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柔道とは?

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年9月)
日本伝講道館柔道
にほんでんこうどうかんじゅうどう


【使用武器】
木刀短刀など(形の技法において使用する)
【発生国】
日本
【発生年】
1882年(明治15年)
【創始者】
嘉納治五郎
【源流】

天神真楊流

起倒流柔道
【主要技術】
投げ技固め技当身技
オリンピック競技
有り(1964年1972年 - )
【公式サイト】
全日本柔道連盟
国際柔道連盟 (IJF)

柔道(じゅうどう)、日本伝講道館柔道(にほんでんこうどうかんじゅうどう)は、柔術修行に打ち込み修めた嘉納治五郎が様々な流派を研究してそれぞれの良い部分を取り入れ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系の「柔よく剛を制す」という心身の力をもっとも有効に活用した原理を完成させ、1882年(明治15年)にその考察から創始した文武の道である。

目次

  • 1 概説
  • 2 歴史
    • 2.1 柔術から柔道成立まで
    • 2.2 警察と柔道
    • 2.3 大日本武徳会における柔道
    • 2.4 学校体育と柔道
    • 2.5 社会体育としての柔道
    • 2.6 国際的競技としての普及
  • 3 稽古方法
  • 4 技術体系
    • 4.1 投技
    • 4.2 固技
    • 4.3 当身技(あてみわざ)
      • 4.3.1 当所・急所
      • 4.3.2 当身技と体育
        • 4.3.2.1 精力善用国民体育
        • 4.3.2.2 精力善用国民体育に対する空手界からの主張
    • 4.4 柔道形
    • 4.5 特種の目的に応じた形
    • 4.6 武術としての柔道(勝負法)
      • 4.6.1 勝負法の乱取り
      • 4.6.2 古武道研究会
      • 4.6.3 離隔態勢の柔道
      • 4.6.4 巨人に対する技術の研究(足取り技)
      • 4.6.5 海外へ渡った柔道家
      • 4.6.6 世界の軍隊格闘技・近接格闘術における影響
      • 4.6.7 国内における軍隊格闘技としての採用・影響
        • 4.6.7.1 新武徳会柔道試合審判規定
        • 4.6.7.2 体鎌科武道
        • 4.6.7.3 武道禁止令と学校柔道の復活
      • 4.6.8 国際柔道協会(プロ柔道)
      • 4.6.9 柔拳興行(略記)
    • 4.7 体育としての柔道(体育法)
    • 4.8 教育・精神修養・応用としての柔道(修心法)
      • 4.8.1 ①徳性を涵養する
      • 4.8.2 ②智力を練る
      • 4.8.3 ③勝負の理論を世の百般に応用する
      • 4.8.4 フランスの柔道教育の応用
      • 4.8.5 残心
    • 4.9 娯楽や美育,幅広い目的の柔道(慰心法)
  • 5 段級位制
  • 6 柔道競技
    • 6.1 試合
    • 6.2 形試合
    • 6.3 大会
      • 6.3.1 大会のレベル
      • 6.3.2 主な大会
      • 6.3.3 体重別階級
      • 6.3.4 国際大会の敗者復活トーナメント戦
  • 7 柔道競技のルール
    • 7.1 試合場
    • 7.2 試合の技
    • 7.3 審判員
    • 7.4 試合
    • 7.5 試合時間
    • 7.6 技の判定
      • 7.6.1 投技
      • 7.6.2 固技
      • 7.6.3 禁止事項に対する罰則
    • 7.7 得点表示
  • 8 競技・規定の変遷
  • 9 公認審判員規定
  • 10 柔道の派閥
  • 11 高専柔道(七帝柔道)
  • 12 派生してできた武道、格闘技
  • 13 柔道とウェイトトレーニング
  • 14 柔道の総合化と海外の格闘技
  • 15 柔道と空手道の道衣
  • 16 柔拳興行
  • 17 プロ柔道によるブラジルでの異種格闘技戦
  • 18 嘉納治五郎の柔道における修心活動 文化会、啓蒙雑誌、講演活動
  • 19 柔道における「柔の理」の背景・意味
    • 19.1 『易経』における柔
    • 19.2 『老子』における柔
    • 19.3 『三略』における柔
    • 19.4 古流柔術における柔の理
  • 20 「柔の理」から「精力善用」「自他共栄」への発展
  • 21 戦後柔道の変遷とその抱えた矛盾
    • 21.1 生前の嘉納治五郎の柔道観と他の競技運動観・オリンピック活動
    • 21.2 戦後柔道の変容とその抱えた矛盾
  • 22 近年における社会活動
    • 22.1 柔道ルネッサンス
    • 22.2 柔道教育ソリダリティー
  • 23 柔道事故
    • 23.1 柔道事故の統計
    • 23.2 柔道事故と民事訴訟
    • 23.3 柔道事故対策
    • 23.4 柔道事故とNHK番組
    • 23.5 感染症
    • 23.6 耳介血腫
  • 24 脚注
    • 24.1 注釈
    • 24.2 出典
  • 25 参考文献
  • 26 関連項目
    • 26.1 柔道家・技・用語
    • 26.2 柔道を扱った作品
      • 26.2.1 小説
      • 26.2.2 ノンフィクション
      • 26.2.3 映画
      • 26.2.4 ドラマ
      • 26.2.5 漫画
      • 26.2.6 アニメ
      • 26.2.7 舞台
  • 27 外部リンク

概説

古武道の一つ、柔術から発展した武道で、投げ技固め技当身技を主体とした技法を持つ。明治時代に警察学校に普及し、第二次大戦後には国際柔道連盟の設立やオリンピック競技に採用されるなど広く国際化に成功している。多くの国では「Judo=講道館柔道」となっているため、今日では単に「柔道」と言えばこの柔道を指す。

今日ではスポーツ競技格闘技にも分類されるが、講道館柔道においては「精力善用」「自他共栄」を基本理念とし、競技における単なる勝利至上主義ではなく、身体・精神の鍛錬と教育を目的としている。

柔道の国際統括団体国際柔道連盟では2015年8月アスタナの総会で採択された規約前文において、「柔道は1882年、嘉納治五郎によって創始されたものである」と謳っている。

歴史

柔術から柔道成立まで

柔術#歴史」も参照
飯久保恒年から嘉納治五郎に授与された「日本伝起倒柔道」の免状(明治16年)。柔道という用語は嘉納が学んだ起倒流ですでに使われていた。

古くは、12世紀以降の武家社会の中で武芸十八般と言われた武士合戦時の技芸である武芸が成立し、戦国時代が終わって江戸時代にその中から武術の一つとして柔術が発展した。

明治10年 に、天神真楊流の福田八之助に入門し、当身技(真之当身)を中心として関節技絞め技といった捕手術の体系を持ち、乱捕技としての投げ技固技も持つ天神真楊流を稽古した。

また、捨身技を中心として他に中(=当身技)なども伝えていた起倒流柔術を稽古した。

天神真楊流起倒流柔道乱捕技を基礎に、起倒流の稽古体験から「崩し」の原理をより深く研究して整理体系化したものを、これは修身法練体法勝負法としての修行面に加えて人間教育の手段であるとして柔道と名付け、明治15年(1882年)、東京府下谷にある永昌寺という寺の書院12畳を道場代わりとして「講道館」を創設した。

もっとも、寺田満英の起倒流と直信流の例や、滝野遊軒の弟子である起倒流五代目鈴木邦教が起倒流に鈴木家に伝わるとされる「日本神武の伝」を取り入れ柔道という言葉を用いて起倒流柔道と称した例 などがあり、「柔道」という語自体はすでに江戸時代にあったため、嘉納の発明ではない。

嘉納は「柔道」という言葉を名乗ったが当初の講道館は新興柔術の少数派の一派であり、当時は「嘉納流柔術」とも呼ばれていた。

講道館においての指導における「柔道」という言葉を使った呼称の改正には、嘉納自身の教育観・人生観、社会観、世界観などが盛り込まれており、近代日本における武道教育のはじまりといえる。柔道がまとめて採用した数々の概念・制度は以降成立する種々の近代武道に多大な影響を与えることになる。嘉納のはじめた講道館柔道は武術の近代化という点で先駆的な、そしてきわめて重要な役割を果たすことになる。

その歴史的影響力、役割の大きさから柔道は武道(日本武道、日本九大武道(日本武道協議会加盟九団体))の筆頭に名を連ねている。

警察と柔道

明治21年頃の警視庁武術世話掛。最前列の左から2人目は後に講道館史上初の柔道十段となる山下義韶

嘉納治五郎の「柔道家としての私の生涯」(昭和3年(1928年)『作興』に連載)によれば、明治21年(1888年)頃、警視庁武術大会で主に楊心流戸塚派と試合し2〜3の引き分け以外勝ったことから講道館の実力が示されたという。

また、本大会において講道館側として出場した者は、元々は天神真楊流などの他流柔術出身の実力者であった。

この試合の後、三島通庸警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として柔術世話掛を採用した為、全国に広まっていったという。

現在も日本の警察官は柔道又は剣道(女性のみ又は合気道)が必修科目となっている。警察学校入学時に無段者の場合、在校中に初段をとるようにしなければならない。警察署では青少年の健全育成のための小中学生を対象にした柔剣道教室を開いていることも多い。

大日本武徳会における柔道

1895年(明治28年)、対外戦争の勝利や平安遷都1100年記念によって日本武術奨励の気運が高まり、武道の奨励、武徳の育成、教育、顕彰、国民士気の向上を目的として京都に公的組織として大日本武徳会が設立された。

初代総裁に小松宮彰仁親王(皇族、陸軍大将)、会長に渡辺千秋(京都府知事)、副会長に壬生基修(平安神宮宮司)が就任した。同年に第1回の武徳祭と武術大会が行われ、1942年(昭和17年)太平洋戦争のため中止されるまで、恒例の行事として行われた。

大日本武徳会は、剣術、柔術、弓術など各部門で構成され、各部門には諸流派・人物がそれぞれの流派を超越して参加することになる。

技術技法の異なった(古流)柔術各流派間の試合が行われるに際し、武徳会において審判規定を定める必要に迫られ、1899年(明治32年)、柔術部門において、投技固め技当身技の技術を包含し形稽古のみでなく乱取稽古の整備の進んでいた講道館柔道の嘉納治五郎が原案を作成し、講道館の山下義韶横山作次郎磯貝一大東流の半田彌太郎、四天流の星野九門、楊心流戸塚英美良移心頭流の上原庄吾、起倒流の近藤守太郎、竹内三統流の佐村正明、関口流と楊心流を兼ねた鈴木孫八郎の諸委員によって評議され、「大日本武徳会柔術試合審判規定」が制定された。

1899年(明治32年)大日本武徳会柔道講習所が大日本武徳会に設置され、主任教授に磯貝一四段が就任した。この時から、武徳会において教授される流派は正式に講道館柔道となる。

翌年、1900年(明治33年)武徳会審判規定と照らし合わせ、講道館乱捕試合審判規定が整備される。

1906年(明治39年)8月8日、嘉納治五郎を委員長とし戸塚派揚心流戸塚英美委員、四天流組討の星野九門委員、他17名の委員補(双水執流組討腰之廻第14代青柳喜平、不遷流4代田辺又右衛門など)柔術10流・師範20名で構成される「大日本武徳会柔術形制定委員会」によって、議論・研究の末、講道館の真剣勝負の形を基に、各流派の案による技を追加し、全柔術流派を統合する形として「大日本武徳会柔術形」が制定される。これは現在の講道館における極の形に相当する。

1919年(大正8年)、大日本武徳会は、先んじる講道館柔道の影響も与し「剣術」「撃剣」などの名称を「剣道」に統一し、弓術を弓道と改称し、柔術部門も改めて柔道部門と改称する。

1934年には、本土に上陸して間もない空手が大日本武徳会において柔道部門への入部が認められ、柔道部門の分類下におかれる。

また1942年改組の行われた新武徳会においては、柔道には空手や捕縄術などが含まれる、とされた。

このように、柔道は当時国内の柔術諸流派において共通試合の統一流派となり、いわば国内の徒手格闘技を統括する立場としてあった。

しかし武徳会において、制定されていた従来の武徳会称号「範士」「教士」「精錬証受有者(昭和9年以降「錬士」)」の制度以外に、講道館柔道の採用に際し、修行の進みに応じて発行する講道館の制定した段級位も各部門において採用することとなる。当初は武徳会でも、柔道段位は講道館の認定の元、正式発行が行われていたが、時とともに講道館の認定を受けず独自に段位を発行するようになる。武徳会において段位を受けた者、修業をした者は武徳会に帰属意識を持つようになり、講道館と武徳会はそのことで軋轢も生まれ、云わば(講道館)柔道という一つの統一流派を、東の講道館と西の大日本武徳会という二つの組織が重なり合いながら時に対立を含みながら共存し互いに管理、執行するという構造になっていった。

戦時中の柔道については

詳細は「#国内における軍隊格闘技としての採用・影響」を参照

その後、1946年(昭和21年)11月9日、大日本武徳会連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により強制解散し、柔道は武道禁止令の影響を大きく受けることになる。

しかし、日本における武道禁止令の解禁に先んじて、1932年にドイツにおいてヨーロッパ柔道連盟が発足するなど国内外の働きかけもあり、国内においても柔道の稽古や試合は次第に再開されていき、1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。

学校体育と柔道

日本の学校教育においては、明治31年(1898年)旧制中学校の課外授業に柔術が導入された際、柔道も、必修の正課になった。

経緯については

詳細は「#体育としての柔道(体育法)」を参照

太平洋戦争後、占領軍(GHQ)により学校で柔道の教授が禁止されて以降、武道は一度禁止されたが、1950年(昭和25年)に文部省新制中学校の選択科目に柔道が採用された。次いで1953年(昭和28年)の学習指導要領で、柔道、剣道相撲が「格技」という名称で正課の授業とされた。

1989年(平成元年)の新学習指導要領で格技から武道に名称が戻された。2012年(平成24年)4月から中学校体育で男女共に武道(柔道、剣道、相撲から選択)が必修になった(中学校武道必修化)。

武道・ダンス必修化 文部科学省
柔道の授業の安全な実施に向けて 文部科学省

部活動としてほとんどの中学校高等学校に「柔道部」があり、学習指導要領に沿った形で生徒の自主的、自発的な参加による課外活動の一環としての部活動が行われている。フランスや北欧などは日本のように学校管理下、教員顧問による指導の部活動自体がほとんどなく、地域のスポーツクラブに任意で加入して、そこで柔道の指導、練習を受けるのが一般的となっている。

社会体育としての柔道

民間道場での活動のほかに、企業実業団活動が行われている。柔道がオリンピック種目となってから、企業は実業団による選手育成に力を入れ、現在は警察柔道を凌ぐ勢力となっている。

国際的競技としての普及

国際的競技としての柔道においても礼節は重んじられている。
オリンピック柔道競技」および「世界柔道選手権大会」も参照

柔道の試合競技は、オリンピックでは1932年ロサンゼルスオリンピック公開競技として登場し、1964年東京オリンピックで正式競技となる。東京オリンピックでは、無差別級でオランダアントン・ヘーシンクが日本の神永昭夫を破って金メダルを獲得し、柔道の国際的普及を促す出来事となった。女子種目も1988年ソウルオリンピックで公開競技、1992年バルセロナオリンピックでは正式種目に採用された。

世界選手権は1956年に第1回大会が開催され、女子の大会は1980年に初開催された。日本の女子は明治26年以来長年試合が禁止され、昇段も「型」が中心であった。1979年夏に日本女子の一線級と西ドイツのジュニア選手が講道館で対戦したが、日本は一勝三敗で二人が負傷し、ドイツ選手との腕力の差は日本の柔道関係者に衝撃を与えた。

現在は、世界中に普及し国際柔道連盟の加盟国・地域が199カ国もある(2007年9月現在)。日本以外では、韓国欧州ロシアキューバブラジルで人気が高く、特にフランスの登録競技人口は50万人を突破し、全日本柔道連盟への登録競技人口20万人を大きく上回っている。ただし、幼少期の数など両国の登録対象年齢が異なるため、この数字を単純に比較することはできない。

また、この登録人口そのものに関しても一般に想起されるいわゆる柔道人口とは異なる。これは、柔道の役員、審判員、指導者、選手として公的な活動に参加するために行われる制度で全日本柔道連盟の財政的基盤でもある。日本国内では、学校体育の授業として経験した人、学生時代に選手まで経験したが現在は全く柔道着どころか試合観戦程度という人、子供と一緒に道場で汗を流しているが、段がほしいわけでも試合をするわけでもない人など、未組織の人たちがたくさんいる。講道館でも、地方在住者は初段になった段階で入門するのが通例であり、門人、有段者ではあるが、毎年、登録しているとは限らない。したがって柔道人口、登録人口、競技人口、講道館入門者数は意味合いが違う。

稽古方法

講道館柔道において稽古は、主に乱取りによって行われる。嘉納治五郎はこれについて「形とは、攻撃防御に関し予め守株の場合を定め、理論に基づき身体の操縦を規定し、その規定に従いて、練習するものをいう。乱取とは一定の方法によらず、各自勝手の手段を用いて練習するものをいう」と述べている。形と乱取りは別物と考えてはならない、根本の原理、その精神は変わりがないからである。また、初期の講道館における状況を嘉納師範は、次のように述べている。「明治維新の前は柔術諸流の修行は多く形によったものである。幕府の末葉にいたって楊心流をはじめ起倒流、天神真楊流その他の諸流も盛んに乱取を教えるようになったが、当時なお形のみを教えていた流派は少なくなかった。然るに予が、講道館柔道において乱取を主とし形を従とするに至ったのは、必ずしも形を軽んじたが為ではない。まず乱取を教え、その修行の際、適当の場合に説明を加えて自然と各種の技の理論に通暁せしむるようにして、修行がやや進んだ後に形を教えるようにしたのである。その訳はあたかも語学を教える際、会話作文の間に自然と文法を説き、最後に組織を立ててこれを授くるのと同様の主旨によったのである」。

また、嘉納は柔道の修行の方法を四種、「形」と「乱取り」の他に「講義」と「問答」についても挙げている。講義により、技の道理を解剖学、生理学、物理学などの観点からも学び、勝負上必要な心の修め方、心身鍛練に関する注意心掛けなどをまた学び、心理学、倫理学などの観点からも学び、それらについて時間を費やして説き及す必要性について嘉納は説く。またや勝負事があり修行者の心が勇んでいるときにはその場に適する話をし、祝日、寒稽古の開始式などにはそれ相応の講義をし、平素においては礼儀作法、人としての一般の心得など講義する必要を説く。そして問答により修行上の理解、応用を深めることの重要性について言及している。柔道の修行目的の「練体」「勝負」「修心」のうちの、徳性を涵養する、智力を練る、勝負の理論を世の百般に応用する、人間の道を講ずることを目的とする「修心法」についての内容を多く含む修行法となっている。

技術体系

講道館柔道の技は「投技」「固技」「当身技」の3種類に分類される。投技は天神真楊流起倒流乱捕技をもとにしている。

固技や絞技は天神真楊流の技に由来していて、当身技は攻撃することによって受の急所に痛みを負わせたりするのに適した護身術である、とされる。投技の過程を崩し、作り、掛け、の三段階に分けて概念化したことが特徴である。

またこれと平行して、一般的には、立技寝技にも分類するが、寝技は審判規定において使われる寝姿勢における攻防のことであり、固技と同義ではない。絞技関節技は立ち姿勢でも施すことが可能である。

練習形態は乱取りがあり、形と乱取りは車輪の両輪として練習されるべく制定されたが、講道館柔道においては乱取りによる稽古を創始当時から重視する。嘉納師範により、当身技は危険として乱取り・試合では「投げ」「固め」のみとした。そしてスポーツとしての柔道は安全性を獲得し、広く普及していく事となった。

試合で用いることができるのは、投げ技と固め技であり、講道館では100本としている。しかし、実際のポイントになる技は92本である。(当身技は形として練習される。)競技としては投技を重視する傾向が強く、寝技が軽視されてきたきらいがある。しかし、寝技を重視した上位選手や指導者らによって寝技への取り組みは強化されるようになった。またIJFルールの改正によって寝技の攻防時間が短縮し決着の早期化が計られたことと、主に外国選手による捨て身技や返し技と一体化した寝技の技法の普及によって、寝技の重要性は一層増している。

投技

投技とは理合いにしたがって相手を仰向けに投げる技術である。立って投げる立ち技と体を捨てて投げる捨身技にわけられる。立ち技は主に使用する部位によって手技、腰技、足技に分かれる。捨身技は倒れ方によって真捨身技、横捨身技に分かれる。また、関節を極めながら投げると反則ではないが投技とはみなされない。詳しくは投技を参照。

固技

固技(かためわざ)には抑込技絞技関節技がある。

主に寝技で用いることが多いが、立ち姿勢や膝を突いた姿勢でも用いられ、固技のすべてが寝技の範疇に入るわけではない。(寝技と固技は互いに重なり合う部分が大きいとは言える。)

固技のうち関節技は、肘以外はあまり採用されず、現行の乱取や試合では肘以外に関節技をほどこすことは反則とされている。立技での関節技もほとんど行われていない。抑込技は、寝技の場面での攻防を続けるために、うつ伏せでなく、仰向けに抑えるのが特徴である。

絞技は、天神真楊流から多様な方法が伝わっており、柔道を首を絞めることを許すという珍しいルールを持った競技にしている。

創立当初、寝技はあまり重視されておらず、草創期に他流柔術家たちの寝技への対処に苦しめられた歴史がある。

分類

講道館柔道では固技が全部で29本あり、抑込技(おさえこみわざ)7本、絞技(しめわざ)12本、関節技(かんせつわざ)10本である。IJFルールでは一部異なるものがある。

抑込技(10本)

相手の体を仰向けにし、相手の束縛を受けず、一定時間抑える技。

絞技(12本)

頸部すなわち頚動脈気管を、腕あるいは柔道着の襟で絞めて失神または「参った」を狙う技(胴絞は足でどうを絞める技で、乱取りでは禁止技である)。指や拳、帯、柔道着の裾、直接足などで絞めること及び頸椎に対して無理な力を加えることは禁止されている。

関節技(10本)

関節を可動域以上に曲げたり伸ばしたりして苦痛を与える技。現行の乱取りでは肘関節のみが許されている。

腕挫膝固

上記以外の技

当身技(あてみわざ)

当身技は、天神真楊流の技術を踏襲している。

当身技もしくは当技(あてわざ)とは、急所といわれる相手の生理的な弱点などを突く打つ蹴るなどの技であり、試合や乱取りでは禁止されているが、の中で用いられる。そのため柔道では当身技が禁じ手・反則技として除外されたと思われている。講道館では極の形・柔の形、講道館護身術などに含まれる柔道の当身技について、「当身の優れたテクニック同様、こういった攻撃されやすいところ(編注:急所のこと)という認識は天神真楊流から伝えられてきたものである」としている。極の形、柔の形は精力善用国民体育の形・相対動作の元になっている。極の形は、初め天神真楊流から引き継いだ形を元にしており真剣勝負の形と呼ばれていたが、武徳会時代に嘉納治五郎を委員長とし武徳会参加全流派からの代表を委員とした日本武徳会柔術形制定委員会によって講道館の真剣勝負の形を元に長時間の白熱した議論がなされ、柔術緒流派の技を加えて柔術統一形としての今の形となった。

一方、空手界側から柔道の当身技のうち精力善用国民体育の形・単独動作の当身技は唐手(現・空手)の影響を受けているという説が唱えられている 点についても下に記載する。

当所・急所

当所(用いる部位)

臂(うで):

脚(あし):

上記は嘉納治五郎『柔道教本』(1931年)、*は『決定版 講道館柔道』講道館著(1995年)、『日本の武道』「講道館柔道の技名称一覧」日本武道館編(2007年)の分類に拠る。

当身技の大部分は、腕や脚でもって掛けられるが、頭部もときに使われる。相手に抱きつかれたとき、前からならば前額部で、後ろからならば後頭部で相手の顔面を攻撃する。

急所 急所は、天神真楊流の名称を踏襲している。

天倒、霞、鳥兎、獨鈷、人中、三日月、松風、村雨、秘中、タン中、水月、雁下、明星、月影、電光、稲妻、臍下丹田、釣鐘(金的)、肘詰、伏兎、向骨。

当身技は形の中で教授されるが、現在では昇級・昇段審査においても行われる事が稀である為、柔道修行者でもその存在を知らない事も多く、また指導者も少ない。

当身技と体育

精力善用国民体育

嘉納治五郎の体育と当身技を合わせた論考は、明治42年7月発行『中等教育』掲載の小論「擬働体操について」にある四方蹴と四方当についての記載や、『柔道概説』(大正2年) などと続いて行き、昭和に入ってからは「攻防式国民体育」(昭和2年)として精力善用国民体育の形が発表され、『精力善用国民体育』(昭和5年)や『柔道教本』(昭和6年)等も併せて昭和2年から6年の間に発表された一連の著作で夥しい言及がなされている。

研究成果は「精力善用国民体育の形」(単独動作・相対動作)としてまとめられたが、この形の制定理由について、嘉納治五郎は「私がこの国民体育を考察した理由は、一面に今日まで行われている柔道の形・乱取の欠陥を補おうとするにあるのだから、平素形・乱取を修行するものも、そこに留意してこの体育を研究もし、また実行もしなければならぬ」(昭和6年)と述べ、従来の講道館柔道の稽古体系に不足していた点を補う目的があったと述べている。

精力善用国民体育の形には、単独動作と相対動作がある。下記の形は1930年(昭和5年)発行の嘉納治五郎『精力善用国民体育』による分類であるが、時期によって分類の仕方に多少の差異がある。

単独動作:

高蹴)。

相対動作:

精力善用国民体育に対する空手界からの主張

また、この形に使用されている当身技、特に単独動作の当身技については、嘉納治五郎の唐手(現・空手)研究の成果によるものとの空手界からの指摘がある。

1922年(大正11年)5月、船越義珍文部省主催の第一回体育展覧会に唐手を紹介するために上京してくる。その第一回体育展覧会における唐手の演武の実現は船越から

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出典:wikipedia
2018/10/13 21:33

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