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水の江瀧子とは?

【本名】
三浦 ウメ子→水の江 瀧子
【別名義】
ターキー
【生年月日】
(1915-02-20) 1915年2月20日
【没年月日】
(2009-11-16) 2009年11月16日(94歳没)
【出生地】
北海道小樽区(現・小樽市)花園町
【国籍】
日本
【職業】
女優映画プロデューサータレント
【活動期間】
1928年 - 1987年
【主な作品】

舞台
『タンゴ・ローザ』(1933年)
映画出演
『花くらべ狸御殿』(1949年)
映画企画(制作)
太陽の季節』(1956年)
狂った果実』(1956年)

水の江 瀧子(みずのえ たきこ、1915年2月20日 - 2009年11月16日)は、日本女優映画プロデューサータレント

1928年に東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇部、松竹歌劇団)に第1期生として入団。日本の女性歌劇史上初めて男性様に断髪した男役で「男装の麗人」の異名を取り、「ターキー」の愛称と共に1930~40年代にかけて国民的人気を博した。1942年の松竹退団後は劇団主宰、映画女優などを経て1955年に日活とプロデューサー契約。日本初の女性映画プロデューサーとなり、石原裕次郎を筆頭に、浅丘ルリ子長門裕之岡田真澄和泉雅子赤木圭一郎ら数々の俳優や、中平康蔵原惟繕といった監督を発掘・育成し、『太陽の季節』、『狂った果実』など70本以上の映画を企画、日活の黄金時代を支えた。また、『NHK紅白歌合戦』の司会を2度務めたほか、『ジェスチャー』、『独占!女の60分』といった番組に携わった。

50年以上に亘り芸能活動を続けたが、1984年に甥の三浦和義が妻の不審死に関わったのではないかとしてマスメディアを賑わせた「ロス疑惑」のスキャンダルに巻き込まれ、芸能界を引退。その後は隠居の傍らジュエリー作家として活動したほか、1993年に自身の生前葬を大々的に催し話題をとった。

出生名は三浦 ウメ子であったが、ロス疑惑の後、法的に水の江瀧子を本名とした。以下の経歴部分では、松竹入団までをウメ子、入団後を瀧子と記述する。「水ノ江」や「滝子」との表記も多くあるが、引用部分を除き「水の江瀧子」で統一して記述する。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 生い立ち - 初舞台
    • 1.2 「男装の麗人・ターキー」へ
    • 1.3 桃色争議
    • 1.4 絶頂期
    • 1.5 アメリカ滞在
    • 1.6 劇団たんぽぽ - 映画俳優時代
    • 1.7 日本映画界初の女性プロデューサーとなる
    • 1.8 石原裕次郎の発掘
    • 1.9 プロデューサーとしての成功
    • 1.10 裕次郎との確執 - 日活退社
    • 1.11 芸能界引退 - 死去まで
  • 2 評価
    • 2.1 レビュースター
    • 2.2 映画プロデューサー
  • 3 私生活・親族
    • 3.1 恋人
    • 3.2 親族
  • 4 主な出演・企画
    • 4.1 出演作
      • 4.1.1 映画
      • 4.1.2 テレビ番組
    • 4.2 企画
  • 5 瀧子を演じた女優
  • 6 文献
  • 7 関連項目
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 外部リンク

経歴

生い立ち - 初舞台

家族と幼少時代のウメ子(右端)

1915年、北海道小樽区(後の小樽市)花園町に生まれる。8人きょうだいの7番目だったが4人が子供の頃に死んだため、4人きょうだいの末っ子として育つ。出生名は三浦ウメ子。2歳の時に一家で東京府千駄ヶ谷(後の東京都渋谷区千駄ヶ谷)、次いで目黒村(後の目黒区)に移り、以後同地で育った。幼少の頃は当時まだ田舎だった目黒にあってベーゴマ遊びやチャンバラごっこ、洞窟探検などに興じる活発な少女であった。

1928年、東京松竹楽劇部の新設に伴う第1期生募集の新聞広告を見た次姉が、ウメ子の知らぬ間に入部試験に応募。ウメ子は「浅草に連れていってあげる」と姉に試験会場まで連れ出され、何も聞かされず言われるがままに試験に臨み、合格した。ウメ子は何の感慨も湧かず、「学校の勉強があまりできなかったから、それよりはこっちの賑やかなほうへ行くほうがいいだろうと思ったぐらい」であったという。試験でのウメ子の様子については様々な伝聞があるが、『タアキイ -水の江瀧子伝-』の著者中山千夏が「おそらく正確なところを語っている」とする試験委員・大森正男の次のような回想がある。

初めて東京に楽劇部の支部が出来て女生を募集したとき私も試験委員の一人として思へばターキーを試験したのだつた。その時のターキーがどんな子だつたか、何一つおぼえてゐない。〔中略〕その時の試験委員の連中だつてその時、今日のターキーを見越して採用した人はおそらくあるまいと思ふ。〔中略〕『その頃からターキーにはどつか違つたところがあつた』と云へる程、私はあの頃のターキーについて知るところがない。

入部後は高田雅夫・永井三郎(洋舞)、花柳輔蔵(日舞)、天野喜久代(声楽)、篠原正雄(音楽)に師事しながら10カ月あまりの基礎訓練を受けた。芸名は最初「東路 道代(あずまじ みちよ)」であったが、「水の江たき子」の名を授けられた生徒が不満を訴えたことから芸名の交換が行われ、「水の江たき子」がウメ子の名となった。この名前は『万葉集』所収の柿本人麻呂の一首「あしかものさわぐ入り江の水の江の 世に住みがたき我が身なりけり」に由来する。後に初めて役が付いた際に、ポスターのレイアウト上の都合から「水の江瀧子」となり、以後定着した。初舞台は1928年12月、昭和天皇即位礼に合わせ、先に発足していた大阪松竹楽劇部が浅草松竹座で上演した『御大典奉祝レビュー』の中で、奉祝行列の山車の紅白綱を曳く子供役であった。なお、瀧子の初めての舞台化粧を施したのは当時大阪松竹に所属し、後に「ブギの女王」として国民的歌手となる笠置シヅ子(当時の芸名は「三笠静子」)で、笠置とは後々まで交流が続いた。

「男装の麗人・ターキー」へ

1930年秋に上演された『サーバント・クラブ』の一場面。左側の瀧子の髪型はまだ普通のボブカットであることが分かる。

1929年11月28日、浅草松竹座で東京松竹単独としての初公演『松竹座フォーリィズ』を上演。1930年5月に東京六大学野球をレビュー化した『松竹座リーグ戦』で瀧子にも初めて役が付き、「慶応大学主将」を演じた。1930年10月、人気が高まりつつあった東京松竹は「松組」、「竹組」の二部制を導入し、瀧子は竹組に所属した。

『先生様はお人好し』で断髪した「隣の美青年」役の瀧子。
断髪後に撮影されたブロマイド。

翌1931年5月31日、『先生様はお人好し』で髪を短く切って出演し、千秋楽の頃には楽屋にファンが大挙して訪れるなど大きな反響を呼んだ。当時、瀧子は周囲との身長差から群舞でひとり目立ってしまうため、楽屋で待機させられていることが多かったが、同作では舞台装置を転換する2分間、場を繋ぐ必要が生じた。そこで空いていた瀧子が急遽、劇中の女学生の噂話に出てくる「隣の美青年」として幕前で踊る、という小さな場面が突発的に与えられたものだった。断髪はこの準備中に行ったもので、「君、髪切れよ」と促され、「いいですよ」と即答したという。当時から宝塚少女歌劇にも男役は存在したが、長髪をネットでまとめ、その上に帽子をかぶる形で舞台に上がっており、それと比較して瀧子の頭のシルエットはすっきりとしたものになり、以後宝塚にも断髪が波及していった。これにより瀧子は松竹楽劇部で最初の男役、さらに男性様の髪型にした日本で最初の男役となった。この作品は瀧子の出世作となり、「男装の麗人」の印象を決定づけた。

なお、松竹歌劇の史誌では、前年9月に出演した『松竹オン・パレード』において短髪にした上で、シルクハットにタキシードという衣装で出演したことをもって「わが国レビュー史上はじめての、文字通り男装の麗人となった」とされているが、中山千夏の検証ではこの断髪は当時女性の間で流行していたボブカットにしたに過ぎず、当時の資料にその時の瀧子についての目立った反響もないことから、中山は「やっぱり『松竹オン・パレード』で髪をボブにしたのが画期的だったのではなくて、『先生様はお人好し』でほとんど少年なみに短く切った、それが画期的だったのだ」としている。また、同時代に出版された『評判花形大写真帖』(1933年)においても、「『先生様はお人好し』に初めて学生に扮してから、その颯爽たる男装を認められ」とある。

続く7月興行『メリー・ゴーランド』では主役に据えられ、11月には新歌舞伎座で公演を行った。このとき上演されたレビュー3本のうちの1本『万華鏡』において、カウボーイに扮した瀧子が名を問われ「俺はミズノーエ・ターキーだぁ!」と見得を切ったことから、以後「ターキー(書き文字では「タアキイ」が多用された)」の愛称が使われ始めた。この場面は歌劇団史誌においては「以後レビュー史上に燦然と輝く、ターキーの愛称が生れたのである」と称揚されているが、興行的には散々な不入り公演であったとされ、脚本を担当した江川幸一は「男装水の江の人気が確定したのと、『タアキイ』の名が残つただけが大きな拾ひ物と云はなければならない」と述懐している。また「ターキー」もすぐに定着したものではなく、まず瀧子ファンの間で徐々に使われていき、翌1932年7月に読売新聞に取り上げられ、それに追随して秋頃から経営陣が大々的に定着を図ったというのが実相であった。

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「ターキー」の愛称を生んだカウボーイ役。
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水の江会パンフレットは後に『タアキイ』と改題され一般販売もされた(表紙)。

また1931年秋には瀧子の私設後援会「水の江会」が発足。翌1932年元旦に発行された第1号パンフレットに記載された賛助会員は次のような面々であった。

(順不同)

桃色争議

1931年10月、東京での人気定着を図る宝塚少女歌劇が新橋演舞場で公演を行い、これに対抗した東京松竹も築地川対岸の東京劇場で『らぶ・ぱれいど』を上演、東西レビュー劇団の対決的図式は巷間の注目を集めた。この公演は松竹、宝塚ともにファンを満足させたものの、世間で「上品な宝塚、大衆的な松竹」という対比が盛んに行われたことから、松竹側は経営陣、ファンともに「上流階級志向」を強めていった。この頃、東京松竹楽劇部は組織名を「松竹少女歌劇部(SSK)」と改めている。1932年12月、瀧子は「上流社会向け」に製作された「青い鳥」に出演したが、公演2日を終えた時点で病気になり、以後1カ月間の休演を余儀なくされた。相手役の吉川秀子もほぼ時を同じくして怪我で休演。この直前には劇団機関誌『楽劇』や水の江会のパンフレットに女生(団員)の過重労働を糾弾する内容が掲載されていた。

争議のさなか演壇に立つ瀧子。

その後、松竹は1933年5月27日より歌舞伎座で『真夏の夜の夢』を上演していたが、公演が浅草松竹座に移って4日目の6月10日、待遇改善を求める劇団音楽部員と経営陣との間の争議が表面化。12日には音楽部員が瀧子に女生の合流を求めると、瀧子以下の女生もこれに応じ、共産党員も加入して事態は瀧子を委員長とする組織的な労働争議へと発展した。争議団の要求は昇給、各種手当の支給、衛生・設備の改善、公休日の設定等々であった。これに対し経営側は16日に浅草松竹座および本郷・帝劇両練習場を閉鎖し、レビューを廃し浪曲大会を催すと発表。争議団はこれにストライキで対抗した。10~20代の女生を中心とした争議は世間の関心を集め、各紙誌はこれを「桃色争議」と書き立てた。交渉は難航し、7月1日、瀧子は歌劇部を解雇される。同時に経営側は復帰条件を呑んで帰参した女生による8月公演予定を発表。一方、瀧子ら争議団はさらなる切り崩しを防ぐため神奈川県湯河原町湯河原温泉で立て籠もりを始めた。世間は争議団側に同調し、帰参した女生達を揶揄的に「お詫びガール」と呼び、瀧子らを「頑張りガール」と呼んだ。瀧子は後に「私はスターだったから、一応満足してる立場なのに、みんなと一緒になってやったものだから、同情が集まった」と振り返っている。

7月12日朝、警視庁が争議団本部などを一斉捜索し、思想犯の疑いで争議団長・益田銀三、委員長・瀧子以下46名を検挙。瀧子らは浅草象潟警察署に留置されたが、瀧子を含む35名は即日釈放された。翌13日から交渉が再開されると、17日には「生理休暇」を除くほとんどの条件を経営側が了承する形で争議は妥結された。争議の中で解雇された24名のうち5名は無条件復帰、瀧子を含む残り19名は2カ月間の謹慎処分となった。28日には松竹少女歌劇部が解消され、松竹本社直属の「松竹少女歌劇団」となった。

絶頂期

瀧子の謹慎中、劇団は争議前から売り出しを図っていたオリエ津阪(津阪織江)を中心として公演を行ったが、活気を欠いたものとなった。一方の瀧子は時事新報の平尾郁次の協力のもと、9月20日に日比谷公会堂でワンマンショーを行い好評を博した。この状況に劇団も瀧子の謹慎を解かざるを得なくなり、11月の東京劇場公演『タンゴ・ローザ』から瀧子は松竹に復帰した。この公演は地元の東京劇場、浅草松竹座のみならず大阪歌舞伎座京都南座でも上演され、当時のレビュー界最多記録となる160回の上演を数え、松竹レビュー創生以来の傑作といわれた。京都日日新聞は南座公演の盛況ぶりを次のように伝えている。

「二十八日午後九時、満都のレヴユーフアンが待ち焦れてゐた東都レヴユー界の明星水の江滝子・津阪オリエ・西条エリ子らが、大阪の興行を打ちあげて華々しい京都乗りこみのときだ!京阪四条駅の上り下りのプラツトから南座前、菊水前へかけて何といふ人出だ!たゞ見る人人人の波である。その数無慮八千といふフアンが七時から乗り込みを聞き伝へて続続とつめかけてゐたが、九時前後になるともう附近一帯黒山で、身動きも出来ない」
「見物席は若きマドモアゼルでぎつしり詰まつてゐる。その彼女達が舞台の何処かに水の江滝子の姿を一寸でも発見すると、"ターキー"口々に絶叫して熱狂する。(中略)これがため舞台は一層の活気を呈して、初日から圧倒的人気を見せてゐる」

以後の数年間がレビュースターとしての瀧子の絶頂期となった。瀧子が主演し『ウインナ・ワルツ』、『ベラ・ドンナ』、『シャンソン・ダムール/東京踊り』、『夏のおどり/ローズ・マリー』、『忠臣蔵』、『リオ・グランデ』といった公演がことごとく好評を博し、またキッコーマン醤油アサヒビール明治チョコレートトンボ鉛筆森永チーズヒゲタ醤油ダットサンキヤノンカメラなど数多くの商品の広告宣伝に起用された。水の江会の会員は朝鮮台湾などの居留民を含めて約2万人に達し、1935年10月13日には水の江会主催で劇団主催本公演と同等規模の「第3回タアキイ祭り」が挙行された。当時の瀧子のファンには宮家や数多くの華族も含まれており、娘が瀧子のファンであった高橋是清一家や、大倉財閥大倉喜七郎らとは個人的にも親交を深めた。また少し後の時期ながら、ライバルである宝塚歌劇の娘役スター・月丘夢路が在団中に瀧子の楽屋を訪ねた際、嬉しさと緊張のあまりガタガタと震えたまま挨拶もできなかったという話が、月丘本人から伝えられている。20歳の頃には牛込に洋風の住宅を建て、マスコミに「ターキー御殿」と騒がれた。

男役スターとしての瀧子の人気ぶりについて、評論家の青地晨は次のように述べている。

かつて宝塚には葦原邦子小夜福子らの第一級のスタアがいた。今日の松竹にも川路龍子曙ゆり小月冴子など男役の人気スタアは少なくない。だが、少女歌劇の過去、現在を通じて、タアキイほどのダイナミックな人気の所有者はなかった。遅れて出発した松竹が、一時は宝塚と肩を並べたのも、タアキイの力があずかって大きかった。近い将来も、彼女ほどの人気者が生まれる可能性は、まずなかろう。いわば彼女は少女歌劇の象徴みたいな存在である。

アメリカ滞在

渡米船「龍田丸」にて。左から船長、瀧子、船内で知り合ったケロッグ、インド王族、同使節員のミス日本・月本映子。

1938年11月から12月までは、日中戦争の従軍兵士慰問のため中国北部を訪れた。帰国後、翌1939年1月から舞台に復帰したが、この頃から瀧子はファンの視線に対して恐怖を覚え始め、の引き手を人の目と誤認したことを皮切りに「アクセントのあるものは全て人の目に見える」といったノイローゼの様相を呈していった。

こうした中、瀧子の贔屓筋である日本領事館の市川という人物が「世間が狭いからノイローゼになる、治すためには一度あなたの地位を捨てなさい」と瀧子に渡米を勧めた。ちょうど国産航空機「ニッポン号」が、難航路である北回りルートでニューヨーク万博を目指す計画が持ち上がっており、市川の手配により、ニューヨークに到着した「ニッポン号」乗務員を現地で出迎えるガイドホステスという名目でアメリカ行きが決定。5月4日、「東京踊り」の千秋楽でファンや劇団との惜別が演出されたのち、同11日より「日米芸術親善使節」としてアメリカに赴いた。瀧子を悩ませたノイローゼは「船に乗った途端」治ったという。なお、瀧子はこのとき松竹歌劇から退団したつもりでいたが、公には休演扱いとされていた。

滞在中、NBCで当時最新の機器であったテレビの収録を行う瀧子。

アメリカ到着後は船内で知り合った富豪ケロッグの歓待を受けたのち、サンタバーバラで居候をしながらロサンゼルス近辺で2~3カ月を過ごした。その後、大倉喜七郎の知人であった男性歌手・デビッド黒川と、日系2世の少女を伴い、ルート66を通り車でニューヨークへ向かった。途中、黒川の出身大学があったレッドランズにおいて約2000人を前に舞踊を披露し、現地新聞『ザ・サン』に「日本の民族衣装を着た日本女優、タキコ・ミズノエが描き出した物語は、まったく絵のように美しかった」と賞賛された。なおニューヨークに到着する前には、持病としていた狭心症を発症し1カ月あまり入院、さらに黒川が荷物と金を持ち逃げするといった事件もあった。

ニューヨークに到着し、「ニッポン号」のガイドホステスの務めを終えてからは、在住日本人のサロン化していた目賀田綱美夫妻の家に身を寄せながら、専ら遊び歩いた。当時最新のショービジネスを見聞し、ブロードウェイで観劇をした際には、末端の出演者に至るまで確かな実力を持つことに「自分が少女歌劇でやってきたことは、どう贔屓目に見てもプロとはいえない」と思い知らされ、「ニューヨークでああいうのを見なければ、ずっとプロとアマチュアの違いもわかんなかったかも知れないし、とにかく"芸"というものが、初めてわかった」と後に語っている。

瀧子はその後ヨーロッパを巡って世界一周をする予定でいたが、ニューヨーク到着直後にドイツによるポーランド侵攻とそれを受けた第二次世界大戦の開戦があり、渡航を断念。その後もニューヨーク生活を続けたものの、第二次世界大戦のヨーロッパ以外への拡大が危惧されたことや、日米間の関係が緊迫し始めたこともあり「アメリカ滞在は危険」との勧告が寄せられるようになり、1940年3月に、約10カ月半のアメリカ滞在を終えて日本へ帰国した。

劇団たんぽぽ - 映画俳優時代

新劇出演時(左)。井上正夫、水谷八重子と。

帰国した瀧子に松竹はしきりに歌劇出演の打診をし、瀧子は嫌々ながら客演の形で舞台に立った。日中戦争が行われている戦時下において風紀の引き締めが行われていたことから、当局より男装禁止が通達されており、女役としての出演であった。またこの頃新派の舞台にも立ち、水谷八重子井上正夫と共演している。

松竹歌劇の方では、1941年12月の「マレー作戦」により大東亜戦争が勃発し、日本軍は各地で戦勝を続けたものの、戦時下となったことから上演作品の内容に厳しい制限が課されるようになった上に、娯楽を自粛する雰囲気となったこともあり観客が激減した。そうした折り、当時瀧子のマネージャー兼恋人のようになっていた松竹宣伝部の兼松廉吉が新たな劇団創設を打診した。これを容れた瀧子は1942年12月に自身の劇団「たんぽぽ」を組織。翌1943年1月に15年間過ごした松竹を離れ、邦楽座で劇団「たんぽぽ」としての旗揚げ公演を行った。たんぽぽは今東光が命名した

旗揚げ当初は元松竹歌劇の団員が多く、「少女歌劇の亜流」扱いされたこともあり評判は良くなかった。その後、堺駿二有島一郎田崎潤といった男性俳優が加わった後、4月にニコライ・ゴーゴリ作の戯曲『検察官』をミュージカル化した『おしゃべり村』が大当たりし、同作をもって全国各地で公演を行った。しかし、戦時中のために不要不急の移動が自粛するように通達されていたこともあり、地方周りでは有島が大尉、瀧子が中尉の「軍属」という身分になっていた。

その後1945年に入ると日本軍の劣勢が決定的になり、日本本土に対する連合国軍機の空襲艦砲射撃などが行われるようになり、空襲中にも上演を行っていたが、群馬県太田市では工場などを目標にした大規模な空襲に遭遇し、翌日の新聞に「"たんぽぽ"全員爆死」と誤報されたこともあった。

『花くらべ狸御殿』スチール。左は京マチ子

1945年8月に終戦し、以後は交通網の混乱などから渋谷映画館などで公演を行っていたが、翌1946年、当時問題小説とされた『肉体の門』の上演を巡り、上演反対を主張する瀧子と賛成派が分裂。賛成派は新たな劇団「空気座」を旗揚げし、たんぽぽには瀧子、兼松、朝鮮人俳優の3名のみとなった。その後は「喜劇王」榎本健一率いる「エノケン一座」の助力を受けながら公演を続け、空気座に移った有島なども後に戻ってきたものの、1948年1月をもってたんぽぽは解散した。その後は国際劇場でのショーなどに出演していたが、1948年に大映と契約して出演した映画『花くらべ狸御殿』が大ヒットし、以後立て続けに10本ほどの映画に出演した。『花くらべ-』は劇団たんぽぽとほぼ同じメンバーに月丘夢路喜多川千鶴を加えて舞台化され、全国を巡業して好評を博した。

1952年、兼松が松竹のスター俳優鶴田浩二と共に「新生プロダクション」を設立。瀧子も新生プロに所属したが、瀧子によれば「ホモじゃないんだけど、それに近いような男同士の友情も大事にする人」だった鶴田が、「水の江君をとるか、僕をとるか」と兼松に迫った。悩む兼松に、瀧子は「鶴田さんはうんと人気があって、こっちは落ち目のほうだから」と引退を決意。公には舞台からの引退と発表し、1953年6月6日より20日まで松竹歌劇団で『さよならターキー・輝く王座』が催された。瀧子は『タンゴ・ローザ』や『狸御殿』など過去の名作を余すところなく演じ、また十七代目中村勘三郎二代目市川猿之助花柳章太郎辰巳柳太郎高峰三枝子木暮実千代淡島千景京マチ子灰田勝彦淡谷のり子服部良一渡辺弘といった面々が日替わりで客演、10日連続で1万人以上を動員する盛況となった。

こうした出来事の一方で瀧子は新興メディアのテレビにも進出し、1953年2月のNHK開局と同時に始まったゲーム番組『ジェスチャー』に出演した。これはたんぽぽ時代に合同公演を行ったことがある柳家金語楼の推薦によるものであった。また、同年と1957年には『紅白歌合戦』の紅組司会を務めたが、瀧子はその前身『紅白音楽試合』(1945年)の司会者も務めている。『紅白音楽試合』では、欠場したベティ稲田の穴埋めとして急遽紅組トリで「ポエマタンゴ」を歌唱した。

日本映画界初の女性プロデューサーとなる

舞台引退後は、テレビで活躍する傍らしばし趣味に興じる生活を送っていたが、1954年2月10日、兼松が鶴田の作った借金3000万円を背負い自殺。当時住んでいた鎌倉の自宅が瀧子が知らぬ間に担保に入れられており、税金滞納のため差し押さえられた。一方で兼松は数多くの友人・知人への遺書で瀧子の生活支援を頼んでおり、そのひとりであった報知新聞社長・深見和夫が、新興の映画会社であった日活へ瀧子をプロデューサーとして売り込んだ。深見は当時の状況について次のように語っている。

(前略)彼女の身の振り方、気分転換を図ることが急務なので、私は、松竹の大谷竹次郎社長(故人)、城戸四郎副社長(後に社長、故人)、大映の永田雅一社長にも会った。しかし一世を風靡した人間だけに、かえってそれが災いして先方もその処遇に困って容易に返事をもらえなかった。
一計を案じた私は新発足した日活映画の堀久作社長(故人)に会い、日本で最初の女プロデューサーを誕生させる気はないかと相談をもちかけた(二号は田中絹代)。
水の江君の求める条件(給料)は月二十万円の収入であった。税務署の滞納税金を月賦返済、外部の借金に月々若干当て、残りが生活費だった。当時の二十万円は高額だったが、堀社長と交渉する私には自信があった。
堀社長、江守専務(清樹郎、故人)をなんとか口説き落とした。
企画2作目『緑はるかに』のポスター。中央バストショットが浅丘ルリ子。

1年ごとに更新の日活の契約のプロデューサーとなり、1954年3月より勤務。瀧子は給料を10万円だったとしているが、それでも通常の倍額であった。しばらくは撮影所で相手にされず、社内で唯一交流があった江守の部屋に入り浸るのみの日々を送っていたが、勉強も兼ねて東宝のプロデューサー・藤本真澄制作による『女人の館』など数本の映画に出演し、制作の様子を見ながら基本を覚えていった。

翌1955年には初作品『初恋カナリヤ娘』を企画。明るい作風の喜劇が受け、1作で社内における地位向上に成功した。この作品を撮る前、瀧子は日劇ミュージックホールの看板に出ていた岡田真澄の美貌に目を留めて映画に出演させ、岡田は瀧子が発掘した最初の俳優となった。岡田は以前東宝ニューフェイスにいたが芽が出ず日劇に戻っており、「東宝に見放されて日活に誘われたんですから、飛び上がらんばかりに嬉しかったですよ」と述懐している。瀧子は岡田について「完全すぎてダメなんじゃないか」と思ったともいうが、ハーフであることにより味わった苦労が、独特の陰、ニヒルさを生んだのではないかとしている。また「美少年の岡田の隣に置いたら面白いのでは」という発想から、銀座のクラブでドラムを叩いていたフランキー堺も出演させている。

2作目の『緑はるかに』ではヒロインの公募が行われ、数千人の応募者の中から瀧子が浅丘ルリ子を選定(命名者は監督の井上梅次)。この映画もヒットし、浅丘は後に日活の看板女優となり、数多くの映画賞や紫綬褒章を受けるなど名女優の地位を確立した。他に補欠として桑野みゆき、ミュージカルシーン用に山東昭子榊ひろみ滝瑛子安田祥子も選ばれ、その全員が映画界に残ることになった。

石原裕次郎の発掘

1955年、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞。日活は以前から映画化権を獲得しており、企画部の荒牧という人物が映画化実現のために奔走し、瀧子がプロデューサー中で唯一興味を示した。賛否両論が巻き起こっていた内容に、社内では「こんな不道徳なものを」という反対意見が起こったが、芥川賞を受賞したことで製作の方向へ傾いた。瀧子は当初原作者の石原慎太郎を主演として考えていたが、慎太郎と打ち合わせを重ねるうちに「一度弟に会ってほしい」と頼まれ、芥川賞受賞記念パーティーで慎太郎の弟・石原裕次郎に引き会わされた。瀧子はそのときの印象を次のように述べている。

「一目で『これはいける』と思った。不良って言ってもね、本当の不良かどうかは雰囲気で分かるんです。裕ちゃんにはそういう暗い翳はなかった。輝きがありましたから。
(中略)やっぱり今までになかったタイプの青年でしたね。戦後アメリカがどっと入ってきたでしょう。ところが周りの日本人社会見たってそういうのは全然いなかったわけですよ。裕ちゃんにはそういう、ややアメリカ的な感じがあるでしょう。身長はあるしね」

また、蔵原惟繕は次のように述べている。

当時、ジェームス・ディーンなんかが出てきた時代で、既成の俳優の中にはない、時代の息吹を背負って出て来た、そういうものを感じさせる青年で、兄、石原慎太郎さんの小説『太陽の季節』なんかの、ああこの世界から本当に出てきたんだなという感じで、水の江さんの感覚に感心したんですけれど。
ジェームス・ディーンみたいに、演技の上手下手は、超越したところで存在してしまう全く新しいタイプの役者が出てきたなと、これを見つけ出してきた嗅覚には驚いたもんです。
『太陽の季節』ポスター

瀧子は裕次郎の主演を熱望したが、身長が高すぎて他の俳優と吊り合わないこと、素人であること、裕次郎が「不良」とされていたことなどから会社からの猛反対に遭い、長門裕之主演で撮影されることに決まり、裕次郎は湘南の学生言葉を指導するスタッフに回された。撮影開始後、瀧子は新たに付け加えた「拳闘部の学生」という端役に裕次郎を据え、カメラマンの伊佐山三郎に裕次郎を大アップで撮らせ、それをスチール化して会社幹部に見せた。この写真を見た幹部も出演に納得し、裕次郎は端役ながら『太陽の季節』の出演者に名を連ねることになった。瀧子が伊佐山に裕次郎を撮らせた際、伊佐山が「ファインダーの向こうに阪妻がいる」と感嘆したという話が伝説的に伝えられているが、瀧子によればそれは事実であったという。

映画『太陽の季節』は公開後、公序良俗に反する、若者を不良化させる、などといった非難を巻き起こし、各県で未成年の観覧が禁止されたが、「太陽族」、「慎太郎刈り」という流行語まで生み出す大ヒットを記録した。ただし瀧子は、監督の感覚が古く、「新しい若者の台頭」を描くべきところで焦点が違うところにあったとして、「プロデューサー会でさんざん吊し上げを喰って、それで、できた映画があれではどうしようもなかった」と作品の出来への不満を吐露している。

プロデューサーとしての成功

続く『狙われた男』では助監の中平康を監督に抜擢。会社からは「まだ早い」と反対されたが、瀧子は「早くたって会社のためにいいものができればいいじゃないの」と説き伏せた。さらに次回では裕次郎を初の主演に据え、監督に引き続き中平を起用して『狂った果実』を製作。同作は日本国内でのヒットのみならず国外でも高く評価され、特に当時フランスで勃興していたヌーヴェルヴァーグの代表的監督であったジャン=リュック・ゴダールフランソワ・トリュフォーに影響を与えたとされており、瀧子もまた「名作だと思います」と高評価を送っている。『太陽の季節』『狂った果実』の二作で裕次郎はスターの地位を確立し、以後「裕次郎映画」が次々と製作され、日活は黄金時代を迎えていった。この頃から瀧子は裕次郎を自宅2階に下宿させ始める。この理由について ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/07/23 22:55

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