◆この
キーワードを
友達に教える
URLをコピー
栗野慎一郎とは?
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年9月)
ハーバード大学在学中の栗野慎一郎(右)(親友の金子堅太郎(中央)、團琢磨(左)と)
栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日(1851年11月29日) - 昭和12年(1937年)11月15日)は、明治・大正期の日本の外交官。初代駐フランス特命全権大使。
来歴・人物
福岡藩槍術師範・栗野小右衛門の長男として、現在の福岡市中央区に生まれる。幼名は昇。藩校修猷館に学んだ後、西新の瀧田紫城の塾「折中堂」に入門し漢学、国学、蘭学を学ぶ。
慶応元年(1865年)、福岡藩第11代藩主黒田長溥の命により藩費留学生に選ばれ、英語修得のため長崎の何礼之の英語塾に入塾し、同年入塾した陸奥宗光、高峰譲吉、山口尚芳、芳川顕正らと共に学んでいる。しかし、慶応3年(1867年)、ここで同藩士が起した英国水兵殺害事件に巻き込まれ、京都六角の獄に拘留される。明治2年(1869年)に釈放されるが、このことがもとで明治4年(1871年)に同郷の金子堅太郎・團琢磨が渡米した岩倉使節団随行の米国留学からは外された。
しかし、その後も東京で平賀義質のもとで英語修行に励み、明治8年(1875年)に再び藩費留学生に選ばれ米国に留学し、ハーバード大学に入学して法律を専攻する。ハーバード大学では、金子堅太郎や小村壽太郎と親交を結び、同じボストンにあるマサチューセッツ工科大学に学んでいた團琢磨とも親交を深めた。明治14年(1881年)、ハーバード大学を卒業して帰国し、同年12月に外務省に入省する。
外務省では、井上馨外務大臣の下で、明治15年(1882年)8月に権少書記官、明治18年(1885年)3月に条約改正掛、明治19年(1886年)3月に翻訳局次長などを務め、不平等条約の改正会議に備えたが、改正条約草案を巡って青木周蔵外務次官と衝突して外務省を退官。同年4月、榎本武揚逓信大臣の要望により逓信大臣秘書官に転任する。その後、逓信省で参事官や外信局長を歴任し、東京郵便電信学校を設立して初代校長に就任、郵便法や万国郵便電信規則を制定、明治23年(1890年)3月には、パリでの万国電信会議の日本代表を務めた。
明治24年(1891年)5月、榎本武揚が外務大臣に就任し、条約改正に意欲を燃やす榎本は、同年8月、栗野を新設された外務省政務局の初代局長に任命した。明治25年(1892年)9月まで取調局長も兼務している。明治27年(1894年)、陸奥宗光が外務大臣となると、同年7月、陸奥に駐米公使兼駐メキシコ公使に任命され渡米し、米国との条約改正交渉に務め、同年11月にはグレシャム国務長官との間で、日米改正新通商条約の調印を成し遂げる。その後、明治29年(1896年)4月、駐イタリア公使兼駐スペイン公使となり、明治30年(1897年)1月にスペインとの条約改正を成し遂げる。
明治30年(1897年)5月、駐フランス公使となり、駐在武官である同郷の明石元二郎と出会う。明治33年(1900年)には、パリ万国博覧会において、同郷の川上音二郎の公演を支援し大成功を収めている。明治34年(1901年)10月、桂太郎首相に説かれて駐ロシア公使となり、日露戦争開戦直前まで外交交渉に尽力した。このときの駐在武官も明石元二郎であった。明治37年(1904年)2月6日、小村壽太郎外務大臣の命によりロシア政府に宣戦布告文を提出し、ここに日露戦争が開戦した。なお、この宣戦布告文を起草したのは、修猷館の後輩である山座円次郎である。
その後、フランス公使館が大使館に昇格した明治39年(1906年)1月に、初代駐フランス特命全権大使に任命される。明治40年(1907年)6月、日仏協約を締結し、同年、積年の功が認められ男爵位を授けられた。明治44年(1911年)8月、日仏通商航海条約の調印を果たし、ここに全ての列強との関税自主権が回復したことにより不平等条約の改正が完了する。
明治45年(1912年)に帰国し、同年3月に子爵位を授けられ、大正2年(1913年)11月に退官。昭和7年(1932年)1月には枢密顧問官に就任している。
栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
エピソード
- 明治37年(1904年)2月4日、駐ロシア公使であった栗野は、日本が御前会議でロシアとの開戦を決定し、2日後にロシアに通告する旨の極秘の暗号電文を受け取った。その翌日の2月5日、ロシア皇帝が主催した観劇会があり、栗野も出席してロシア皇帝に挨拶をした。ところが、いつもであれば形式的な挨拶しかしない皇帝が、その日に限って機嫌良く親しげに接してきた。栗野は不思議に思いながらその場を退出した。すると、その様子を眺めていたフランス大使が笑いながら側に来てこう囁いた。
“C'est fini.((日本も)もうおしまいですね。)”
その時、栗野はロシアはおろかフランスまでもが日本の開戦決定を知っていることを悟り慄然とした。既に暗号は解読されており、日本の軍事機密は筒抜けだったのである。
演じた俳優
-
利重剛 - NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』(2009年11月29日〜2011年12月25日)3部構成、全13話。
-
郷ひろみ - 『天皇の料理番』(2015年4月期、TBS)役名は「粟野慎一郎」
脚注
-
^ The Japan Year Book1906, p86
-
^ 『官報』第379号「賞勲叙任」1884年10月1日。
-
^ 『官報』第3704号「叙任及辞令」1895年11月1日。
-
^ 『官報』第5249号「叙任及辞令」1900年12月28日。
-
^ 『官報』第7175号「叙任及辞令」1907年6月1日。
-
^ 『官報』第329号「叙任及辞令」1928年2月4日。
-
^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
-
^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」1893年12月29日。
-
^ 『官報』第3553号「叙任及辞令」1895年5月7日。
-
^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
-
^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
-
^ 『官報』第7266号「授爵・叙任及辞令」1907年9月16日。
-
^ 『官報』第8622号「叙任及辞令」1912年3月19日。
-
^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
-
^ 『官報』第3264号「叙任及辞令」1937年11月17日。
-
^ 『官報』第2511号「辞令」1891年11月11日。
-
^ 『官報』第2767号「叙任及辞令」1892年9月15日。
-
^ 『官報』第3207号「叙任及辞令」1894年3月12日。
-
^ 『官報』第3338号「叙任及辞令」1894年8月14日。
-
^ 『官報』第4283号「叙任及辞令」1897年10月9日。
-
^ 『官報』第4324号「叙任及辞令」1897年11月29日。
-
^ 『官報』第5888号「叙任及辞令」1903年2月21日。
- ^ 『官報』第7839号「叙任及辞令」1909年8月11日。
日本の爵位
|
先代:
陞爵 | 子爵
栗野(慎一郎)家初代
1912年 - 1937年 | 次代:
栗野斎次郎
先代:
叙爵 | 男爵
栗野(慎一郎)家初代
1907年 - 1912年 | 次代:
陞爵
在フランス日本全権大使 (1906年-1912年) |
全権公使 |
全権大使 |
在ロシア日本全権公使 (1901年-1904年) |
在ロシア帝国全権公使 |
在ロシア帝国全権大使 |
在ソビエト連邦全権大使 | 田中都吉 1925-1930 広田弘毅 1930-1932 太田為吉 1932-1936 重光葵 1936-1938 東郷茂徳 1938-1940 建川美次 1940-1942 佐藤尚武 1942-1946 N/A 門脇季光 1957-1961 山田久就 1961-1963 下田武三 1963-1965 中川融 1965-1970 新関欽哉 1971-1973 重光晶 1974-1978 魚本藤吉郎 1978-1982 高島益郎 1982-1984 鹿取泰衛 1984-1987 武藤利昭 1987-1990 枝村純郎 1990-1991
在ロシア連邦全権大使 |
在スウェーデン日本全権公使(1901年-1904年) |
全権公使 |
全権大使 | 島重信:1957年-1959年 松井明:1959年-1962年 鶴岡千仭:1962年-1966年 高橋通敏:1966年-1968年 三宅喜二郎:1968年-1971年 日向精蔵:1971年-1973年 上田常光:1973年-1975年 都倉栄二:1975年-1978年 滝川正久:1978年-1981年 大和田渉:1981年-1983年 越智啓介:1983年-1986年 野村豊:1987年-1989年 村角泰:1989年-1991年 熊谷直博:1991年-1994年 股野景親:1994年-1997年 藤井威:1997年-2000年 内田富夫:2000年-2004年 大塚清一郎:2004年-2007年 中島明:2007年-2010年 渡辺芳樹:2010年-2013年 森元誠二:2013年-2015年 山崎純:2015年-2018年 廣木重之:2018年-
在フランス日本全権公使 (1897年-1901年) |
全権公使 |
全権大使 |
在スペイン日本全権公使 (1897年-1901年) |
公使 |
大使 | 渋沢信一:1952年-1956年 与謝野秀:1956年-1961年 島津久大:1961年-1963年 関守三郎:1963年-1967年 高野藤吉:1967年-1969年 高橋覚:1969年-1973年 佐藤正二:1973年-1975年 加川隆明:1976年-1978年 横田弘:1978年-1981年 林屋永吉:1981年-1984年 枝村純郎:1984年-1987年 石井亨:1987年-1991年 山口達男:1991年-1995年 坂本重太郎:1995年-1998年 荒船清彦:1998年-2001年 田中克之:2001年-2004年 島内憲:2004年-2006年 吉川元偉:2006年-2009年 高橋文明:2009年-2011年 佐藤悟:2011年-2014年 越川和彦:2014年-2016年 水上正史:2016年-
在ポルトガル日本全権公使 (1897年-1901年) |
公使 |
大使 | 大使館昇格1959 磯野勇三1959-1961 吉田賢吉1961-1965 勝野康助1966-1968 服部五郎1968-1971 和田周作1971-1974 大口信夫1975-1977 谷盛規1977-1981 田村豊1981-1983 岡田富美也1983-1987 村上和夫1987-1991 平岡千之1991-1993 市岡克博1993-1995 國安正昭1995-1998 西村元彦1998-2000 笹口健2000-2002 浜中秀一郎2002-2005 原聰2005-2008 三輪昭2008-2010 四宮信隆2010-2013 東博史2013-2017 新美潤2017-
在イタリア日本全権公使 (1896年-1897年) |
全権公使 |
全権大使 | 高平小五郎:1907年-1908年 林権助:1908年-1916年 伊集院彦吉:1916年-1919年 落合謙太郎:1920年-1926年 松田道一:1926年-1929年 吉田茂:1931年-1932年 松島肇:1932年-1934年 杉村陽太郎:1934年-1936年 堀田正昭:1936年-1937年 白鳥敏夫:1938年-1939年 天羽英二:1939年-1940年 佐藤尚武:1940年 堀切善兵衛:1940年-1942年 日高信六郎:1943年-1945年 N/A 原田健:1952年-1955年 太田一郎:1956年-1959年 鈴木九萬:1959年-1961年 門脇季光:1961年-1963年 中川融:1964年-1965年 与謝野秀:1965年-1967年 田付景一:1967年-1969年 高野藤吉:1969年-1972年 竹内春海:1972年-1975年 藤山楢一:1975年-1979年 影井梅夫:1979年-1982年 堀新助:1982年-1984年 西田誠哉:1984年-1987年 手島冷志:1987年-1990年 浅尾新一郎:1990年-1992(平成4)年 渡辺幸治:1992年-1993年 英正道:1993年-1997年 瀬木博基:1997年-2000年 林暘:2000年-2002年 松原亘子:2002年-2005年 中村雄二:2005年-2008年 安藤裕康:2008年-2011年 河野雅治:2011年-2014年 梅本和義:2014年-2017年 片上慶一:2017年-
在アメリカ合衆国日本全権公使 (1894年-1896年) |
代理公使・弁理公使 | - 森有礼 1870–73(少弁務使→中弁務使→代理公使)
- 上野景範 1872(弁理公使)
特命全権公使 |
特命全権大使 |
出典:wikipedia
2019/02/16 16:23
HAPPY Wikipedia

あなたの考える「栗野慎一郎」の意味を投稿しよう

「栗野慎一郎」のコンテンツはまだ投稿されていません。
栗野慎一郎スレッド一覧
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「栗野慎一郎」のスレッドを作成する
◆「栗野慎一郎の」
友達を探す
掲示板を探す
◆このページを
友達に教える
URLをコピー
注目のキーワード
キーワードで探す
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail