず高位置につけ、メジャートップクラスの二塁手に成長したと評された。オフにはFAとなった。

アストロズ時代

アストロズ時代(2010年)

2007年12月2日にヒューストン・アストロズと3年総額1650万ドル(約18億3000万円)で契約。2007年限りで現役を引退したクレイグ・ビジオの後釜として期待される。背番号は「3」。

2008年、スプリングトレーニングでは6試合で打率.333、OPS.794を記録していたが、開幕直前に臀部の手術により戦線離脱。復帰後は2番打者として起用され、チーム打撃成績は著しく上昇した。松井自身は他の打者の打撃にまで影響を与えることに関して「自分で(チームの)流れを変えられるなんて思っていない。自分は2番としての役割をしたいと思っているだけですから。回りの人がどう思うか知らないけど、そういう風に思うこと自体がどうかなと思う。自分はできる範囲のことをやっているだけですから」と否定したが、監督のセシル・クーパーは「マツイが復帰してチームに最高のスパークをもたらしてくれた」と語り、ランス・バークマンは「マツイが打線に加わり、攻撃にリズムが生まれた」と語った。球宴後は1番打者として起用され快進撃をみせ、同年の1番打者としての成績は打率.295、OPS.851を記録。

アストロズと契約を交わした際、現地主要メディアの反応はネガティブで、前年所属していたロッキーズの本拠地でありラインドライブヒッターに有利

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出典:wikipedia
2019/11/28 02:14

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