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板東英二とは?

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ばんどう えいじ
板東 英二
【本名】
板東 英二
【生年月日】
(1940-04-05) 1940年4月5日(79歳)
【出生地】
満州国東安省虎林県(現:中国黒竜江省虎林市)
【国籍】
日本
【身長】
168cm
【職業】
プロ野球選手(1959年 - 1969年)・野球解説者タレント司会者俳優YouTuber
【活動期間】
1959年 -
【配偶者】
既婚
【事務所】
吉本興業(2014年1月より)
【公式サイト】
https://www.bandoeiji.club/
受賞
日本アカデミー賞

最優秀助演男優賞
1989年あ・うん
ブルーリボン賞

助演男優賞
1989年あ・うん
【その他の賞】

第2回日刊スポーツ映画大賞助演男優賞

【備考】

誕生日(4月5日)は公称
板東 英二
中日ドラゴンズに入団した1959年当時の板東

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
徳島県板野郡板東町(現:鳴門市)
【生年月日】
(1940-04-05) 1940年4月5日(79歳)
【身長
体重】
170 cm
70 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1959年
【初出場】
1959年4月15日
【最終出場】
1969年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


板東 英二(ばんどう えいじ、1940年4月5日(公称) - )は、日本の元プロ野球選手野球解説者タレント俳優司会者。「東英二」は誤記。愛称は板ちゃん(ばんちゃん)。

満州国虎林生まれ、徳島県板野郡板東町(現:鳴門市)育ち。既婚者で、2女の父親でもある。また、2012年8月31日以降は、鳴門市からの委嘱で「鳴門観光大使」を務めている。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 高校野球時代
    • 1.2 中日ドラゴンズ時代
    • 1.3 現役引退後の活動
    • 1.4 所得隠し問題で芸能活動を一時休止
    • 1.5 芸能活動の再開後
  • 2 詳細情報
    • 2.1 年度別投手成績
    • 2.2 記録
    • 2.3 背番号
  • 3 芸能人として
    • 3.1 司会者・解答者
    • 3.2 俳優活動
    • 3.3 ラジオパーソナリティ
    • 3.4 交友
      • 3.4.1 プロ野球関係
      • 3.4.2 芸能関係
      • 3.4.3 政治関係
    • 3.5 執筆活動
    • 3.6 歌手活動
  • 4 事業家として
  • 5 所得隠し問題が発覚するまでの活動
  • 6 所得隠し問題の発覚による影響
  • 7 エピソード
    • 7.1 高校野球関連
    • 7.2 プロ野球関連
    • 7.3 野球解説関連
    • 7.4 投資関連
    • 7.5 ゆで卵に関して
  • 8 家族・親族
  • 9 関連情報
    • 9.1 放送メディアへの出演
      • 9.1.1 テレビ番組
        • 9.1.1.1 ドラマ
      • 9.1.2 ラジオ番組
      • 9.1.3 ウェブテレビ
      • 9.1.4 出演CM
    • 9.2 出演した映画
    • 9.3 評論
    • 9.4 著書
    • 9.5 音楽作品(シングル)
    • 9.6 野球・俳優以外での受賞
  • 10 参考資料
  • 11 関連項目
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
    • 12.3 脚注予備
  • 13 外部リンク

経歴

満州の虎林で生まれ、一家は間島省(現・吉林省延辺朝鮮族自治州)図們市で高級料理店を経営していた。誕生日は公式には4月5日とされているが、板東自身が語っているところによれば、実際には3月31日だったという。4人兄弟の末っ子(姉2人、兄1人)。

5歳で引き揚げ博多港から母・久江(旧姓 杉本)の出身地の神戸市宮ノ下に移り、神戸市立妙法寺小学校に入学。これは1947年4月のことで、実際の誕生日から見ると正規の学齢より1年遅かった。入学式の1日だけ行った後、父・操(みさお)の復員を知り、父の故郷である徳島県板野郡板東町に移り、旧板東俘虜収容所の施設を転用した引き揚げ者用住宅で過ごす。父親の就業が不安定だった小中学校時代には困窮した生活を送り、食事にも事欠いた。

板東中学校入学時に板東はバレーボール部に入り、養蚕農家の手伝いをして家計を助けた。中学2年の時に野球部の先輩から誘いを受けて入部し、遊撃手としてレギュラーを獲得する。3年に進級した板東は野球部のエースとして活躍し、中学時代に61連勝の記録を挙げた。

高校野球時代

1956年に徳島県立徳島商業高等学校へ入学。小学校以来、正規の学齢よりも1年下で就学してきたが、2年生の時に誕生日を野球部長に問われて「昭和15年3月31日」と答えると、3年生時に日本高等学校野球連盟による出場規制の対象となるため、部長の斡旋により徳島地方裁判所で実際より遅い4月5日に誕生日を変更した。日付は部長の決定で、手数料(50円)も部長が拠出したという。

2年生の1957年には、夏の徳島県大会で徳島県立撫養高等学校(現在の徳島県立鳴門渦潮高等学校)に敗れたため、全国高等学校野球選手権大会への出場は叶わなかった。同年秋から主将に就任。

1958年4月に開かれた春季四国地区高等学校野球大会では、エースとして、対高知市立高知商業高等学校戦で延長16回を完投。翌々日の対香川県立高松商業高等学校戦でも、延長25回を1人で投げ抜いた(この時の高松商業・石川陽造も25回を完投)。準決勝戦・決勝戦合わせて41回を投げ抜いた板東の活躍は、地方紙だけでなく、全国紙でも報道。全国の高校野球のファンからも、一躍注目を受けるようになった。その一方で、この事態を重く見た日本高等学校野球連盟は、延長戦に関するルールを急遽変更。延長18回裏の時点で引き分けの場合には、その時点で試合を終了したうえで、後日に再試合を実施することになった。

1958年夏の第40回全国高等学校野球選手権大会では、対秋田市立秋田商業高等学校戦(17奪三振、相手は石戸四六)、対福岡県立八女高等学校戦(15奪三振)での勝利を経て、準々決勝に進出。板東はこの時点で右肩を痛めていたが、富山県立魚津高等学校戦との準々決勝では、延長18回を投げ抜くとともに25個の奪三振を記録した。しかし、魚津の先発投手・村椿輝雄も板東と同じく18回を完投した末に、0対0で18回を終了。前述した再試合ルールが初めて適用された(魚津対徳島商延長18回引き分け再試合に詳述)。翌日の再試合では、腰の痛みを訴えたことから、麻酔注射を打って登板。3回頃から麻酔が切れたものの、9奪三振で完投勝利を収めるとともに、当時の大会記録64奪三振を更新した。準決勝でも14奪三振で作新学院高等学校に勝利。決勝で山口県立柳井高等学校に敗れたものの、大会を通じて83奪三振を記録した。この大会で樹立した1試合25奪三振および、大会通算83奪三振の記録は、2019年の第101回大会終了時点で破られていない。

中日ドラゴンズ時代

1958年秋に慶應義塾大学のセレクションに合格するが、家庭の事情でプロ入りを決意する。1959年、中日ドラゴンズに入団。同期には江藤愼一片岡宏雄らがいる。

入団2年目の1960年には、オールスターゲームに監督推薦で選出。1961年には、21歳にして開幕投手に抜擢されている。

巨人が2000勝を達成した1965年7月25日の試合で先発すると、8回1死まで巨人打線を無得点に抑えていた。しかし、柴田勲に逆転本塁打を浴びて敗戦投手となる。この試合は巨人が5000勝を達成した2007年に日本テレビの野球中継で放送されたほか、日テレの子会社であるバップが同年に発売した『ジャイアンツ栄光の5000勝 永久不滅版』に収録された。

1966年8月26日の対読売ジャイアンツ戦に中継ぎで登板し、塩原明を1球で打ち取って降板。これによりプロ野球史上2人目、セントラル・リーグ初、日本人投手として初の1球勝利投手に輝いている。1967年には、中継ぎ投手として好調を維持していた。同年5月13日のサンケイアトムズ戦では投手の佐藤進からサヨナラ本塁打を打たれている。1968年にはシーズン中の6月に、東京大学医学部附属病院での緊急手術で右肘の軟骨を除去。当時のプロ野球選手では前例のない手術だったが、シーズン終盤の9月には一軍へ復帰した。

1969年には、一軍公式戦16試合に登板したが、プロ入り後初めて1勝も挙げられなかった。開幕戦の広島東洋カープ戦では山内一弘にサヨナラ本塁打を打たれて敗戦投手。シーズン最後の巨人戦へ登板した直後に、当時の一軍監督・水原茂から、コーチへの転身を打診。さらに、球団が自身を任意引退選手として扱うことを新聞で知ったため、コーチへの就任を前提に現役引退を決断した。しかし、後に球団内の人事異動で、板東と折り合いの悪い人物が現場のトップへ就任。そのあおりで、コーチへの就任は幻に終わった。さらに、球団からスカウトへの転身を勧められたが、「自分に合わない」という理由で固辞した。

現役引退後の活動

1970年より中部日本放送(CBC)の野球解説者へ就任。1974年当時野球解説をしていたCBCラジオで、昼ワイド番組『ばつぐんジョッキー』の月曜パーソナリティを担当し、木曜パーソナリティ上岡龍太郎と中日対阪神で盛り上がる。

名古屋で野球解説を担当していた時代は数多くの事業に手を出し、不眠不休の生活を送っていた。しかし、1979年のシーズン途中に、CBCから野球解説者としての契約を解除(詳細後述)。プロ野球中継以外のレギュラー番組からも一斉に降板したため、タレント活動の拠点を関西へ移した。ただし、CBCとの縁が切れたわけではなく、以降もタレントとしてテレビ・ラジオ番組への出演を継続。プロ野球中継にも、スポット契約扱いで随時出演していた。

タレント活動が全盛期だったころは、毎日放送(MBS)の解説者として契約しながら、出演はゲスト扱いの1試合のみ、という年もあった(毎日放送解説者としての活動開始は1984年)。活動が落ち着いてきた2000年代以降は他の解説者同様に出演するほか、2003年以降はニッポン放送とも契約し、達川光男(2009年まで)同様関東・関西をまたにかけ活躍していた。

所得隠し問題で芸能活動を一時休止

板東は1988年に、国税庁確定申告PRポスターのキャラクターに起用。また、名古屋市に住民票を置いていることから、確定申告の期間中に名古屋国税局へ出向く姿が東海地方を中心に毎年報じられてきた。2007年には、同国税局から感謝状を贈られている。

しかし、名古屋国税局は2012年に、「オフィスメイ・ワーク」(かつて板東が役員も務めた事実上の個人事務所)へ税務調査を実施した。その結果として、2011年8月期までの7年間にわたって、約5000万円の所得を名古屋国税局に申告していなかったことが判明。所得隠しを含めた申告漏れの総額が約7500万円にのぼったことから、同事務所ではその事実を認めたうえで、ただちに修正申告と追徴税の支払いで対応した。名古屋国税局では、板東自身の指示で所得隠しを続けていた可能性を指摘。TBS News iなどでは、「架空発注などを含む悪質な所得隠し」と報じた。

2013年8月10日には、観光大使を務める地元の徳島県鳴門市で開催の阿波おどりイベントにゲスト出演。前述の申告漏れ報道以来約8か月振りに、公の場へ姿を見せた。さらに、自らの個人事務所であったオフィス・メイワークを閉鎖したうえで、11月10日に大阪市内で記者会見を開催。前述の申告漏れ問題を釈明すると共に、一連の経緯に関する事情説明が遅れたことなどを公式に謝罪した。名古屋国税局から申告漏れを指摘された背景については、公私にわたる金銭の管理をオフィス・メイワークのスタッフ1名に任せていたことや、過去に20年ほど続けていた頭部への植毛に対する税務上の「経費」の扱いで国税当局と認識の違いがあったことを明かしている。

芸能活動の再開後

2013年11月23日に、インターネットテレビ番組『めちゃ×2ユルんでるッ!』(ゼロテレビ)へのゲスト出演によって、芸能活動を事実上再開した。同年12月9日には、ラジオ番組『吉田照美 飛べ!サルバドール』(文化放送)のスタジオゲストとして、活動再開後初めて地上波での生放送およびラジオ番組に出演。前述の記者会見で明かした植毛のきっかけについて、最初に行ったのは20数年前の俳優活動中で、当時両面テープを使って行ったことを明かしている。同月25日の未明には、『明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー』(フジテレビ)の生放送中に、明石家さんまへの電話を通じて地上波のテレビ番組へ1年振りに出演した。

オフィス・メイワークの閉鎖後はフリーランスで活動していたが、2014年1月16日付で、さんまの所属する吉本興業(よしもとクリエイティブ・エージェンシー)への所属が同社から発表された。この所属については、「活動の場を広げたい」という本人の希望に加えて、さんまや島田紳助からの後押しも決め手になったとされる。先述発表の際に、「所属事務所(オフィス・メイワーク)の所得の申告漏れに関して、世間をお騒がせし、応援して頂いている皆様や、関係各社様にご迷惑をお掛け致しましたことを、深くお詫び申し上げます。今後はよしもとクリエイティブ・エージェントに所属し、同じ過ちを繰り返すことなく、芸能活動も再開できればと思っております」とのコメントを寄せた。

2014年2月2日には、ナゴヤドームで開かれたSKE48のコンサートで、名古屋城をかたどった正面ステージに戦国武将の姿で登場。「御心配をお掛けしました」と謝罪したうえで「開幕宣言」を述べた。同月には、関西テレビが制作するさんまの冠番組さんまのまんま』(同局15日放送分)にゲスト出演。この番組で、吉本興業所属後初めて地上波のテレビ番組に登場した。毎日放送の番組には、4月13日20日放送分の『MBSヤングタウン日曜日』(事前収録)、同月25日(金曜日)放送分の『上泉雄一のええなぁ!』(生ワイド番組、いずれもラジオ)に相次いでゲスト出演。5月9日には、『5時に夢中!』(東京MXテレビ)のゲストコメンテーターとして、テレビの生放送番組にも本格的に復帰した。また、サンケイスポーツの野球評論家として、不定期ながら観戦記の寄稿を再開している。

このように、在京キー局以外の地上波民放局が制作するテレビ番組では、徐々に出演の機会を増加。2014年10月からは、『バラいろダンディ』(東京MXテレビ)の火曜日でレギュラーコメンテーター(火曜ダンディ)を務めている。ただし、前述した『さんまのまんま』の板東が出演した回は、ネット局のフジテレビ(関東広域圏)では放送されなかった。TBSでも、衛星放送(TBSチャンネル)で以前から不定期に放送している『金曜日の妻たちへ』シリーズを、脱税発覚後は板東が出演していない第1シリーズに限って再放送を繰り返していた。ただし、TBSでは板東が出演した系列局制作のネットワークセールス番組(2014年12月21日放送の毎日放送制作『今だから言えるナイショ話』など)については差し替えずネット受けした。

その後、在京キー局でも単発番組へのゲストでは徐々に出演が再開され、2018年9月28日放送の『今夜解禁! ザ・因縁』で久々にTBSテレビ制作番組に出演し、草野仁とも対面した。

その一方で、ラジオ番組については、2014年のナイターオフ編成から毎日放送で『板東英二のおばあちゃんと話そう』のレギュラー放送を再開。また、ラジオ関西で新しい冠番組『板東・板東・晴れ・板東!』が始まったほか、『師岡正雄 サタデーショウアップスポーツ』(ニッポン放送)内で「板東英二のプロ野球バンバン伝説」というレギュラーコーナーを持つようになった。

2015年には、『バラいろダンディ』の特別企画で、マルタ国際マラソン(2月22日開催)のウォーカソン(ウォーキング&マラソン)部門に日本人最年長の74歳で出場。21kmのコースを完走した。3月12日には、芸能活動再開後初めての著書『板東英二の生前葬』を双葉社から発売。5月29日には、『MBSベースボールパーク』(毎日放送ラジオ)の埼玉西武ライオンズ阪神タイガース戦(西武プリンスドームのナイトゲーム)中継で、ゲスト扱いながら野球解説者としての活動を本格的に再開した。

2016年からはかつて野球解説者として出演していたニッポン放送のプロ野球中継 『ニッポン放送ショウアップナイター』のゲスト解説者として不定期ながら出演している。

また、2016年9月4日に突如としてYouTubeに『B.E.(Boiled Egg)チャンネル』を開設。サングラスをかけて「B.E.」と名乗り、YouTuberとしての活動を開始した。初投稿動画は板東と同じよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属するエグスプロージョンの『本能寺の変』を踊る動画。その後は好物のゆで卵を取り扱った動画や元高校球児の運動神経を生かした動画を投稿していたが、2017年2月を最後に動画の投稿は途絶えている。 ※なお「B.E」とはboiled eggの略称であり、由来は板東英二のイニシャルでは無い。

なお、2017年9月20日に放送された『良かれと思って!』(フジテレビ)のスタジオ収録では、前述した植毛をめぐる事情について改めて釈明。一時は耐用期間が2週間に満たない人工毛(1本180円)を3万本以上植えていたものの、2週間に1回の植毛で費用が嵩んだため、現在は前頭部にアデランス製のカツラを着用していることを告白した。

詳細情報

年度別投手成績






























ブ




ド
































ボ











W
H
I
P

1959 | 中日 | 33 | 12 | 1 | 1 | 1 | 4 | 4 | -- | -- | .500 | 411 | 97.0 | 89 | 6 | 29 | 0 | 4 | 69 | 3 | 0 | 37 | 34 | 3.15 | 1.22
1960 | 44 | 20 | 6 | 0 | 3 | 10 | 11 | -- | -- | .476 | 703 | 174.2 | 145 | 17 | 35 | 4 | 1 | 126 | 0 | 0 | 57 | 51 | 2.62 | 1.03
1961 | 47 | 33 | 8 | 4 | 2 | 12 | 10 | -- | -- | .545 | 795 | 193.1 | 166 | 14 | 48 | 0 | 4 | 108 | 2 | 0 | 65 | 56 | 2.60 | 1.11
1962 | 28 | 13 | 2 | 1 | 0 | 2 | 9 | -- | -- | .182 | 364 | 88.2 | 85 | 10 | 25 | 1 | 3 | 56 | 3 | 0 | 44 | 42 | 4.25 | 1.24
1963 | 30 | 6 | 2 | 1 | 1 | 3 | 1 | -- | -- | .750 | 314 | 73.2 | 77 | 2 | 26 | 3 | 2 | 39 | 3 | 1 | 32 | 25 | 3.04 | 1.40
1964 | 53 | 9 | 2 | 0 | 0 | 6 | 7 | -- | -- | .462 | 600 | 140.1 | 144 | 13 | 44 | 2 | 3 | 73 | 3 | 0 | 60 | 48 | 3.09 | 1.34
1965 | 55 | 8 | 0 | 0 | 0 | 12 | 7 | -- | -- | .632 | 617 | 156.1 | 120 | 11 | 45 | 4 | 3 | 87 | 3 | 1 | 47 | 39 | 2.25 | 1.06
1966 | 60 | 1 | 0 | 0 | 0 | 13 | 5 | -- | -- | .722 | 520 | 133.0 | 103 | 14 | 30 | 7 | 1 | 91 | 5 | 0 | 44 | 38 | 2.57 | 1.00
1967 | 51 | 1 | 0 | 0 | 0 | 14 | 6 | -- | -- | .700 | 485 | 119.2 | 110 | 11 | 28 | 5 | 2 | 72 | 4 | 0 | 37 | 34 | 2.55 | 1.15
1968 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | -- | -- | .200 | 108 | 21.2 | 29 | 3 | 11 | 0 | 0 | 12 | 2 | 0 | 23 | 16 | 6.55 | 1.85
1969 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | -- | .000 | 102 | 22.1 | 23 | 1 | 11 | 1 | 1 | 15 | 2 | 0 | 11 | 9 | 3.68 | 1.52
通算:11年 435 | 103 | 21 | 7 | 7 | 77 | 65 | -- | -- | .542 | 5019 | 1220.2 | 1091 | 102 | 332 | 27 | 24 | 748 | 30 | 2 | 457 | 392 | 2.89 | 1.17

記録

初記録
その他の記録

背番号

芸能人として

中日の投手時代に「十姉妹(ジュウシマツ)」と呼ばれたほどの饒舌振りが評価されて、現役引退を機に、CBCの野球解説者へ就任。また、「漫画トリオ」を解散したばかりの上岡龍太郎と知り合ったことを機に、『ばつぐんジョッキー』『オー!サンデー!』(いずれもCBCラジオで放送された生ワイド番組)のパーソナリティを務めた。

野球解説者としての契約の解除を機に、CBCのレギュラー番組を全て降板した1980年からは、上岡や漫画トリオ時代の相方・横山ノックを頼ってタレント活動の拠点を関西へ移した。素人同然の話術で当初は苦戦したが、「何もなくても、大声を出しながら一生懸命やっていれば、他人に『面白いことを言っている』と錯覚させることができる」という上岡のアドバイスで、漫談や上岡との漫才にも挑戦。やがて、『THE ビッグ!』シリーズ(朝日放送制作の視聴者参加型ビンゴゲーム番組)のメインMCとして「ビンゴブーム」に大きく貢献するなど、在阪のテレビ・ラジオ局でも数々のレギュラー番組で人気を博した(詳細後述)。上岡が板東を関西に呼び寄せたのは、前述の事情とテレビ局スタッフから「面白いタレント居らへんか?」というオファーがあったことによる。そのような経緯から、板東は上岡のことを「恩人であり師匠でもある」と語っている。なお、関西からの東京進出で全国的に知名度が上がってからは、名古屋からも番組やイベントへの出演依頼が再び舞い込むようになった。2001年には第12回CBC小嶋賞を受賞している。

東京にも進出し、本格化していた芸能活動が落ち着いたかに見えた2000年代後半。明石家さんまらとのゴルフから生まれた名言「勝ちたいんや!」に代わり「売れたいんや!」と、本人曰く「再ブレイク」すると宣言。現役時代やゆで卵に関するエピソードらを引っ提げて2008年頃からテレビ出演が増えだし、再ブレイクを果たしていた。

2008年3月12日放送の『クイズ!ヘキサゴンII』(フジテレビ)で、司会者の島田紳助、同チームの渡辺正行、別チームで水落ち担当の優木まおみに薦められて水に落ちる最高年齢記録を更新したが、3か月ほどで村田満に更新されてしまった(2008年8月6日放送で初共演した)。

2009年3月12日、毎日放送で番組の収録をしていた時、新譜の告知で同局を訪れていたMr.Bigのボーカル、エリック・マーティンに、サインを頼まれる。

ものまねタレント大平シローコージー冨田松村邦洋かみじょうたけしなど多くの人にものまねされている。なかでも、かみじょうのものまねは板東英二本人が公認しているほどである。

司会者・解答者

1979年8月から『THE ビッグ!』のメインMCを担当。「ビンゴシュート!」の掛け声とともに投球フォームを披露した。

1980年代の土曜昼に放送されていた『ノンストップゲーム』(関西テレビ)では司会として、横山ノック桂文珍と共に人気を博す。1984年、フジテレビ主催の「第12回 日本放送演芸大賞」で、最優秀ホープ賞を受賞している(ホープ賞はコント赤信号片岡鶴太郎桂文福斎藤ゆう子三遊亭小遊三山田邦子で、大賞はタモリが受賞しているなど、逸材が揃っていた)。

1980年代から2001年ごろまで、クイズ番組に司会および解答者として多く出演(『クイズのりもの講座』、『わいわいスポーツ塾』、『マジカル頭脳パワー!!』、『スーパークイズスペシャル』、『クイズ!純粋男女交遊』など)、解答者の意見を一方的に遮断する威圧的な司会術で人気を博す。特に『マジカル』では、相方の永井美奈子パネラー達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超え、時には30%台に達することもあるなど驚異的な高視聴率番組となり9年間という長期続くロングラン番組となった。期間が長かったこともあり最終回では通常通りこなした司会であったが、打ち上げでは号泣したという。番組内容によって関西弁標準語を使い分け、自身が司会を務めるクイズ番組では標準語を使うことが多かった。『マジカル』終了後は、クイズ番組の司会者としての仕事はあまりない。元スポーツ選手で引退後に芸能界に進出し、クイズ・バラエティ番組の司会者で成功したのは板東ただ一人であり、「元野球選手で天下を取った男」として一役全国区となった。

1984年に児玉清が盲腸の破裂による急性腹膜炎で入院した結果、司会を務める『パネルクイズ アタック25』(朝日放送)に出演できなくなった時、板東が代理司会として10月14日と28日の2週にわたって抜擢されたことがある。その他、『 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/02/16 09:17

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