このキーワード
友達に教える
URLをコピー

森鴎外とは?

【誕生】
森 林太郎
1862年2月17日
石見国津和野町田村
(現・島根県津和野町町田)
【死没】
(1922-07-09) 1922年7月9日(60歳没)
日本 東京府
【墓地】
禅林寺
【職業】
小説家評論家翻訳家陸軍軍医官僚
【言語】
日本語
【国籍】
日本
【教育】
博士(医学文学)
【最終学歴】
東京大学医学部
【活動期間】
1889年 - 1922年
【ジャンル】
小説翻訳史伝
【主題】
近代知識人の苦悩
【文学活動】
ロマン主義高踏派
【代表作】
舞姫』(1890年)
イタ・セクスアリス』(1909年)
青年』(1910年)
』(1911年)
阿部一族』(1913年)
山椒大夫』(1915年)
高瀬舟』(1916年)
渋江抽斎』(1916年、史伝)
【主な受賞歴】
勲一等旭日大綬章(1915年)
【デビュー作】
『於母影』(1889年)
【配偶者】
登志子(1889年 - 1890年)
志げ(1902年 - 1922年)
【子供】
於菟(長男)
茉莉(長女)
杏奴(次女)
不律(二男)
(三男)
影響を受けたもの

影響を与えたもの
  • 多くの日本の作家

ウィキポータル 文学

(もり おうがい、1862年2月17日(文久2年1月19日) - 1922年(大正11年)7月9日)は、日本明治大正期の小説家評論家翻訳家陸軍軍医(軍医総監=中将相当)、官僚(高等官一等)。位階勲等従二位勲一等功三級医学博士文学博士。本名は森 林太郎(もり りんたろう)。

石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京大学医学部卒業。

大学卒業後、陸軍軍医になり、陸軍省派遣留学生としてドイツでも軍医として4年過ごした。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより、一時期創作活動から遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「イタ・セクスアリス」「」などを発表。乃木希典殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」等も執筆した。

晩年、帝室博物館(現在の東京国立博物館奈良国立博物館京都国立博物館等)総長や帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長なども歴任した。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 陸軍軍医として任官
    • 1.3 ドイツ留学
    • 1.4 初期の文筆活動
    • 1.5 日清戦争出征と小倉「左遷」
    • 1.6 軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動
    • 1.7 晩年
  • 2 人物評
    • 2.1 評論的啓蒙活動
    • 2.2 幅の広い文芸活動と交際
    • 2.3 軍医として
      • 2.3.1 脚気惨害をめぐる議論
  • 3 年譜
  • 4 栄典
  • 5 主な作品
    • 5.1 小説
    • 5.2 戯曲
    • 5.3 詩歌および作詞
    • 5.4 翻訳
    • 5.5 史伝
    • 5.6 評伝
    • 5.7 随筆
    • 5.8 日記
  • 6 家族 親族
    • 6.1 先祖
    • 6.2 妻子
    • 6.3 弟妹
    • 6.4 傍系
    • 6.5 家系図
  • 7 その他のエピソード
  • 8 ゆかりの施設等
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

生涯

生い立ち

1862年2月17日(文久2年1月19日)、石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)で生まれた。代々津和野藩典医を務める森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。

藩医家の嫡男として、幼い頃から論語孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。

1872年(明治5年)、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京。現在の墨田区東向島に住む。東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備え、ドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社に入った。その際に通学の便から、政府高官の親族・西周の邸宅に一時期寄食した。翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。

陸軍軍医として任官

1873年(明治6年)11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学(新入生71名。後に首席で卒業する三浦守治も同時期に入学)。

定員30人の本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、佐藤元長に就いて漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩漢文に傾倒し、和歌を作っていた。

語学に堪能な外は、後年、執筆に当たって西洋語を用いるとともに、中国の故事などをちりばめた。さらに、自伝的小説「イタ・セクスアリス」で語源を西洋語の学習に役立てる逸話を記した。

1881年(明治14年)7月4日、19歳で本科を卒業。卒業席次が8番であり、大学に残って研究者になる道は閉ざされたものの、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(後の陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また小池と同じく陸軍軍医で日本の耳鼻咽喉科学の創始者といわれる親友の賀古鶴所(かこ・つると)は、外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した。

妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけた時、ある落語家長唄を聴いて中座)していたという。

ドイツ留学

外記念館、ドイツ・ベルリン

入省して半年後の1882年(明治15年)5月、東京大学医学部卒業の同期8名の中で最初の軍医本部付となり、プロイセン王国の陸軍衛生制度に関する文献調査に従事し、早くも翌年3月には『医政全書稿本』全12巻を役所に納めた。1884年(明治17年)6月、衛生学を修めるとともにドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。7月28日明治天皇に拝謁し、賢所に参拝。8月24日、陸軍省派遣留学生として横浜港から出国し、10月7日フランスマルセイユ港に到着。同月11日に首都ベルリンに入った。鷗外は横浜からマルセイユに至る航海中のことを「航西日記(こうせいにっき)」に記している。

最初の1年を過ごしたライプツィヒ(1884年11月22日–翌年10月11日)で、生活に慣れていない外を助けたのが、昼食と夜食をとっていたフォーゲル家の人達であった。

また、黒衣の女性ルチウスなど下宿人たちとも親しくつき合い、ライプツィヒ大学ではホフマンなど良き師と同僚に恵まれた。演習を観るために訪れたザクセン王国の首都ドレスデンでは、ドレスデン美術館アルテ・マイスター絵画館にも行き、ラファエロの「システィーナの聖母」を鑑賞した。

次の滞在地ドレスデン(1885年10月11日–翌年3月7日)では、主として軍医学講習会に参加するため、5か月ほど生活した。王室関係者や軍人との交際が多く、王宮の舞踏会や貴族の夜会や宮廷劇場などに出入りした。その間、2人の大切な友人を得た。1人は外の指導者でザクセン王国軍医監のウィルヘルム・ロートで、もう1人は外国語が堪能な同僚軍医のヴィルケ(鷗外はイルケと表記)である。外はドレスデンを離れる前日、ナウマンの講演に反論し、後にミュンヘンの一流紙『Allgemeine Zeitung』上で論争となった。

ミュンヘン(1886年3月8日–翌年4月15日)では、ミュンヘン大学ペッテンコーファーに師事した。研究の傍ら、邦人の少なかったドレスデンと異なり、同世代の原田直次郎近衛篤麿など名士の子息と交際し、よく観劇していた。

次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも早速、北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座をへてコッホの衛生試験所に入った。

9月下旬、カールスルーエで開催される第4回赤十字国際会議の日本代表(首席)としてドイツを訪れていた石黒忠悳に随行し、通訳官として同会議に出席。9月26日・27日に発言し、とりわけ最終日の27日は「ブラボー」と叫ぶ人が出るなど大きな反響があった。

会議を終えた一行は、9月28日ウイーンに移動し、万国衛生会に日本政府代表として参加した。11日間の滞在中、外は恩師や知人と再会した。1888年(明治21年)1月、大和会の新年会でドイツ語の講演をして公使の西園寺公望に激賞されており、18日から田村怡与造大尉の求めに応じてクラウゼヴィッツの『戦争論』を講じた。留学が一年延長された代わりに、地味な隊付勤務(プロイセン近衛歩兵第2連隊の医務)を経験しており、そうしたベルリンでの生活は、ミュンヘンなどに比べ、より「公」的なものであった。ただし、後述するドイツ人女性と出会った都市でもあった。

同年7月5日外は石黒と共にベルリンを発ち、帰国の途についた。ロンドン(保安条例によって東京からの退去処分を受けた尾崎行雄に会い、詩を4首贈った)やパリに立ち寄りながら、7月29日マルセイユ港を後にした。9月8日横浜港に着き、午後帰京。同日付けで陸軍軍医学舎の教官に補され、11月には陸軍大学校教官の兼補を命じられた。帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月(1888年9月12日 - 10月17日)ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることは無かったとされる。鷗外はドイツ留学中のことを「獨逸日記」に記している。

初期の文筆活動

1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表し、さらに同日の読売新聞から、弟の三木竹二と共にカルデロンの戯曲「調高矣津弦一曲」(原題:サラメヤの村長)を共訳して随時発表した。その翻訳戯曲を高く評価したのが徳富蘇峰であり、8月に蘇峰が主筆を務める民友社の雑誌『国民之友』夏期文芸付録に、訳詩集「於母影」(署名は「S・S・S」(新声社の略記))を発表した。その「於母影」は、日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた。また「於母影」の原稿料50円を元に、竹二など同人たちと日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊した(日清戦争の勃発により59号で廃刊)。

このように、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」などが有名)、熱心に評論的啓蒙活動を続けた。当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にした「舞姫」を蘇峰の依頼により『国民之友』に発表した。続いて「うたかたの記」「文づかひ」を相次いで発表したが、とりわけ、日本人と外国人が恋愛関係になる「舞姫」は、読者を驚かせたとされる。そのドイツ三部作をめぐって石橋忍月と論争を、また『しがらみ草紙』上で坪内逍遥の記実主義を批判して没理想論争を繰り広げた。

1889年(明治22年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)の美術解剖学講師を、1890年9月から約2年間東京専門学校の科外講師を、1892年(明治25年)9月に慶應義塾大学の審美学(美学の旧称)講師を委嘱された(いずれも日清戦争出征時と小倉転勤時に解嘱)。

日清戦争出征と小倉「左遷」

1894年(明治27年)夏、日清戦争の勃発により、8月29日に東京を離れ、9月2日に広島の宇品港を発った。翌年の下関条約の調印後、5月に近衛師団付きの従軍記者・正岡子規が帰国の挨拶のため、第2軍兵站部軍医部長の外を訪ねた。

との戦争が終わったものの、外は日本に割譲された台湾での勤務を命じられており(朝鮮勤務の小池正直とのバランスをとった人事とされる)、5月22日に宇品港に着き(心配する家族を代表して訪れた弟の竹二と面会)、2日後には初代台湾総督樺山資紀等とともに台湾に向かった。4か月ほどの台湾勤務を終え、10月4日に帰京。

1896年(明治29年)1月、『しがらみ草紙』の後を受けて幸田露伴斎藤緑雨と共に『』を創刊し、合評「三人冗語」を載せ、当時の評壇の先頭に立った(1902年廃刊)。

その頃より、評論的啓蒙活動が戦闘的ないし論争的なものから、穏健的なものに変わっていった。1898年(明治31年)7月9日付『万朝報』の連載「弊風一斑 蓄妾の実例」の中で、児玉せきとの交情をあばかれた。

外旧居(北九州市小倉北区鍛冶町)

1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進し、東京(東部)・大阪(中部)とともに都督部が置かれていた小倉(西部)の第12師団軍医部長に「左遷」された。19世紀末から新世紀の初頭を過ごした小倉時代には、歴史観と近代観にかかわる一連の随筆などが書かれた。

またドイツ留学中、田村怡与造に講じていた難解なカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』について、師団の将校たちに講義をするとともに、師団長・井上光などの依頼で翻訳を始めた。その内部資料は、他の部隊も求めたという。

小倉時代に「圭角がとれ、胆が練れて来た」と末弟の森潤三郎が記述したように、その頃外は、社会の周縁ないし底辺に生きる人々への親和、慈しみの眼差しを獲得していた。

私生活でも、徴兵検査の視察時などで各地の歴史的な文物、文化、事蹟との出会いを通し、特に後年の史伝につながる掃苔(探墓)の趣味を得た。

新たな趣味を得ただけではなく、1900年(明治33年)1月に先妻・赤松登志子結核で死亡した後、母の勧めるまま1902年(明治35年)1月、18歳年下の荒木志げと見合い結婚をした(41歳と23歳の再婚同士)。さらに、随筆『二人の友』に登場する友人も得た。1人は曹洞宗の僧侶、玉水俊虠(通称、安国寺)で、もう1人は同郷の俊才福間博である。2人は、外の東京転勤とともに上京し、外の自宅近くに住み、交際をつづけた。

軍医トップへの就任と旺盛な文筆活動

1902年(明治35年)3月、第1師団軍医部長の辞令を受け、新妻とともに東京に赴任した。6月、廃刊になっていた『めざまし草』と上田敏の主宰する『芸苑』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。当時は、12月に初めて戯曲を執筆するなど、戯曲に関わる活動が目立っていた。

1904年(明治37年)2月から1906年(明治39年)1月まで日露戦争第2軍軍医部長として出征。

1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権を持つ軍医のトップ)に就任した。

同年9月、美術審査員に任じられ、第1回文部省美術展覧会(初期文展)西洋画部門審査の主任を務めた。

1909年(明治42年)に『スバル』が創刊されると、同誌に毎号寄稿して創作活動を再開した(木下杢太郎のいう「豊熟の時代」)。「半日」「イタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを同誌に載せ、「仮面」「静」などの戯曲を発表。『スバル』創刊年の7月、外は、東京帝国大学から文学博士の学位を授与された。しかし、直後に「イタ・セクスアリス」(同誌7月号)が発売禁止処分を受けた。しかも、内務省警保局長が陸軍省を訪れた8月、外は陸軍次官・石本新六から戒飭(かいちょく)された。同年12月、「予が立場」でレジグナチオン(諦念)をキーワードに自らの立場を明らかにした。

1910年(明治43年)、慶應義塾大学の文学科顧問に就任(教授職に永井荷風を推薦)し、慶應義塾大学幹事の石田新太郎の主導により、上田敏を顧問に、永井荷風を主幹にして、「三田文學」を創刊した。また、その年には、5月に大逆事件の検挙が始まり、9月に『東京朝日新聞』が連載「危険なる洋書」を開始して6回目に外と妻の名が掲載され、また国内では南北朝教科書問題が大きくなりつつあった。そうした閉塞感が漂う年に「ファスチェス」で発禁問題、「沈黙の塔」「食堂」では社会主義無政府主義に触れるなど政治色のある作品を発表。

1911年(明治44年)にも「カズイスチカ」「妄想」を発表し、「青年」の完結後、「雁」と「灰燼」の2長編の同時連載を開始。同年4月の「文芸の主義」(原題:文芸断片)では、冒頭「芸術に主義というものは本来ないと思う。」とした上で、

無政府主義と、それと一しょに芽ざした社会主義との排斥をする為に、個人主義という漠然たる名を附けて、芸術に迫害を加えるのは、国家のために惜むべき事である。学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。 — 

と結んだ。

また陸軍軍医として、懸案とされてきた軍医の人事権をめぐり、陸軍次官の石本新六と激しく対立した。ついに医務局長の外が石本に辞意を告げる事態になった。結局のところ陸軍では、医学優先の人事が継続された。階級社会の軍隊で、それも一段低い扱いを受ける衛生部の外の主張が通った背景の一つに、山縣有朋の存在があったと考えられている。

1912年(明治45年)から翌年にかけて、五条秀麿を主人公にした「かのやうに」「吃逆」「藤棚」「鎚一下」の連作を、また司令官を揶揄するなど戦場体験も描かれた「鼠坂」などを発表した。当時は、身辺に題材をとった作品や思想色の濃い作品や教養小説や戯曲などを執筆した。もっとも公務の傍ら、『ファウスト』などゲーテの3作品をはじめ、外国文学の翻訳・紹介・解説も続けていた。

1912年(大正元年)8月、「実在の人間を資料に拠って事実のまま叙述する、外独自の小説作品の最初のもの」である「羽鳥千尋」を発表。翌9月13日乃木希典の殉死に影響を受けて5日後に「興津弥五右衛門の遺書」(初稿)を書き終えた。

これを機に歴史小説に進み、歴史其儘の「阿部一族」、歴史離れの「山椒大夫」「高瀬舟」などの後、史伝「渋江抽斎」に結実した。ただし、1915年(大正4年)頃まで、現代小説も並行して執筆していた。1916年(大正5年)には、後世の外研究家や評論家から重要視される随筆「空車」(むなぐるま)を、1918年(大正7年)1月には随筆「礼儀小言」を著した。

晩年

永明寺の墓

1916年(大正5年)4月、任官時の年齢が低いこともあり、トップの陸軍省医務局長を8年半勤めて退き、予備役に編入された。その後、1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現・東京国立博物館)総長兼図書頭に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。

さらに1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長に就任した。元号の「明治」と「大正」に否定的であったため、宮内省図書頭として天皇の元号考証・編纂に着手した。しかし『帝諡考』は刊行したものの、病状の悪化により、自ら見い出した吉田増蔵に後を託しており、後年この吉田が未完の『元号考』の刊行に尽力し、元号案「昭和」を提出した。

1922年(大正11年)7月9日午前7時過ぎ、親族と親友の賀古鶴所らが付きそう中、腎萎縮肺結核のために死去。満60歳没。

余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス

で始まる最後の遺言(7月6日付け)が有名であり、その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。上京した際に住んだ鷗外ゆかりの地である向島の弘福寺に埋葬され、遺言により中村不折墓碑銘を筆した。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。なお、関東大震災後、東京都三鷹市禅林寺と出生地の津和野町の永明寺に改葬された。

人物評

評論的啓蒙活動

外は自らが専門とした文学・医学、両分野において論争が絶えない人物であった。文学においては理想や理念など主観的なものを描くべきだとする理想主義を掲げ、事物や現象を客観的に描くべきだとする写実主義的な没理想を掲げる坪内逍遥と衝突する。また医学においては近代の西洋医学を旨とし、和漢方医と激烈な論争を繰り広げたこともある。和漢方医が7割以上を占めていた当時の医学界は、ドイツ医学界のような学問において業績を上げた学者に不遇であり、日本の医学の進歩を妨げている、大卒の医者を増やすべきだ、などと批判する。松本良順など近代医学の始祖と呼ばれている長老などと6年ほど論争を続けた。

外の論争癖を発端として論争が起きたこともある。逍遥が『早稲田文学』にシェークスピアの評釈に関して加えた短い説明に対し、批判的な評を『しがらみ草紙』に載せたことから論争が始まった。このような形で外が関わってきた論争は「戦闘的評論」や「論争的啓蒙」などと評される。もっとも、30歳代になると、日清戦争後に『めさまし草』を創刊して「合評」をするなど、評論的啓蒙活動は、戦闘的ないし論争的なものから、穏健なものに変わっていった。さらに、小倉時代に「圭角が取れた」という家族の指摘もある。

幅の広い文芸活動と交際

肩書きの多いことに現れているように、外は文芸活動の幅も広かった。たとえば、訳者としては、上記の訳詩集「於母影」(共訳)と、1892年(明治25年)–1901年(明治34年)に断続的に発表された「即興詩人」とが初期の代表的な仕事である。「於母影」は明治詩壇に多大な影響を与えており、「即興詩人」は、流麗な雅文で明治期の文人を魅了し、その本を片手にイタリア各地を周る文学青年(正宗白鳥など)が続出した。

戯曲の翻訳も多く(弟の竹二が責任編集を務める雑誌『歌舞伎』に掲載されたものは少なくない)、歌劇(オペラ)の翻訳まで手がけていた。

ちなみに、訳語(和製漢語)の「交響楽、交響曲」を作っており、6年間の欧米留学を終えた演奏家、幸田延(露伴の妹)と洋楽談義をした(「西楽と幸田氏と」)。そうした外国作品の翻訳だけでなく、帰国後から演劇への啓蒙的な評論も少なくない。

翻訳は、文学作品を超え、ハルトマン『審美学綱領』のような審美学(美学の旧称)も対象になった。単なる訳者にとどまらない外の審美学は、坪内逍遥との没理想論争にも現れており、田山花袋にも影響を与えた。その外は、上記の通り東京美術学校(現東京芸術大学)の嘱託教員(美術解剖学・審美学・西洋美術史)をはじめ、慶應義塾大学の審美学講師、「初期文展」西洋画部門などの審査員、帝室博物館総長や帝国美術院初代院長などを務めた。

交際も広く、その顔ぶれが多彩であった。しかし、教師でもあった夏目漱石のように弟子を取ったり、文壇で党派を作ったりはしなかった。ドイツに4年留学した外は、閉鎖的で縛られたような人間関係を好まず、西洋風の社交的なサロンの雰囲気を好んでいたとされる。官吏生活の合間も、書斎にこもらず、同人誌を主宰したり、自宅で歌会を開いたりして色々な人々と交際した。

文学者・文人に限っても、訳詩集「於母影」は5人による共訳であり、同人誌の『しがらみ草紙』と『めさまし草』にも多くの人が参加した。とりわけ、自宅(観潮楼)で定期的に開催された歌会が有名である。その観潮楼歌会は、1907年(明治40年)3月、外が与謝野鉄幹の「新詩社」系と正岡子規の系譜「根岸」派との歌壇内対立を見かね、両派の代表歌人を招いて開かれた。以後、毎月第一土曜日に集まり、1910年(明治43年)4月まで続いた。伊藤左千夫平野万里上田敏佐佐木信綱等が参加し、「新詩社」系の北原白秋吉井勇石川啄木木下杢太郎、「根岸」派の斎藤茂吉 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/12/08 11:34

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「森鴎外」の意味を投稿しよう
「森鴎外」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

森鴎外スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「森鴎外」のスレッドを作成する
森鴎外の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail