大洋ホエールズ(1950年 - 1952年)
松竹ロビンスと対等合併
大洋松竹ロビンス(1953年)
洋松ロビンス(1954年)
大洋ホエールズ(1955年 - 1977年)
横浜大洋ホエールズ(1978年 - 1992年)
横浜ベイスターズ(1993年 - 2011年)
横浜DeNAベイスターズ(2012年 - 現在)
山口県(1950年 - 1952年)
大阪府(1953年 - 1954年)
神奈川県(1955年 - 現在)
なし
1勝1敗
横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、英語: Yokohama DeNA BayStars)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。略称は「DeNA」。
神奈川県を保護地域とし、同県横浜市中区にある横浜スタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は同県横須賀市にある横須賀スタジアムである。更にその他には球団全体の練習場と合宿所が横浜DeNAベイスターズ総合練習場として同市に設けられている。
林兼商店(後の大洋漁業、現・マルハニチロ)の実業団チームとして1929年5月に設立され、翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした(初戦敗退)。翌年は中国大会でベスト4に入るなどの成績を残したが、世界恐慌の影響などで1932年の第6回全日本都市対抗野球大会前に休止状態となり、軟式野球部だけが太平洋戦争開始前後まで存在していた。戦後、1946年6月に大洋漁業(1945年12月に改称)軟式野球部として復活、同年11月(一説には1947年3月)には硬式野球部へ変更された。その後の都市対抗野球では全国大会の常連となり、1948年には国体で優勝し一躍名をあげる。
1949年プロ野球シーズンオフ、リーグ拡張方針で各企業がプロ野球参加に名乗りを上げ、大洋漁業野球部からは、戸倉勝城・河内卓司・徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれた。野球部に情熱を注いでいた前社長中部兼市は憤慨し、自社野球部のプロ参加方針を打ち出す。
1949年11月22日に「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。セントラル・リーグに加盟。山口県下関市をフランチャイズ、下関市営球場(下関球場とは別)を本拠地球場とした。本来、大洋の社章と同じ「(は)=はを丸囲みしてマルハと読ませる」とすべきだが、新聞の活字にそれがないため、「まるは」と表記していたといわれている。
社会人野球としての大洋漁業野球部は、まるは球団設立によって1949年11月30日をもって解散したが、社会人野球時代の選手には拘らないという中部兼市の方針でまるは球団に移籍出来なかった選手のために、大洋漁業が呼びかける形で「全下関」チームが結成され、1951年まで活動していた。
1950年シーズン開幕後に「大洋ホエールズ(たいようホエールズ)」に球団名を改称(3月に会社名を株式会社大洋球団に変更)し、9月には事務所を下関市から東京都千代田区に移転。読売ジャイアンツからベテランの中島治康と平山菊二、大陽ロビンスから藤井勇と林直明を譲り受け、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズから大沢清や長持栄吉、片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛や今西錬太郎らを補強してスタートしたものの、投手力の弱さはいかんともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わり、1951年は6位、1952年は4位と伸び悩んだ。
1951年、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討されたが、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動もあって広島との合併の話は立ち消えになった。1952年、9月7日の対松竹ロビンス戦(京都市西京極総合運動公園野球場)は、当時のセ・リーグ最長イニング記録である延長20回を戦い抜いたが、チームはサヨナラ負けを喫した。
1953年1月10日、「シーズン勝率3割未満の球団に対して処罰をおこなう」という前年の取り決めの該当球団となった松竹ロビンスと対等合併に合意、セ・リーグは6球団体制となる。「大洋松竹ロビンス(たいようしょうちくロビンス)」に改称し、翌1954年には通称名の洋松が入る「洋松ロビンス(ようしょうロビンス)」に改称した。
1953年シーズンは球団の合併・統合が決まりながらも運営会社の完全合併が間に合わず、フランチャイズも大洋球団の下関市と松竹球団の京都市で並立。球団運営も2社で1つの球団を運営すると言う変則的な形となり、選手の給与もそれぞれの前所属球団から支給された。主催試合は興行面の利点から大阪球場で行われた。1年目のシーズン終了後(12月16日)に球団運営会社が新設合併で正式統合され(当時の会社名は株式会社大洋松竹球団)、球団事務所も大阪球場内に置かれた。
大阪時代の球団成績は1953年は5位。翌1954年は32勝96敗2分で最下位となり、優勝した中日ドラゴンズとは55ゲーム離され、5位の国鉄スワローズに23ゲームの大差を付けられる大惨敗であった。
12月11日限りで松竹は球団経営から撤退し、中部謙吉がオーナーとなる。球団名を「大洋ホエールズ」に戻し、保護地域を神奈川県へ移転した。
川崎市の川崎球場を本拠とする新生ホエールズとして再スタートしたが、成績は31勝99敗。首位・巨人と61.5ゲーム差も離され、5位・国鉄にも大差をつけられての最下位。
明治大学から秋山登、土井淳、岩岡保宏、黒木弘重、沖山光利の5名が入団。同一校の選手が同一球団へ同時に5人も入団するのは極めて珍しく、彼らは「明大五人衆」と呼ばれて注目を集めた。エース・秋山登が毎年の酷使に耐え抜き、巨人から移籍した青田昇が三度の本塁打王を獲得。
ロビンス時代の1954年から6年連続最下位。
前年まで西鉄ライオンズの監督だった三原脩を招聘。三原は新人の近藤昭仁と、シーズン中に近鉄バファローから獲得した鈴木武で二遊間を固め、秋山や島田源太郎を中心とした投手力を前面に押し出して水原茂監督率いる巨人と優勝争いを演じ、前年最下位からのリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも毎日大映(大毎)オリオンズ相手に全て1点差勝利で4連勝。日本一に輝いた。
1962年・1964年も阪神と激しく優勝を争うもあと一歩及ばず、1963年は、最下位・広島と1ゲーム差の5位。
1965年以降チームの勝率は1969年から1971年の3年間を除いて本拠地移転まで5割を超えなかった。三原は1967年に監督を退任。 1965年から1973年にかけての巨人の9連覇中、大洋は強力打線で巨人の投手陣を粉砕するものの、貧弱な投手陣が同様に打ち込まれ、大味な打撃合戦に発展することが多かった。当時の巨人に打ち合いで勝てるチームの筆頭は大洋で、それも両翼89メートル、中堅118メートルという本拠地・川崎球場の狭さも少なからず関係していた。
開幕から6月頃までは混戦のセ・リーグで広島とともに首位争いの主導権を握っていた。ところが7月頃から徐々に低迷、結果的に巨人のV9を許し、優勝争いに最後まで加われなかったヤクルトにも抜かれて前年と同じく5位に終わった。青田昇が成績不振の責任をとって監督辞任。
チームは5位。松原誠が初めて打率3割をマーク、最多安打を獲得。
5位に終わる。
川崎から横浜への移転計画を画策していた大洋球団は、横浜での新球場建設の資金を捻出するため飛鳥田一雄横浜市長の斡旋で国土計画(現プリンスホテル)の出資を受け入れる。これにより、大洋球団の株式保有率は、大洋漁業55%、国土計画45%となる。
オーナーだった中部謙吉が1月に死去。親会社の大洋漁業は長男の中部藤次郎が、大洋球団オーナーは三男の中部新次郎がそれぞれ継承した。松原や米田慶三郎といった守備の名手に加え、クリート・ボイヤー、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーンら好守備を誇る外国人選手の活躍もあり、1970年代の大洋内野陣は堅守を誇った。1980年代に入っても山下大輔、基満男、高木豊に受け継がれた。
国土計画の主導で横浜市中区に建設した横浜スタジアムに移転、都市名を入れた「横浜大洋ホエールズ(よこはまたいようホエールズ)」に改称。横浜の小学生が入り易いファンクラブの設置など営業体制の改革を伴った改変によりファンが増加した。この年、国土計画が福岡野球株式会社(クラウンライターライオンズ)を買収したため、野球協約に抵触することとなり、同社が持つ大洋球団の株式はニッポン放送とTBS(東京放送)へ2:1の割合で売却された。これより先2002年初めまで、球団株式保有率は大洋漁業(のちにマルハ)55%、ニッポン放送30%、TBS15%となった。
序盤は巨人と、6月からはヤクルトも交えた三つ巴の首位争いを展開する。移転初年度の年は4位に終わるが、観客動員は143万7千人となり、球団史上初めて100万人を突破している。
2位に躍進。この年をもって別当は監督を退任。翌年、大洋球団の常務取締役・球団代表に就任した。
土井淳が監督就任。初年度は4位。この年のドラフト会議では地元東海大学の原辰徳を1位指名したが交渉権を獲得できなかった。
キャンプでは野球用具が盗難に遭ってしまう。 開幕との広島戦が雨で2試合とも流れたため、開幕はホームでの巨人戦となったが、その巨人に8連敗。5月下旬に最下位に低迷し、6月に山下大輔が月間MVPを受賞して成績を勝ち越し、復調するかに見えたが、7月以降は連敗を繰り返して最下位脱出に至らず、土井はシーズン中の9月24日をもって休養。優勝した巨人から31.5ゲーム差、5位・中日にも15.5ゲーム差も離された最下位に終わる。
長嶋茂雄を監督に招聘する布石として長嶋と親交のある関根潤三を監督に迎えたが、長嶋の招聘には失敗した。また、ジュニアと呼ばれた関根浩史入団について日産野球部との交渉が破談した。この年は5位に終わる。
4月は最下位で折り返すが、その後、次第に浮上していき、3位と4年ぶりのAクラスになる。
最下位に転落。この年限りで平松政次が引退。同年限りで関根は辞任。
近藤貞雄が監督に就任。高木豊、加藤博一、屋鋪要のスーパーカートリオを売り出し注目された。しかし、遠藤、斉藤明夫頼みの投手陣は改善されず、チーム成績は振るわず4位。
4位に終わり、近藤は2年で監督を退任。
広島を4度の優勝に導いた古葉竹識を監督に迎えるが、5位、4位、最下位と3年間で1度もAクラス入り出来ないなど成績は振るわず、1989年にシーズン最下位の責任をとり監督を辞任した。古葉は5年契約ながら3年目で辞めたことについて、成績不振と開幕から低迷したことで、スポーツ紙等で進退問題に関する記事が出て、球団からの辞任勧告につながったのだろうと述べている。しかしこの間、1998年の優勝時の主力選手を多数獲得するなど、スカウティングの面では成功したといえる。古葉の後任監督にはOBでは元監督の土井淳、山下大輔、外部招聘では高田繁の名が挙がっていたが大洋で2年間二軍監督の経験のある須藤豊が監督に就任し、投手コーチには小谷正勝が3年ぶりに復活した。
序盤は巨人との熾烈な首位争いを見せた。その後、失速し、最後は広島にも抜かれて3位に終わるも、7年ぶりのAクラスを果たす。
4月は首位に立つもその後失速し、5位転落。
開幕早々に監督を辞任し、チーフコーチの江尻亮が監督代行。のちに監督昇格し、閉幕まで采配を振る。この年は5位に終わるも、盛田幸妃と佐々木主浩のダブルストッパーが確立された。
4月1日、親会社の大洋漁業がコーポレートアイデンティティ実施によりマルハに改称することに伴い、ホエールズも地域に密着した市民球団を目指し、球団名を「横浜ベイスターズ(よこはまベイスターズ)」に改称した。翌年4月に会社名も従来の株式会社大洋球団から株式会社横浜ベイスターズに変更。球団名から企業名「大洋」を外し、都市名の「横浜」のみを冠するという方針はCI導入決定時に決まっていたが、改称後の球団名は社内外では当初、愛称をそのまま使った「横浜ホエールズ」になるという憶測があった。しかし、中部慶次郎オーナーは、かつて大洋漁業の主力事業だった商業捕鯨の規制が強まっていることを指摘し「ウチの会社はもうこれ以上、クジラばかりに頼るわけにはいかなくなった。だから愛称も変更しなければならない」と、社内に新愛称を検討するよう指示。その結果、愛称は「横浜ベイブリッジ」から取った「ベイスターズ」となった。また、ベイスターズの選手がマルハのCMには一切出演しないことが確約された。
チーム生え抜きの近藤昭仁が監督に就任。球団名変更に伴い、ユニホーム・球団旗・ペットマーク・マスコットキャラクターを一新。ベイスターズ初年度は5位に終わる。この年限りで斉藤明夫が引退。この年のオフから始まったフリーエージェント制度により、シーズン終了後に巨人の駒田徳広を獲得。長年チームを支えた高木豊や屋鋪要、山崎賢一、市川和正ら主力選手が大量解雇された。
獲得した駒田の他、佐伯貴弘や波留敏夫などを起用してチームの若返りを図るが、混戦のシーズンの中、結果的に最下位に終わる。
結果的に4位に終わるも12年ぶりのシーズン勝率5割台を果たす。のちに首位打者となる鈴木尚典が3番レフトに定着するなど若手が台頭した。しかし、フロントからの近藤に対する監督としての評価はあまり芳しくなく、この年限りで任期満了により退任となった。
バッテリーコーチの大矢明彦が監督に就任。4月を首位で折り返し、「セ・リーグの台風の目」と評されながらも5月以降失速し、5位に終わる。
権藤博をバッテリーチーフコーチに迎える。シーズン序盤は下位に低迷していたが、選手の実績より好調を優先した起用をし始めるとチームは浮上しシーズン後半に首位のヤクルトを脅かす急追を見せたもののあと一歩及ばず、2位で終わったが7年ぶりのAクラス入りを果たし貯金持ちでのAクラスは1979年以来であった。大矢は2年契約を終えてオフに監督を辞任。
権藤が監督に昇格。抑えの佐々木主浩を不動の中心とする投手陣と一度打ち始めると止まらない「マシンガン打線」がかみ合い、10月8日に38年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦した。下馬評は西武有利と予想されたが、4勝2敗で日本一となる。ベストナインに6選手、ゴールデングラブ賞に5人が選出される。また前年怪我の為一軍登板が無かった斎藤隆が復活を果たしカムバック賞 を獲得。シーズンオフにはドラフトで、この年の目玉選手・地元横浜高校の松坂大輔を1位指名したが獲得できなかった。
ローズが153打点を記録し二冠王に輝く活躍を見せるなどこの年もマシンガン打線が絶好調で、チームはシーズン通算打率.294と当時のチーム打率の日本記録を更新する。しかし投手陣は川村丈夫が17勝を挙げる活躍するものの、三浦大輔の不調や野村弘樹、佐々木主浩の故障などで頭数がそろわず、3位に終わる。オフには、佐々木が大リーグ・シアトル・マリナーズに移籍。
ロッテから小宮山悟が入団。金城龍彦が新人王と首位打者の二冠に輝くものの、投打共に不調や故障者等で優勝争いには届かず2年連続の3位。オフに権藤が監督を勇退。主力打者のローズ、駒田も退団。この年よりファーム組織を湘南シーレックスと改称し、独立採算を目指した活動を開始する。
西武を8度リーグ優勝に導いた森祇晶が監督に就任。この年のみ順位決定方式が異なり、5年連続のAクラス(3位)となった(この年の順位に関しては後述)。シーズンオフには、正捕手の谷繁元信が、森監督との確執もあり、FA権を行使して中日に移籍した。また、チーム最多勝投手の小宮山もメジャーリーグに挑戦するために退団した。
1月26日に親会社(筆頭株主)がマルハからニッポン放送に変更される予定だった。しかし、そのニッポン放送の当時の関連会社だったフジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)がヤクルト球団株を20%強保有していたため、一転してTBS(東京放送)への移行がプロ野球オーナー会議で承認された。球団オーナーは当時のTBS社長砂原幸雄となった(詳細はマルハからTBSへの筆頭株主交代の節を参照)。これに際し、1978年以降ニッポン放送が独占中継権を押さえていたために喪失していた、TBSラジオの中継権が復活。横浜スタジアムからの ・・・・・・・・・・・・・・・・・・