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森喜朗とは?

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日本政治家
森 喜朗
もり よしろう

内閣官房内閣広報室より
公表された肖像写真

【生年月日】
(1937-07-14) 1937年7月14日(82歳)
【出生地】
日本 石川県能美郡根上町
(現、能美市)
【出身校】
早稲田大学商学部
【前職】
日本工業新聞従業員
衆議院議員今松治郎秘書
【現職】
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長
日本ラグビーフットボール協会名誉会長
日本トップリーグ連携機構名誉会長
日本体育協会最高顧問
日本臨床心理士資格認定協会会長
全国経理教育協会名誉会長
日印協会会長
日本水フォーラム会長
アジア・太平洋水フォーラム会長
【所属政党】
自由民主党(清和政策研究会→無派閥)
【称号】
商学士(早稲田大学、1960年)
桐花大綬章(2017年)
【配偶者】
森千恵子
【親族】
森喜平(祖父)
森茂喜()
森祐喜(長男)
岡田直樹()
第85-86代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次森内閣
第2次森内閣
第2次森改造内閣(中央省庁再編前)
第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
【在任期間】
2000年4月5日 - 2001年4月26日
【天皇】
上皇(平成の天皇)
第62代 建設大臣

【内閣】
村山改造内閣
【在任期間】
1995年8月8日 - 1996年1月11日
第56代 通商産業大臣

【内閣】
宮澤改造内閣
【在任期間】
1992年12月12日 - 1993年8月9日
第105代 文部大臣

【内閣】
第2次中曽根内閣
【在任期間】
1983年12月27日 - 1984年11月1日
衆議院議員

【選挙区】
(旧石川1区→)
石川2区
【当選回数】
14回
【在任期間】
1969年12月28日 - 2012年11月16日

森 喜朗(もり よしろう、1937年(昭和12年)7月14日 ‐ )は、日本政治家東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長。 衆議院議員文部大臣(第105代)、通商産業大臣(第56代)、建設大臣(第62代)、内閣総理大臣(第8586代)、自由民主党政務調査会長自由民主党幹事長自由民主党総務会長自由民主党総裁(第19代)などを歴任した。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 政界入りまで
      • 1.1.1 ラグビーへの思い入れと挫折
      • 1.1.2 早稲田大学雄弁会への入会
      • 1.1.3 日本工業新聞時代
    • 1.2 議員初当選
    • 1.3 官房副長官就任まで
    • 1.4 文部大臣時代
      • 1.4.1 産学官共同研究の強化
      • 1.4.2 臨時教育審議委員会の設置
      • 1.4.3 その他
    • 1.5 自民党での地歩
    • 1.6 自民党の政権転落と奪還
    • 1.7 村山内閣時代
    • 1.8 首相時代
      • 1.8.1 就任の経緯
    • 1.9 就任後
      • 1.9.1 批判
      • 1.9.2 官房長官の交代
      • 1.9.3 加藤の乱
      • 1.9.4 えひめ丸事故
      • 1.9.5 支持率
      • 1.9.6 メディアへの反論等
      • 1.9.7 報道等
    • 1.10 首相在任中の活動
      • 1.10.1 組織
      • 1.10.2 口蹄疫
      • 1.10.3 外交
        • 1.10.3.1 サミットの完遂
        • 1.10.3.2 多数の外遊
        • 1.10.3.3 対アフリカ
        • 1.10.3.4 対インド
        • 1.10.3.5 対太平洋諸国
        • 1.10.3.6 対中華人民共和国
        • 1.10.3.7 対韓国
        • 1.10.3.8 対アメリカ
        • 1.10.3.9 対台湾
        • 1.10.3.10 対ロシア
      • 1.10.4 内政一般
      • 1.10.5 国防
      • 1.10.6 公共事業
      • 1.10.7 その他
      • 1.10.8 評価
    • 1.11 首相退陣後の動向
      • 1.11.1 小泉政権
        • 1.11.1.1 小泉政権影の生みの親
        • 1.11.1.2 小泉純一郎に対する評価
        • 1.11.1.3 田中真紀子に対する評価
        • 1.11.1.4 買春疑惑
        • 1.11.1.5 その他
      • 1.11.2 郵政解散
      • 1.11.3 安倍、福田、麻生政権
        • 1.11.3.1 政局関係
        • 1.11.3.2 外交力強化に関する特命委員会
        • 1.11.3.3 外交活動
        • 1.11.3.4 麻生内閣に対する評価
        • 1.11.3.5 北陸振興策
        • 1.11.3.6 その他
      • 1.11.4 第45回衆議院議員総選挙
      • 1.11.5 2009年自由民主党総裁選挙
      • 1.11.6 民主党政権時代
      • 1.11.7 代議士引退へ
      • 1.11.8 引退後
  • 2 発言
    • 2.1 首相就任前
    • 2.2 首相時代
    • 2.3 首相退任後
  • 3 西松建設からの政治資金提供
  • 4 航空業界との関わり
    • 4.1 能登空港関係
    • 4.2 小松空港関係
      • 4.2.1 カーゴルックス航空の誘致
      • 4.2.2 中華民国便就航
  • 5 党内への影響力
  • 6 主な所属団体・議員連盟
  • 7 人物
  • 8 家族 親族
  • 9 系譜
  • 10 栄典
  • 11 称号
  • 12 略歴
  • 13 著述物
  • 14 参考文献
  • 15 関連項目
  • 16 脚注
    • 16.1 注釈
    • 16.2 出典
  • 17 外部リンク

経歴

政界入りまで

2001年3月25日、父の墓参りに訪れた森。

石川県能美郡根上町(現在の能美市)に、根上町長を務めた森茂喜と、妻の薫(1944年11月病死)との間に、長男として生まれる。小中時代はいじめの常連で何度も職員室に引っ張られたと講演で回顧している。中学時代の教師は森が悪いことをして交番に連れて行かれると、警官の前で森を怒鳴り、殴りつけた。父親の立場を慮って貰い受けに来た手前、必要だったものらしく、自転車の後ろに森を乗せて帰る途中「頭が痛かったら先生の背中にこすりつけろや」と言ってくれたと言う。こうしたやりとりから師弟の情愛が生まれ、その教師は後年森が立候補する頃には教組の幹部になっていたが「お前のお陰で教組を辞めなきゃいかんようになった。今まで自民党にだけは入れないできたが、とうとう自民党に入れることになってしまった。困った奴だ」と森に協力した。その後恩師は石川県中学校長会の会長になったという。

ラグビーへの思い入れと挫折

本人によれば上述のように勉強は出来なかったが、子供の頃より生涯に渡って強い関心を持ち続けることになったのがラグビーである。『森喜朗全人像』『あなたに教えられ、走り続けます』『自民党と政権交代』など森の著書やインタビューによれば、ラグビーに最初に興味を示したのは父の茂喜であり、戦時中トラック島空襲後同島に派遣された際には、部下を引き連れて捕虜と試合に興じて人心掌握にも有効活用したと言う。

戦後の1948年(昭和23年)、喜朗が小学5年生の時分に早稲田大学のラグビー部がOBである父を頼って根上町に合宿にやって来た。この時の練習試合の様子を見て喜朗はラグビーに興味を持ち、早稲田大学に行ってラグビーをやろうと決意し、練習に励むようになった。元々根上町からは学区制の関係でラグビーが強く進学校である石川県立金沢二水高等学校には進学できなかったが、金沢市立高岡中学校に越境入学し、根上町から汽車通学していた。高岡中学校にはラグビー部がなく、バスケットボール部に所属していた。中学校卒業後予定通り名門金沢二水高校に進学し、ラグビー部に入部。煙草を吸って処分された前任者に代わり、父親がPTAの会長であるから事件でぐらついた部を主導せよという理由でラグビー部のキャプテンを務め、北陸三県大会で富山県立魚津高等学校と決勝戦にすすんだものの敗退した。その活躍から、父の知人であった当時の早稲田大学ラグビー部監督大西鉄之祐スポーツ推薦を得て、早稲田大学商学部に入学する。しかし、全国から集まった強豪選手の中で、練習は過酷を極め、文化の違いもあって精神的にも参ってしまい、ある日吐血したため病院へ行ったところ胃潰瘍と診断され、医者から半年間練習を休むように言われた。半年もの間練習を休めばラグビー選手として終わりだと悟った森は入学から4ヶ月で退部を決心する。同時に、自分がラグビー部の推薦により大学へ入学した点を重く見て退学を決意するが、大西監督に「バカもの!」「ラグビーだけが大学じゃないぞ、森君。縁あって早稲田に入ったんだ。早稲田精神を身につけて少しでも世の中の役に立つ人間になろうと君は思わないのか。将来、ラグビーに恩返しができるような立派な人間になってみろ」と叱責され、退学を思いとどまる。

早稲田大学雄弁会への入会

結局、森は、早稲田大学ラグビー部こそ退部したが、郷里出身の早稲田大学大学院にいた先輩が森を見かね、雄弁会に入るように薦めた。森は2年生になると同時に雄弁会に入会し、やがて政治家を志すようになる。当時の雄弁会は現役の国会議員、特に野党の代議士が話をしに来てくれることが多く、国政の当事者に接することが出来るという恵まれた環境で生の政治を学んでいった。森自身演説の練習も行ったがそれを聴衆の前で披露する機会は在学中には訪れなかった。当時の雄弁会には、青木幹雄西岡武夫(当時代表幹事会議長)、深谷隆司玉澤徳一郎小渕恵三などが揃い、部室は梁山泊の様相を呈していた。この時期は雄弁会の黄金期である。

なお、ラグビー退部後も、勉強も優秀だが練習のため授業に出られないラグビー部員達のために教授に掛け合うなど、同部との関わりは続き、教授達とも一緒に飲みに行き講話にじかに接していた。早稲田祭で後輩の学生達に語ったところによれば、森達は部室(会室)には毎日出ていたが、教室にはいかないことから「大学周辺居住者」と呼ばれていたが、必要な単位は4年間で全て取得したと言う。

日本工業新聞時代

早稲田大学を1960年に卒業し、水野成夫の口利きで産業経済新聞社にコネ入社した。配属先は日本工業新聞に勤務し、のちに移籍する。。「今日あるのも産経のおかげ」と語っている。

雄弁会時代以来の付き合いである牧千恵子と1961年11月に結婚。百合丘公団住宅に当たり、1DKの新婚生活を始めた。記者時代は昼夜の別なく取材先を飛び回っており、妻・千恵子によれば、日本工業新聞での担当は自動車や機械などであり、取材先の会社の社長に可愛がられたりもしたのか、情報やニュースもかなり獲得し、1面トップ記事を書いたり、社長賞も貰ったと語っている。

議員初当選

政治家に転じるきっかけは、農機具メーカー、井関農機の取材中に岸信介側近の衆議院議員・今松治郎と知り合ったことだった。井関農機の創業者である井関邦三郎と今松は同郷の同級生であり、邦三郎の息子・昌孝は青年会議所に所属していた。昌孝と親しくなった森は、「今松の選挙を手伝ってみないか」と持ちかけられ、承諾した。なお、牛尾治朗とも昌孝を通じて1963年頃に知り合っている。

今松の秘書を務めた後、1969年第32回衆議院議員総選挙旧石川1区から立候補。この選挙は10人が乱立する混戦模様で(自民党3、社会党1、公明党1、民社党1、共産党1、保守系無所属1、革新系無所属1、その他無所属1)、森は泡沫候補と見られていた。実際、田中角栄自民党幹事長は森を「泡沫候補」と呼んで公認を与えなかった。

自民党の公認は既に満杯だった。自民前職2人(坂田英一井村重雄)が健康上の理由で出馬を断念したが、別川悠紀夫奥田敬和が新たに公認を受け、森は公認を得られなかったため、保守系無所属で出馬することになった。

出馬に際し、森は今松の秘書を務めていた縁から、岸信介元首相による応援を岸の秘書である中村長芳を通じて要請。岸は森の要請を快諾し、はるばる石川まで応援に駆けつけた。60年安保闘争(森は「安保騒動」と呼ぶ)による悪影響を懸念する声もあった。森の親族も父と同じく出馬に反対の意見が大勢であったが、選挙直前の一族会議中に、近隣の家から出火した。この時、森は決死の覚悟で家にとびこみ、仏壇を抱えて出て来たという。当時の北陸地方仏教への信仰が篤い土地柄であったこともあり、この行動は風向きを変えることになった。また、根上町内の森町長への信頼感と森を認めてこなかった既存の自民党組織・地方議員や奥田などへの反発から、町内では住民総出で選挙運動に協力する雰囲気となり、昼は老人と子供しか残っていないという有様であった。加えて、岸の応援で地元での人気が上昇し、下馬評を覆してトップ当選した。森は、無名の泡沫候補に過ぎない自分の応援のためにわざわざ駆けつけた岸に対し、終生恩義を忘れない姿勢を示しており、後年岸の外孫である安倍晋三が首相に就任した際は、後見人として安倍を支えることになる。

森の当選後、田中自民党幹事長は森を党本部に呼び、金を渡そうとした。森が反発すると、二階堂進が「(追加公認の)公認料および貸付金」と説明して、森に金を受け取らせた。森は田中の態度を見て、「この人とは絶対に席を同じにはできない」というものの金を返却することはなかった。帰途福田赳夫邸に寄って、さらなる資金援助を期待したものの、相手にされず空振りに終わった。

この選挙では同じ選挙区で奥田敬和も初当選しており、2人のライバル関係はのちに「森奥戦争」と呼ばれるようになる。石川1区では森の追加公認も併せて自民党が議席を独占したが、唯一の前職、桂木鉄夫は落選した。

立候補前は青年会議所においても、地元の小松に代議士になりたい者が何人も在籍していたためライバル視され、地元の会議所に入会させてもらえなかった。会議所が企画した催し物でもスピーカーを抑えて話をさせないようにされたと言う。それに憤った人達が「青朗会」を立ち上げ、森の選挙運動での中心組織となっていった。森が青年会議所に入会したのは衆院選初当選後、牛尾の引きによってであった。当初はライバル視故に反対されていたが、「東京で引き受ける」と会頭を務めていた牛尾が啖呵を切って、慌てた小松が森を受け入れたという。

官房副長官就任まで

当選後は岸の勧めに従い福田派(清和会の前身の紀尾井会)に入会。福田赳夫改造内閣では内閣官房副長官に就任し、首相の福田官房長官安倍を補佐した。

当選から間もない頃、1972年の沖縄返還に先んじて日米繊維協定が締結されると、従来型の繊維産業が集中していた石川県は大打撃を受け、雇用不安なども発生した。そこで東レが県内に工場を進出させた。この工場は自動化工場のはしりで、規模に比較して雇用吸収力は小さかったことは森も東レ側も互いに理解していたが、それでも経済的には助かる結果となった。後年、森は誘致に応じた東レに感謝の言葉を述べている。

文部大臣時代

1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣した。

文部大臣就任直後のインタビューにて、日教組に対しては話し合いは是とするものの、教育の場に政治運動を持ち込むことに対しては対決姿勢を鮮明にしている。

産学官共同研究の強化

文部大臣の時に諮問機関である学術審議会が「学術研究体制の改善のための基本的施策について」という答申を提出した。これは産学官共同を強化する内容であり、研究者の育成・支援体制の整備など「頭脳・技術立国」を目指すものであった。文部大臣退任後も北陸の政財界要人等とこの方向での教育問題に尽力し、6年後の1990年10月、先端科学技術分野における国際的水準の研究を行うための国立大学院大学として、北陸先端科学技術大学院大学の開学に漕ぎ着けた。

臨時教育審議委員会の設置

中曽根内閣は教育のあり方の再検討を目玉の一つに据え、「臨時教育審議会」の設置を図った。これに対して、日教組社会党は日教組代表を委員に加えるように要求していたが、森は「特定の団体を代表する人を入れるのは適当でない」と答弁し、初期から拒否の姿勢を明らかにした。この委員会は立法措置により根拠を与えることとなり臨時教育審議会設置法案が提出された。中曽根内閣は1984年の夏までには成立させることを目標として、趣旨を守りつつこれを通すことが森に課せられた任務となった。法案に対して野党は阻止を図ったが、中曽根と森は「柔軟な対応」を取るとして法案の修正には応じるが日教組の参加を認めない点を貫徹することとした。その目標通りに事態は推移し、自民の他当時野党であった公明、民社が修正協議に応じ、7月に日教組を外す方針のまま三党合意が図られ、8月に法案は成立した。なお、当時論議となった内容は入試制度、学制、幼保一元化、極端な学歴社会化の緩和などであった。

その他

その他、文相時代には、他大学での履修制度拡充 や入試多様化の一環として共通一次試験の改革が議論されている。また、大臣として訪米した際、当時の日本の国家的隆盛から教育にも関心が向けられていることを意外な感を持ったことなどから、アメリカの教育長官と諮った上で日米の教育を相互に比較する研究が着手されている。これは折からの臨教審での審議の参考にも供された。

上記のような実績を挙げたことで、以降自民党文教族の実力者として頭角を現した。

自民党での地歩

1988年リクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。

福田派を継いだ安倍派では三塚博塩川正十郎加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、ネオ・ニューリーダーとしての地歩を固める。しかし安倍にリクルートの江副浩正を紹介したのは森といわれており(森自身は否定)、晩年の安倍は森と距離を置いていた。1990年第39回総選挙後、第2次海部内閣の組閣人事で、海部俊樹首相は「リクルート関係議員は入閣させない」と公言しているにもかかわらず、安倍は森を入閣候補として推薦した。しかし、安倍は本気で森を推したのではなく、むしろ森を晒し者にしようとしたのではないかと薬師寺克行は指摘している。結果、森は入閣辞退を余儀なくされた。

自民党の政権転落と奪還

安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長通商産業大臣党幹事長建設大臣(村山改造内閣)、党総務会長と重要役職を次々と歴任した。

1993年7月より、清和会出身議員として4年ぶりの党幹事長を務めた際には、細川内閣が成立し、自民党が野党に転落した中での就任だった。入れ替わりとなる前任の梶山静六は辞任の際、残っていた党職員の忠誠心が高いことを失念して猜疑心から当り散らしたが、森は職員をいたわる機会が多かったと言う。総裁=総理大臣とは言えない状況下での後継者選びでは、自民党は河野洋平を総裁に選んだ。森が取った策は地方組織を丹念に回って地盤を固めてその意向を汲み取ることと、連立政権各派への切り崩し工作であった。これは次に述べる政治改革四法の採決で効果を挙げ始め、連立政権内に亀裂を走らせることになった。

細川内閣が成立を目指した、衆議院小選挙区比例代表並立制導入を柱とする、政治改革関連4法案は、社会党の一部などの造反により否決された。首相の細川護熙は、河野とのトップ会談で妥協を図ろうとした。細川には小沢一郎が、河野には森が同席した。細川内閣案は比例区は全国1区、自民党案は47都道府県に分けていた。森は、妥協案として全国11ブロックにすることを提案し、小沢の同意を得た。なお、森はブロック制にしたのは共産党対策だと述べている。1996年第41回衆議院議員総選挙では、もし全国1区ならば共産党は実際に獲得した26議席に加え、少なくともあと5〜6、多くて7〜8議席とっていたと森は述べている。

この後、社会党と新党さきがけを排除して羽田内閣が成立した。森、亀井、白川勝彦らは社会党委員長村山富市や、野坂浩賢など、社会党で連立政権に不満を持つ議員への接触を試みていた。自民党内にも、YKK(山崎拓加藤紘一小泉純一郎)の了解を取るなどの根回しを行ったが、中曾根康弘らには最後まで知らせなかった。6月28日、森は社会党の久保亘書記長(彼は連立残留派だった)と会談し、自民党は村山首班で行くと持ち出した。久保は「今の話は絶対に外に漏らさないで下さい」と言い、森は「私は漏らしません」と答えたが、「私」ではない小里貞利にそれとなく言うように仕向け、自民党の村山首班構想が明らかになった。6月29日、小沢は自民党から海部を首班候補として引き抜き、首班指名は村山と海部の争いになったが、決選投票の結果村山261、海部214で村山が指名された。こうして村山内閣が成立し、社会党、新党さきがけとの3党連立として、自民党は与党復帰を果たした。

村山内閣時代

村山改造内閣では建設大臣として入閣した。当初、自由民主党総裁の河野洋平は、自身が外務大臣から外れ、後任の外務大臣として森を推薦する意向を示していたが、村山は、河野外務大臣、橋本龍太郎通商産業大臣、武村正義大蔵大臣の留任を強く望んだ。このため河野は、森を無任所の総合経済対策担当大臣として入閣させたい意向を示したが、経済企画庁を中心に反対論が起こり、最終的に建設大臣としての入閣で落着した。後任の幹事長ポストには三塚博が就いた。閣内での仕事としては阪神・淡路大震災の教訓を踏まえた建築物の耐震化を促進するための「建築物の耐震改修の促進に関する法律」案の提出などがあり、同法は特に小中学校に配慮した内容として成立している。また、経済対策の一環として立ち遅れている大都市の社会資本整備を促進し、耐災害性の向上のため、一般公共事業と別枠で約6000億円の公共用地取得促進対策を実施した。

1995年夏になると1996年度予算の概算要求に向けた動きが活発化してきた。当時、自衛隊の存在を合憲と認めたとは言え、社会党内には拒否反応が依然として存在し、防衛予算の抑制要求として党内から突き上げがあった。その最中、アメリカはハバード米国務次官補代理を訪日させ、森と会談した。米側が要望したのは当時日米が共同開発していた次期支援戦闘機(FSX)の量産へ向けた予算や在日米軍駐留経費の十分な確保であり、森は「連立政権には自民党が入っているから大丈夫だ」などと協力的な姿勢を確約している。1995年9月に沖縄米兵少女暴行事件が発生し、在日米軍にとり逆風となったものの、12月の大蔵原案内示も無事通過し、1996年度の防衛予算は前年度比2.58%増とバブル崩壊後最大の伸びを示した(以降2009年8月に自民党が政権を失うまでこれほどの高い比率の伸びは無かった)。

1998年7月には、新たに総理、総裁に就任した小渕恵三のもと、再び幹事長に任命される。また、同年12月、三塚に派閥の継承許可を求め、「森派」とした。幹事長としての在籍日数は1358日で田中角栄に次いで歴代2位。

首相時代

就任の経緯

2000年4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。清和会議員の総理総裁就任は福田赳夫以来22年ぶりであった。このときの連立与党は自民党公明党保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。

森の首相就任は、当時の自民党有力議員5人(森喜朗本人、青木幹雄村上正邦野中広務亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれ、西側諸国の報道でも旧ソ連のクレムリン並みの密室人事と揶揄された。これらの論評に対して、森自身は「マスコミが密室と言いたがるだけ」と反論した。:

詳細は「五人組 (自由民主党 2000年)」を参照

就任後

前任者の急病による就任であり、総裁になるための正式な準備無しでの登板だったため、内心「正直いってえらいことになったな」と思ったという。

政策では小渕政権の政治目標を継承することを重視し、小渕が学生時代から取り組んでいた沖縄問題の一つの到達点と目していた沖縄サミットを完遂や、小渕が望んでやまなかった景気回復を目指した。この他対ロシア外交、教育基本法問題なども小渕と森が最後に話をした4月1日に政治課題として意識していた し、対アフリカ外交についても小渕が計画していたものであるとの指摘がある。 首相としての最初の外国訪問地にはロシアを選択し、ソ連との親善に努めてきた父の遺骨の一部があるシベリアの日本人墓地へプーチン大統領とともに訪れた。中央日報は徹底的に計算された行動であり、 プーチンは東方経済フォーラムで「我々の過去が未来に進むことを妨げてはいけない」と発言させ安倍晋三首相の意中を伝達する窓口を2013年以後は務めていてプーチン大統領とお互い「ヨシ」「ワロージャ」という愛称で呼び合う関係だと報道している。

また、所信表明直後に前から予定されていた医師の診断を受けたところ前立腺ガン

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出典:wikipedia
2019/10/16 21:07

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