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江川卓_(野球)とは?

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江川 卓
【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
福島県いわき市
【生年月日】
(1955-05-25) 1955年5月25日(62歳)
身長
体重 183 cm
90 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1978年 ドラフト1位
【初出場】
1979年6月2日
【最終出場】
1987年10月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


江川 卓(えがわ すぐる、1955年5月25日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、野球解説者タレント日本プロ野球史上6人目の投手五冠王に輝くなどの実績を残し、1980年代の日本プロ野球、セ・リーグを代表するエースとして活躍した。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 出生から中学時代
    • 1.2 高校時代
      • 1.2.1 高校1年
      • 1.2.2 高校2年
      • 1.2.3 高校3年
    • 1.3 大学時代
    • 1.4 プロ入り時の騒動
    • 1.5 プロ野球選手時代
    • 1.6 現役引退後
  • 2 プレースタイル
  • 3 人物
  • 4 西本とのライバル関係
  • 5 人間関係
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別投手成績
    • 6.2 タイトル
    • 6.3 表彰
    • 6.4 記録
    • 6.5 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 著書
    • 7.2 関連書
    • 7.3 江川を題材とした作品
    • 7.4 江川(およびその家族)に由来する命名
  • 8 出演
    • 8.1 テレビ・ラジオ
    • 8.2 CM
    • 8.3 映画
    • 8.4 PV
  • 9 参考文献
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

経歴

出生から中学時代

出生は福島県で、幼少期をいわき市で過ごす。その後、鉱山技師であった父親の仕事の関係で少年時代を静岡県浜松市天竜区で過ごす。父は江川の出生前から長男をプロ野球選手にしたいと思っていたというが、特に野球の練習を強いられることはなく、同年代の男子と同様にバットやグローブを与えられ、ごく自然に野球を覚えた。ただ、父は折に触れ何気なく息子を野球に仕向けていた。小学生時代、父の真似をして天竜川で対岸に向かって石を投げたところ、大人の飛距離に遜色なかった。以来、江川は天竜川で石を遠投することを日課とし、これにより地肩が鍛えられることとなった。

中学校で野球部に所属。当初は控え投手を兼ねた外野手だったが、1年生の秋から近所の学校との試合で好投したことをきっかけに正式な投手となる。中学2年生のとき、父の転勤により栃木県小山市に転居。小山市立小山中学校で県大会優勝し、いくつかの高校から勧誘があった中から作新学院に入学する。

高校時代

高校在学中はエースとして、高めのバックスピンが良くかかった速球と良く曲がるカーブを武器にノーヒットノーラン9回、完全試合2回、選抜高等学校野球大会における大会通算最多奪三振記録などの数々の記録を残す。その高校生離れした投球と耳の大きな顔が漫画『怪物くん』の主人公に似ていることから「怪物くん」「怪物江川」と呼ばれ、日本中の注目を浴びた。江川の同僚にはのちにラジオ日本のアナウンサーとなった染谷恵二がおり、江川のブルペン捕手も務めていたが、染谷は野球部入部直後に退部した。

高校1年

1971年、江川1年生の夏、第53回全国大会栃木県予選2回戦(対足尾戦)を救援で5回無安打無四球7奪三振のパーフェクトリリーフで高校生として初登板初勝利を飾った。次戦の3回戦(対足利工大付戦)では高校生として初先発、8回を3安打零封し、5対0の中、9回を後続ピッチャーに譲っている。準々決勝(対烏山戦)でも先発し、栃木県高校野球史上初の快挙となる完全試合を達成。中学を卒業して4か月の1年生ながら素質と能力の高さを証明した。準決勝(対宇都宮商戦)は先発するも延長11回で降板、後続のピッチャーが打たれ甲子園出場はならなかった。

その年の秋、第24回秋季関東地区大会栃木県予選では4試合に登板、30回を投げて2失点37奪三振で、防御率0.67。1回戦では、北関東高校球界で鈴木孝政(1972年のドラフト1位で中日に入団)、江川とともに速球投手三羽ガラスといわれた石田真(1972年のドラフト1位で阪急に入団)を擁する足利工と激突。7回まで両者譲らず0対0だったが、8回に作新学院が2点を先取。江川は8回に1死球を与えるも後続を打ち取り、ノーヒットノーランで足利工を下した。決勝の文星芸術大学附属高等学校戦では3安打11奪三振で完封勝ちし、栃木県大会優勝。つづく関東大会1回戦では前橋工を相手に先発。1回2死から4回まで10者連続奪三振で無安打無失点、フェアグランドへ打たれたのはセーフティーバントによる投ゴロだけという高校入学以来最高の出来と思われる投球を見せた。この日5番に入った江川はチームでただ一人2安打を放ち、打つほうでも気を吐いたが、5回表の打席で前橋工・小池投手より頭部死球を受け退場(そのまま入院)。5回裏に後続投手が打たれて敗退。優勝候補の一角とも呼び声高かった2年春の甲子園出場はならなかった。

高校2年

1972年夏、2年生の江川は第54回全国大会栃木県予選の2回戦(対大田原戦)、3回戦(対石橋戦)、準々決勝(対栃木工戦)と登板した3試合すべてでノーヒットノーラン(うち3回戦の対石橋戦では完全試合)を達成。27回を投げて被安打0、47奪三振(対大田原戦13奪三振、石橋戦17奪三振、栃木工戦17奪三振)、一試合平均15.7奪三振という驚異的な記録で準決勝に進んだ。また、準々決勝の栃木工戦では9回表まで0対0であったが、9回裏に自らのサヨナラヒットで勝利するなど、貧弱な打線を自らの打力で補った。準決勝の対小山戦も10回2死までノーヒットノーランだったが、味方打線が点を取れず、延長11回裏、サヨナラスクイズによって0対1で敗れ、15奪三振の力投を見せるも甲子園出場はならなかった。4試合での作新学院のチーム打率は2割6分1厘(138打数36安打)だったが、江川は3割3分3厘(15打数5安打)と打撃でも気を吐いた。勝負の世界に「もし」はないが、小山戦でもし作新学院が9回までに1点でも取っていれば、地区予選4試合すべてをノーヒットノーランで決勝進出という、前代未聞の快挙を成し遂げるところであった。

また、この実績から甲子園に出場しないにも関わらず「栃木に怪物江川あり」が全国に知れ渡り、江川との練習試合の対戦希望が殺到。全国各地で招待試合が組まれ、そこでの登板回数の多さが、のちに肩を痛める遠因となったとされる。

江川の高校1年夏、2年春夏はともに甲子園への出場はならなかったため、当時の野球部監督が更迭された。

同年秋の第25回秋季関東地区大会栃木県予選では、1回戦(対那須戦)は5回まで投げ、15アウトのうちの14アウトを三振で奪う快投で無安打零封して降板し、6回以降を後続のピッチャーに譲っている。2回戦(対足利工戦)は9回2安打15奪三振で完封勝ち。準決勝(対宇都宮戦)は6回2安打6奪三振で零封、7対0となったところで降板。決勝(対烏山戦)は9回2安打10奪三振で完封勝ち。合計で4試合に登板し、29回6安打無失点45奪三振、2試合完封で栃木県大会を優勝した。

関東大会に駒を進めての1回戦では群馬県大会優勝校の強豪・東農大二高と対戦したが、2回2死から5回2死まで9者連続奪三振、6回まで投げて13奪三振1安打零封という素晴らしい投球を見せ、観衆を唸らせた。準決勝は70年代前半から「黒潮打線」と呼ばれて強打で鳴らしていた銚子商と激突したが、銚子商随一の強打者、4番・飯野から3打席3三振を奪うなど、まったく相手にせず、1安打完封20奪三振。銚子商はノーヒットノーランを逃れるのが精一杯というほどの完敗だった。続く決勝では好投手・永川英植(1974年のドラフト1位でヤクルトに入団)を擁する神奈川県大会優勝校の横浜高校と激突した。東農大二、銚子商の試合結果を知る横浜は三振を取られまいとバットを一握り短く持って初球から積極的に打ってくる戦法だったが、まったく寄せ付けず、その打線からも16三振を奪い、完封して優勝した。また、この関東大会3試合で3番に入った江川は、12打数7安打・打率5割8分3厘・6打点・2三塁打・2四球と打撃でもチームの勝利に大きく貢献した。

江川は秋の県大会と関東大会を無失点で優勝(秋季大会成績:7勝0敗/投球回53/被安打12/奪三振94/奪三振率16.0/失点0/自責点0/防御率0.00)。新チーム結成以来、練習試合を含む23戦全勝で負けなし、113回無失点という前人未到の驚異的な記録で3年生時の春の選抜大会出場を初めて手にした。なお、決勝で江川に16三振完封負けした横浜高も同じく春の選抜大会に出場しているが、この大会で優勝しており、江川の素質と能力の高さを間接的に証明している。

高校3年

1973年春の第45回選抜大会は「江川の大会」ともいわれたほどレベルの違いを見せつけた大会となった。初戦は秋季大阪大会で優勝し、出場校30校中トップのチーム打率3割3分6厘を誇る、優勝候補といわれた強打の北陽高校(大阪)だった。北陽・高橋監督は、「江川江川というが、まだ高校生。ウチの打線は今が絶好調。ぶんぶん振り回して江川に向かって行きますよ」と開会式前のインタビューで語っている。

3月27日、第1日目第1試合。初めて甲子園球場という全国区に登場した「怪物江川」に日本中の高校野球ファンが試合のテレビ放送に注目した。江川見たさと開幕直後の地元・北陽高戦とあって、甲子園球場は観衆5万8千人の超満員となった。満を持して登場した江川は1回から剛速球全開で、北陽の選手のバットにボールを一度も触れさせず三者連続三振。続く2回も先頭打者に1球もボールに触れさせず三振。強力打線の1番・冠野から2番・慶元(のちクラウン→西武→近鉄)、3番・広瀬、4番・藤田と続く北陽が誇る上位打線が1人もバットにボールをかすらせることすらできず、高校生の中に1人だけプロ野球選手が混じって試合が行われていると揶揄された。あまりの実力差を見せつけられ、甲子園球場は異様などよめきに包まれた。次の5番・有田(のち近鉄)がこの試合23球目に初めてバットにボールを当てると(一塁スタンドへのファウル)、有田に対して超満員の観客から大きな拍手が巻き起こっている(この拍手は江川を紹介するメディアで必ずといっていいほど取り上げられる逸話となっている)。初回先頭打者から4回2死までアウト11者連続奪三振、秋季大会で打率4割2分・3本塁打・21打点の成績を残した北陽一の強打者、4番・藤田からは4打席4奪三振(すべてスイングアウトでの三振)、最終イニングの9回も2番・慶元からの好打順に対して3者連続奪三振で締め、結局、この試合を4安打19奪三振で完封勝ちと、鮮烈な甲子園デビューを飾った。試合後のインタビューで北陽・高橋監督は、「生徒にはまっすぐを狙わせたが、スピードがありすぎてバットに当たろうともしなかった。途中から作戦を変えて、短打打法に切り替えたが、全くだめだった」と語っている。ちなみに、この北陽高はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト8になっている。大会前から豪腕と騒がれたが、初めて全国に姿を現した「怪物」の実力に多くの高校野球ファンが驚嘆し、この試合を契機にこの大会は江川大フィーバーに包まれた。

2回戦で作新・江川と当たる小倉南(福岡)の重田監督とナインは、この1回戦・作新学院対北陽戦を観戦し、江川が強打・北陽打線を赤子の手をひねるように圧倒した内容を見て、このままでは勝てないと考え、江川対策を練った。3月31日の2回戦、小倉南は選手全員がバットをふた握りも短く持って登場し、徹底した短打戦法とバントで江川に食い下がって、スタンドがどよめいた。しかし、安打は3回の3塁前のバントヒット1本のみで、7回10奪三振と江川が圧倒、8対0と大量リードしたため、7回終了後に降板している。

4月3日の準々決勝では、秋季愛媛県大会優勝、四国地区大会でも優勝し、春の選抜でも優勝候補の一角であった今治西(愛媛)と激突した。この今治西に対して、速球、変化球ともに冴え、「怪物」ぶりを発揮した江川は7回2死まで1人のランナーも許さず14奪三振。完全試合の期待もあったが、その直後に中前打された。しかし、気持ちを切らさず8回・9回も6アウトを6者連続奪三振で締め、結局、8者連続を含む毎回の20奪三振で1安打完封と完璧に抑えた。この試合での8者連続奪三振は、1926年(大正15年)夏和歌山中学小川正太郎が達成した夏の大会記録(当時)に並ぶもので、春の大会としては史上最多記録。試合後のインタビューで今治西・矢野監督は、「選手にバットを短く持って当てていくように指示したが、どうしても打てなかった。もう一度対戦しても打てませんね。選手には内緒ですが、完全試合にならなくてホッとしましたよ」と語っている。ちなみに、この今治西はこの年の夏の甲子園にも出場し、ベスト4になっている。

北陽、小倉南に続いて強豪・今治西を20奪三振で一蹴し、3試合25回を投げて被安打6、無失点、49奪三振。甲子園は江川一色の大フィーバーとなり、江川が登板する日は、甲子園一帯が数千人のファンで埋め尽くされ、メディアも「江川をどのチームが破るのか」という興味から、「いったい江川は大会通算いくつの三振を奪って優勝するのか」という興味に変わるほどであった。

4月5日の準決勝は広島県代表の広島商(後年広島に入団する達川光男が在籍)と対決。広島商・迫田監督は、試合前、「他のチームのことは一切考えなかった。江川をいかに崩すか。それだけを頭に描いて選手を鍛えてきた」と語っている。試合では、広島商の全選手が高めの球には一切手を出さず、バッターボックスのホームベース寄りに立って内角の球を投げ難くさせるとともに、徹底してバットを短く持ち、外角低めの球に的を絞ってファウルを打つことにより、投球数を増やして江川の精神面を崩す作戦に出た。江川は8回を投げて(完投)、被安打2(ポテンヒットと内野安打)、毎回の11奪三振と、ほぼ完璧な投球だったが、5回までに104球を投げさせられている。広島商は5回裏2死後、四球で出塁の達川を2塁に置いて、エース・佃正樹(のち法大→三菱重工広島)が詰まりながらもチーム初安打となるライト前のポテンヒットを放ち、達川が生還、江川に140イニングぶりの失点を与えた。さらに、広島商は8回裏2死1・2塁からダブルスチールを敢行、これが小倉捕手の3塁悪送球を誘い、2塁走者の金光興二(のち法大→三菱重工広島→広島商監督→法大監督)がホームを踏んで2点目を奪った。この得点が決勝点となって、作新学院は1対2で敗れ、ベスト4で姿を消した。江川はこの大会で通算60奪三振を記録。1930年(昭和5年)選抜優勝の第一神港商岸本正治の作った54奪三振の従来記録を43年ぶりに塗り替えた。60奪三振は現在でも選抜大会記録である。

同年5月4日に行われた沖縄特別国体1回戦では、江川は山口県の岩国高校を相手に1失点完投負けを喫したが、7月の第55回全国大会栃木県予選では、作新学院の試合がある日は遠地から見物に来る車が5000台以上にもなり、球場周辺の一帯の道路は朝から大渋滞で完全に交通マヒとなって、警備には40人以上の警察官が動員された。また、隣接する軟式野球場を解放して、急遽臨時駐車場とするなど、関係者は対応策に追われた。屈指の好カードとなった準決勝の対小山戦は徹夜組約100人、決勝の対宇都宮東戦は悪天候にもかかわらず徹夜組が150人以上も出るなど、地方の県予選としては異例の事態となった。試合は、江川が登板した5試合のうち、2回戦(対真岡工戦)、3回戦(対氏家戦)、決勝(対宇都宮東戦)の3試合でノーヒットノーランを達成。特に3回戦の氏家戦、決勝の宇都宮東戦では無四球ながら振り逃げ、失策と味方守備の乱れで走者を許し、完全試合を逃している。残りの2試合、準々決勝(対鹿沼商工戦)、準決勝(対小山戦)も1安打ずつしか許しておらず、県予選5試合を被安打2、70奪三振で無失点。練習試合を含めると140回無失点という驚異的な成績でこの年の夏の甲子園出場を決めた。

同年8月9日、柳川商(福岡)との対戦となった夏の甲子園1回戦は、対江川用の奇策「プッシュ打法」作戦により、江川は6回表に練習試合を含めて146イニングぶりの失点を喫するが、延長15回の死闘の末に作新学院が2対1でサヨナラ勝ち。この試合を完投した江川は15回の参考記録ながら大会史上2位の23奪三振を記録した。江川を見るために全国でファンがテレビに釘付けになり、関西電力が大手会社にエスカレーター冷房のストップを要請する事態となった。8月16日の銚子商(千葉)との2回戦は、好投手・土屋正勝(のち中日)を相手に、栃木県予選のチーム打率が.204だった作新学院打線は点を取れず、0対0のまま延長戦に突入した。試合途中から降り出した雨でボールがすべり、制球を乱した江川は12回裏1死満塁のピンチを招くと、カウント2-3から内野手全員をマウンドに集め、「次の球は力いっぱいのストレートを投げたい」と告げた。江川はそのとき、「ふざけるな、ここで負けたら終わりなんだからちゃんとストライクを入れろ」といわれることも覚悟していたというが、ナインに「おお、いいよ。ここまで来られたのはお前のおかげなんだから、お前の気の済むように投げろ」といわれ、「ああ、このチームにいて本当に良かった」と思ったという。この直後、江川が投じた169球目のストレートは明らかに高く外れるボールで押し出し。0対1でサヨナラ負けとなり、江川にとって最後の甲子園は幕を下ろした。

超高校級の豪腕投手として驚異的な活躍を果たし、怪物のニックネームを欲しいままにした。甲子園の通算成績は6試合に登板し、4勝2敗、投球回数59回1/3、奪三振92(1試合平均15.3、奪三振率14.0)、自責点3、防御率0.46。甲子園通算80奪三振以上の投手の中で、奪三振率14.0は、歴代でも断トツの記録である。

江川の高校生活最後の大会となる10月14日開幕の千葉国体では、1回戦で同年夏の甲子園優勝校である広島商と激突、被安打2、17奪三振で、1対0の完封勝ち。春の甲子園で敗れた雪辱を果たすとともに、改めて江川の実力を証明してみせた。準決勝の静岡高戦では、被安打4、11奪三振で無四球完封勝利。夏の甲子園で敗れた銚子商との再戦となった決勝戦でも先発したが、2回を投げて被安打2、2奪三振、自責点1で降板。江川に勝ち負けは付かなかったが、後続の投手が打たれて2対3で敗れ、銚子商に一矢を報いることは叶わず、作新学院は準優勝となった。結局、江川は高校時代に全国制覇を経験することができなかった。

1973年秋のドラフト会議(11月20日開催)で上田利治新監督率いる阪急ブレーブスから1位指名を受けるが、入団を拒否する。慶應義塾大学法学部政治学科を受験するも不合格だったため、法政大学法学部第二部法律学科に進んだ(のちに一部へ転籍)。江川が慶應義塾大学受験に失敗した事実はニュース速報として報じられ、大きな話題になった。江川は不合格について「日本史で、過去の出題傾向から明治以降を完全に捨ててかかったら、その年に限って近代史の問題が多く出題された」と分析している。一方で、「江川を入学させると裏口入学だと騒がれる」という思惑から「例年なら野球部セレクションによる加点があるはずが、この年に限って加点が行われなかった」という説もあり、実際、この年は堀場秀孝(一浪後慶大プリンスホテル広島)、中尾孝義(一浪後専大プリンスホテル中日)など慶大志望の他の有力選手の中にも不合格者が相次いだ。

大学時代

法政大学1年生の春から主力投手として東京六大学リーグ戦に登板。春季リーグ戦は3位に終わったが、直後の新人戦慶大戦では3失点5奪三振で完投勝利(自身も4安打)し、優勝に貢献。さらに、その年の秋季リーグ戦でも史上最年少で投手のベストナインを受賞するなど主戦投手として活躍。明治神宮野球大会でも法大の準優勝に貢献した(決勝戦では中大田村政雄と投げ合うも1本のソロ本塁打に泣き、9回12奪三振、0対1の完投敗戦)。1976年から77年法大4連覇(4回とも対戦校すべてから勝ち点を奪う完全優勝)にエース、ときには5番打者として貢献した。なかでも1976年秋季リーグでは、投手は野手と比較して打席に立つ回数が少ないにも関わらず規定打席に到達、38打数13安打で打率3割4分2厘(リーグ2位)、本塁打2本(リーグ2位)、打点10(リーグ1位)の好成績を挙げている。このときはもちろん法大の規定打席数以上の選手の中では3部門すべてにおいてトップであった。通算47勝は山中正竹(法大)の48勝に次ぐ史上2位。1977年10月22日、対明大1回戦を5安打完封して47勝目を挙げた翌23日、リーグ最終戦の対明大2回戦に勝てば通算勝利で連盟タイ記録になったが、江川は「うちには投手は他にも沢山いますから」と、あっさり先発を鎗田英男に譲っている。通算17完封連盟記録、ベストナインにも6度選ばれた。これは高田繁(明大巨人)の7度に次いで、谷沢健一(早大中日)の6度と並ぶ連盟2位の記録である。奪三振数(443個)も2002年秋に当時早大4年生だった和田毅(476個)に更新されるまでは歴代最多だった。また、江川は2年生で第4回日米大学野球選手権大会日本代表、3年生で第5回日米大学野球選手権大会日本代表、4年生で第6回日米大学野球選手権大会日本代表に選出されたが、同学年で3年生時の全日本大学野球選手権大会準決勝で江川と投げ合った東海大遠藤一彦(のち大洋)は一度も同代表に選出されず、江川に対して強烈なライバル意識を持ったことが設計士の道を諦めてプロ入りする方向転換の要因となった。なお、当時のチームメートには船木千代美(投手)がいる(のちにTDKの監督として都市対抗野球で東北勢初の優勝を果たす)。

2年生時には右肩を疲労骨折した。ただし、当時その事実は外部には伏せられ、六大学のリーグ戦にも通常通り登板していたため気づかれることはなく、プロ引退後にその事実が明かされた。江川によればそれ以後右肩の調子が100%に戻ることはなかったという。

法大4年生時の1977年秋のドラフト会議(11月22日開催)では、法大の大先輩・根本陸夫新監督率いるクラウンライターライオンズからドラフト1位指名を受けるが、入団を拒否。江川は当時福岡市を本拠地としていたクラウンに対し、福岡は遠隔地という理由で断った。このときのことをのちに江川は、「巨人がだめでも巨人と対戦でき、そして当時交際中だった(のちの)夫人が東京在住だったため、遠距離交際を避けられる在京セ・リーグ球団からの指名なら入団していただろう」と振り返っている。

大学卒業後は作新学院職員としてアメリカに留学。これは、大学から社会人野球チームに入団すると最低2年間はプロ野球入団が禁じられるため、社会人野球への選手登録をしないで翌年のプロ野球入団が可能な野球留学を選択したため。南カリフォルニア大学で練習し、実戦ではアラスカのサマーリーグにアンカレッジ所属として参加し2勝2敗。留学当時、クリス・スミス(のちヤクルト)がルームメイトで、江川にとって英語の先生役でもあった。

プロ入り時の騒動

詳細は「江川事件」を参照

プロ野球選手時代

1978年度ドラフト会議(11月22日開催)の2日前に急遽帰国した江川は、ドラフト会議前日の11月21日、(福岡野球から西武グループに譲渡されたライオンズの独占交渉権はドラフト会議前々日の11月20日をもって喪失したとの解釈で)巨人と電撃契約した(通称「空白の一日事件」)。セントラル・リーグ事務局は即時にこの契約を無効として江川の選手登録を却下したが、それに抗議した巨人は翌日のドラフト会議をボイコットした。当のドラフト会議では、巨人の抜け駆け契約に抗議する意味で南海近鉄ロッテ阪神の4球団が江川を1位指名し、抽選の結果、阪神が江川との交渉権を獲得した。巨人は「全12球団が出席していないドラフト会議は無効である」と主張して、江川に対する阪神の交渉権を認めなかった。この問題はこじれにこじれたが、最終的に金子鋭コミッショナーの「強い要望」により、1979年1月31日、江川は交渉権を持つ阪神と契約を結び、一旦阪神に入団した上で、同日中に小林繁を相手とする交換トレードによって巨人に移籍することになった。この一件により、江川に対する世間の風当たりは強くなり、一気に悪役に仕立て上げられる。マスコミは大挙して江川を批判すると同時に、小林を悲劇のヒーローとして報道した。この経緯から、「エガワる」(周囲をかえりみず強引に自分の意見を押し通すこと)という造語が流行語にまでなった。また、1960年代に子供が好きだった物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」をもじって、嫌いな物として「江川・ピーマン北の湖」という呼び方が揶揄的になされた。

巨人入団時に背番号19を提示されるも、さすがに小林繁の着けていた背番号なので拒否。昭和30年生まれにちなみ、空いていた背番号30を着ける。なお、阪神入団時の背番号は3である。これはたまたま阪神の3番があいていたこともあるが、巨人移籍後は(永久欠番のため)使用できない番号を故意に着けさせた阪神側のせめてもの抵抗とも受け取れる。ただし、引退時は引退記念登板(巨人対阪神のオープン戦)でライバルであった掛布雅之を打席に立たせるなど、阪神サイドも一定の配慮を見せている。

自主トレ期間中は前年まで現役捕手だった矢沢正がパートナーを務めた。

開幕からの2か月間は一軍昇格を自粛する。デビュー戦となった1979年6月2日の対阪神戦では、敵将のドン・ブレイザー監督に球種を見抜かれ、リロイ・スタントン若菜嘉晴マイク・ラインバックに本塁打を浴びて敗戦投手。また、同月17日のプロ初勝利となった対広島戦では、試合中に鼻血を出すというハプニングで8回途中降板したが、その後は活躍を見せた。しかし、ルーキーイヤーの成績は9勝10敗の負け越しで、一桁の勝ち星に終わったことなどが影響し、13勝を挙げた藤沢公也(中日)に新人王をさらわれた。なお、4月17日の後楽園球場でのイースタンリーグロッテ戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が江川目当てに集まり、江川は自身より2歳年上でプロ入り同期のルーキー・落合博満と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを打たれた。江川は7月21日に横浜スタジアムで開催されたジュニアオールスターゲームにもオールイースタンのメンバーとして出場、3イニングを無安打4奪三振という見事な投球を見せたが、このときは勝ち越し本塁打を放った加倉一馬( ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/02/26 06:14

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