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柳沢敦とは?

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 | 柳沢 敦 | 

【名前】

【愛称】
ヤナギ
【カタカナ】
ヤナギサワ アツシ
【ラテン文字】
YANAGISAWA Atsushi
【基本情報】

【国籍】
日本
【生年月日】
(1977-05-27) 1977年5月27日(40歳)
【出身地】
富山県射水市
【身長】
177cm
【体重】
75kg
【選手情報】

【ポジション】
FW / MF
【利き足】
右足

【クラブ】


クラブ | 出場 | (得点)
1996-2005
鹿島アントラーズ | 178 | (71)
2003-2004
サンプドリア (loan) | 15 | (0)
2004-2005
メッシーナ (loan) | 22 | (0)
2005-2006
メッシーナ | 7 | (0)
2006-2007
鹿島アントラーズ | 42 | (9)
2008-2010
京都サンガF.C. | 85 | (21)
2011-2014
ベガルタ仙台 | 66 | (7)
【代表歴】

1998-2006
日本 | 58 | (17)
1. 国内リーグ戦に限る。2014年12月31日現在。
2. 2006年6月18日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

柳沢 敦(やなぎさわ あつし、1977年5月27日 - )は、富山県射水郡小杉町(現射水市)出身のサッカー指導者、元サッカー選手。現役時のポジションは主にフォワード(FW)。元日本代表

世界選抜にも選ばれたことがある。Jリーグ ディビジョン1在籍17年連続ゴールのリーグ記録を持つ(2014年時点)。2002年と2006年にはFIFAワールドカップを経験している。

妻はモデルの小畑由香里

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 学生時代
    • 1.2 Jリーグ時代
    • 1.3 セリエA時代
    • 1.4 Jリーグ時代(第2次)
    • 1.5 引退後
  • 2 引退試合
  • 3 選手としての特徴
  • 4 エピソード
  • 5 所属クラブ
  • 6 個人成績
  • 7 タイトル
    • 7.1 クラブ
    • 7.2 代表
    • 7.3 個人
  • 8 代表歴
    • 8.1 出場大会
    • 8.2 試合数
    • 8.3 ゴール
  • 9 指導歴
  • 10 出演
    • 10.1 CM
  • 11 作品
    • 11.1 書籍
    • 11.2 DVD
  • 12 脚注
  • 13 関連項目

来歴

学生時代

1977年生まれ。当時父親は地元の運送会社に勤めていたが、後にラーメン店を開いた。柳沢は小学校1年になると小杉SSCに入団してサッカーを始め、中学時代にはFCひがしジュニアユースに所属し、U-15日本代表に選出されている。富山第一高等学校では3年連続で国体および高校総体への出場を経験し、高校3年時の高校選手権では超高校級選手として大会の目玉となりJリーグのスカウトの注目を集めた。

Jリーグ時代

Jリーグの13チームから声がかかり、その中から鹿島アントラーズへの加入を選択する。5月にナビスコ杯福岡戦でプロデビュー。この年はリーグ戦で5得点を挙げている。翌1997年は8得点を挙げて新人王に選出され、更に1998年にも22得点を記録するなど鹿島のエースに成長した。岡田ジャパンでフル代表へ初招集され、1998年2月15日の親善試合オーストラリア戦で代表デビューを飾った。4月4日の対京都戦では1試合4得点を記録している。5月5日の対磐田戦でもハットトリックを達成。しかし、代表での得点はなく(後述)、岡田監督からはゴールへの執着心に欠ける点を指摘され、フランスW杯の最終メンバーからは外れた。

1999年に日本代表監督に就任したトルシエの指揮するU-23代表のエースとして期待されていたが、シドニー五輪アジア1次予選最中にチームを無断で抜け出して、当時の恋人梨花と密会していたことが原因となり、チームから強制的に外され、その後も一時期代表に呼ばれなくなった。五輪チームでは長く続いた無得点スランプから抜け出し、やっと得点を決めた直後の出来事であった。

2000年6月6日に行われたハッサン2世国王杯ジャマイカ戦でフル代表初ゴールを挙げた。レバノンで開催されたアジアカップ決勝のサウジアラビア戦では高原直泰との交代で途中出場したものの、絶好の決定機にシュートしないなど、消極的なプレーにいらだったトルシエ監督によってわずか7分後に奥大介との交代を命じられた。翌2001年は12得点を挙げ鹿島のJリーグ優勝に貢献しJリーグベストイレブンを受賞した。

2002 FIFAワールドカップ日本代表に選出される。ベルギー戦終了後に首を痛め、3戦目のチュニジア戦時には激しい痛みに襲われ完全に動かなくなり、トルコ戦では起用されなかった。ロシア戦で決勝点につながるアシストを記録するなどチームのベスト16進出に貢献し、中田英寿からはチーム内のMVPと称賛されている。2003-04シーズン開幕前にイタリアセリエAの古豪サンプドリアに期限付きで初の海外移籍を果たした。同年12月24日にはモデルの小畑由香里と入籍。

セリエA時代

2003-04シーズンはサンプドリアでリーグ戦15試合に出場するも無得点に終わった。クラブ側に契約延長の意思は無くサンプドリアを退団、引き続き海外でのプレーを希望し、同セリエAのFCメッシーナと契約、鹿島からの1年間の期限付き移籍の形をとった。

2004-05シーズンはメッシーナ移籍後、8月22日コッパ・イタリアの1回戦でアチレアレから1ゴール1アシストの活躍でイタリア公式戦初ゴールをあげ、レッジーナとの海峡ダービーで決勝アシストを決め「柳沢は海峡の王様だ」との見出しが地元紙に載るなどしたが、 リーグ戦では22試合で無得点に終わる。またこの期間、ジーコからも日本代表の招集がかからなくなった時期があった。シーズン途中からMFとして主に左サイドで起用されるようになる。W杯アジア最終予選イラン戦を控えた2005年3月22日、藤田俊哉の負傷離脱後に日本代表に緊急招集。これが2004年7月13日の親善試合セルビア・モンテネグロ戦以来8カ月ぶりの招集だった。イラン戦では途中出場を果たし、福西のゴールにつながるポストプレイをこなした。6月3日のバーレーン戦では1トップとして先発に復帰し、W杯出場のかかった6月8日の北朝鮮戦では5試合523分ぶりの決勝ゴールを挙げた。またコンフェデレーションズ杯メキシコ戦では難易度の高いゴールを決める活躍を見せた。

2005-06シーズン開幕前には柳沢本人が残留を希望し、メッシーナに完全移籍を果たす。ただ、この時はメッシーナ側に移籍金を満額払える余裕はなかったため移籍金の半額だけ払うという「共同保有」の形を取った。そのため、契約が満了した場合の優先交渉権は鹿島に残り、Jリーグのクラブが獲得を打診する際の窓口も鹿島になるという形を取った。シーズン開幕前には今年の注目選手として特集記事を組まれるなど、一定の評価を得ていたが、出場機会は乏しくノーゴールが続いた。苦しい時期が続いたが日本代表に招集されたホンジュラス戦では2ゴールを挙げるなどの活躍もみせた。ドイツW杯の出場に向け、12月には出場機会の少ないことに不満を訴えクラブに移籍を希望。2006年2月28日に契約は解除され、2006年3月からW杯終了の6月末まで古巣鹿島への期限付き移籍という形で了承された。

Jリーグ時代(第2次)

2006年の鹿島では背番号は13番をつけ、復帰戦となった3月5日のJ1開幕戦のサンフレッチェ広島戦ではスタメンでフル出場、ハットトリックを達成した。これがJリーグでは、自身3度目のハットトリックとなった。しかし、3月25日千葉戦で右足の痛みを訴えて交代、翌日に右第5中足骨骨折で全治2カ月と診断された。怪我の影響が心配される中、2006年ドイツW杯日本代表の23人に選出され2試合に出場したが、消極的なプレーに終始し、クロアチア戦では決定機を外し無得点に終わり批判を浴びる。W杯終了後にはレンタル元のメッシーナとの交渉により、鹿島へ完全移籍した。オシム新監督就任後の日本代表には選出されず、J復帰元年は4得点に終わった。

2007年シーズン前には本田泰人の引退を受けて鹿島の新主将、選手会長に就任した。6節横浜FC戦でシーズン初勝利に導くシーズン初ゴールをあげ、7節清水エスパルス戦でも2ゴールをあげたが、この試合で負傷し長期離脱。ナビスコ杯準々決勝第2戦の広島戦で85日ぶりに復帰し、2アシストを記録。しかし、リーグ戦では第5節を最後にフル出場がなく、田代有三興梠慎三の台頭でスタメン落ちも多くなっていた。天皇杯決勝ではダニーロの得点をアシストし、クラブに11個目のタイトルをもたらしたのを置き土産に鹿島を退団した。

2008年は出場機会を求め京都サンガF.C.への移籍を決断した。低迷するチームの残留に貢献し、3月16日に移籍後リーグ2戦目の大宮戦で、ゴール前での混戦からこぼれ球を決め移籍後初ゴールを決める。夏場以降はコンスタントに得点を重ね続け、従来課題であった得点力を改善し、自身2001年以来の二桁得点、同季の日本人最多得点である14得点を記録した。同年は7年ぶりにJリーグベストイレブンにも選出された。

2009年もエースとして期待されたが、開幕前に痛めた左ひざの影響で本調子が出ずに4月に半月板の手術のため離脱。第15節に復帰してからは不動のレギュラーとして試合に出続けた。また前年と同じく低迷するチーム事情により本来のポジションではない位置でのプレーを任せられチームの残留に貢献した。

2010年から佐藤勇人の移籍を受け、サンガの新主将に任命された。5月5日の清水戦で、史上6人目のJリーグ通算100ゴールを達成した 際、前日に第一子(長男)が誕生したことで、京都の他の出場選手と共に「ゆりかごダンス」を披露した。しかし、クラブはその後も低迷が続き、J2降格が濃厚になった11月にクラブから戦力外通告を受ける。この決定に対し、サポーターからは疑問の声が上がり、公式サイトにて声明文が発表されるJクラブでは異例の事態となった。2008年以来の凱旋となった鹿島戦では、これまでの労をねぎらった横断幕が鹿島サポーターから掲げられ、交代時には大きな拍手が沸き起こった。

2011年ベガルタ仙台に完全移籍。背番号を今までの13から30にし、移籍会見では背番号だけの得点を決めたいと抱負を語った。開幕戦はベンチ入りしたが出番がなく、震災による中断期間中に古傷の違和感を訴え手術を決断。ベガルタでのデビューは6月16日までずれ込んだ。デビュー後も無得点が続き、特に8月20日の名古屋戦では前線からの積極的な守備によりゴールキーパーからボールを奪うものの、その後のシュートを外してしまい、試合中にもかかわらず味方の角田誠から「柳沢を交代させろ」との声が上がるなどチームの信頼を得るには至らず、ようやくJ1第27節横浜F・マリノス戦で移籍後初ゴールを決める。結局これがシーズン唯一のゴールとなり、シーズン終了を待たずに膝の手術をしたため、公式戦17試合1得点にとどまった。

2012年には中島裕希の移籍に伴い背番号13に変更。6月16日札幌戦でようやくユアテックスタジアム仙台での初得点を記録した。奇しくも仙台の選手としてデビューして丸1年後の出来事であった。レギュラーFWの赤嶺やウイルソンが絶好調と言うこともあって、決して出場機会は多くはなかったが、全試合にメンバー入りした。

2013年は開幕からしばらくは故障でメンバーから外れていたが、公式戦初先発となった4月10日のAFCチャンピオンズリーグ4節FCソウル戦で得点を決め、仙台にACL初勝利をもたらした。5月6日の名古屋戦でリーグ戦初得点を記録。柳沢のJ1での得点は16シーズン目となり、第一線を退いているFW中山雅史、神戸FW吉田孝行(同シーズン限りで引退)、G大阪MF遠藤保仁の記録を更新した。夏場にコンディションをあげ、2008年京都時代以来5年ぶりに古巣鹿島相手にも得点した。第34節FC東京戦で相手選手と交錯した際、右足小指を骨折し全治8週間と診断された。

2014年グラハム・アーノルド新監督の元、開幕から出場機会に恵まれず、攻撃陣の不調で出番が回ってきた矢先、4月6日の浦和戦で槙野智章と競り合った際に左足腓骨を亀裂骨折し長期離脱することとなった。それでも11月2日のG大阪戦で後半ロスタイムに同点となるリーグ戦初得点を挙げ、J1リーグ戦17シーズン連続得点を記録、自身の持つJリーグ記録を更新した。そして最終節を2日後に控えた12月4日、現役引退が発表された。

引退後

2015年に鹿島アントラーズのコーチに就任し8年ぶりに古巣復帰した。

引退試合

詳細は「中田浩二 (サッカー選手)#引退試合」を参照

選手としての特徴

オフ・ザ・ボール、動き出し、スペースの作り方などに秀でた選手。運動量も豊富で、ディフェンスも巧みにこなす。ゴール前でのプレーの精度も高く、得点感覚にも優れる。鹿島時代に当時の総監督であったジーコから「オフ・ザ・ボールの動きを身につけろ。シュート練習は一切やらなくていい」と命じられ、オフ・ザ・ボールに没頭した。「点を取るだけがFWではない」と語り物議を醸したこともあるが、自身の得点がなくとも動きで得点に貢献することが多かった。 日本代表通算得点数は歴代13位の17得点、Jリーグでは引退した2014年時点で歴代10位、日本人6位となる通算108得点を記録している。

エピソード

  • 三浦知良を尊敬する。
  • 幼稚園児だった1983年10月、その年富山県で開催された第7回全国育樹祭開会式に出席していた皇太子明仁親王・同妃美智子(現在の天皇・皇后両陛下)の前で他の園児たちとお遊戯を披露する。子どもたちは美智子妃を「近くにお見せしたいものがある」と誘い、美智子妃は子どもたちと手をつないで走り出し、柳沢も美智子妃のすぐ後ろを走った(その瞬間の報道写真が現在も残っている)。それから18年たった2002年、日本代表対スウェーデンの親善試合を天皇・皇后両陛下が観覧した際、選手ひとりひとりに声がけをした際、柳沢は皇后に「昔、富山に来られたときのことをご記憶でございますか」と尋ねた。皇后はすぐに思い出され、柳沢が「そのときにお遊戯をしました」と明かしたところ、大変驚かれたという。
  • 日韓W杯を前にした2002年4月29日のスロバキア戦で、「柳沢の右足でのセンタリングが恐ろしいほど正確だ」として、トルシエが柳沢を右ウイングバックに置くプランを実行がある。しかし実践ではこのテストマッチ1試合だけにとどまり、アイディア倒れに終わった。
  • ドイツW杯2戦目の対クロアチア戦では加地亮のシュートがフリーの位置に詰めていた自身に来たものの、セオリー通りのインサイドでなく難易度の高いアウトサイドを選択し決定機を逃してしまった。。集中力を欠いたパフォーマンスと受け取られ、世界各国から批判される。ジーコも柳沢を批判している。これは、試合後の「急にボールが来たので」とのコメントとあいまって、それまでの代表におけるパフォーマンスの象徴とみなされている。この発言はQBKとの略称が生まれるほどの反響を呼び、同年の現代用語の基礎知識2007年版にも掲載された。なお、帰国後のインタビューにおいて、「加地がシュートを打つ体勢だったから、打つと思ってキーパーにつめていこうという意識だったんですけど、シュートが急にこっちに来て、足を出して・・・。う〜ん、予測できてなかったと言えばそうだった。ああいうのに反応できてこそとは思うし、やっぱり決めるべきチャンスだったと思いますね」と弁明している。また2001年11月7日に行われたキリンチャレンジカップイタリア戦で稲本潤一からのパスをアウトサイドからのボレーシュートで先制した記憶が、あの場面でのアウトサイド選択につながったと中山雅史が柳沢の引退セレモニー(2015年7月5日。引退試合と同日)で明かしている。
  • 2011年ベガルタ仙台へ移籍し、直後に東日本大震災に遭う。クラブの活動再開の目途が立たない中、市役所に電話をかけ自らボランティア登録をし、ボランティア活動に参加。リハビリ中も継続してボランティア活動を行った。
  • 震災を経て「僕が仙台を選んだのではなく、仙台が僕を選んでくれた」と考えるようになったと語った。

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

【国内大会個人成績】

【年度】
【クラブ】
【背番号】
【リーグ】
【リーグ戦】
リーグ杯
オープン杯
【期間通算】

【出場】
【得点】
【出場】
【得点】
【出場】
【得点】
【出場】
【得点】

【日本】
【リーグ戦】
リーグ杯
天皇杯
【期間通算】

1996 | 鹿島 | - | J | 8 | 5 | 6 | 1 | 1 | 0 | 15 | 6
1997 | 13 | 25 | 8 | 9 | 2 | 5 | 2 | 39 | 12
1998 | 32 | 22 | 5 | 0 | 1 | 0 | 38 | 22
1999 | J1 | 26 | 9 | 3 | 1 | 2 | 0 | 31 | 10
2000 | 26 | 6 | 3 | 0 | 3 | 1 | 32 | 7
2001 | 26 | 12 | 5 | 2 | 1 | 1 | 32 | 15
2002 | 27 | 7 | 3 | 0 | 5 | 1 | 35 | 8
2003 | 8 | 2 | - | - | 8 | 2
【イタリア】
【リーグ戦】
イタリア杯
【オープン杯】
【期間通算】

2003-04 | サンプドリア | 13 | セリエA | 15 | 0 | 3 | 0 | - | 18 | 0
2004-05 | メッシーナ | 20 | 22 | 0 | 4 | 1 | - | 26 | 1
2005-06 | 13 | 7 | 0 | 0 | 0 | - | 7 | 0
【日本】
【リーグ戦】
リーグ杯
天皇杯
【期間通算】

2006 | 鹿島 | 13 | J1 | 23 | 4 | 3 | 1 | 2 | 1 | 28 | 6
2007 | 19 | 5 | 6 | 2 | 5 | 2 | 30 | 9
2008 | 京都 | 32 | 14 | 6 | 1 | 2 | 0 | 40 | 15
2009 | 22 | 4 | 5 | 1 | 2 | 1 | 29 | 6
2010 | 31 | 3 | 5 | 3 | 2 | 0 | 38 | 6
2011 | 仙台 | 30 | 17 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 18 | 1
2012 | 13 | 16 | 2 | 4 | 0 | 2 | 0 | 22 | 2
2013 | 20 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 21 | 3
2014 | 13 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 14 | 2
【通算】
【日本】
【J1】
371 | 108 | 64 | 14 | 35 | 10 | 470 | 132
【イタリア】
【セリエA】
44 | 0 | 7 | 1 | - | 51 | 1
【総通算】
415 | 108 | 71 | 15 | 35 | 10 | 521 | 133

その他の公式戦

  • 1997年
  • 1998年
    • スーパーカップ 1試合1得点
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
  • 1999年
    • スーパーカップ 1試合1得点
  • 2000年
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
  • 2001年
    • スーパーカップ 1試合0得点
    • Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
  • 2002年
    • スーパーカップ 1試合0得点
【国際大会個人成績】

【年度】
【クラブ】
【背番号】
【出場】
【得点】

AFC
ACL

2002-03 | 鹿島 | 13 | 0 | 0
2013 | 仙台 | 3 | 1
【通算】
【AFC】
3 | 1

その他の国際公式戦

  • その他の大会通算成績 32試合13得点
  • 鹿島アントラーズ通算成績 1996-2003, 2006-2007年:324試合110得点
  • 京都サンガF.C通算成績 2008-2010年:107試合27得点
  • ベガルタ仙台通算成績 2011-2014年:78試合8得点

タイトル

クラブ

鹿島アントラーズ

代表

個人

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 58試合 17得点(1998-2006)


日本代表
国際Aマッチ

【年】
【出場】
【得点】

1998 | 2 | 0
1999 | 4 | 0
2000 | 10 | 4
2001 | 6 | 5
2002 | 9 | 0
2003 | 5 | 2
2004 | 8 | 2
2005 | 10 | 4
2006 | 4 | 0
【通算】
58 | 17

ゴール

【#】
【開催年月日】
【開催地】
【対戦国】
【勝敗】
【試合概要】

1. | 2000年6月6日 | モロッコ |  ジャマイカ | ○4-0 | 親善試合
2. | 2000年6月18日 | 日本 |  ボリビア | ○2-0 | キリンカップサッカー2000
3.
4. | 2000年10月14日 | レバノン |  サウジアラビア | ○4-1 | AFCアジアカップ2000
5. | 2001年8月15日 | 日本 |  オーストラリア | ○3-0 | 親善試合
6. | 2001年7月1日 | 日本 |  パラグアイ | ○2-0 | キリンカップサッカー2001
7.
8. | 2001年10月7日 | イングランド |  ナイジェリア | △2-2 | 親善試合
9. | 2001年11月7日 | 日本 |  イタリア | △1-1 | 親善試合
10. | 2003年10月8日 | チュニジア |  チュニジア | ○1-0 | 親善試合
11. | 2003年10月11日 | ルーマニア |  ルーマニア | △1-1 | 親善試合
12. | 2004年2月12日 | 日本 |  イラク | ○2-0 | 親善試合
13. | 2004年7月9日 | 日本 |  スロバキア | ○3-1 | キリンカップサッカー2004
14. | 2005年6月8日 | タイ |  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/02/22 00:28

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