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武豊とは?

【武豊】

2012年12月24日 リボン賞表彰式

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
京都府京都市伏見区生まれ
育ちは滋賀県栗太郡栗東町
(現・栗東市)
【生年月日】
(1969-03-15) 1969年3月15日(51歳)
【身長】
170cm
【体重】
50kg
【血液型】
O型
【騎手情報】

【所属団体】
栗東トレーニングセンター
【所属厩舎】
武田作十郎厩舎(1987年-1992年2月29日)
→フリー(1992年3月1日-)
【初免許年】
1987年3月1日
【免許区分】
平地

武 豊 (たけ ゆたか、1969年(昭和44年)3月15日 - )は、日本中央競馬会 (JRA) の騎手である。

JRA全国リーディングジョッキーを18回獲得(歴代最多)。騎手大賞を9回獲得(歴代最多)。通算GI勝利数は地方、海外含めて100勝以上を記録(歴代最多)。その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録、および歴代最多騎乗数記録など数々のJRA記録を保持し、「日本競馬界のレジェンド」と称されている。

来歴

祖先は薩摩国出身の武家 (家族)であり、薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入った曽祖父の彦七は函館大経の門下生となる。祖父芳彦は馬主協会元会長。父邦彦は元騎手・元調教師であり、弟幸四郎もJRA所属の元騎手(1997年3月~2017年2月)・現調教師(2017年3月~)である。妻は元タレントの佐野量子。小中学校時代の同級生に調教師の池江泰寿がいる。

少年時代

1969年、父邦彦、母洋子夫妻の三男として京都府に生まれた。翌1970年、武一家は現在の栗東市栗東トレーニングセンターに転居した。住まいのそばに厩舎があるため、厩舎にいる馬にニンジンを与えてから出かけるのが武の日課になっていた。物心つく前から身近な環境で馬と暮らしていたこと、また騎手だった父の姿を見ていたことが影響し、武は物心ついたころには「騎手になりたい」という思いが芽生えていたという。1975年栗東市立金勝小学校に入学。このころから競馬が大好きで、同級生の池江泰寿と学校で競馬の話ばかりしていた。小学校2年生の時にはすでに東京優駿(日本ダービー)が特別な競走であることを理解しており、将来騎手となって日本ダービーを勝つことを夢見るようになっていた。小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた。当時指導員だった竹之下満義は武の騎乗について次のように回顧している。「すごくバランスが良くて馬上での据わりが普通の子と全く違った。とにかく動きが柔らかく、他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです。馬が暴れても鞭を使わずになだめて御していました。将来絶対トップジョッキーになると思いました」。1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業。そして栗東町栗東中学校に入学し、中学生になっても変わらず乗馬苑に通い、乗馬を続けていた。1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学。同期には蛯名正義塩村克己芹沢純一などがいる。当時教官だった荻野忠二真家眞らは武の馬乗りの技術は入学当初から高かったと話している。空き時間になると、撮影された自分や他生徒の騎乗映像をよく再生して研究していたという。またアメリカの競馬雑誌ブラッドホースの写真を食い入るように見ていたり、クリス・マッキャロンゲイリー・スティーヴンスといったアメリカの一流騎手が叩き合う映像を、ワクワクしながら何度もリピートしたりと、アメリカの競馬に憧れを抱くようになっていた。2年生の10月、騎手デビュー後に所属する栗東・武田作十郎厩舎の実習生となり、3年生の9月まで実習を行った。武は実技はもちろん馬学などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した。

騎手時代

新人最多勝記録を更新する

1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業。 栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす。武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった。3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗。同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利。9月12日、ケイアモールで42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した。10月11日、京都大賞典トウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす。11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した。最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した。

競馬ブームの主役へ

1988年(昭和63年)菊花賞スーパークリークで制しGI初勝利。19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した。「スーパークリークで菊花賞を勝ってから競馬以外のメディアの取材が多くなった」と武自身が後に語ったように、この勝利により、競馬以外のメディアからの取材依頼が多岐にわたって殺到し始め、「天才」として脚光を浴びるようになった。武はこの年113勝を挙げ、デビュー2年目にして関西リーディングを獲得。武の活躍はスポーツ紙や競馬雑誌以外の紙媒体やテレビでも度々取り上げられるようになり、『武豊』という名前と顔が日本中に知られるようになった。折しも日本はバブル景気による空前の好景気であり、日本中央競馬界がCI戦略を含む一連のキャンペーンを成功させたことにより、日本に第二次競馬ブームが巻き起こり、同時期に頭角を現した武はこの競馬ブームの主役となった。

1989年(昭和64年、平成元年)シャダイカグライナリワン、スーパークリークでGIを4勝、年間133勝を挙げ、デビュー3年目にして初のJRA全国リーディングジョッキーを獲得した。

1990年(平成2年)武と共に競馬ブームの主役となっていたオグリキャップとコンビを組み、安田記念有馬記念を制した。とりわけすでに「燃え尽きた怪物」と言われていたオグリキャップを、引退レースで復活勝利に導いた有馬記念は「奇跡のラストラン」として語り継がれるレースとなった。武は平成三強と呼ばれたスーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの全てに騎乗した唯一の騎手となった。

競馬界の主役へ

武は競馬以外のメディアから脚光を浴びるようになると、時間の許す限り各方面のメディアの取材に積極的に応じていった。その理由について武は、「競馬サークルが世間一般から偏見の目で見られているのを子供の時から感じていたんです。競馬サークル外に自分が積極的に出ることで、こうした偏見を無くしたいと思ったんです」と語っている。武はこうした意識をもって競馬サークルの外へ飛び出していき、若い女性を中心とした競馬を知らなかった層の目を引き付け、競馬に付きまとっていた暗い賭博のイメージを明るいスポーツのイメージに変革させることに尽力し、競馬界の主役的役割を担うようになっていった。

武は競馬界における自分の立場、自分の為すべき使命について、「競馬の世界では自分が発信力のある立場であることは感じている。例え自分が気が進まなくても、『武豊』が競馬界のためにやらなければならないと思うからこそやることもある。『武豊』というキャラクター的な存在を感じている部分はある」と、自分が発信力のある立場であることを自覚しつつ、自分とは別に『武豊』というキャラクターの存在を意識して行動することを心掛けているという。

武が競馬界の顔として競馬サークルの外で仕事をこなし続ける一方、本業の記録においても史上初・史上最年少・史上最速の名がついた数々の金字塔を打ち立てていき、1989年から2008年までの20年間で合計18回リーディングジョッキーを獲得。2007年にはJRA通算2944勝に到達。岡部幸雄が保持していたJRA最多勝記録を更新し、名実ともに日本競馬界の第一人者となった。(主な達成記録については#記録年表を参照のこと)

ダービージョッキーとして

競馬の祭典と呼称され、全てのホースマンの夢舞台といわれる東京優駿(日本ダービー)。 武はその日本ダービーについて、「子供のころ、騎手になりたいと思って将来の自分を思い描いた時、浮かんでくるのは日本ダービーを勝つ姿であった」と述べており、子供のころから日本ダービーに特別な思いを抱いていた。そんな武の初めての日本ダービー騎乗はデビュー2年目の1988年(昭和63年)、コスモアンバーに騎乗し16着。武本人曰く、「何もできずに終わった」日本ダービー初騎乗であった。以後、1989年にタニノジュリアス(10着)、1990年にハクタイセイ(5着)、1991年にシンホリスキー(19着)、1993年にナリタタイシン(3着)、1994年にフジノマッケンオー(4着)、1995年にオースミベスト(8着)、1996年にダンスインザダーク(2着)、1997年にランニングゲイル(5着)。延べ9回の挑戦を繰り返すも勝利することはできなかった。武はすでに日本ダービー以外の八大競走をすべて勝利しており、日本ダービーのみ勝利を逃し続けるうちに、いつしか競馬サークルでは「武豊は日本ダービーだけは勝てない」というジンクスが囁かれるようになっていた。武自身は感情に流されずコントロールするのもプロフェッショナルとして必要な素養であると考えていたため、マスコミの取材に対しては、「日本ダービーは特別なレースじゃない」、「他のGIと価値は一緒」、「いつか獲れると思うから焦っていない」というように、努めて冷静に受け答えしていた。しかしこれらはマスコミ用に用意した表向きのコメントであり、本心では次のように思っていたと語っている。

「自分の今まで積み重ねた勝利全てと引き換えにしてもいいと思うほど、ダービージョッキーの称号が欲しくて欲しくてたまらなかった」

そして1998年、第65回日本ダービーでスペシャルウィークに騎乗し優勝。10度目の挑戦でついに悲願を達成した。武は事前に、「勝った時はガッツポーズはやめよう。あくまでもクールに決めよう」と考えていたが、実際の勝利時は湧き上がってくる喜びに体が反応し、武自身が後にビデオで見た時に恥ずかしくなるほど夢中で何度もガッツポーズを繰り替えしていた。17万人の観衆によって埋め尽くされた東京競馬場では「ユタカ」コールが沸き起こり、武はこの瞬間を「それまでの人生で、最大、最高の瞬間」と振り返っている。

翌年の1999年もアドマイヤベガで勝利し、史上初の日本ダービー連覇を達成。そして2002年のタニノギムレットで三度勝利し、史上初めて日本ダービーを3勝した騎手となった。その後も2005年にディープインパクトで4度目の勝利。2013年にはそのディープインパクトの子であるキズナで勝利し、日本ダービー最多勝利記録を「5」に更新した。なお親子2代日本ダービー制覇は数組あるが、その中で同一騎手が親子それぞれの馬に騎乗して日本ダービーを優勝したのは武のみである。

武は日本ダービー制覇への思いについて以下のように語っている。

積み重ねてきた経験と何度も噛みしめた苦い思い、そして、何よりも、自分の手で掴み取ろうとする強固な意志があってはじめて、辿り着ける最高の場所です。 — 武豊、勝負師の極意 p.183より引用

海外での騎乗

武は海外でも早くから活躍し、日本人騎手による史上初の海外G1制覇、日本人として前人未到の海外通算100勝など様々な記録を達成している。

武の海外デビューは1989年の夏、イナリワンのオーナーがアメリカに馬を持っており、その馬の騎乗を依頼されたことがきっかけである。同年9月2日、アーリントンパーク競馬場グランマジーに騎乗し勝利。海外デビュー2戦目で海外初勝利を挙げた。以降は年末年始や夏はほぼ毎年海外へ渡航し、アメリカフランスオーストラリアドイツイギリスUAE香港韓国サウジアラビアの9か国で勝利を挙げている。

1991年8月、サラトガ競馬場で行われる芝2600mのG3、セネカハンデキャップエルセニョールの手綱を取ることになり、3年目のアメリカ参戦で初めて重賞に騎乗することが決定した。しかし当時はまだ日本の競馬が世界水準の評価を得ていなかった時代であり、アメリカの競馬専門紙には「22歳の日本人がトリッキーなサラトガを乗りこなせると思っているのか」などと、競馬後進国の若輩者に対する批判的な記事が多く掲載され、「もしユタカ・タケが勝ったら私は裸踊りをする」と書いたハンデキャッパーすらいた。さらに管理調教師であるウィリアムズ・ライトは、メディアに対して武のことを「ビギナー」と侮辱的な言葉を発した。武自身サラトガ競馬場の芝コースは騎乗経験が無く、さらにライトは、武にエルセニョールの調教に乗る機会を与えなかったため、ぶっつけ本番で挑むこととなった。そんな初物づくしの中迎えた本番では、ライトが「パーフェクト」と言うほどの理想的な騎乗でエルセニョールを勝利に導き、日本人騎手による海外重賞初制覇を達成した。武は勝利後、現地の騎手達に馬上から祝福の握手を求められ、一生の思い出になったという。

1992年9月、セクレタリアトステークスワールドクラススプラッシュに騎乗し、海外G1初騎乗を果たす。

1994年、この年は例年にもまして各国を飛び回り、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス凱旋門賞ブリーダーズカップ・マイルなど世界のビッグレースに騎乗。同年9月4日にはスキーパラダイスに騎乗してムーラン・ド・ロンシャン賞を制し、JRAの日本人騎手として史上初の海外G1制覇を達成した。

2000年6月、武はアメリカに長期滞在し、騎乗拠点をアメリカ西海岸に移すことを表明した。アメリカ西海岸を選択した理由について、「世界を代表するトップジョッキーが集うアメリカ西海岸の競馬で自分の腕を試してみたかった」と語っている。同月のハリウッドパーク開催から本格参戦し、夏のデルマー開催では人気薄の馬で勝利を重ね、当地のメディアに「穴ジョッキー」と紹介されるようになり、存在感を示した。しかし、11月のハリウッドパーク開催では騎乗数が激減。1日1鞍を確保するのがやっとであり、騎乗馬を確保するために厩舎を挨拶回りする毎日であった。結局このアメリカ長期滞在は最後まで満足な結果を得ることなく終了した。しかし武はアメリカ長期滞在を決断したことについて、「ほんの1ミリも後悔していません。悔しさとか、もどかしさとか、勝てない、乗れないというジレンマも含めてすべてがいい経験です」と前向きにとらえている。

2001年1月、フランスの調教師ジョン・ハモンドから「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と正式なオファーを受け、これを承諾。フランスに長期滞在し、騎乗拠点をフランスに移すことを発表した。同年3月のロンシャン開催から本格参戦し、4月15日にはG3のグロット賞を勝ち、同年初のフランス重賞初制覇を達成した。10月7日の凱旋門賞ウィークエンドではアベイ・ド・ロンシャン賞インペリアルビューティーで勝利し、同年初のフランスG1制覇を達成。同じ日の凱旋門賞ではサガシティに騎乗し、3着に入る健闘を見せた。武は「2001年のフランス滞在で最も印象に残ったレースは?」と質問されたら迷うことなくこの凱旋門賞と答えるという。フランス長期滞在中、落馬骨折による1か月半のブランクがあったが、最終的にはフランスでG1勝ちを含む35勝を挙げ、武本人曰く「まずまずの成績」を残した。翌2002年も長期滞在を継続し、フランスで重賞4勝を挙げている。

2004年12月、香港ハッピーバレー競馬場で勝利し、海外通算100勝を達成した。

武は自身の様々な海外での騎乗経験を踏まえ、若い騎手達の海外への積極的な挑戦に期待を寄せ、次のようなメッセージを送っている。「海外で騎乗するチャンスがあるなら日本で経験を積んでからなんて考えずにどんどん挑戦した方がいい。長く日本を留守にして騎乗馬がいなくなることを恐れていたら何もできない。チャレンジする騎手が登場するのを楽しみに待っています」。

2010年の落馬事故と成績低迷

2010年3月27日、阪神競馬場で行われた毎日杯ザタイキに騎乗。最後の1ハロンに差しかかった時、ザタイキが故障発症(左中手骨開放骨折=予後不良)し転倒。武は頭からコースに叩きつけられるように落馬した。この落馬事故により、武は左鎖骨遠位端骨折腰椎横突起骨折、右前腕裂創の重傷を負い、全治半年と診断された。特に左鎖骨遠位端骨折の症状が重く、鎖骨を骨折したというより肩関節が破壊されたような負傷であった。自立歩行は可能であったが、左肩は全く動かすことができず、ジャケットを羽織るのにも他人の手を借りなければならない状態であり、しばらくは患部をプレートで固定して治癒するのを待つしかなかった。武は馬に乗れないと何もすることがなく、「俺は競馬で乗ることしかできない人間なんだな」と改めて痛感させられたという。5月16日、ヴィクトワールピサでの日本ダービーの騎乗を断念し、リハビリに専念することを発表した。6月中旬、左肩のプレートを除去する手術を受け、7月に入ると左肩の可動域が広がり、着実に回復に向かっていった。7月22日、栗東トレセンで約4か月ぶりに馬に騎乗。小学校5年生の時に乗馬を始めてからこれほど長い間馬に乗らなかったのは初めてだったという。8月1日、小倉競馬場で127日ぶりに実戦復帰した。復帰後初めてパドックに姿を現すと、復帰を待ち望んでいたファンから拍手と歓声が沸き起こった。しかし後に武は、「あの時はまだ左肩の状況が悪く、誤魔化しながら乗っていたところがあったかもしれません」と、怪我を抱えたまま無理して復帰したことを告白している。その影響からか、復帰後は思うように勝てない日々が続き、2010年は年間69勝。2011年はデビュー以来最低の年間64勝。2012年はその前年をさらに下回り、年間56勝に終わった。武はこの時期の成績低迷について、「年間200勝していたのが数年後に年間50勝になるのは正直きつかった。『武豊』でも結果が出ないとこういう状況になる。シビアな世界だからしょうがないんですが、2011年、2012年あたりは競馬が楽しくなかった気がします」と当時の苦しかった心境を回顧している。しかしその苦境の真っ只中にいながらも、「『武豊』の真価が今問われているんだぞ」と自分を叱咤激励し続けていたという。

2013年 - 現在

2013年3月、キズナで毎日杯を勝利。武はこの勝利により、3年前の同レースで落馬した時から抱いていた嫌なイメージを払拭し、吹っ切れたという。同馬は次の京都新聞杯も勝利し、日本ダービーの有力候補となった。そして迎えた5月26日の第80回日本ダービーでは、見事キズナをダービー馬に導き、武自身の持つ日本ダービー最多勝記録を「5」に更新した。14万人近いファンの「ユタカコール」につつまれ、勝利騎手インタビューでスタンド前に立った武に対し、多くのファンから「お帰り」の声がかけられた。武はその声に「僕は帰ってきました!」と力強く応えた。この言葉は事前に用意していた言葉ではなく、ファンの「お帰り」の声が胸に響いて自ずから出た言葉だったという。武は苦境の中で掴んだこの5回目の日本ダービー勝利について、「騎手人生に大きな意味を持つ日本ダービー勝利だった」と語っている。武はこの年、GI2勝、重賞11勝、年間勝利数97勝と前年から大幅に成績を向上させ、低迷期を脱した。

2015年、年間106勝を挙げて6年ぶりに年間100勝を達成。2016年~2017年にはキタサンブラックとコンビを組んで計GI6勝を挙げ、同馬を2年連続年度代表馬に導き、大舞台で存在感を示した。2019年には50歳に突入。4年ぶり22回目となる年間100勝を達成、50代では増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ史上3人目の記録となった。11月30日、JRA年間勝利数を104とし、岡部幸雄が保持していた50代騎手の年間最多勝記録を更新した。最終的に年間111勝まで記録を伸ばし、騎手リーディング3位に入る活躍を見せた。2020年、2年連続・通算23度目となるJRA年間100勝を達成。12月12日、JRA年間勝利数を112とし、前年に自身が記録した50代での年間最多勝記録を更新した。最終的には直近10年で最多の勝ち数となる115勝まで記録を伸ばした。

エピソード、逸話

競馬に関して

その他

成績

記録年表

1987年
3月7日、1回阪神3日第3競走のダイナビショップで初勝利を挙げる。
11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新。
この年最終的に69勝まで記録を伸ばし、最多勝利新人騎手を受賞した。(この新人最多勝記録は2008年三浦皇成によって21年ぶりに更新された)。
1988年
4月16日、史上最年少(19歳1ヶ月)でJRA通算100勝達成。 (史上最速記録は2009年2月7日に三浦皇成が更新) 。
11月6日菊花賞スーパークリークで勝利し初のGI競走勝利を飾る。史上最年少(19歳8か月)のクラシック制覇達成であった。
この年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングジョッキーとなる。
1989年
3月4日、史上最速・最年少 (19歳11か月) でJRA通算200勝達成。
4月29日、イナリワンで天皇賞春を制覇し、天皇賞春、初騎乗初勝利を達成。
10月29日、スーパークリークでオグリキャップを負かし、天皇賞秋を制覇。
11月25日、史上最速・最年少 (20歳8か月) でJRA通算300勝達成。
この年は133勝を挙げ、初のJRA全国リーディングジョッキー(最多勝利騎手)に輝き、さらに最多賞金獲得騎手も受賞した。
1990年
4月29日、スーパークリークで天皇賞春を制覇し、自身天皇賞3連覇(天皇賞春は2連覇)を成し遂げ、「平成の盾男」と呼称されるようになる。
5月13日、オグリキャップに初騎乗し、安田記念を制する。
8月5日、史上最速・最年少 (21歳5か月) でJRA通算400勝達成。
12月16日、父である武邦彦調教師の管理馬バンブーメモリーに騎乗し、スプリンターズステークスを制覇。武親子コンビでGI制覇を達成。
12月23日、オグリキャップに騎乗し、有馬記念を制覇。同馬のラストランを勝利に導く。
この年116勝を挙げ、2年連続2度目のリーディングジョッキーを獲得。
1991年
4月28日メジロマックイーンに騎乗して天皇賞春3連覇を達成。メジロ関係者悲願の天皇賞親子3代制覇に導いた。
7月21日、史上最速・最年少 (22歳4か月) でJRA通算500勝達成。
8月22日アメリカサラトガ競馬場のセネカハンデキャップ (G3) でEl Senor (エルセニョール) に騎乗し、初めての海外グレード競走(およびグループ競走)制覇を達成。
10月27日、天皇賞秋でメジロマックイーンに騎乗し、1位入線するも進路妨害の判定で18着に降着。
この年は天皇賞秋で降着後にスランプに陥り、デビュー以来最悪の42連敗を喫した(12月は0勝)。最終的な勝ち鞍は96にとどまり、リーディングジョッキーの座を岡部幸雄に明け渡した。
1992年
3月1日、所属していた武田作十郎厩舎の解散に伴い、フリー騎手となる。
4月26日、天皇賞春でメジロマックイーンに騎乗し、「天下分け目の決戦」と言われたトウカイテイオーとの対決を制し、天皇賞春4連覇を達成。
8月29日、史上最速・最年少 (23歳9か月) でJRA通算600勝達成。
この年130勝を挙げ、3度目のリーディングジョッキーに返り咲いた。
1993年
4月17日、史上最速・最年少 (24歳1か月) でJRA通算700勝達成。
この年は桜花賞、皐月賞、優駿牝馬と春のクラシックを3連勝するなどクラシック戦線で存在感を見せつけた。最終的に137勝を挙げ、2年連続4度目のリーディングジョッキーを獲得。さらに自身初のフェアプレー賞を受賞した。
1994年
1月6日、史上最速・最年少 (24歳10か月) でJRA通算800勝達成。
7月23日アスコット競馬場(イギリス)で開催されたキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスホワイトマズルで初騎乗し、2着となる。
9月4日ロンシャン競馬場(フランス)で開催されたムーラン・ド・ロンシャン賞スキーパラダイスに騎乗し、JRA所属の騎手としては初めての海外G1競走勝利を達成する。
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出典:wikipedia
2021/01/20 13:27

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