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橋本龍太郎とは?

橋本 龍太郎
はしもと りゅうたろう
2002年10月16日バージニア州
アーリントン郡ペンタゴンにて(65歳)

【生年月日】
1937年7月29日
【出生地】
日本 東京府東京市渋谷区
(現:東京都渋谷区)
【没年月日】
(2006-07-01) 2006年7月1日(68歳没)
【死没地】
日本 東京都新宿区
【出身校】
慶應義塾大学法学部政治学科
【前職】
呉羽紡績従業員
【所属政党】
自由民主党
【称号】
正二位
大勲位菊花大綬章
法学士(慶應義塾大学・1960年)
岡山県総社市名誉市民
剣道教士六段
【配偶者】
妻・橋本久美子
【親族】
加納久宜(義曾祖父)
中村雄次郎(義曾祖父)
阪谷芳郎(義曾祖父)
橋本卯太郎(祖父)
大野緑一郎(祖父)
若宮貞夫(義祖父)
加納久朗(義祖父)
中村貫之(義祖父)
橋本龍伍(父)
橋本大二郎(異母弟)
橋本岳(二男)
第82-83代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次橋本内閣
第2次橋本内閣
第2次橋本改造内閣
【在任期間】
1996年1月11日 - 1998年7月30日
【天皇】
今上天皇
初代 規制改革担当大臣

【内閣】
第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
【在任期間】
2001年4月1日 - 2001年4月26日
初代 沖縄及び北方対策担当大臣

【内閣】
第2次森改造内閣(中央省庁再編後)
【在任期間】
2001年1月6日 - 2001年4月26日
第42代 沖縄開発庁長官

【内閣】
第2次森改造内閣(中央省庁再編前)
【在任期間】
2000年12月5日 - 2001年1月6日
その他の職歴

副総理
(1995年10月2日 - 1996年1月11日)
第103代 大蔵大臣
(1998年1月28日 - 1998年1月30日)
第59代 通商産業大臣
(1994年6月30日 - 1996年1月11日)
第93-94代 大蔵大臣
(1989年8月10日 - 1991年10月14日)
第58代 運輸大臣
(1986年7月22日 - 1987年11月6日)
第57代 厚生大臣
(1978年12月7日 - 1979年11月9日)
衆議院議員
(1963年 - 2005年8月8日)

橋本 龍太郎(はしもと りゅうたろう、1937年(昭和12年)7月29日 - 2006年(平成18年)7月1日)は、日本政治家登山家位階正二位勲等大勲位学位法学士(慶應義塾大学)。岡山県総社市名誉市民剣道錬士六段

衆議院議員(14期)、厚生大臣(第57代)、運輸大臣(第58代)、大蔵大臣(第9394103代)、通商産業大臣(第59代)、副総理(村山改造内閣)、内閣総理大臣(第8283代)、沖縄開発庁長官(第42代)、行政改革担当大臣(初代)、沖縄及び北方対策担当大臣(初代)、規制改革担当大臣(初代)、自由民主党幹事長(第29代)、自由民主党政務調査会長自由民主党総裁(第17代)などを歴任した。

目次

  • 1 来歴・人物
  • 2 生涯
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 学生時代
    • 2.3 政治家の道へ
    • 2.4 枢要ポストを歴任
    • 2.5 総裁候補へ浮上
    • 2.6 第17代自民党総裁
    • 2.7 第2次橋本内閣
    • 2.8 消費税増税とその後
    • 2.9 首相退任後
    • 2.10 晩年
  • 3 政策
  • 4 人物
    • 4.1 人物像
    • 4.2 登山家として
    • 4.3 政治家としての評価
  • 5 略歴
  • 6 栄典
  • 7 著書
  • 8 家族・親族
    • 8.1 橋本家
    • 8.2 石光家
    • 8.3 人脈
  • 9 出典
  • 10 注釈
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

来歴・人物

初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣大蔵大臣等を歴任し、いわゆるニューリーダーの後をになう総裁候補に目されるようになった。

1994年に発足した、自社さ連立政権村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務、1996年村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。

在任中は、住宅金融専門会社問題(住専問題・第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではビル・クリントンアメリカ合衆国大統領や、ボリス・エリツィンロシア連邦大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣行政改革担当大臣沖縄開発庁長官。また中央省庁再編後には規制改革担当大臣沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。

2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、翌2006年に死去。

竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。

生涯

生い立ち

東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)に大蔵官僚橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女。母・春は中耳炎をこじらせ、龍太郎の生後5か月後に急死した。父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた。

学生時代

田園調布小学校に入る前、7歳の時に、継母・正を迎えた。

麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった。

中学入学時から学校の勉強には全くついていけず、常に圧倒的最下位だったので、政治家の息子なので誰もが裏口入学だと暗黙の了解事項として理解していた。

麻布中学時代のニックネームは「サル」。

中学時代殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだったと言う記述も有る。また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた。

1956年慶應義塾大学法学部政治学科に入学。慶應は足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた大学でもあり、父にとっても龍太郎の慶應義塾合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という。大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた。

なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという。大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社した。

制服を好み、学生時代は常に詰襟学生服か剣道着で生活していたという。また、日本国有鉄道の民営化の際に運輸大臣を務めていたので国鉄の制服を着て式典に臨み、その時に着用した制服は後々も大事に保管されていた。

政治家の道へ

社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという。

父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている。しかし、当時未成年であった大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の母・正に出馬を求める声も挙がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった。立候補が決まった龍太郎は、当時の西村英一厚生大臣にお願いして、父が大臣を務めた厚生省の会議をまんべんなく見学、実務を熟知しているノンキャリアの課長補佐に貼り付くように質問をしながらノートを取り続けて猛勉強しており、その姿は政治記者だけでなく厚生省を取材していた社会部記者も感心していたという。

1963年の総選挙で衆議院議員に初当選。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った。

初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。

議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。媒酌人は佐藤栄作。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤が葬儀委員長を務めた。そういった関係でもあり派閥は佐藤派に所属した。

1969年第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞、田中派に参加した。

枢要ポストを歴任

1978年12月7日、第1次大平内閣厚生大臣に任命され、当選5回で初入閣を果たした。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した。

水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。しかし応対した橋本は、患者らの「人命軽視だ」という批判に「政府が人命を大事にしなかったことがあるか! 取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた。

竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。

1986年7月22日、第3次中曽根内閣運輸大臣に就任して国鉄分割民営化を担当した。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。

1987年には竹下内閣で幹事長代理に就任し、健康不安のある幹事長安倍晋太郎を支え続け、消費税導入や昭和天皇大喪の礼に対して党側の実務を担当した。

総裁候補へ浮上

1989年宇野内閣成立時には幹事長代理の経験が買われ、幹事長に昇格した。リクルート事件や消費税の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選では、かつてない逆風にさらされて、自民党が惨敗した際には「こんちくしょう…」とチェリー喫煙しながら悔しがるシーンが、テレビで放映され話題となったが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説したことで、国民的人気を得るに至った。

宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。

1989年8月第1次海部内閣大蔵大臣に就任し、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで引責辞任した。

1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、後継会長の座をめぐって小沢一郎派と反小沢一郎派が対立。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。小沢・羽田派は経世会を離脱して改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。

この間の1991年12月に弟の大二郎が高知県知事選挙に立候補し、当選した。この時、橋本が所属する自民党推薦の候補と対決。龍太郎は大二郎を擁護し「自慢の弟です」と述べた。

1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した。総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は下野した。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁のもとで政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて「政権奪還論」を著している。

自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権村山内閣通商産業大臣に就任した。大臣在任中、日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも高く評価されている。

第17代自民党総裁

1996年4月17日迎賓館にてアメリカ合衆国大統領ビル・クリントン(左)と

1995年9月、橋本は国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退。河野に代わって三塚派小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された。橋本は304票を獲得し、87票を獲得した小泉に圧勝。第17代自由民主党総裁に就任した。幹事長に宮澤派の加藤紘一総務会長に三塚派の塩川正十郎。政調会長に旧渡辺派山崎拓を選任した。橋本は総裁就任に伴って、村山改造内閣副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。

1996年1月11日村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。

就任当初は、村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題で、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開するなど激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開したことから、政権への批判が強まった。ただし、海外市場では好感する動きが見られた。

同年2月23日、アメリカのクリントン大統領との日米首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求、4月に全面返還で日米政府が合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策環境政策が絡む中で米国や沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、代替施設について名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率が60%に上昇した。

自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に現職の内閣総理大臣としては11年ぶりに靖国神社を参拝した。

同年の臨時国会冒頭の9月27日、衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙中は橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われる国民的人気を見せ付けている。

第2次橋本内閣

1997年4月9日総理大臣官邸にてアメリカ合衆国国防長官ウィリアム・コーエン(左)と

1996年11月7日社民党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣となった(なったといっても閣外協力なので連立の枠組みはあった)第2次橋本内閣が発足。橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。特に行政改革は橋本が「火だるまになっても(行革を)やり切る」と述べたため『火だるま行革』とマスメディアに報道された。

橋本は、首相直属の「行政改革会議」を設置。メンバーには武藤嘉文総務庁長官中央省庁改革等担当大臣、水野清総理補佐官(行政改革担当)のほか、経団連会長の豊田章一郎連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。

同年12月17日、ペルーリマにある日本大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動が占拠し、多数が人質となる在ペルー日本大使公邸占拠事件が発生した。直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリが武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリに親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリと会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した。事件の際、外務省の対策本部に木村屋總本店あんパンを大量に差し入れ、「アンパン総理」といった声も聞かれた。

1997年通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させることで合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された。橋本は自社さ派と評されるようになる。

同年6月23日、コロンビア大学での講演において聴衆から「日本が米国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量の米国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そして、アメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由に挙げた上で「米国債を売却し、外貨準備を金に替えようとしたい誘惑に、屈服することはない」と続けた。しかし、大量の米国債を保有する日本の首相が「米国債を売却」への言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落した。

同年9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本改造内閣が発足。梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を中央省庁改革等の担当である総務庁長官に起用した。これに非難が集中、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった。

同年11月のロシアのエリツィン大統領と日露首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した。

同年11月に財政構造改革法を成立させ、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとった。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け同年12月、2兆円の特別減税を表明した。

同年12月24日から「龍ちゃんプリクラ」こと橋本首相といっしょに写真が取れるプリントクラブが、党本部1階ロビーに設置された。

1998年4月、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した。また同年、金融監督庁を設置。大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。同年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で過半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消。

同年7月の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/09/15 09:08

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