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栗山英樹とは?

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栗山 英樹
北海道日本ハムファイターズ 監督 #80

2019年3月12日 マツダスタジアムにて

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
東京都小平市
【生年月日】
(1961-04-26) 1961年4月26日(58歳)
【身長
体重】
174 cm
72 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投両打
【ポジション】
外野手
【プロ入り】
1983年 ドラフト外
【初出場】
1984年10月8日
【最終出場】
1990年10月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴


この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


栗山 英樹

【生誕】
(1961-04-26) 1961年4月26日(58歳)
日本東京都小平市
【住居】
日本北海道夕張郡栗山町
【教育】
東京学芸大学
【職業】
プロ野球選手
プロ野球監督
野球解説者
野球評論家
スポーツジャーナリスト
大学教授
【活動期間】
1984 -
代表経歴
ヤクルトスワローズ選手(1984年 - 1990年)
テレビ朝日野球解説者(1991年 - 1992年、2001年 - 2011年)
TBSテレビ野球解説者(1993年 - 2000年)
TBSラジオ野球解説者(1993年 - 2011年)
スポーツニッポン専属野球評論家 (1991年 - 2011年)
東京学芸大学講師
白鴎大学教授(2008年 - )
北海道日本ハムファイターズ監督(2012年 - )

栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年4月26日 - )は、東京都小平市出身の元プロ野球選手(外野手、右投両打)、監督野球解説者評論家スポーツジャーナリストスポーツライター大学教授。マネジメント事務所は有限会社オフィスマリーン。2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を務める。日本のプロ野球の監督で、国立大学出身・監督就任以前に大学教授の経歴を持つ人物はともに史上初めてである。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 ヤクルト選手時代
    • 1.3 現役引退後
    • 1.4 日本ハム監督時代
  • 2 人物
  • 3 詳細情報
    • 3.1 年度別打撃成績
    • 3.2 年度別監督成績
    • 3.3 表彰
    • 3.4 記録
    • 3.5 背番号
  • 4 関連情報
    • 4.1 著書
    • 4.2 連載
    • 4.3 出演番組
      • 4.3.1 テレビ
      • 4.3.2 ラジオ(特記ない限り、パーソナリティとしての出演)
    • 4.4 CM
    • 4.5 音楽
    • 4.6 ゲームソフト
    • 4.7 映画
  • 5 脚注
    • 5.1 注釈
    • 5.2 出典
  • 6 参考資料
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。

創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業に0-3で敗れて惜しくも関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。高校一年と二年の年末に1週間、広島商業で合同練習を行う。「当時学んだ広商野球は今も僕のベースになっている」と話している。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。

東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。 東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として25勝8敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃してプロチームの入団テストを受け、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった。担当スカウトは片岡宏雄

ヤクルト選手時代

1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。

さらに2年目の1985年からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。最初にメニエール病の症状に襲われたのは5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし、一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠して頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという。同年には外野手として一軍でのスタメン出場を果たし、ジュニアオールスターゲーム出場。オフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいる。

またこのオフには若松勉(翌年から打撃コーチ補佐兼任)が、栗山の俊足を生かすためにスイッチヒッターに挑戦させてはどうかと土橋正幸監督に提案。栗山はもともと右打ちだったが、若松の指導の下、左打ちの猛練習に取り組んでスイッチへと転向した。この猛練習が功を奏し、翌1986年の5月末に杉浦享が負傷して外野のポジションが空くと、6月からは1番右翼手としてレギュラーに定着し、規定打席未満ながら打率.301をマークした。

しかし、シーズン終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになり、オフには治療に専念するため、長期入院を余儀なくされた。栗山はいつ症状が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送っていたが、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供たちが自分よりもはるかに深刻な病を持っていることを知らされてからは、自分の甘さを恥じて「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」と、前向きな気持ちになれたという。

結局、翌1987年ユマキャンプには参加できず、開幕にこそ間に合ったが、調整不足のため打撃不振に陥ってレギュラーを外された。復活を期する栗山は再び若松の指導の下で猛練習を重ねて調子を取り戻し、1988年のユマキャンプで左足の肉離れを起こしてしまったため、この年の開幕には間に合わなかったものの、6月に復帰すると1番・中堅手に定着してヒットを量産。出遅れが響いて規定打席には33打席足りなかったが、打率.331を記録した。

1989年には開幕から中堅手のレギュラーに定着。当初は1番を打っていたが、ルーキーの笘篠賢治が1番に固定されると2番に回り、37犠打を記録した。シーズン序盤は攻守ともに絶好調で打率も3割以上を維持していたが、6月中旬にメニエール病の症状が再発すると打率が急降下した。そのため8月以降は先発を外れることもあり、スタメンの場合でも7番・8番に打順を下げての出場が多くなった。結局この年は打率.255に終わったものの、初めて規定打席に到達し、守備範囲の広さを評価されてゴールデングラブ賞を獲得した。なお、斎藤雅樹がプロ野球新記録となる11試合連続完投勝利を達成した同年7月15日の対巨人戦では9回表2死で打席に立ち初球を一直に打ち取られ最後の打者となった。

しかしメニエール病の症状はシーズン終了後もなかなか好転せず、満足な練習ができないまま次のシーズンに臨まざるを得なくなり、翌1990年野村克也が監督に就任すると、当時無名だった柳田浩一にレギュラーを奪われた。それでも途中出場となった4月7日の開幕戦(対巨人)では大森剛の抜ければサヨナラという左中間の強烈なライナーをダイビングキャッチでアウトにする活躍を見せたが、メニエール病の症状に加えて古傷の右肘の故障も再発したため極度の不振にあえぎ、レギュラーの座を奪い返すことはできなかった。

栗山は、特別な才能に恵まれているわけではない自分にとっては、120%の努力をすることがプロの世界で生きていくための最低条件であり、それができなくなってしまった以上はプロ生活を続けられないと考え、この年限りで現役を引退した。

現役引退後

1991年から2011年は野球解説者・スポーツキャスターとしてテレビ朝日( - 1993年2001年以降)、TBSテレビTBSラジオ(1993年以降、テレビ解説は2000年まで)に出演。スポーツニッポン専属野球評論家も務める。そのかたわら、母校東京学芸大学の講師を務め、少年野球の普及育成に努めた。

2004年から白鴎大学助教授、2007年から准教授。2008年に教授に昇進。経営学部教授としてスポーツメディア論・野球型などを専門分野としていた。なお、現在は監督業のため休職という扱いになっており、白鴎大学に籍を残している。

TBSラジオ解説者としてのコピーは熱中先生国際派。2002年までテレビ朝日のプロ野球中継にあったコピーは熱血先生

北海道栗山町から観光大使を依頼され、栗山町民との親交を深めたことがきっかけで、私財を投じて天然芝の野球場と練習場などを兼ね揃えた「栗の樹ファーム」を2002年に完成させている。「栗の樹ファーム」では少年野球教室や大会が開かれ、子どもたちの夢を育む舞台にもなっている。2009年にはこの功績が認められ、芝生学会より日本芝生文化大賞を受賞した。また、同所に本拠を移している関係もあり、日本ハムファイターズが本拠地を東京から移す直前の2003年からはHBCラジオをはじめとする道内放送局のファイターズ戦中継でも解説を行っていた。

2000年代以降は日本野球機構などが開催するシンポジウム「夢の向こうに」で第1回(2003年)から司会を務めるなど、プロ野球選手と高校球児の交流事業にも積極的に参加している。

2007年には、栗山の古巣であるヤクルトの選手兼任監督古田敦也の引退により監督候補として有力視されたが実現しなかった。

2009年には、日本高等学校野球連盟が定めるアマチュア資格を満たさない元プロ野球選手としては初めて、同連盟から高校球児への直接取材を特別に認められた(日本学生野球憲章第10条の特例措置)。同年以降の全国高等学校野球選手権大会期間中には、プロ野球解説・評論などの活動と並行しながら、朝日放送(ABCテレビ)の「熱闘!高校野球ナビゲーター」として地方大会から同局制作の情報番組(『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当していた。

2011年11月3日北海道日本ハムファイターズの監督就任(梨田昌孝の後任)が決定した。契約期間は2年。11月9日には就任会見が行われた。背番号は私淑する三原脩(元日本ハム球団社長)にあやかって「80」となった。

日本ハム監督時代

2012年
監督就任1年目となった2012年はチームのエースだったダルビッシュ有が抜け苦戦も予想されたが、吉川光夫中田翔ら若手選手の台頭もあり開幕当初から好調を維持。10月2日、新人監督として17人目のリーグ優勝を果たした。なお、プロ野球史上初めてリーグ5球団のうち3球団(西武、ソフトバンク、楽天)に負け越して優勝した。クライマックスシリーズでもファイナルステージで福岡ソフトバンクホークスを無傷の4連勝(リーグ優勝チームのアドバンテージの1勝を含む)で降し、現役時代は出場経験がなかった日本シリーズへの出場権を獲得したが、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは2勝4敗で敗れ、日本一獲得はならなかった。日本シリーズ敗退後、栗山との確執が報道された投手コーチの吉井理人が退団した。しかし、吉井は後に2016年から一軍投手コーチとして復帰している。
2013年
2年契約の2年目だったが、キャンプ直前の1月25日に糸井嘉男がトレードでオリックスバファローズに移籍が決まると、その翌日に球団は急遽栗山と2014年までの契約延長を発表した。高卒1年目の大谷翔平を二刀流で起用し、話題を集める。大谷は打撃でも期待に応え、投手では3勝を挙げるなど投打で采配に応えた。陽岱鋼盗塁王(球団史上初)、新外国人のミチェル・アブレイユ本塁打王のタイトルをそれぞれ獲得し、4番の中田も初の3割を達成するなど明るい話題が多かったが、吉川が前年から成績を大きく落とし、前年オフに移籍した田中賢介や糸井の穴埋めができず、また中田も骨折で終盤離脱するなど苦戦し、12年ぶり最下位でシーズンを終えた。前述の通り契約延長により、2014年も指揮を執る事となった。
クジ運が悪く、2013年10月25日のドラフト会議では、松井裕樹柿田裕太岩貞祐太を立て続けに外し続けた。競合ドラフトの同日3連敗は、2010年の当時オリックスの監督岡田彰布以来となった。
2014年
大谷が日本プロ野球初の同一シーズンでの10勝10本塁打を達成し、抑えに武田久が離脱したことで増井浩俊を起用し、これが当たり増井は抑えに定着した。最終的にチームは3位となり2年ぶりにクライマックスシリーズ進出を決めた。CSではファーストステージで2位のオリックスを2勝1敗で破り、ファイナルステージではソフトバンクと対戦したが3勝4敗で敗れた。
2015年
79勝62敗2分となり、リーグ優勝した2012年の勝率、勝利数を上回る好成績を残したが、この年のリーグ優勝チームの福岡ソフトバンクホークスには12ゲーム差をつけられ2位となった。クライマックスシリーズでは3位のロッテに1勝2敗で敗れた。
2016年
開幕から首位を独走したソフトバンクに一時最大で11.5のゲーム差をつけられながら、6月19日から7月11日まで球団新記録となる15連勝などで猛追。特に、監督就任からケガを除き一貫して4番打者として起用し続けた中田が不振に陥った際、6月28日の対西武戦では好機で中田に代打矢野謙次を送ったり、開幕から不調が続く守護神増井を8月から先発に転向させたりするなどの策を講じた。また、開幕から打撃が好調の大谷が先発投手の試合において、DHが使用できるパ・リーグ主催試合でありながら、スタメンに敢えてDHを使用せず「投手・大谷」を入れ(5月29日の対楽天戦など)、7月にマメの影響で大谷の登板が不可能となった際には、二軍降格ではなく指名打者として一軍に帯同させながら、9月の投手復帰に向けた調整をさせた。天王山となった9月21日、22日のソフトバンク最終2連戦では2連勝しマジックを点灯させると、9月28日の対西武戦に勝利し4年ぶりのリーグ優勝を果たした(最大11.5ゲーム差からの大逆転劇は、1996年のセ・リーグペナントレース前半終了した時点で暫定首位広島と暫定4位巨人との差が11.5ゲームの差だったが、後半戦開始から、巨人が猛反撃をして最終戦直前の試合で中日に勝利して、大逆転優勝を果たした。その事例を含めると、そのシーズンで2例目である)。クライマックスシリーズでもファイナルステージで2位のソフトバンクを4勝2敗で降し、4年ぶりに日本シリーズへの出場権を獲得した。そして、広島東洋カープと対戦した日本シリーズを4勝2敗で制覇し、球団としては10年ぶり3度目、自身としては初の日本一を獲得した。また、日本一を決めた第6戦は2009年に開場したマツダスタジアムで行われたため、同球場の初代胴上げ監督となった。11月2日に1年契約を延長したことが発表された。

人物

独身結婚歴もない。また、監督就任当初は実際の自宅は東京にありながらも栗山町に生活拠点を置いていたが、2015年中に正式に栗山町に自宅を構えた。木田優夫によると、野球道具を集める趣味で栗山町の家はその倉庫となってしまい、近くにもう一つ家を建てて住んでいるという。

北海道胆振東部地震の影響で札幌ドームでの試合に影響が出ていた中、ある選手は「本当に僕たちは試合をやっていいんですかね……」と被災者への申し訳なさを漏らした。すると栗山は「われわれは野球をやれることへの感謝を持ちながら野球をする使命がある。1人でも元気になってもらえるなら意味があるはず。その姿が大事。それが見せられないようならプロ野球球団が存在する意味がない」と言葉を紡いだ。

詳細情報

年度別打撃成績









































































O
P
S

1984 | ヤクルト | 2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000
1985 | 29 | 18 | 18 | 9 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | .278 | .278 | .333 | .611
1986 | 107 | 258 | 239 | 34 | 72 | 5 | 0 | 4 | 89 | 14 | 8 | 5 | 9 | 0 | 4 | 0 | 6 | 26 | 0 | .301 | .329 | .372 | .701
1987 | 72 | 99 | 92 | 13 | 18 | 1 | 1 | 0 | 21 | 5 | 0 | 1 | 3 | 0 | 3 | 1 | 1 | 7 | 3 | .196 | .229 | .228 | .457
1988 | 90 | 370 | 338 | 33 | 112 | 11 | 4 | 0 | 131 | 17 | 7 | 5 | 20 | 0 | 7 | 0 | 5 | 33 | 0 | .331 | .354 | .388 | .742
1989 | 125 | 484 | 420 | 49 | 107 | 18 | 3 | 2 | 137 | 26 | 4 | 4 | 37 | 4 | 17 | 2 | 6 | 34 | 5 | .255 | .291 | .326 | .617
1990 | 69 | 109 | 96 | 15 | 22 | 0 | 1 | 1 | 27 | 4 | 3 | 0 | 10 | 0 | 2 | 0 | 1 | 7 | 3 | .229 | .253 | .281 | .534
通算:7年 494 | 1339 | 1204 | 153 | 336 | 36 | 9 | 7 | 411 | 67 | 23 | 15 | 79 | 4 | 33 | 3 | 19 | 108 | 12 | .279 | .308 | .341 | .649

年度別監督成績

リーグ公式戦






【順

位】
【試

合】












ゲ
|


【本

打】
【打

率】
【防

率】



2012年 | 日本ハム | 1位 | 144 | 74 | 59 | 11 | .556 | - | 90 | .256 | 2.89 | 51歳
2013年 | 6位 | 144 | 64 | 78 | 2 | .451 | 18.5 | 105 | .256 | 3.74 | 52歳
2014年 | 3位 | 144 | 73 | 68 | 3 | .518 | 6.5 | 119 | .251 | 3.61 | 53歳
2015年 | 2位 | 143 | 79 | 62 | 2 | .560 | 12.0 | 106 | .258 | 3.62 | 54歳
2016年 | 1位 | 143 | 87 | 53 | 3 | .621 | - | 121 | .266 | 3.06 | 55歳
2017年 | 5位 | 143 | 60 | 83 | 0 | .420 | 34.0 | 108 | .242 | 3.84 | 56歳
2018年 | 3位 | 143 | 74 | 66 | 3 | .529 | 13.5 | 140 | .251 | 3.77 | 57歳
通算:7年 1004 | 511 | 469 | 24 | .521 | Aクラス5回、Bクラス2回
ポストシーズン
【年

度】
【球

団】
【大

名】
【相

手】



2012年 | 日本ハム | パ・リーグクライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1) | 福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ3位) | 4勝0敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ | 読売ジャイアンツ(セ・リーグ1位) | 2勝4敗=敗退
2014年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ | オリックス・バファローズ(パ・リーグ2位) | 2勝1敗=ファイナルステージ進出

ファイナルステージ(※1) | 福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ1位) | 3勝4敗=敗退
(※3)
2015年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ | 千葉ロッテマリーンズ(パ・リーグ3位) | 1勝2敗=敗退
2016年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ(※1) | 福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位) | 4勝2敗=日本シリーズ進出
(※2)
日本シリーズ | 広島東洋カープ(セ・リーグ1位) | 4勝2敗=日本シリーズ優勝
2018年 | パ・リーグ クライマックスシリーズ
ファーストステージ | 福岡ソフトバンクホークス(パ・リーグ2位) | 1勝2敗=敗退

表彰

記録

初記録
その他の記録

背番号

関連情報

著書

単著
出典:wikipedia
2019/07/05 12:06

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