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桂太郎とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年8月)
日本政治家
桂 太郎
かつら たろう

正装である正衣を着用した桂

【生年月日】
1848年1月4日
(弘化4年11月28日)
【出生地】
日本 長門国阿武郡萩町
(現:山口県萩市)
【没年月日】
(1913-10-10) 1913年10月10日(65歳没)
【死没地】
日本 東京府三田
【前職】
武士(長州藩士)
陸軍軍人
【所属政党】
無所属
【称号】
陸軍大将
従一位
大勲位菊花章頸飾
功三級金鵄勲章
公爵
【配偶者】
桂 歌子(1874 - 1886)
桂 貞子(1886 - 1890)
桂 可那子(1898 - 1913)
【子女】
長女:長雄蝶子
長男:桂与一
次女:長崎繁子
次男:井上三郎
三女:長島潔子
四女:天岡輝子
三男:桂四郎
四男:桂五郎
五女:伊藤寿満子
五男:桂新七
【親族】
桂與一右衛門(父)
中谷正亮(叔父)
長雄勝馬(娘婿)
長崎英造(娘婿)
長島隆二(娘婿)
天岡直嘉(娘婿)
伊藤文吉(娘婿)
桂広太郎(孫)
井上光貞(孫)
【サイン】

第15代 内閣総理大臣

【内閣】
第3次桂内閣
【在任期間】
1912年12月21日 - 1913年2月20日
天皇
大正天皇
第13代 内閣総理大臣

【内閣】
第2次桂内閣
【在任期間】
1908年7月14日 - 1911年8月30日
【天皇】
明治天皇
第11代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次桂内閣
【在任期間】
1901年6月2日 - 1906年1月7日
【天皇】
明治天皇
第17代 外務大臣

【内閣】
第3次桂内閣
【在任期間】
1912年12月21日 - 1913年1月29日
第3代 内大臣

【在任期間】
1912年8月21日 - 1912年12月21日
その他の職歴

侍従長
(1912年8月13日 - 1912年12月21日)
第13代 大蔵大臣
(1908年7月14日 - 1911年8月30日)
第19代 文部大臣
(1905年12月14日 - 1906年1月7日)
第18代 内務大臣
(1903年10月22日 - 1904年2月20日)
第5代 陸軍大臣
(1898年1月12日 - 1900年12月23日)
第2代 台湾総督
(1896年6月2日 - 1896年10月14日)
貴族院議員
(1911年4月 - 1913年10月)

桂 太郎(かつら たろう、弘化4年11月28日(1848年1月4日) - 大正2年(1913年)10月10日)は、日本武士(長州藩士)、陸軍軍人政治家階級陸軍大将位階勲等功級爵位は、従一位大勲位功三級公爵清澄(きよずみ)。幼名寿熊左中海城元老井上馨とは義理の親子の関係。

児玉源太郎川上操六とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。

台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣外務大臣(第17代)内閣総理大臣(第11代、13代、15代)などを歴任した。総理大臣在任日数2886日はこれまでで最も長い。元老の一人であったという説もある

目次

  • 1 概要
  • 2 生涯
    • 2.1 誕生から戊辰戦争まで
    • 2.2 維新後
    • 2.3 日露戦争を勝利に導いた「第二流内閣」
      • 2.3.1 日清戦争後
      • 2.3.2 初の組閣
      • 2.3.3 日露戦争
    • 2.4 桂園時代
    • 2.5 大正政変からその死
    • 2.6 墓所
  • 3 人物
  • 4 栄典
  • 5 家族・親族
    • 5.1 桂家
    • 5.2 子女
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 関連文献
  • 8 関連項目
  • 9 外部リンク

概要

長州藩士であり、毛利家庶流で重臣であった桂家の出身で、大江広元桂元澄などの子孫に当たる。戊辰戦争に参加し、明治維新後、横浜語学学校で学びドイツへ留学。帰国後は山縣有朋の下で軍制を学んで陸軍次官、第3師団長、台湾総督を歴任した後、第3次伊藤内閣第1次大隈内閣第2次山縣内閣第4次伊藤内閣陸軍大臣をつとめた。明治34年(1901年)、首相に就任。日英同盟を締結し、日露戦争で日本を勝利に導いた。西園寺公望と交代で首相を務め、桂園時代と呼ばれた。在職日数2886日は歴代1位。なお連続して在職してはいないため、連続在職の記録は佐藤榮作に譲る形となっている。明治33年(1900年)9月15日には、拓殖大学の前身である台湾協会学校を創立している。また、現在の獨協中学校・高等学校の前身である獨逸学協会学校の2代校長を明治20年(1887年)4月から同23年(1890年)7月までつとめた。第2次桂内閣時には韓国併合も行った。

生涯

誕生から戊辰戦争まで

長州藩士時代の桂

長門国阿武郡萩町、萩城下平安古(ひやこ、現・山口県萩市平安古)にて、長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(125石)の嫡男として生まれる。母は同藩士・中谷家の娘・喜代子。桂は125石の上士の長男で、母の実家の中谷家は180石。叔父の中谷正亮松下村塾のスポンサーだった。桂は入門しなかったが、それは吉田松陰が刑死したとき、数え年で13歳だったからである。しかし、中谷の甥であったことによって、桂がどれほど恵まれたかは計り知れないものがある。

幼少時に阿武郡川島村(現・萩市川島)に移り、万延元年(1860年)には藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入される。家柄の良い桂は当初は正規軍である「選鋒隊」に編入されたが、元治元年(1864年)、禁門の変などにより藩が存亡の窮地に立たされる中、7月に世子毛利元徳の小姓役となる。第2次長州征伐では志願して石州方面で戦う。

戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督澤為量の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事した。秋田戦争では、まず庄内戊辰戦争春の陣で負け、奥羽列藩同盟の成立を許し、その後弘前藩に入藩することを拒否され、東北諸藩を説得できないふがいなさに能代では自殺も考えたものの、なんとか久保田藩を新政府側に寝返らせることに成功する。その後、7月11日金山の戦いで仙台藩軍に壊滅的な打撃を与え、新庄藩を寝返らせることに成功するものの、14日には人数では勝っているはずの新庄の戦い酒井吉之丞率いる庄内藩軍に負け、庄内藩仙台藩相手に、新政府軍の増援が到着するまで延々久保田藩内で撤退戦を行わざるを得なくなった。なぜか、戦後は「その軍功が評されて」賞典禄250石を受けている。彼の部下は約200名だったが戦死者が41名、負傷者が53名もいた。非常に高い死傷率といえるが、隊長の桂はかすり傷1つ負わなかったという。

維新後

明治3年(1870年)8月、桂はドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。木戸は桂の叔父・中谷正亮とは親しくしていたため、中谷の甥である桂にも目をかけていた。だが、木戸は帰国した明治6年(1873年)7月、政争の合い間に桂のために切り替え手続きを行ったものの、桂は10月半ばに留学を打ち切って帰国した。

木戸は陸軍卿山縣有朋に依頼し、桂を陸軍に入れて大尉に任命した。賞典禄250石を受けた軍歴からすれば佐官クラスであるが、山縣の「君が留学中に陸軍の秩序も整って、初任の場合はいきなり佐官にしないことになった。しばらく辛抱してくれ」との慰めに対し、桂は「秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく少尉の方が陸軍のためには良かったと思います」と返答している。さらに陸軍の興隆策についての下問に対して「帰国して日が浅いので何ともいえませんが、徴兵制が実現したことは欣快に存じます。後は兵士をどう訓練するかでしょう」と返答。これを聞いた山縣は大喜びだった。

大村益次郎が発案した徴兵制度を押し進めていた山縣は、士族出身者から白眼視されていた。桂は山縣の派閥に組み入れられたが桂の木戸に対する気配りは大変なもので、駐在武官となって赴任したドイツからも月に1度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人宛てに贈った。また、木戸宛ての宛名には「木戸尊大人様閣下」になっている。この仰々しい敬称にはかえって木戸の方で驚いたに違いないが、桂にはそれを平然とやってのける図太さがあった。

日露戦争を勝利に導いた「第二流内閣」

束帯を着用した桂

日清戦争後

以後は山縣の引き立てもあり、順調に昇進を重ねた。日清戦争には名古屋第3師団長として出征した。1896年その後、台湾総督を経て、第3次伊藤内閣陸軍大臣になり、続く第1次大隈内閣に次ぎ、第2次山縣内閣でも陸相とともに山縣の参謀格を務め、明治33年(1900年)に発生した義和団の乱では中国に軍を出動させた。8月に動乱は終結したが、複雑な国際関係の中での出兵と国内の政争に心労を感じた桂は中央から距離を取るために転地療養に入った。10月に第4次伊藤内閣が成立すると桂は離職の意思を示したが、明治天皇に一旦は慰留された。しかし、立憲政友会与党の内閣に違和感を感じた桂は政務に関与せず、再び辞意を示して12月に児玉源太郎と交代した。

伊藤博文は4回、山縣有朋と松方正義は各2回の首相経験があり、薩長閥の大物で残っているのは西郷従道井上馨の2人である。西郷は例によって兄・隆盛を持ち出して断ったが、井上は引き受ける決心をし、大命を受けて組閣にとりかかった。財政難を切り抜ける手腕のある大蔵大臣を誰にするか。すぐれた作戦家だが、軍政には適していない児玉を変えるかどうか。井上は蔵相に渋沢栄一、陸相に桂の再任を求めたが、両者に拒否されてあっさり組閣を断念した。

初の組閣

元老会議は桂を推し、明治天皇は桂に組閣を命じた。明治34年(1901年)6月、海相・山本権兵衛と陸相・児玉源太郎の留任を除いて、小粒な内閣が発足した。蔵相兼外務大臣曾禰荒助をはじめ、初めて大臣になるという官僚が大半で、その多くが内務省出身の山県閥官僚であった。 世人は「小山縣内閣」「第二流内閣」と揶揄したが、桂は批判に対して勅命が降下したのだから仕方が無い、というスタンスをとり続けた。 桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、天皇の意向により現役であり続けた。桂は9月に小村寿太郎を外相に起用した。日英同盟締結を推進するためで、桂は自伝で、自分と小村とは日露問題の解決は武力によるしかないと最初から覚悟していたと語っている(もっとも、この自伝について山縣は、桂本人に都合のいい作文みたいなものだと酷評している)。

1901年には、後に日本商工会議所の前身となる商業会議所の設置法を成立させ、各地における50名以下の選出議員からなる商業会議所の設立を推進した。この商業会議所制度は、後継の商工会議所法により廃止される1927年まで続いた。

日露戦争

現実に日英同盟は日露戦争において日本に有利に作用し、戦争そのものは海軍の東郷平八郎、陸軍の大山巌の働きで勝利した。米国ポーツマスでのロシアとの和平交渉(ポーツマス条約)は陰で大統領セオドア・ルーズベルトを動かした金子堅太郎の努力で、何もかも成功した。桂は、明治天皇から参謀総長であった山縣の頭越しに戦争指導について諮詢を受けるなど、戦争運営を通じて強い信頼を得、自信を深めていった。

桂は首相として称賛されるべきだったが、国民的人気は湧かなかった。戦争の実状を国民に秘匿していたため、賠償金は取れず、割譲されて得た領土が樺太南部だけという結果に、民衆が不満を持っていたからである。講和条約の内容に関する鬱積に端を発する日比谷焼打事件も、この第1次桂内閣の末に起こっている。

桂園時代

フロックコートを着用した桂

その後、桂は西園寺公望と交互に組閣(桂園時代)し、明治41年(1908年)7月から同44年(1911年)8月に第2次内閣、大正元年(1912年)12月から同2年(1913年)2月に第3次内閣を組閣する。この桂園時代は立憲政友会原敬との攻防と「情意投合」、盟友である西園寺との信頼関係のもと、凋落する元老世代からの自立を図った時代でもある。第2次内閣の時代には、韓国併合大逆事件による社会主義者への弾圧、関税自主権の回復による条約改正の達成などの業績を残した。だが、それは山縣との間に微妙な亀裂を生み始める。2度の内閣での実績を盾に山縣からの自立を図り、さらに反政友会勢力を結集させた「桂新党」までも視野に入れた桂だったが、山縣はそれを許さなかった。山縣は、明治天皇の崩御(死去)により急きょ海外視察から帰国した桂に「新帝輔翼」の重要性を説き、内大臣侍従長として宮中に押し込めることで桂の政治的引退を図った。だが、二個師団増設問題を桂は巧みに利用し、第2次西園寺内閣の倒閣後、山縣自らが桂を擁立せざるを得ない状況へと誘導する。

大正政変からその死

だが、第3次桂内閣の時に第一次護憲運動が起こり、これに対して桂は「桂新党」構想実現のための新政党(後の立憲同志会)を立ち上げて対抗しようとしたが、達成できないまま2月20日、わずか62日で退陣を余儀なくされた。

その後は病状が悪化し、6月には葉山鎌倉に転地し、8月には一時容態が小康となり9月に三田の本邸に戻る。10月には脳血栓を起こし、10月10日の午後4時に死去、享年67。遺体遺言により死後解剖され、死因は腹部に広がっていたと頭部動脈血栓であると診断された。

葬儀は10月19日に増上寺で行われ、葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。

墓所

墓所は生前の桂の遺言により、吉田松陰を祀る松陰神社(東京都世田谷区)に隣接して建立されている。

人物

桂太郎は「ニコポン宰相」と呼ばれた。命名者は「東京日日新聞」記者の小野賢一郎で、桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため新聞にそう書いたと言われている。 背が低いわりに頭が大きく、腹がふくれた姿が七福神の大黒天に似ていたので、「大黒様」「巨頭公」と呼ばれた。

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族・親族

桂家

本姓大江氏。『日本の名家・名門 人物系譜総覧』246頁によれば、

「桂家は、三度首相に就いた桂太郎を出した家。同家は毛利元就と同族で、相模国津久井から出た氏で、元就の重臣としては桂元澄がいる。陶晴賢を厳島に誘い出して討つことに成功したのは、この元澄の働きによる。」という。

子女

3回結婚、5男5女を儲けた(うち1人は愛人との間に儲けた庶子)。

脚注

注釈

  1. ^ 陸海軍大将のなかでも軍功が抜群な者は特にこれを終身現役の大将として元帥の称号を冠することを許し、彼らが大元帥たる天皇の軍事面における最高顧問となった。したがって元帥は軍人としては最高の栄誉に他ならなかったが、軍人としての器よりも政治家としての器の方がはるかに大きかった桂にとって、それはなによりも有難迷惑なものでしかなかった。伊藤博文政友会にならって自身も新党を結成し、今後とも議会政治に対する影響力を一層伸張していくことを模索していた桂は、元帥府に列して現役軍人の身分が生涯つきまとうと、それが自身が望む政党党首となることを否定するものとなるばかりか、一政治家としての政治活動さえも著しく制限するものになることを嫌ったのである。

出典

  1. ^ 林茂千葉功など。伊藤之雄大久保利謙は否定している。 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』中央公論新社、2016年。
  2. ^ 澤村修治『天皇のリゾート:御用邸をめぐる近代史』図書新聞 2014年 ISBN 9784886114600 pp.157-174.
  3. ^ 商業会議所法』(明治34年3月25日法律第31号)、官報国立国会図書館
  4. ^ 『官報』第621号「叙任及辞令」1885年7月27日。
  5. ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
  6. ^ 『官報』第3991号「叙任及辞令」1896年10月15日。
  7. ^ 『官報』第363号「叙任及辞令」1913年10月13日。
  8. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  9. ^ 『官報』第2357号「叙任及辞令」1891年5月12日。
  10. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  11. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  12. ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
  13. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  14. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  15. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  16. ^ コマ4「◯授爵、敍任及辭令 ◯明治四十四年四月二十二日 …依偉勲特陞授公爵 正二位大勲位功三級侯爵 桂太郎…」
  17. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  18. ^ コマ5「◯宮廷錄事 ◯勅書 一昨二十二日陸軍大將公爵桂太郎ニ對シ左ノ勅書ヲ賜ハリタリ
    朕陸軍大將正二位大勲位功三級公爵桂太郎ヲ待ツニ特ニ大臣ノ禮ヲ以テシ茲ニ元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」
  19. ^ 勅語類・大正詔勅・乾:桂公爵ニ賜フ勅書アジア歴史資料センター Ref.A14110303800
  20. ^ コマ2
  21. ^ 『官報』第5365号「叙任及辞令」1901年5月24日。ただし同報では「フランス共和国グランオフィシェードロルドルナショナルドラレジョンドノール勲章」と記載。
  22. ^ 『官報』第6893号「叙任及辞令」1906年6月22日。ただし同報には「ローマ法王ピーヌーフ第一等勲章」と記載。
  23. ^ 『官報』第8123号「叙任及辞令」1910年7月20日。
  24. ^ 宇野(2006年)、P272 - P275、P284 - P285。
  25. ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 明治・大正篇』(実業之日本社、2017年)P116 - P118
  26. ^ コマ8「◯彙報 ◯華族卒去 公爵桂太郎長男正五位桂與一ハ一昨十六日卒去セリ」
  27. ^ 「桂太郎(明治の首相)が、軍人として名古屋に来たとき知り合った女性(のちに夫人となる)について知りたい。」 - レファレンス協同データベース
  28. ^ 『明治美人伝』長谷川時雨 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/07/21 14:03

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