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正力松太郎とは?

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日本政治家
正力 松太郎
1955年

【生年月日】
1885年4月11日
【出生地】
日本 富山県射水市
【没年月日】
(1969-10-09) 1969年10月9日(84歳没)
【死没地】
日本 静岡県熱海市
【出身校】
東京帝国大学法科大学
(現・東京大学)
【前職】
内務官僚
警視庁警務部長
内閣情報局参与
京成電気軌道総務部長
読売新聞社代表取締役社長
日本テレビ放送網代表取締役社長
讀賣テレビ放送取締役会長
読売ジャイアンツ創立者・初代オーナー
日本武道館会長
【所属政党】
(翼賛政治会→)
(無所属→)
(日本民主党→)
自由民主党
【称号】
従二位
勲一等旭日桐花大綬章
富山県高岡市名誉市民
富山県射水市名誉市民
駒澤大学名誉博士
講道館柔道十段
野球体育博物館特別表彰(1959年)
【配偶者】
初婚・正力布久子
再婚・正力波満
【親族】
長男・正力亨
二男・正力武
第4代 科学技術庁長官
第8代 国家公安委員会委員長

【内閣】
第1次岸改造内閣
【在任期間】
1957年7月10日 - 1958年6月12日
初代 科学技術庁長官

【内閣】
第3次鳩山一郎内閣
【在任期間】
1956年5月19日 - 1956年12月23日
第11代 北海道開発庁長官

【内閣】
第3次鳩山一郎内閣
【在任期間】
1955年11月22日 - 1956年12月23日
衆議院議員

【選挙区】
富山県第2区
【当選回数】
5回
【在任期間】
1955年2月28日 - 1969年10月9日
貴族院議員

【選挙区】
勅選議員
【在任期間】
1944年5月28日 - 1946年4月13日

正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年(明治18年)4月11日1969年(昭和44年)10月9日)は、日本の内務官僚実業家政治家。元読売新聞社社主位階勲等従二位勲一等。富山県高岡市名誉市民京成電鉄OB。

目次

  • 1 人物概要
  • 2 略年譜
  • 3 内務官僚時代
  • 4 新聞経営
  • 5 大リーグ招聘・球団結成
  • 6 襲撃事件
  • 7 テレビ放送事業
  • 8 CIAの協力者としての活動
  • 9 遺訓
  • 10 家族・親族
    • 10.1 正力家
  • 11 正力を演じた俳優
  • 12 参考文献
  • 13 脚注
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

人物概要

読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父テレビ放送の父原子力の父とも呼ばれる。

東京帝国大学法科大学卒で内務省に入省。警視庁警務部長のとき虎ノ門事件が発生し、警衛責任者として警視総監湯浅倉平とともに懲戒免官となった。

翌年、経営難で不振の読売新聞を買い受けて社長に就任し、新聞界に転じた。以後、政財界に影響力を拡大。1940年(昭和15年)の開戦時は大政翼賛会総務であったためにA級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、巣鴨プリズン収容者の1人となった。このためしばらく公職追放処分を受けた。

戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたる中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している。また、自由民主党総裁の座も狙っており、渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役にしていた。

駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

左から吉田茂首相、堤操(歌人)、正力、堤康次郎
(昭和29年7月衆議院議長就任レセプション)

略年譜

内務官僚時代

警視庁官房主事として1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。刑事畑においては、のちに甲賀三郎が『支倉事件』の題名で小説化した事件の捜査にあたり、東大同窓生が犯した鈴弁殺し事件においては自首を仲介した。

新聞経営

1924年(大正13年)、番町会グループである郷誠之助藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(現・読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。戦前は報知新聞社の販売局長だった務臺光雄を正力が誘って読売へ移籍させ、大阪資本の東京朝日新聞東京日日新聞などと販売競争で競い合った。そして、読売新聞の全国進出を狙って九州日報など日本各地の地方紙を買収して経営参加に成功するも、新聞統制によって計画は頓挫した。戦後、読売新聞の全国紙計画が本格化し、1952年(昭和27年)に大阪讀賣新聞社(現・読売新聞大阪本社)を設立、念願の西日本進出を果たした。以後、札幌と正力のお膝元である高岡市にも東京直轄による発行支社を設置し、1964年(昭和39年)、正力の長年の懸案だった九州読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を正力・務臺との二人三脚で朝日毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。

大リーグ招聘・球団結成

1934年(昭和9年)、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が創設され、1936年(昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、慶應義塾大学への進学が決まっていた沢村栄治を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も沢村が中学卒でしかなかったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。

正力は最初期と戦後の一時期を除いて読売ジャイアンツのオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー)に就任した。このような正力の業績を称え1959年野球殿堂入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞が贈られている。

戦後、読売新聞を離れていた時期には毎日新聞と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売新聞側は毎日の加入に反対し、最終的にセ・リーグパ・リーグに分かれることになる。正力自身は当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であった。

襲撃事件

1935年(昭和10年)、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられ重傷を負った。直接の実行犯の長崎勝助武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘し、神宮球場を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞の幹部による指示があったとされた。

テレビ放送事業

正力マイクロ波事件」も参照

1952年(昭和27年)7月31日、正力が電波監理委員会へ免許出願していた日本テレビ放送網(以下、日テレ)に日本のテレビジョン放送局としては初となる予備免許が交付された。日テレは当初、東京を本部として札幌市から鹿児島市まで日本各地に支局を置き、日本全国をカバーする構想だった。しかし、「単一資本による複数県にまたがる放送は、メディアの寡占となり好ましくない」という郵政省(当時)の見解により、やむなく関東地方のローカル局として開局せざるを得なくなることとなった。当時の放送機材はアメリカ合衆国からの輸入に頼っており、機材の搬入が予定より大幅に遅れたことから、日テレより後に予備免許が下りた日本放送協会(NHK)が1953年(昭和28年)2月1日に東京で日本初のテレビジョン放送を開始することになった。

同年5月15日、ワシントンのショーラム・ホテルへ日本の政府・議会・軍・航空の関係者を集め、正力を事業主とする「テレビを含む国際通信のためのユニテル・リレー網計画」の説明会が行われた。テレビに留まらないマルチメディア事業であり、正力の懐刀柴田秀利も日テレ代表として列席した。説明会を企画した人物の出身は大別して、元OSS員か、中央情報局スタッフか、ジャパン・ロビーかであった。

そして、NHKより半年遅れの8月28日に日テレは日本初の民間放送によるテレビジョン放送を開始、正力は日テレの初代社長に就任した。日テレは民間放送であることから、コマーシャルを収入源としている。テレビジョン放送開始当時のテレビ受像機は庶民にとって“高嶺の花”だったことから、正力はテレビ受像機の普及促進と各企業からのスポンサー獲得のため、東京都内を中心とした繁華街、主要鉄道駅百貨店公園など人の集まる場所に街頭テレビを常設し、一般家庭へのテレビの普及に全力を注いだ。その結果、力道山などが活躍したプロレスを始めとしたスポーツ中継では街頭テレビの観衆が殺到し、スポンサーの説得も功を奏して日テレは開局から半年たって黒字化を達成した。

1958年(昭和33年)10月、東京のテレビ電波塔東京タワー」が完成し、NHKや在京キー局各局は東京タワーに基幹送信所を置いたが、正力は日テレのみ東京タワーへの送信所移転を拒否し、麹町本社鉄塔からの送信を続けた。そして、東京・新宿に高さ550mの電波塔「正力タワー」の建設を構想、1968年(昭和43年)に起工式が行われるも、正力の死で実現しなかった。「正力タワー」の建設予定地だった場所には日テレの子会社である日本テレビサービス日本テレビゴルフガーデンを建設したが、1997年12月、社有地が売却され、2012年4月に新宿イーストサイドスクエアが建築されている。そして、正力の死後の1970年(昭和45年)11月10日に日テレも基幹送信所を東京タワーに移転した。

CIAの協力者としての活動

早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。

米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために‘KMCASHIR’という作戦名の心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダ「平和のための原子力」を大衆に浸透させるため、正力と親しい柴田秀利と接触した。

日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった、その結果、正力の個人コードネームとして「podam」(英:我、通報す)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになったen:Psychological_Strategy_Board(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。

CIAに正力を推薦したのは、上院議員カール・ムントであるとベンジャミン・フルフォードは主張している。

遺訓

正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。

  • 巨人軍は常に紳士たれ
  • 巨人軍は常に強くあれ
  • 巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ

家族・親族

正力家

元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助がこの地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による。江戸嘉永年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した。この功により庄助は奉行から苗字帯刀を許された。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった。

  • 祖父・庄助
  • 父・庄次郎(土建請負業)
  • 母・きよ
松太郎の両親はもともと本願寺の熱心な門徒だった。父・庄次郎は毎朝毎晩の勤行をかかさなかった。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった。
  • 前妻・布久子
警視庁の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の警視総監安楽兼道が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県出身)と見合いさせ、結婚させたことでもわかる。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった。その長女も8歳で早世した。
  • 後妻・波満
1895年(明治28年)4月生 -
正力は最初の妻を失って間もなく、千葉県上総湊(現富津市)出身で精華女学校の和裁教諭の吉原波満と再婚した。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の勝田孫弥が、波満の実家と縁つづきという関係からだった。勝田はその一方で、元警視総監の安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった。
  • 長男・(第2代讀賣社主、第2代球団オーナー) … 後妻との間の子
1918年(大正7年)10月生 - 2011年(平成23年)8月没
妻峰子の妹は池坊専永夫人の保子である。
  • 二男・ … 柳橋の元芸者中村すゞとの間の子
日本テレビの副社長に就任したが最初に断行したことは、同社の役員だった弟の武を、傍系のよみうりランドに追放したことだった。正力から認知され、日本テレビ入りしたものの、武の在社期間はわずか二年にすぎなかった。武はその後、二度と日本テレビに復帰することなく、1985年(昭和60年)五月、五十一歳の若さでこの世を去った。熱望していた結婚は結局叶わず、独身のままの淋しい死だった。武は晩年、自分の人生を呪うように、浴びるほどのをのみつづけた。
すゞは美人でもなく、しかも前夫との間の子供もいるいわゆるコブつきで、友人たちの間では、正力ほどの人物がなぜあんな女を、という悪評判ばかり立っていたという。
  • 長女・梅子(読売新聞社名誉会長小林與三次の妻)… 後妻との間の子
1920年(大正9年)生 -
小林與三次と梅子のなれそめについて小林によると「ジイさん(松太郎)の姉さんが、テロによるケガの具合を心配して、僕に様子を見に行ってくれ、と頼んできた。それがきっかけとなって、僕が田舎に帰るたび、ジイさんの近況を実家に報告するようになった。そんなことからだんだんと正力家と親しくなった。学費を正力家から出してもらったという話もあるようだが、僕は育英金で学費をまかなったので、正力家からは一銭も出してもらっていない。結婚についてはジイさんから直接話があった」という。
小林與三次の実家について佐野眞一によると「要塞のような正力家の屋敷に比べ、庄川の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ舟船頭に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている」という。
  • 二女・利子(よみうりランド社長関根長三郎(元三菱銀行副頭取関根善作の三男、元衆議院議員、信濃毎日新聞社長小坂善之助)の妻)… 後妻との間の子
1923年(大正12年)生 - 2007年(平成19年)9月21日没

正力を演じた俳優

参考文献

出典:wikipedia
2018/04/17 10:04

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