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江川卓_(野球)とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
福島県いわき市
【生年月日】
(1955-05-25) 1955年5月25日(63歳)
【身長
体重】
183 cm
90 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1978年 ドラフト1位
【初出場】
1979年6月2日
【最終出場】
1987年10月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


江川 卓(えがわ すぐる、1955年5月25日 - )は、福島県いわき市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者タレント。高校時代は公式戦でノーヒットノーラン試合9回、完全試合2回、36イニング連続無安打無失点、県予選合計被安打2での夏の甲子園出場、選抜高等学校野球大会における大会通算最多60奪三振、春夏通じた甲子園における奪三振率14.0、甲子園での8者連続奪三振、東京六大学時代の17完封試合など今なお破られていない数々の記録を作り、「怪物」の名を欲しいままにした。また、日本プロ野球史上6人目の投手五冠王に輝くなどの実績を残し、1980年代の日本プロ野球、セ・リーグを代表するエースとして活躍した。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 出生から中学時代
    • 1.2 高校時代
      • 1.2.1 高校1年
      • 1.2.2 高校2年
      • 1.2.3 高校3年
    • 1.3 大学時代
    • 1.4 プロ入り時の騒動
    • 1.5 プロ野球選手時代
    • 1.6 現役引退後
  • 2 選手としての特徴
  • 3 人物
  • 4 西本とのライバル関係
  • 5 人間関係
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別投手成績
    • 6.2 タイトル
    • 6.3 表彰
    • 6.4 記録
    • 6.5 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 著書
    • 7.2 関連書
    • 7.3 江川を題材とした作品
    • 7.4 江川(およびその家族)に由来する命名
  • 8 出演
    • 8.1 テレビ・ラジオ
    • 8.2 CM
    • 8.3 映画
    • 8.4 PV
  • 9 参考文献
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

経歴

出生から中学時代

出生は福島県で、幼少期をいわき市で過ごす。その後、鉱山技師であった父親の仕事の関係で少年時代を静岡県浜松市天竜区で過ごす。父は江川の出生前から長男をプロ野球選手にしたいと思っていたというが、特に野球の練習を強いられることはなく、同年代の男子と同様にバットやグローブを与えられ、ごく自然に野球を覚えた。ただ、父は折に触れ何気なく息子を野球に仕向けていた。小学生時代、父の真似をして天竜川で対岸に向かって石を投げたところ、大人の飛距離に遜色なかった。以来、江川は天竜川で石を遠投することを日課とし、これにより地肩が鍛えられることとなった。

中学校で野球部に所属。当初は控え投手を兼ねた外野手だったが、1年生の秋から近所の学校との試合で好投したことをきっかけに正式な投手となる。中学2年生のとき、父の転勤により栃木県小山市に転居。「野球の恩師は小山中学3年のときの赤池先生です。スリークォーターのピッチングを上から投げるように言われ、その途端スピードが出るようになりました。」と後の江川は述懐している。この小山市立小山中学校で県大会優勝、また、栗本中学を相手に早くもノーヒットノーラン試合を記録している。高校は小山高、日大一高日大三高などいくつかの高校から勧誘があったが、東京六大学野球の早慶戦に出る夢もあり進学コースのある作新学院に入学する。

高校時代

高校在学中は作新学院のエースとして、高めのバックスピンが良くかかった快速球と縦に大きく割れるカーブを武器に、公式戦でノーヒットノーラン試合9回、ノーヒットノーラン無四球試合4回、完全試合2回、完封試合20回、36イニング連続無安打無失点、1試合(9イニング当たり)平均被安打2.6(投球回数354イニング被安打103(被本塁打0))、防御率0.41(投球回数354イニング、自責点16)、県予選合計被安打2での夏の甲子園出場、選抜高等学校野球大会における大会通算最多60奪三振、春夏通じた甲子園における奪三振率14.0、甲子園での8者連続奪三振、練習試合含めて145イニング連続無失点など今なお破られていない数々の記録を残している。その超高校生級の実力と耳の大きな顔が漫画『怪物くん』の主人公に似ていることから「怪物くん」「怪物江川」と呼ばれ、日本中の注目を集めた。他の追随を許さない数々の超越した記録から日本高校球界最高の投手との呼び声も高い。

なお、江川の同僚にはのちにラジオ日本のアナウンサーとなった染谷恵二がおり、江川のブルペン捕手も務めていたが、染谷は高校野球部入部直後に退部している。

高校1年

1971年、江川1年生の夏、第53回全国大会栃木県予選2回戦(対足尾戦)を救援で5回無安打無四球7奪三振のパーフェクトリリーフで高校生として初登板初勝利を飾った。次戦の3回戦(対足利工大付戦)では3年生、2年生の先輩投手がいる中で初先発、8回を3安打零封し5対0の中、9回を後続投手に譲っている。さらに準々決勝(対烏山戦)でも先発、栃木県高校野球史上初の快挙となる完全試合を達成し、中学を卒業して4か月の1年生ながら早くも格の違い見せた。準決勝(対宇都宮商戦)は先発するも延長11回無死から四球を与えたところで降板、直後に後続投手が打たれ甲子園出場はならなかった。

その年の秋、第24回秋季関東地区大会栃木県予選では4試合に登板、30回を投げて2失点37奪三振、防御率0.67。1回戦では北関東高校球界で鈴木孝政(1972年のドラフト1位で中日に入団)、江川とともに速球投手三羽ガラスといわれた石田真(1972年のドラフト1位で阪急に入団)を擁する足利工と激突。7回まで両者譲らず0対0だったが、8回に作新学院が2点を先取。江川は8回に1死球を与えるも後続を打ち取り、ノーヒットノーラン試合で足利工を下した。決勝の宇都宮学園(現・文星芸術大学附属高等学校)戦では3安打11奪三振完封勝ちし、栃木県大会を優勝した。

関東大会に駒を進め、1回戦前橋工戦に先発。群馬県大会優勝校を相手に4回まで12アウトのうち三振以外が2個だけ(1回2死から4回まで10者連続奪三振)で無安打無失点、フェアグランド内にボールが飛んだのはセーフティーバントによる投ゴロだけという高校入学以来最高の出来と思われる投球で圧倒し、春の甲子園出場への強い意欲を見せた。また、この日5番に入った江川はチームでただ一人2安打(2打数)を放ち、打つ方でも気を吐いた。しかし、5回表の3打席目で前橋工・小池投手より頭部死球を受け、耳から血を出して意識を失い退場(そのまま入院)。5回裏に後続投手が打たれて敗退し、優勝候補の一角とも呼び声高かった2年春の甲子園出場はならなかった。

高校2年

1972年夏、2年生の江川は第54回全国大会栃木県予選の2回戦(対大田原戦)、3回戦(対石橋戦)、準々決勝(対栃木工戦)と登板した3試合すべてでノーヒットノーラン試合(うち3回戦の対石橋戦では完全試合)を達成。27回を投げて被安打0、47奪三振(対大田原戦13奪三振、石橋戦17奪三振、栃木工戦17奪三振)、奪三振率(一試合9イニング平均奪三振数)15.7という圧倒的な記録で準決勝に進んだ。また、準々決勝の栃木工戦では9回表まで0対0であったが、9回裏自らのサヨナラヒットで勝利するなど投打でチームを牽引し、夏の甲子園出場へ向けて強い執念を見せた。

この大会4試合目となった準決勝対小山戦も10回2死までノーヒットノーランだったが、味方打線が1点も取れず、延長11回裏、サヨナラスクイズによって0対1で敗れ、15奪三振の力投を見せるも甲子園出場はならなかった。勝負の世界に「もし」はないが、準決勝の小山戦でもし作新学院が9回までに1点でも取っていれば、栃木県予選大会4試合すべてをノーヒットノーラン試合で決勝進出という、前代未聞の快挙を成し遂げるところであった。また、この大会で江川が作った公式戦36イニング連続無安打無失点記録は日本高校野球史上だけでなく、日本野球史上でもいまだに破られていない。なお、4試合での作新学院のチーム打率は2割6分1厘(138打数36安打)だったが、江川は3割3分3厘(15打数5安打)と打撃でも一人気を吐いている。

その実力とは対照的に1年夏、2年春、夏の悲劇的な内容での敗戦は地元で大きな話題となった。当時、江川は甲子園に出場したこともなく全国的には無名の2年生投手だったにも関わらず、この栃木県予選準決勝での敗退は朝日新聞、読売新聞、毎日新聞などの全国紙だけでなく、全国の地方紙(例:長野県、信濃毎日新聞等)でも掲載されている。また、この実績から「栃木にはとんでもない投手がいる」「相手校はバントもできず三振の山を築いている」「栃木に怪物江川あり」と全国に知れ渡り、江川との練習試合の対戦希望が殺到。全国各地で招待試合が組まれ、そこでの登板回数の多さが、のちに肩を痛める遠因となったとされる。

江川自身は後に「球の速さで言えば、甲子園に何とか出ようと思って一生懸命投げていた、高校1年の秋から2年生の夏ぐらいまでが、生涯で一番速かったんじゃないかと思います」と述懐している。その江川を擁しながら、高校1年夏、2年春夏とも甲子園へ出場できなかった責任をとり、当時の作新学院野球部渡辺監督は監督を辞任している。

同年秋の第25回秋季関東地区大会栃木県予選、翌年の春の甲子園に向けての初戦となる1回戦(対那須戦)は5回まで投げ、15アウトのうちの14アウトを三振で奪う気合の入った快投を見せ無安打零封、6回以降を後続投手に譲っている。2回戦(対足利工戦)は9回2安打15奪三振完封勝ち。準決勝(対宇都宮戦)は6回2安打6奪三振零封、7対0となったところで降板。決勝(対烏山戦)も9回2安打10奪三振完封勝ち。合計4試合に登板し、29回6安打無失点45奪三振、2試合完封、奪三振率14.0と相手校を圧倒的に凌駕して、栃木県大会を優勝した。

関東大会に駒を進めての1回戦では群馬県大会優勝校の強豪・東農大二高と対戦した。この試合でも、2回2死から5回2死まで9者連続奪三振、6回まで投げて13奪三振1安打零封と強豪・東農大二高を完全に圧倒する投球を見せ、観衆の度肝を抜いた。

次戦の準決勝は70年代前半から「黒潮打線」と呼ばれ強打で鳴らした千葉県大会優勝校の強豪・銚子商と激突した。この関東大会は千葉銚子球場で行われたが、野球熱が高い地域であることに加え、地元強豪の銚子商が出場するということで試合前から満員のスタンドは銚子商応援一色となった。しかし、試合が始まると江川の桁外れの凄さに球場全体が静まりかえる異様なムードに包まれた。1965年夏の全国高校野球大会で準優勝し、木樽正明投手(のちロッテ)を育てた銚子商の名将斎藤監督はこの日初めて江川と対戦したが、最初のバッターへの投球内容を見て「これは完全試合をやられるかもしれない」、2回二死から四球をとり「その時は内心ホッとしました。とりあえず完全試合は免れましたから」と後にスポーツ雑誌Number 105(1980年8月20日発行)で語っている。終わってみれば、銚子商随一の強打者、4番・飯野から3打席3三振を奪うなど、強打の銚子商打線をまったく寄せ付けず、1安打完封20奪三振、外野に飛んだ飛球は2本だけ、銚子商はノーヒットノーラン試合を逃れるのが精一杯というほどの完敗だった。

続く決勝では強力打線と好投手・永川英植(1974年のドラフト1位でヤクルトに入団)を擁する神奈川県大会優勝校で東の横綱とも称された横浜高と激突した。強豪の東農大二、銚子商に対して2試合で15回2安打無失点33奪三振、奪三振率19.8と圧倒的な力で勝ち上がってきた江川に対して、強打の横浜高は三振を取られまいとバットを一握り短く持って初球から積極的にバットにボールをあてにくる戦法をとった。しかし、それでも江川に対してまったく歯が立たず、江川はその打線から16三振を奪い、無四球完封して関東大会を優勝した。また、この大会3試合で3番に入った江川は、12打数7安打・打率5割8分3厘・6打点・2三塁打・2四球と打撃でも中心選手としてチームの勝利に大きく貢献した。

江川は秋の県大会と関東大会を無失点で優勝、秋季大会成績の成績は7勝全勝、53回、無失点、被安打12、奪三振94、奪三振率16.0。新チーム結成以来、練習試合を含む23戦全勝負けなし、113イニング連続無失点という前人未到の凄まじい記録で、念願の春の選抜大会出場の切符を初めて手にした。

なお、この関東大会決勝で無四球16三振完封負けと江川に対してまったく手も足も出なかった横浜高は同じく春の選抜大会に出場しているが、この大会で出場校最多3本の本塁打、特に小倉商戦では選抜大会史上初となるサヨナラ満塁本塁打、決勝では広島商の好投手佃正樹(のち法大→三菱重工広島)に13安打を浴びせるなど強打で他校を圧倒して優勝しており、江川の超高校級の実力を間接的に証明している。

高校3年

1973年春の第45回選抜大会は「江川の大会」ともいわれたほど、レベルの違いを見せつけた大会となった。初戦は秋季大阪大会で優勝し、出場校30校中トップのチーム打率3割3分6厘を誇る優勝候補の一角、強打北陽高校(大阪)で大会屈指の好カードとなった。北陽・高橋監督は、「江川江川というが、まだ高校生。ウチの打線は今が絶好調。ぶんぶん振り回して江川に向かって行きますよ」と開会式前のインタビューで語っている。

インターネットなどがなかったこの時代、全国の多くの高校野球ファンは、新聞報道などで江川の存在は知ってはいたものの、実際の江川の投球を映像で見たことがなく、実際どのくらいの実力の投手なのか、全国レベルの強力打線にどれだけ通用するのか、ベールに包まれた江川に多くの注目が集まった。

3月27日、第1日目第1試合。初めて甲子園球場という全国区に姿を現した「怪物江川」に全国の多くの高校野球ファンがテレビに釘付けとなった。また、江川見たさと開幕直後の地元強豪・北陽高戦とあって、甲子園球場は超満員5万5千人に膨れ上がった。マウンドに上がった江川がウォーミングアップで投げた1球目、大観衆は今まで見たことがない球の速さに「ウォー」と大きくどよめいた。満を持して登板した江川は強打北陽打線を完全に圧倒、1回北陽の選手のバットにボールを一度も触れさせずに3者連続三振と衝撃的な全国デビューとなり、想像を越える怪物ぶりに多くの高校野球ファンはいきなり度肝を抜かれた。続く2回の先頭打者も1球もボールに触れさせることができず三振。1番・冠野から2番・慶元(のちクラウン→西武→近鉄)、3番・広瀬、4番・藤田と続く北陽が誇る強力上位打線が1人もバットにボールをかすらせることすらできず、桁外れの実力の違いに大観衆は驚嘆し、甲子園球場は異様な静けさに包まれた。次の5番・有田(のち近鉄)がこの試合23球目に初めてバットにボールを当てると(バックネット一塁側へのファウル)、有田に対して超満員の観客から大きな拍手が巻き起こっている(この拍手は江川を紹介するメディアで必ずと言っていいほど取り上げられる逸話となっている)。初回先頭打者から4回2死までアウト11者連続奪三振、秋季大会で打率4割2分・3本塁打・21打点の成績を残した北陽ナンバーワン強打者、4番・藤田からは4打席4奪三振(すべてスイングアウトでの三振)、最終イニング9回も2番・慶元からの好打順に対して、地元北陽ファンの期待を粉々に打ち砕くような3者連続奪三振と格の違いを見せつけ、結局、この試合を19奪三振完封勝ちと、鮮烈な甲子園デビューを飾った。試合後のインタビューで北陽・高橋監督は「生徒にはまっすぐを狙わせたが、スピードがありすぎてバットに当たろうともしなかった。途中から作戦を変えて、短打打法に切り替えたが、全くだめだった」と語っている。

初めて全国に姿を現した江川が、想像をはるかに超えた異次元の「怪物」であることに多くのファンが大きな衝撃を覚え驚愕し、この試合以降、この選抜大会は江川一色の大フィーバーとなった。江川が登板する日は、江川を一目見ようと甲子園周辺一帯が数千人のファンで埋め尽くされて身動きできない状態となり、警官数十人が警備にあたったが、それでもバスから降りた江川らが甲子園球場になかなか入れないくらいの大混乱状態が続いた。ちなみに、江川の前に19三振完封負けとまったく歯が立たなかった北陽高はこの年の夏の甲子園にも出場しているが、ここでベスト8になっている。

2回戦で江川と当たる小倉南(福岡)の重田監督とナインは、この1回戦・作新学院対北陽戦を甲子園のスタンドから観戦した。ここで出場校一とも言われた強打・北陽打線が赤子の手をひねるように江川に圧倒された試合を見て、このままではまったく勝てないと考え、江川対策を練った。3月31日の2回戦、小倉南は選手全員がバットをふた握りも短く持って登場し、初球から徹底した短打とバント戦法で江川に食い下がり、スタンドがどよめいた。しかし、安打は3回の3塁前のバントヒット1本のみで、7回10奪三振と江川が圧倒、8対0と大量リードしたため、8回以降を後続投手に譲っている。

4月3日の準々決勝では、秋季愛媛県大会優勝、四国地区大会でも優勝し、優勝候補の一角と言われた今治西(愛媛)と激突した。この今治西に対しても江川は速球、変化球ともに冴え、「怪物」ぶりを発揮した。7回2死までヒットはおろか1人のランナーも許さず14奪三振で圧倒、完全試合の期待も高まったが、その直後に中前打された。しかし、その後も格の違いを見せ8回・9回の6アウトを6者連続奪三振に切って取り、結局、8者連続を含む毎回の20奪三振で1安打完封、外野に飛んだ飛球は初回の右飛と2回の左飛の2本だけと圧倒的な力を差を見せた。この試合での8者連続奪三振は、1926年(大正15年)夏和歌山中学小川正太郎が達成した夏の大会記録(当時)に並ぶもので、春の大会としては史上最多記録。試合後のインタビューで今治西・矢野監督は「選手にバットを短く持って当てていくように指示したが、どうしても打てなかった。もう一度対戦しても打てませんね。選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ」と語っている。ちなみに、江川の前に1安打20三振と完全にねじ伏せられた今治西はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト4になっている。

北陽19奪三振、小倉南10奪三振に続いて、強豪・今治西を1安打20奪三振で一蹴し、3試合25回を投げて被安打6、無失点、49奪三振、奪三振率17.6。その圧倒的な力にメディアも「江川をどのチームが破るのか」という興味から、「いったい江川は大会通算いくつの三振を奪って優勝するのか」という興味に変わるほどであった。

4月5日の準決勝は広島県代表の試合巧者広島商(後年広島に入団する達川光男が在籍)。広島商・迫田監督は試合前のインタビューに「他のチームのことは一切考えなかった。江川をいかに崩すか。それだけを頭に描いて選手を鍛えてきた」と語っている。試合では選手に「江川もこれが甲子園4試合目で疲れている。1人最低5球を投げさせろ」と指示した。具体的には全選手が高めの球には一切手を出さず、バッターボックスのホームベース寄りに立って内角の球を投げ難くさせるとともに、徹底してバットを短く持ち、外角低めの球に的を絞ってファウルを打つことにより、投球数を増やして江川の精神面を崩す作戦に出た。江川は8回を投げて(完投)、被安打2(ポテンヒット内野安打)毎回の11奪三振と、ほぼ完璧な投球だったが、5回までに104球を投げさせられている。広島商は5回裏2死後、四球で出塁の達川を2塁に置いて、右打席のエース・佃正樹(のち法大→三菱重工広島)は江川の外角高めの速球に振り遅れてどん詰まり、完全に打ち取られた打球だったが、ふらふらと上がった小フライが二塁手後方ライト前にポトリと落ちるポテンヒット(これがチーム初安打)となり、達川が生還、江川に140イニングぶりの失点を与えた。さらに、広島商は1対1で迎えた8回裏2死1・2塁から無謀とも思えるダブルスチールを敢行、予期せぬ動きに慌てた小倉捕手の3塁悪送球を誘い、2塁走者の金光興二(のち法大→三菱重工広島→広島商監督→法大監督)がホームを踏んで2点目を奪った。この得点が決勝点となって作新学院は1対2で敗れ、ベスト4で姿を消した。

江川はこの大会で通算60奪三振を記録。1930年(昭和5年)選抜優勝の第一神港商岸本正治の作った54奪三振の従来記録を43年ぶりに塗り替えた。この選抜大会60奪三振記録は現在でもなお破られていない。

同年7月、第55回夏の甲子園全国大会栃木県予選が行われた。通常、県予選の初戦は多くの場合、両校の応援団や関係者、一部の高校野球ファンが観戦する程度で球場はガラガラとなることが多いが、作新学院の初戦となる2回戦(対真岡工戦)では、怪物・江川を一目見ようと球場は2万人の大観衆で超満員となった。以降も作新学院の試合がある日は遠地から江川見たさに来る車が5000台以上にもなり、球場周辺一帯の道路は試合当日朝から大渋滞で完全に交通マヒとなり、40人以上の警察官が動員された。また、急遽隣接する軟式野球場を解放して臨時駐車場とするなど、関係者も対応策に追われた。江川は2回戦(対真岡工戦)、3回戦(対氏家戦)とノーヒットノーラン試合で勝利、続く準々決勝(対鹿沼商工戦)も1安打完封と圧巻な内容を見せ、地元ファンのボルテージは沸騰、球場に入れないファンも多く出るようになった。好カードとなった準決勝の対小山戦は地方予選としては異例の徹夜組が約100人現れる事態となったが、この対小山戦も1安打完封とレベルの違いを見せて圧倒。更に決勝の対宇都宮東戦は前日は雨にもかかわらず徹夜組が150人以上となったが、この決勝もノーヒットノーラン試合と力でねじ伏せている。

結局、江川が登板した栃木県予選5試合のうち、2回戦(対真岡工戦)、3回戦(対氏家戦)、決勝(対宇都宮東戦)の3試合でノーヒットノーラン試合を達成。特に3回戦の氏家戦、決勝の宇都宮東戦では無四球ながら振り逃げ、失策と味方守備の乱れで走者を許し、完全試合を逃している。残りの2試合、準々決勝(対鹿沼商工戦)、準決勝(対小山戦)も1安打ずつしか許しておらず、県予選5試合を3試合ノーヒットノーラン試合、無失点、被安打2、70奪三振、奪三振率14.0、練習試合を含め140イニング連続無失点という前人未到の驚異的な記録でこの年の夏の甲子園出場を決めた。なお、この大会で江川が作った都道府県予選合計被安打2での夏の甲子園出場は断トツの最少記録であり、高校野球史上いまだに破られていない。

夏の甲子園に再び、怪物江川が現れるということで開幕前から全国の高校野球ファンのその投球に期待が高まった。組み合わせ抽選会で作新学院注目の初戦は柳川商(福岡)となった。春の甲子園以降江川の実力を知る全国の有力校は江川を攻略しないと全国優勝はない、と作新学院・江川を徹底的にマークをしており、柳川商の名将福田監督(柳川商野球部を23年間率いて9回甲子園に出場)も組み合わせ抽選会後の報道陣のインタビューに対して「秘策があります」と語っている。

同年8月9日、1回戦の対柳川商戦、春の甲子園以降待ちに待った江川を見るために全国のファンがテレビに釘付けになり、電力供給不足のリスクから関西電力が大手会社にエスカレーター冷房のストップを要請する事態となった。柳川商は対作新学院・江川向けの奇策として、攻撃面では選手全員がバントの構えからヒッティングに出る「プッシュ打法」、いわゆるバスターを徹底した。江川の速球の球威に負けないよう、ふた握りほど短く持ったバットをしかも握る両手を離して打つようにして必死にくらいつき、観衆がどよめいた。江川はこの打線に対しても5回までに15アウトのうち10アウトを三振で奪うなど圧倒したが、6回表ついに146イニングぶりの失点を喫した。7回裏に作新学院は追い付いたが、柳川商は作新学院向けに守備面でも奇策を見せた。栃木県予選のチーム打率が.204とおよそ県予選優勝校とは思えない作新学院打線を知る柳川商は、9回裏1対1、作新学院が満塁サヨナラ場面で、中壁手を三塁手と投手の間に守らせる超変則内野手5人(除、投手、捕手)シフトを敷き、スタンドが大きくどよめいた。しかし、そこで作新学院は強打できず、スクイズをして本塁封殺され延長戦に突入している。更に延長14回裏もランナー3塁の場面でも同じく中壁手を内野に守らせる5人内野手シフトを敷き、狙い通りゴロを中堅手がさばき、切り抜けている。試合は延長15回の激闘の末、作新学院が2対1でサヨナラ勝ちした。江川は6回失点以降も柳川商を圧倒し続け、以降も零封13三振を奪い、結局この試合を1失点完投、15回の参考記録ながら大会史上2位の23奪三振を記録している。攻守の奇策で江川に食らいついた柳川商と、それでも23三振を奪うなど圧倒的な力を見せ延長15回の死闘を演じた江川のこの一戦は、甲子園の数ある名勝負のひとつとして挙げるファンも多い。

8月16日の銚子商(千葉)との2回戦は、好投手・土屋正勝(のち中日)を相手に、作新学院打線は点を取れず、0対0のまま延長戦に突入した。試合途中から降り出した雨でボールがすべり、制球を乱した江川は12回裏1死満塁のピンチを招くと、カウント3ボール2ストライクから内野手全員をマウンドに集め、「次の球は力いっぱいのストレートを投げたい」と告げた。江川はそのとき、「ふざけるな、ここで負けたら終わりなんだからちゃんとストライクを入れろ」と言われることも覚悟していたというが、ナインに「おお、いいよ。ここまで来られたのはお前のおかげなんだから、お前の気の済むように投げろ」と言われ、「ああ、このチームにいて本当に良かった」と思ったという。この直後、江川が投じた169球目の渾身のストレートは明らかに高く外れるボールで押し出し。0対1でサヨナラ負けとなり、江川にとって最後の甲子園はあっけなく幕を下ろした。

超高校級の豪腕投手として驚異的な活躍を果たし、怪物の名を欲しいままにした。甲子園の通算成績は6試合に登板し、4勝2敗、投球回数59回1/3、奪三振92(1試合平均15.3、奪三振率14.0)、自責点3、防御率0.46。甲子園通算80奪三振以上の投手の中で奪三振率14.0は、横浜・松坂大輔、駒大苫小牧・田中将大、東北・ダルビッシュ有など並み居る歴代の好投手と比較しても、ずば抜けた断トツの記録である。

江川の高校生活最後の大会となる10月14日開幕の千葉国体では、1回戦で同年夏の甲子園優勝校である広島商と激突、被安打2、17奪三振で、1対0の完封勝ち。春の甲子園で敗れた雪辱を果たすとともに、改めて江川の実力を証明してみせた。準決勝の静岡高戦では、被安打4、11奪三振で無四球完封勝利。夏の甲子園で敗れた銚子商との再戦となった決勝戦でも先発したが、2回を投げて被安打2、2奪三振、自責点1で降板。江川に勝ち負けは付かなかったが、後続の投手が打たれて2対3で敗れ、銚子商に一矢を報いることは叶わず、作新学院は準優勝となった。結局、江川は高校時代に全国制覇を経験することができなかった。

1973年秋のドラフト会議(11月20日開催)で上田利治新監督率いる阪急ブレーブスから1位指名を受けるが、入団を拒否している。

江川は阪急の1位指名を蹴り、慶應義塾大学1校に進路を絞り、受験したが不合格となった。慶応大学不合格はこの日のNHKなど各テレビ局の昼のニュースのトップで報じるなど大きな話題となった。一高校生の大学受験結果がテレビでトップニュースになることは極めて異例である。慶応大学以外を併願受験をしていなかった江川はその後、慌てて法政大学法学部第二部法律学科を受験し、合格した(のちに一部へ転籍)。江川は慶応大学不合格について「日本史で、過去の出題傾向から明治以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」と分析している。一方でこの当時、私立大学不正入学問題(1968年早稲田大学政経学部、名古屋工業大学、1970年愛知医科大学、1971年福岡医科大学、更に江川より後になるが1976年慶応大学商学部、更には自殺者まで出した1980年早稲田大学商学部など)が続き、世間を震撼させていた。こうした時代背景から慶応大学1校に絞っていた江川を入学させると、江川と慶応大学との間に裏取引があったのではと疑われる可能性があることから「例年なら野球部セレクションによる加点があるが、この年に限って加点が行われなかった」という説がある。実際、この年の慶応大学は慶応大学進学を強く熱望した堀場秀孝(一浪後慶大プリンスホテル広島)、中尾孝義(一浪後専大プリンスホテル中日)などの有力選手を相次ぎ不合格としている。

大学時代

法政大学1年生の春から主力投手として東京六大学リーグ戦に登板。法大の同期には植松精一(静岡高→法大→阪神)、楠原基(広島商高→法大→日本生命)、金光興二(広島商高→法大→三菱重工)、島本啓次郎(箕島高→法大→巨人)、袴田英利(自動車工高→法大→ロッテ)、徳永利美(柳川商高→法大→新日鉄)ら甲子園を湧かせたスターが集まった。ライバルの早稲田大学には山倉和博(東邦高→早大→巨人)、佐藤清(天理高→早大→日本生命)、白鳥重治(静岡高→早大→日産自動車)らが入学し、法大の花の49年組とともに神宮を湧かせた。なかでも山倉は南海ドラフト1位を蹴って早大に入学しており、江川が大学時代に最も恐れたバッターであり、のちには巨人でバッテリーを組むことになる。江川が入学した年の東京六大学春季リーグ戦は、前川善裕(東葛高→早大→日本鋼管)、吉沢俊幸(日大三高→早大→阪急)、松本匡史(報徳学園高→早大→巨人)、八木茂(興国高→早大→東芝阪急)らを擁した早大が優勝、法大は3位に終わったが、直後の新人戦慶大戦では3失点5奪三振で完投勝利(自身も4安打)して優勝に貢献した。さらに、その年の秋季リーグ戦でも史上最年少で投手のベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/03/18 18:23

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