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江夏豊とは?

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江夏 豊(えなつ ゆたか、1948年5月15日 - )は、兵庫県尼崎市出身(奈良県吉野郡生まれ)の元プロ野球選手(投手)、解説者評論家タレント

2020年現在でも日本記録であるシーズン401奪三振を達成したほか、NPB最多タイ記録となる最優秀救援投手(現在の最多セーブ投手)を5回獲得している。プレーそのものについても「オールスター9連続奪三振」「江夏の21球」など多くのエピソードを持つ。

経歴

兄から言われて左利きに

鹿児島県出身の母親が大阪にいた頃に大阪大空襲が起こり、疎開先の奈良県吉野郡で父親と知り合い、そこで豊は生を受けた。間もなく両親が離婚、父親は失踪したため、生後半年で母親の故郷である鹿児島県日置郡市来町(現・いちき串木野市)の実家へ引っ越して5年間を過ごす。その後、母親と二人の兄と共に兵庫県尼崎市へ引っ越し、尼崎市立園田中学校を卒業、高校卒業まで尼崎で育った。江夏の兄弟姉妹は全員父親が異なる複雑な環境で、江夏姓も母方の姓だった。なお、「江夏」とは南九州に多い姓で、母親は「先祖を辿ると島津藩の家老に行き当たる」を語っていた。また、霧島酒造を創業したのは祖父だという。

幼少期は、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、江夏自身は右利きだったにも関わらず、強制的に左利きへ矯正された。

尼崎市立園田中学校では野球部へ入部するも、入部2ヶ月を経過しても球拾いしかさせてもらえないことに不満を抱いて上級生に直訴するが、これが乱闘騒ぎへ発展してしまい、野球部を退部する。この時、監督だった教師から「野球は色んなスポーツの結晶だから、色んなスポーツを体験するように」と諭され、バレーボールラグビー相撲などを経験、最終的に陸上部に落ち着いた。陸上部では砲丸投げの選手として活躍し、県大会で優勝したこともある。

鈴木啓示との投げ合い

大阪学院大学高等学校へ入学後に本格的に野球を始めるが、高校時代は制球力に難があり、それを理由に変化球を一切教えてもらえなかったが、代わりに磨き上げた直球に球威が増し、投球以外に様々な駆け引きで活躍する。1966年全国高等学校野球選手権大会大阪大会予選では準決勝に進出するが、のちに阪神タイガースで同僚となる奥田敏輝(大阪府立桜塚高等学校)と投げ合って惜敗するも、予選7試合を全て完投して僅か3失点という好成績を残した。この活躍がスカウトの目に留まり、「直球も良いが頭の使える選手だ」として1位指名に踏み切られるきっかけとなった。また、高校時代は一度も柵越えの本塁打を打たれたことが無く、唯一打たれたのは平野光泰(明星高等学校)にランニング本塁打を許したのみだった。

野球が終わって進路をどうするのか。ということになった。プロのスカウトもちらほら来ていたらしいが、自分には縁のない世界で村山実さん(阪神)や長嶋茂雄さん(巨人)がいる場所は美空ひばり石原裕次郎さんがいる芸能界と同じく、雲の上の話だと思っていた。自分のなかでは、チームの仲間とともに熱心に誘ってくれた東海大学に行こうと決めていた。
私の履歴書 江夏豊(日本経済新聞、2017年12月6日)

江夏は高校時代を振り返って、衝撃的だった出来事として鈴木啓示との対戦を挙げている。2年生のある日、鈴木を擁する育英高等学校と練習試合を行い、延長15回・0-0の引き分けに終わった。この試合で、江夏は四球を出しながらも完投して15奪三振を挙げる好投を見せる一方、3年生エースだった鈴木はそれを大きく上回る27奪三振を記録した。4番打者として打席に立った江夏は、鈴木が投じる速度のある直球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐している。この出来事がきっかけで江夏は、鈴木が投じていたカーブを習得したい願望が芽生えたという。

阪神入団~続く快挙達成

藤本・村山らとの出会い

1966年に行われた第1次ドラフト会議において、阪神タイガース読売ジャイアンツ東映フライヤーズ阪急ブレーブスから1位指名を受け、競合抽選の結果、阪神が指名権を獲得、入団が決まった。背番号は入団時のみ71を着用していたが、のちに球団から11328のどれかを着用することを薦められた江夏は、1を「ライバルの鈴木啓示と番号が被る」、13を「何となく縁起の悪い番号」という理由で候補から消し、消去法で28を選択した。このことは2014年12月30日放送の「背番号クロニクル」(NHK BS1)で語られている。ちなみに同番組内では、28が完全数であることが紹介されているが、江夏本人は「『完全数』って何なのか、それすら僕は知りませんでした」と語っている。

1967年の春季キャンプでは、高校時代まで投げられなかった変化球を習得するために権藤正利をはじめとする先輩投手陣に教えを請うたが、どの投げ方も完全に習得できないまま公式戦が始まってしまった。それでも剛速球を武器に225奪三振を挙げ、新人でありながらシーズン最多奪三振を記録した一方で与四球や被本塁打も多く、打撃力に乏しい当時のチーム事情も重なって12勝13敗と負け数が上回り、新人王のタイトルも武上四郎に阻まれて獲得はならなかった。ただ、球団とは1勝10万円のインセンティブ契約を結んでいたため、年俸相当の収入を得たという。

新人時代の江夏は、当時監督だった藤本定義に非常にかわいがられていた。「鬼監督」として数々の名選手を育て上げた藤本だが、野球人として最晩年に差し掛かっていた当時は好々爺としており、江夏と一服しながら球界の昔話を聞かせるのを好んでいた。江夏は藤本を陰で「おじいちゃん」と呼んでいたが、藤本がオールスターゲームで江夏を3連投させた川上哲治を見るや、シーズン再開後の巨人戦で川上を阪神ベンチに呼び出し、「おい、哲!うちの豊(江夏)を乱暴に使いやがって!この馬鹿野郎!」と普段とは全くの別人のような剣幕で叱り付けたことがあった。他球団でありながら江夏にとって厳しい大監督の川上が、直立不動の姿勢で好々爺の藤本に怒鳴られているのを目の当たりにした江夏は、鬼監督時代の藤本が突然蘇ったことに心底驚いたという。藤本と江夏の関係は藤本が退団した後も続き、江夏がのちに南海ホークスへトレードされた際には、藤本はショックを受けて号泣し、体調を崩してしまった。また、広島時代に江夏が自身初の優勝を決めた際には、既に高齢で歩行もままならなかったにも関わらず、広島のベンチ裏まで駆け付けて「本当によかったなぁ!おめでとう」と涙ながらに直接祝福していた。

1968年のキャンプでは、新たに投手コーチに就任した林義一によって、砲丸投げの影響からくる「担ぎ投げ」の癖を矯正され、変化球も徹底的に教え込まれた。これによって制球力の向上と球種を増やし、開幕から前年を上回るペースで勝利数と奪三振数を伸ばしていった。この年を境に江夏は、血行障害に悩む村山実に代わってエースとなり、球界を代表する投手へ成長した。このことから江夏は、温厚で真摯に指導してくれた林を「お師匠さん」と呼び慕っている。村山に対してもストイックな野球観に感銘を受けて弟子入りを決意し、練習からロッカールームに至るまで村山の至近距離で一挙手一投足を観察していたが、初年度に江夏が好成績を残すと、村山は露骨に江夏を遠ざけるようになった。江夏はエースの座を奪われそうになった村山の器量の狭さゆえの行動と憤慨していたが、のちに自身を一人前の投手として認めてくれたがゆえの「弟子を卒業」という意思表示と気付き、「あれが本物のプロ、勝負師の在り方だと教えてもらった」と自著の中で語っている。

こだわった王貞治との対戦

1968年9月17日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)で王貞治から三振を奪い、稲尾和久の日本記録を更新するシーズン354奪三振を記録した。江夏は試合前にこの新記録に気付いており、記録更新となる354個目の三振を王から奪うと公言していたことが当時の新聞に記載されている。そして試合では日本タイ記録となる353個目を王から奪ったが、江夏本人はこれを日本記録更新と勘違いしており、ベンチに戻ってから捕手・辻恭彦から指摘されて初めて気付いたという。そこで江夏は後続の打者を全て意図的に凡打で打ち取り、次の王の打席で宣言通り記録更新となる354個目の三振を奪ってみせるという離れ業をやってのけた。江夏は後年、「(王以外の野手から三振を奪うより)さんと高橋さんから三振を取らないようにするのが、むしろ大変だった。特に高橋さんを2ストライクまで追い込んだのが一番困った」と語っている。しかもこの試合では、延長12回に江夏自らがサヨナラ安打を放って勝利している。

この試合にも表れているように、江夏は王から三振を奪うことに特にこだわっていた。それは村山が節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似したもので、新人時代に村山が「お前の相手はアレ(王)、オレはこっち(長嶋)や」と江夏に言い、左対左になる王をライバルとするよう命じられたともされている。これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算57奪三振の一方で、直球で勝負を挑んだために20本もの本塁打を浴びている。王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を放った打者も王である。ただし、野村克也の著書「オレとO・N」によると、試合前日のスポーツ新聞に掲載された江夏のインタビューとして「日本記録はONから取りたい」、試合当日直前のインタビューでは江夏が「王、長嶋と連続して(三振を)取りたい」と語っていたといい、さらに「王は昔、『江夏のその話は眉唾』と言っていた」「(王の)次の打者の長嶋には、合わせたバッティングでショートゴロを打たれてしまっている」と述べている。このことから察するに、江夏本人が美化して話したことがマスコミで誇張されたまま何十年と経過し、本人も収拾がつかなくなってしまったので、ONは「江夏がそうしておきたいなら別に構わない」というスタンスだったこともあって、“長嶋から新記録を狙ったものの打たれてしまった。仕方ないので打順を一回りさせて王が来るまで、他の選手からは三振を取らないようにする”というのが真相だろうと述べている。

結局、同年は奪三振数を最終的に401個まで伸ばした。これは2020年現在でも日本プロ野球記録であり、また世界記録として認定されていないものの、MLB記録(ノーラン・ライアンの383個)をも上回っている。また、江夏は奪三振数だけではなく奪三振率も極めて高く、通算18年間の実働期間で奪三振数が投球回数を上回ったことが9度もある。しかもそのうち4度は先発投手だった阪神時代に記録しており、佐々木主浩などの抑え投手では珍しくないが先発投手がこの記録を達成するのは稀である。江夏のライバルだった堀内恒夫は、ついに一度も達成できなかった。

オールスターゲーム9者連続奪三振

詳細は「江夏のオールスター9連続奪三振」を参照

1971年7月17日オールスターゲーム第1戦(阪急西宮球場)で登板した江夏は、速球と抜群の制球力でパ・リーグの打者から次々に三振を奪い、史上初の9者連続奪三振を記録した。オールスターゲームでの投手は規定により3イニングまでしか登板できないため、この記録は1試合における事実上の最多奪三振数であり、現在でもオールスターゲームにおける単独記録である。打者がキャッチャーフライを打った際に捕手の田淵幸一が追いかけるも「捕るな!」と叫んで制したとされているが、実際には打球がそのまま観客席に入るために追わなくていいと江夏が思ったことに加えて、三振を奪っている最中だったこともあって江夏自身がテンポよく投球したかったために「追うな!」と叫んだものだと著書で語っている。

このあとセ・リーグは、江夏の後を受けて登板した渡辺秀武高橋一三水谷寿伸小谷正勝の継投でパ・リーグを無安打1四球1失策16奪三振に抑え、継投によるノーヒットノーランを達成している。

9連続奪三振を記録した際のボールは江夏の手元に無く、行方不明となっている。これは、捕手の田淵幸一が江夏の記録達成を知らず、球審の三振コールを聞くと同時に無意識に観客席へ投げ入れてしまったためとされており、当時の映像を見ても田淵が球審の三振コールの確認直後に立ち上がり、ベンチ方向へ歩き出しながら後方の観客席へボールを投げ入れる様子が確認できる。ただ、後年になって江夏が番組で王理恵と共演した際に、「田淵というキャッチャーはボールを投げ入れてしまった。でも君のお父さん(王貞治)が拾ってくれてスッと渡してくれたんだよ」と述べている。

江夏は前年のオールスターゲームにおいても5連続三振、翌日の第2戦は1三振を奪っており、連続15奪三振もオールスター記録となっている。さらにこの試合で江夏は、1960年巽一に次ぐ史上2人目の「オールスターゲームにおける投手の本塁打」を放っており、これを最後にオールスターゲームにおける投手の本塁打は記録されていない。

史上初の延長ノーヒットノーラン

1973年8月30日の対中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)では、史上59回目となるノーヒットノーランを達成した。この試合では史上初の延長戦ノーヒットノーランとなっている。

相手先発の松本幸行と延長戦まで投げ合い、11回裏に松本が投じた初球をライト側ラッキーゾーンに運び、「自らサヨナラ本塁打を放つ」という劇的な形で史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成した。2020年現在においても日本プロ野球で延長戦ノーヒットノーランを達成しているのは江夏だけである。しかしその後、江夏が「野球は一人でも出来る」と発言して物議を醸したが、自身はこれについて一切否定しなかったため、非難に拍車をかける形となった。また、この試合を実況した朝日放送アナウンサーが興奮のあまり「バンザーイ!江夏バンザーイ!」と万歳を連呼して公平性を欠いたとして厳重注意を受けるという後日談もあったが、これも実際には江夏が三塁を回る際にコーチの山田伝が先に大きく両手を挙げた状態で江夏にハイタッチを求め、江夏が応じ、続けて金田正泰監督とハイタッチを交わしながら生還する様子を忠実に実況していただけであった。

このようにシーズン中には華々しい記録を樹立し続けた江夏だが、シーズン全体で見ても最多勝利(1968・73年)、最優秀防御率(1969年)、最優秀投手沢村栄治賞(共に1968年)のタイトルを獲得、シーズン20勝以上が4度、6年連続リーグ最多奪三振を達成し、僅か4年目の1970年には通算奪三振数記録保持者である金田正一を上回る史上最短で、通算1000奪三振を記録するなど、名実ともにセントラル・リーグを代表する投手となった。

しかし、当時は読売ジャイアンツが前人未到の9連覇(いわゆるV9)を成し遂げている真っ只中で、チームは優勝争いに加わるものの、優勝を経験することは出来なかった。中でも9連覇を許した1973年は、あと1勝すれば阪神のリーグ優勝が決まる試合(10月20日、対中日ドラゴンズ最終戦)に先発するも5回3失点で敗戦投手となり、「優勝を逸した元凶」とまで言われてしまった。また、この試合では直前になって長田陸夫球団代表・鈴木一男常務から「優勝すると金が掛かるから残り2試合は勝ってくれるな。監督も了承しているから」と言われたなどと、著書で語っている。その一方で起用については「試合で負けるためにエースを投げさせる訳も無く、あとで『中日戦は上田で巨人戦は江夏で行けば良かった』という声もあったけどそれは結果論であって、あと1勝すればいいとなったら勝ち星の多い方から行くのは当然。残念な結果になったんですが、僕は今でもあれは正攻法だったと思う。僕の力が及ばなかったから負けたということ」と采配に理解を示している。

周囲との確執~阪神放出

1973年シーズン終了後、江夏は金田監督に対する不満から「監督の下ではプレーできない」と表明し、金田も「江夏を抱えてチーム作りをする自信が無い」として辞任を表明する事態となった。この際は戸沢一隆球団社長が仲裁に入り、最終的には両者とも残留を表明したが、確執の解消には至らなかった。1974年に金田に代わって就任した吉田義男とは吉田の現役時代から性格が合わず、親しかった辻佳紀コーチが間に入ることでようやくコミュニケーションが取れる状態だったという。また、新人時代に感銘を受けた村山が監督に就任した際にも確執が生じていたことから「一匹狼」といった異名を付けられ、関西地方のスポーツ紙などに江夏と球団・首脳陣側の対立が面白おかしく報じられることも多くなった。

1970年に発生した黒い霧事件では江夏も「野球賭博の常習者との交流をしていた」として処分を受け、多くのチームメイトから「江夏がいては阪神は優勝できない」「江夏とプレーしたくない」と言われるほど孤立してしまったため、球団側もパ・リーグ球団を相手とする早期のトレードを模索していた。

江夏自身も1974年から血行障害、心臓疾患(心室性期外収縮)が悪化して肩や肘に痛みが発生、服用していた痛み止めなどの影響で体重が増え、同世代のライバルだった堀内恒夫(読売ジャイアンツ)より先に通算150勝を達成するも、成績は年々下降していった。

そして1976年1月28日、関係者によって兵庫県内の球団事務所に呼び出された江夏は、江本孟紀島野育夫長谷川勉池内豊との交換トレードで望月充と共に南海ホークスへの移籍を宣告された。吉田から野村克也選手兼任監督へ打診があった事によるトレードで、両球団は乗り気だったものの、野村自身からすれば痛かったという。フロント主導で一方的に決められたトレードで、会見で江夏は涙ながらに無念を語っていた。このトレードの際に江夏は交換相手の江本に関して「なぜあんなレベルの選手と…(オレが交換させられるのか)」とぼやき、それを聞いた江本が「言いたい放題言いやがって」と激怒、一触即発の状態に陥った。しかし後に二人は和解して良い友人となり、のちに江夏の刑事裁判において情状陳述をするまでの関係になっている。

南海移籍~野村の野球観

江夏は当初、南海への移籍を頑なに拒否していたが、野村克也と会った時にその野球観に深い感銘を受け、南海での現役続行を決意する。感銘を受けたきっかけは、江夏が阪神時代の1975年10月1日の対広島東洋カープ戦を野村が観戦しており、満塁の場面で衣笠祥雄をフルカウントから意図的にボール球を投げて空振り三振を奪ったことを看破、それを直接指摘したことだったという。野村はさらに、「お前(江夏)が投げてオレが受ける。これは芸術になるぞ」と告げ、それが移籍の決め手になったという。江夏が野村を慕うきっかけは、江夏自身は前述の移籍交渉における広島戦での指摘だったというが、野村はこの出来事についてはあくまでも南海への移籍を決意した要因に過ぎないとしている。野村によると、江夏が自身を慕うようになったのは、江夏の意図的とも思える制球ミスで敗れた試合の後に黒い霧事件を引き合いに出して「疑惑を持たれた人間が、『自分は潔白だ』と口で何度言っても誰も信じない。マウンドでの態度で示せ」と厳しく叱責したところ、「阪神時代にはそんな言いにくいことを言ってくれる人はいなかった」と感激したことだったという。江夏は現在に至るまで、「野球に関しての見識は間違いなく球界一」と野村を評し、野村も生前は江夏を「自分が接した投手では一番の頭脳を持ったヤツ。史上最高の速球投手」と高く評価していた。

移籍初年度は阪神時代から引き続き先発投手として起用されたが、血行障害や心臓疾患などで長いイニングを投げられず、試合中に発作が起きて動けなくなるなど思うような成績が残せず、野村がハラハラすることもよくあったという。しかし抜群の制球力は健在で、50球程度の短いイニングなら戦力になると考えた野村は、江夏へリリーフへの転向を打診した。しかし、当時はリリーフの地位は先発投手より低かったため、当初は「トレードの上に今度はリリーフと、なぜ自分ばかりに恥をかかせるのか」と反発し続けたが、「野球界に革命を起こそう」という野村の説得により、1977年6月にリリーフ投手へと転向を決意した。当時の日本にはリリーフ専門投手の調整法が確立されておらず、ずっとベンチに座って待機していることが腰痛持ちの江夏には辛かったことから、知り合いの記者にメジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを聞き、自己流の調整を始めた。試合が始まっても5回までベンチに入らず、ロッカールームでマッサージを受けたり睡眠を取ったりする調整法は、当時チーム内や球界で非難を浴びたが、現在では全試合待機を義務付けられるリリーフ投手のコンディション維持方法として定着している。

野村による江夏のリリーフ転向は成功し、江夏は19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は野球界におけるリリーフ投手のパイオニアとして、野村は選手の復活を幾度となくサポートしたことから「野村再生工場」と呼ばれるようになり、選手の再活躍の手法の最初期の事例として後世まで評価されることとなった。江夏は後に、「ムース(野村)の『革命』という言葉が心に響いた。革命と言われなかったらリリーフ転向は受け入れなかったと思う」と語っている。この南海時代以降、阪神時代の豪腕は鳴りを潜めたが、打者との綿密な駆け引きと変化球を巧みに使い分ける技術を身に付け、相手打者の探りを入れるために初球をボールにすることも厭わなかった。

なお、江夏は阪神時代に吉田から抑え投手への転向を打診されたことがある。長いイニングで球威が落ちるようになったのを見た吉田がそれとなく打診したが、当時の江夏にはその気が全く無かったと語っている。南海移籍後に野村からリリーフ転向を打診されて受け入れ、最優秀救援投手に輝くなど実績を残した江夏は野村に傾倒していき、自宅が近所同士だったこともあって家族ぐるみの付き合いをしていたという。江夏が夜遊びなどで帰宅が遅くなった際は、野村がまだ幼かった江夏の娘を自宅の風呂に入れたりすることもあったという。

広島移籍~江夏の21球

1977年オフ、野村が公私混同問題で解任された際に「野村さんが辞める以上、南海を出して下さい」と発言、同年12月22日に金銭トレードで広島東洋カープへ移籍した。

広島でもリリーフとして起用されるが、江夏の投球術は衰えるどころかますます冴え渡り、打者心理を読み込んだうえで球速だけでなく投球モーションに変化を加えて緩急を付けることで、打者を大きく翻弄していった。これによって1979年から1980年の2年連続日本一に大きく貢献、「赤ヘル黄金時代」を築く大きな原動力となった。特に1979年には自身初、日本のリリーフ投手としても史上初となるMVPに輝いている。

その投球の最大の面目躍如となったのが1979年の日本シリーズ第7戦、対近鉄バファローズ戦(大阪スタヂアム)である。1点リードの9回裏に無死満塁のピンチを自ら招くも、一死からのスクイズを見抜くなど近鉄の反撃を鮮やかに絶ち、広島を日本一に導いた。当時の様子は、のちの作家・山際淳司が「江夏の21球」という短編ノンフィクションに記し、現在ではプロ野球史屈指の名場面として語られている。

1980年7月22日のオールスターゲーム第3戦(後楽園球場)では、セ・リーグが2-0と勝っていたが9回裏に1点差まで詰め寄られ、無死満塁のピンチを背負った野村収(大洋ホエールズ)を救援し、レオン・リー有藤通世(共にロッテオリオンズ)、山内新一(南海ホークス)を3者連続三振に打ち取り、先制打を放った真弓明信、本塁打を放った掛布雅之を抑えてMVPを獲得した。「『9者連続三振』『江夏の21球』の再現」などと話題になったが、江夏は後年、この試合の前日に「あるお偉いさんと徹夜で漢字の勉強をしていた」と語っている。

南海時代に野村に感銘を受けたきっかけとなった広島戦の試合で三振を奪った衣笠とは、江夏が広島に在籍していた頃から無二の親友となり、現役引退後も衣笠が亡くなるまで交流が続いた。江夏の著書によると、「広島時代は、嫁さんといる時間よりサチ(衣笠)といる時間の方が長かった」と言い、衣笠の没後は「いいヤツを友人に持った。オレの宝物だ。自分もすぐ追いかけて、あの世で野球談議をするよ」とその死を悼んだ。また、この時期は大野豊にフォーム改造などの熱心な個人指導も行い、のちの大野の成長の礎を作り上げた。フロントも選手の扱いが非常に厚いもので感動したと語り、「最も愛着があるのは最初にユニフォームを着た阪神だが、最も楽しかった時代は広島」とさえ述べている。

なお、広島在籍時代に対戦した古巣・阪神タイガース戦では一度も勝利投手になれず、現役通算での全球団勝利を逃している。

日本ハム時代~再びパ・リーグへ

1980年日本ハムファイターズは、パ・リーグ後期シーズンで優勝争いを演じていた。自らのチーム強化に手応えを感じていた大沢啓二監督は、リリーフエースを求めて広島へ江夏獲得を自ら打診、同年オフの12月1日にエース・高橋直樹との交換トレードで、江夏の日本ハムファイターズ移籍が決定した。大沢の親分肌は江夏の気性に合っていたようで、大沢も「江夏を最後(9回)に使うのが我がチームの勝ちパターン」として江夏を信頼、江夏もそれに応えるように1981年はリリーフエースとして優勝に貢献し、MVPに輝いた。両リーグでの受賞は史上初の快挙で、広島時代の1979年から1983年まで5年連続、両リーグに跨っての最多セーブ投手のタイトルを獲得し、同時に史上初となる全12球団セーブの記録も達成した。

1982年には通算200勝を達成し、入会条件を満たして日本プロ野球名球会に入会する。チームは後期優勝を果たし、前期優勝した広岡達朗監督率いる西武ライオンズとプレーオフで対決する。事前予想では西武打線がシーズン通じて江夏に抑えられていたことから日本ハムが優勢と見られていたが、広岡は江夏が投球した後の守備に大きな難があることを見抜いており、江夏の周辺に執拗なプッシュバントを仕掛けさせた。これによって投球リズムを崩した江夏は西武打線に捕まり、日本ハムは西武に敗れて日本シリーズ出場は果たせなかった。これによって、江夏は広岡の戦略眼の鋭さに尊敬の念を抱くようになる。

前年日本一の広島から移籍したこともあって、当時の日本ハムのチーム力はお粗末なものだったという。当時チームメイトだった大宮龍男岡部憲章間柴茂有坂巻明などは大沢から頼まれて江夏が指導したと言われており、江夏自身も当時を振り返って「彼らと一緒に野球をやって自分自身も勉強になった」と後述している。

西武時代~江夏の現役晩年

1983年オフに大沢が勇退し、後任に植村義信が就任した。しかし植村は江夏をチーム構想から外しており、江夏の退団が決定した。大沢からも「オレは監督を辞めようと思っている。お前(江夏)も他所のチームでやり直した方がいい」と退団を持ち掛けたとされている。移籍にあたって江夏は、現場を離れるも常務取締役として球団本部に残る大沢から希望球団を問われ、「広島とか阪神とか、巨人を倒すチームなら行ってもいい。しかし西武は嫌である」と答えていた。しかし、同年12月13日柴田保光木村広との交換トレードで西武ライオンズへの移籍が決定した。これは、坂井保之球団代表による「巨人が江夏獲得に乗り出してくるとみて、巨人に取られる前に自分のところへ引き入れる」という意図によるものだったと語っている。また大沢も、江夏に移籍を薦めた際には既に西武から申し入れがあり、厳しい広岡野球を知る方が江夏のためになると考えたと述べていた。

1984年の開幕から江夏は調子が上がらず、シーズン途中で体調不良を訴えた。広岡は、江夏の体調報告が再三にわたって大きく食い違うことに不信感を抱き、二軍落ちと入院を命じた。その一方で江夏も、二軍落ちの決定を広岡本人からではなく新聞報道で知るなど、広岡が選手とコミュニケーションを取らないことに不満を募らせていた。チームも同年は優勝争いから早々と脱落し、シーズン途中で早くも来季を見据えた若手中心の起用に代わったことで、7月12日の登板を最後に江夏に出番が与えられることは無かった。江夏は、史上初の200セーブと通算3000奪三振を目前にしながら、同年限りで西武を退団、現役引退を表明した。阪神時代にバッテリーを組み、西武で再び同僚となった田淵と異なり、球団主催の引退試合は行われなかった。

引退試合が行われなかったことに対して、かつて創刊時のCMに江夏を起用していた雑誌・Numberの初代編集長で、当時は文藝春秋の編集長だった岡崎満義らの計らいで、多摩市一本杉公園野球場にてNumberを発行する文藝春秋社の主催、名球会協力の下、「たったひとりの引退式」が実施され、1万6000人の観衆が詰めかけた。江夏は阪神時代のユニフォームを着用し、球団の垣根を超えて集まった選手・OBを相手に日本での最後の投球を披露した。また、監督役としてビートたけしも駆けつけた。この引退式の挨拶でメジャーリーグ挑戦の意志を表明し、「江夏豊36歳、本当にバカな男かも分かりません。ですが、日本に帰ってきたときには、たった一言、『ご苦労。』それだけ言ってやってください」と語っている。

江夏の西武退団の直接的な原因は、広岡の確執だった。自著によると、江夏は事前に野村に言われていたことでヘッドコーチ格の森昌彦バッテリーコーチの言うことはよく聞いたが(野村と森はチームを超えて長年の親友である)、広岡とは全くそりが合わなかった。衝突の決定的な原因は、1984年のキャンプのある日に経営陣も参加した朝食会の席で、健康のための栄養学に重きを置いて玄米や豆乳などを選手に普段から強制する広岡や、他のコーチ・選手がいる中で「ねぇ監督、こんなもの食べてなんで痛風なの?」と問いかけて広岡の怒りを買ってしまい、それ以降は出場機会が減らされたとされている。江夏が二軍落ちとなったのはプロ18年目で初のことだった。

広岡監督は玄米や自然食を勧めるなど食事から管理していたものの、自身は痛風の持病があった。ある食事会で「監督はこういうものを食べているのになんで痛風なの」と聞いてしまった。自身も痛風持ちだったので、何気なく尋ねたのだが、監督は気分を害し、席を立ってしまった。
私の履歴書 江夏豊(日本経済新聞、2017年12月29日)

なお、江夏は前述の事情から広岡について「人間的に許せないところがあった」と語っているが、一方で日本ハム時代に西武から受けた執拗なバント攻めなどから広岡の野球観は高く評価しており、「人間として問題があっても、野球という面では教えられることが多かったし、素晴らしい指導者」と、監督としての広岡を高く評価している。広岡も「江夏は投げることに関しては素晴らしかったし、何と言っても抜群に頭がい

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出典:wikipedia
2021/04/29 16:01

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