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樺太とは?

【樺太島】


座標
北緯45度54分 - 北緯54度20分
東経141度38分 - 東経144度45分
面積
76,400平方キロメートル km²
【最高標高】
1,609メートル m
【最高峰】
ロパチン山
【所在海域】
オホーツク海日本海
【所属国・地域】
ロシア (北樺太)
日本政府はサンフランシスコ平和条約によって南樺太を放棄したが、ソ連邦が締結しなかったため、南樺太は帰属未定地である。

樺太(からふと)、樺太島(からふととう、ロシア語: Сахалин中国語: 庫頁島)、サハリンサハリン島は、ユーラシア大陸の東方、オホーツク海の南西部にあるロシア連邦サハリン州の島。広義の日本列島に含む場合もある。南北約948km、東西の幅最大約160kmで南北に細長い。面積76,400kmは世界第22位で21位の北海道(78,073km)より若干小さい。人口約50万人。最大都市はサハリン州の州都でもあるユジノサハリンスク(人口約18万人)。

樺太は、日露戦争後のポーツマス条約により北緯50度線を境界に南北に分割され、それぞれ異なる沿革を経たため、ここでは北緯50度以北を「北樺太」(または「北サハリン」)、以南を「南樺太」と表記する。

現在、サハリンプロジェクトが進められている。

目次

  • 1 概要
  • 2 名称
  • 3 地理
    • 3.1 主な山岳
    • 3.2 主な湖沼
    • 3.3 主な河川
    • 3.4 島嶼
    • 3.5 南樺太
      • 3.5.1 石炭産業
      • 3.5.2 亜庭湾
      • 3.5.3 林業と製紙業
      • 3.5.4 新聞
      • 3.5.5 ラジオ放送
      • 3.5.6 銭湯
      • 3.5.7 樺太出身の有名人
      • 3.5.8 交通
      • 3.5.9 遺骨
      • 3.5.10 皇太子裕仁親王の行啓
      • 3.5.11 樺太犬
      • 3.5.12 カラフトマス(樺太鱒)
      • 3.5.13 マリモ
      • 3.5.14 フレップ
      • 3.5.15 競馬
    • 3.6 北樺太(北サハリン)
  • 4 歴史
    • 4.1 日露競合前
    • 4.2 日露の領土競合時代
    • 4.3 全島のロシア領期
    • 4.4 南部の日本領期
    • 4.5 内地時代
    • 4.6 戦後の樺太
  • 5 帰属の歴史
  • 6 領土問題
  • 7 樺太等在留邦人
  • 8 脚注
  • 9 参考文献
  • 10 関連項目
    • 10.1 地理
    • 10.2 その他
  • 11 外部リンク

概要

 | 
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年8月)

1945年(昭和20年)までは北緯50度線を境にして、南半分(南樺太、南サハリン)を「樺太(カラフト)」として大日本帝国が、北半分(北樺太、北サハリン)を「サハリン(ロシア語: Сахалин)」としてソビエト連邦が領有していた。日本領有下においては、南樺太およびその付属島嶼を指す行政区画名として「樺太庁」が使用された。

現在はロシア連邦が北樺太の領有に加え、南樺太をも実効支配している。南樺太については、日本はサンフランシスコ講和条約によって放棄した。

第二次世界大戦において、沖縄県における沖縄戦に続いて、日本本土(内地)最後の地上戦が行われた地でもある(樺太の戦い)。

名称

「からふと」の名は、一説にはアイヌ語でこの島を「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ 」(kamuy kar put ya mosir) と呼んだ事に由来すると言う。これはアイヌ語で「神が河口に造った島」を意味し、黒竜江(アムール川)の河口から見てその先に位置することからこのように呼ばれたとされる。尚、樺太アイヌ語では、「陸地の国土」を意味するヤンケモシリと呼ばれ、 北海道アイヌ語ではカラプト Karapto と呼ばれる 。

古くは1646年(正保3年)に成立した松前藩の歴史書『新羅之記録』に「唐渡之嶋」として見え、正保日本図にも「からとの嶋」が描かれている。1669年(寛文9年)のシャクシャインの戦いに関する同時代史料では「からふと」(「奉言上覚」『津軽一統志』)「からふとの島」(『蝦夷蜂起注進書』)という表記が確認できる。1700年(元禄13年)の『松前島郷帳』には「からと嶋」とある。1704年(宝永元年)に蝦夷地へ渡った正光空念の史料では「からふと」「からふと嶋」という表記が多いものの、「唐ふとう嶋」「からふとふしま」「からとのしま」といった表記も見られる。

1783年(天明3年)の『加模西葛杜加国風説考』では「カラフトの北にサカリインといふ大嶋有」とし、同書の付図では「カラフト」を大陸と地続きの半島として描き、別に「サカリイン」を島として描いている。1785年(同5年)の『三国通覧図説』においても「カラフト嶋」は大陸の半島としてを描かれ、別に「北海中ノ一大国」として「サガリイン」を描いている。1809年(文化6年)以降は東西の蝦夷地に対して北蝦夷地とも呼ばれた(それ以前は西蝦夷地に含まれた)。その後、明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり「樺太」という漢字表記が定められる。

「サハリン」(古くは「サガレン」と表記)という名称は、清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じた清国版図測量の際に、黒竜江(満州語名:ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
転写:sahaliyan ula、サハリヤン・ウラ)河口の対岸に島があると聞き、そこを満州語でサハリヤン・ウラ・アンガ・ハダ(ᠰᠠᡥᠠᠯᡳᠶᠠᠨ
ᡠᠯᠠ
ᠠᠩᡤᠠ
ᡥᠠᡩᠠ
転写:sahaliyan ula angga hada 、「黒竜江の対岸の島」)と呼んだことに由来する。 ポーツマス条約調印以降の日本では、単に「樺太」と言えば南樺太を指したため、北樺太を指してサガレン(薩哈嗹)と呼ぶ場合もあった。「サガレン州派遣軍」などは、その一例である。

中国語ではの時代の呼び名である「庫頁島」(クーイェダオ)と呼ばれる。また、ロシア語の音訳である「薩哈林島」(サハリンダオ)も使われる。

地理

樺太と周辺の地形
樺太の白地図

樺太は、ユーラシア大陸の東方、北海道の北方に位置しており、北緯45度54分から54度20分、東経141度38分から144度45分にかけて広がる島である。島は南北に細長く、東西の幅が最大で約160km(最狭部は約26km)であるのに対し、南北は約948kmにも及ぶ。島の面積は北海道よりやや小さく76,400kmである(北海道本島の面積は77,981.87km)。その面積のうちの約70%は山岳地帯によって占められており、平地は北部に集中している。

樺太は、南の北海道とは宗谷海峡により、また、西のユーラシア大陸とは間宮海峡により隔てられている。島の北岸および東岸はオホーツク海に面している。なお、2万年ほど前には海水面が低下しており、今日のユーラシア大陸・樺太・北海道は互いに地続きだったと考えられている。

樺太の最北端は、シュミット半島の先端に位置しているガオト岬(エリザベート岬)である。シュミット半島から西方の樺太北岸から、対岸の大陸側であるアムール川河口地域の北岸までの海岸線を一続きとみると南に湾曲した湾状の海岸線となっている。この湾はサハリン湾と呼ばれている。

南の宗谷海峡に対しては、西側から能登呂半島が、また東側から中知床半島が突き出ており、これら2つの半島の間には南に開く亜庭湾(アニワ湾)がある。能登呂半島の先端は樺太の最南端となる西能登呂岬である。中知床半島の先端は中知床岬である。

樺太の西方はユーラシア大陸との間に間宮海峡が横たわっている。間宮海峡の最狭部はネヴェリスコイ海峡と呼ばれ、その幅は約7.3kmである。

東方のオホーツク海に対しては、島の中南部から北知床半島が突き出ている。先端の北知床岬から西方は北へ向かって海岸線が湾曲し、その湾は多来加湾(タライカ湾)と呼ばれている。

樺太の気候亜寒帯モンスーン気候に属する。夏季湿度が高く、が多く発生し、日照時間が少なくなる。冬はオホーツク海側で乾燥し、厳しい寒さとなり、海が氷結すると晴天が続く。日本海側では雪が多くなるものの、オホーツク海側と比較して冷え込みは緩む。また、夏と寒暖の差が大きく、特に大陸の影響を受けやすい北樺太は、大洋の影響が大きい南樺太より気温差が大きく、2018年現在まで観測されている最高気温記録は、ノグリキで1977年7月に観測された39度、最低気温記録はティモフスコエで1980年1月に観測されたマイナス50度であり、寒暖差の大きさがデータでも確認することができる。南西部は対馬海流(暖流)の影響を受け比較的温暖であり冬季も海は結氷しないが、北東に行くにしたがい東樺太海流(寒流)の影響を受け気温が低く冬季は海が結氷する。植物の分布境界線として北樺太西海岸のヅエと南樺太東岸の内路を結ぶシュミット線が有名であり、日本固有種の分布はこの線より南側で、北側は針葉樹林などシベリア系の様相となっている。動物の分布境界線は八田線(宗谷線)があり、宗谷海峡を挟み樺太と北海道で両生類爬虫類などの分布が異なっている。

樺太は石油天然ガスなどの豊富な地下資源にも恵まれている。

地理的な日本列島(国家としての意味ではない)の中では、本州北海道に次ぎ、3番目に大きい島である。

樺太の先住民には、南部のアイヌ、東岸中部以北のウィルタ、北部のニヴフといった北方少数民族がいる。1905年から1945年までの日本統治下の南樺太では樺太庁はアイヌを除く樺太先住民(ウィルタ、ニヴフなど)は戸籍法上は樺太土人と扱って内地人と区別されていたが、日本国籍を付与していた(樺太アイヌは当初は樺太土人として内地人と区別されていたが、1932年1月に戸籍法上は内地人と同じとなった)。樺太の先住民は南樺太に居住して日本国籍を与えられていたために、ソ連による樺太占領後は残留意思を持った者を除き北海道に送還されている。日本では終戦後の1945年にアイヌを除く樺太先住民の参政権が停止されたものの、1952年のサンフランシスコ平和条約発効の際に就籍という形で参政権を回復した。現在の樺太住民の中にはアイヌを名乗る者が若干名存在するものの、統計が取られていないために詳細は不明である。

主な山岳

主な湖沼

主な河川

島嶼

南樺太

王子製紙豊原工場。

南樺太は、日本施政下においては樺太と呼ばれる行政区画であった。地方行政官庁として樺太庁が設置され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に外地から内地へと編入された。人口1945年(昭和20年)当時、約40万人であった。当時の主要な産業は漁業農業林業製紙パルプなどの工業石炭石油採掘業など。南樺太の中心都市は、樺太庁の置かれた豊原市(ユジノサハリンスク)。現在は稚内港より船で渡航が可能。船で行く場合3日間以内に限りビザなしで滞在が可能。その他に空路も利用可能。

石炭産業

1905年、明治政府は、樺太南部から中部までの地層を細かく調査、本州へも移出。塔路町周辺では良質の無煙炭が多く採れた。その富を求めて、人口が増加、塔路小学校では三千名の児童を抱え、六十名の教員が在職、「日本最大の小学校」と言われた。

亜庭湾

樺太の留多加は比較的に温暖であり、農耕にも適しているが、亜庭湾においてホッキガイなどを採取し、採取後には暖を取るためたき火などもしていた。

林業と製紙業

1905年(明治38年)の祖国復帰後、明治政府は蝦夷松椴松パルプの原料となることを調査・研究によって突き止め、1914年(大正3年)、第一次世界大戦特需景気の恩恵を受け急成長を遂げる。王子製紙富士製紙樺太工業による三社寡占状態であったが、1933年(昭和8年)に王子製紙が競合二社を吸収合併、王子製品は本州へも移出された。また同時期には木材業者の合併も行われ、樺太木材統制組合が設立された。

森林伐採は、開発と不可分で進行するが島内ですべてを消費できることもなく、木材の島外への移出は活発となった。移出量は、1929年(昭和4年)にピークを迎え約1,300万石を記録。しかしその後は漸減し、第二次世界大戦直前の1941年(昭和16年)には約10万石に落ち込んだ。戦争中は、木材を運搬する船腹が不足し、積み出しが不能になったまま終戦を迎えた。

新聞

日刊紙だけでも十紙以上が発行されていた(後、読売新聞社が経営、日刊各紙は読売に統合後、読売系樺太新聞となる)。代表的な日刊紙は、樺太日日新聞、樺太時事新聞、樺太毎日新聞、真岡毎日新聞、恵須取毎日新聞である。

ラジオ放送

豊原放送局」を参照

1936年(昭和11年)、豊原での試験放送が人気を得て、1941年(昭和16年)、日本放送協会(NHK)は豊原放送局を開設。

銭湯

島民の証言によると、豊原には数軒以上の銭湯があった

樺太出身の有名人

「Category:日本統治時代の南樺太出身の人物」を参照

交通

稚内桟橋駅から大泊港駅まで、稚泊連絡船で約8時間。

遺骨

熊笹峠には、樺太の戦いにおけるソ連軍の南進を阻止し、同軍に北海道進攻を断念させた日本の将兵の遺骨が今も眠っている。

皇太子裕仁親王の行啓

1925年(大正14年)、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が、樺太を訪問(行啓)。豊原市真岡町大泊町などで構成される樺太庁が出迎えた。

樺太犬

樺太犬は日本固有種であり、きわめて飼い主に忠実である。南極物語に登場するタロとジロがそうである。

カラフトマス(樺太鱒)

カラフトマスは、缶詰の原料として利用されている。

マリモ

樺太の富内村には湖沼が多数存在し、マリモが多く生息し北海道のものとは種類が異なるため、樺太天然記念物として指定されている。

フレップ

フレップ(コケモモ)と呼ばれる直径約1cm程度の木の実があり、ジャムなどにもなる。フレップとは、アイヌ語で、「赤い物」という意味である。

競馬

詳細は「樺太の競馬」を参照

日本の植民地時代の南樺太では6月から9月の間、競馬が盛んにおこなわれていた。1931年(昭和6年)には大小20か所の競馬場があり、その中で8か所が1932年(昭和7年)に樺太競馬規則による公認競馬場に認可された。

北樺太(北サハリン)

北樺太は、樺太・千島交換条約以来のロシア領であり、ロシア帝国時代は沿海州に属した。ソビエト連邦成立当初はシベリア出兵時発生した尼港事件を受け、1920年7月〜1925年5月15日の約5年間日本のサガレン州派遣軍による保障占領下にあった。1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退するとハバロフスク地方として置かれ、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市はオハアレクサンドロフスク・サハリンスキー(日本名:オッチシ・落石)である。オハ油田サハリンプロジェクト(サハリン1サハリン2)が代表的な石油産業である。

歴史

氷河期には大陸と陸続きだった。古代以前は続縄文人(南部に進出)や、オホーツク文化人(日本書紀に記される粛慎)などが存在し、鎌倉時代以降は南部にアイヌ民族や和人が進出、東岸中部にウィルタ民族(アイヌ民族は「オロッコ」と呼んだ)、北部にニヴフ民族(ニヴヒとも。アイヌ民族は「スメレンクル」と呼んだ)などの北方少数民族もいた。

日露競合前

中国、朝鮮の古書(山海経海東諸国記)には、いずれも「日本の北(又は領域)は黒龍江口に起こる。」と記載。また、飛鳥時代斉明天皇のころ行われた蝦夷征討・粛慎討伐の際、阿倍比羅夫が交戦した幣賄弁島は樺太との説もある。

以下に幕府が把握した北蝦夷地(樺太)のアイヌ人の人口と、明治政府が把握した樺太人員の本籍人口をまとめる。
北蝦夷地(樺太)人員の変遷
【西暦(元号)】
人口
1804年(文化元年) | 2,100
1822年(文政5年) | 2,571
1839年(天保10年) | 2,606
1854年(安政元年) | 2,669
1873年(明治6年)1月1日 | 2,358
1875年(明治8年)1月1日 | 2,374

日露の領土競合時代

出典:wikipedia
2018/12/03 15:10

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