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江本孟紀とは?


監督歴


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プロジェクト:野球選手 テンプレート


日本政治家
江本孟紀
えもと たけのり

【生年月日】
(1947-07-22) 1947年7月22日(71歳)
【出生地】
高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)
【所属政党】
(スポーツ平和党→)
(自由の会→)
(フロムファイブ→)
(民政党→)
(民主党→)
国民新党
【称号】
旭日中綬章
参議院議員

【選挙区】
比例区
【当選回数】
2回
【在任期間】
1992年7月27日 - 2004年1月15日

江本 孟紀(えもと たけのり、1947年7月22日 - )は、高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)生まれ、高知県高知市出身の元プロ野球選手(投手)、元参議院議員

現役引退後は野球解説者野球評論家政治家タレント俳優実業家として活動している。元民主党高知県連顧問、元スポーツ平和党副代表、元参議院議員(2期)(スポーツ平和党→自由の会フロムファイブ民政党→民主党)。

株式会社江本エンタープライズ代表取締役、政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」代表、タイ王国ナショナルベースボールチーム総監督。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 高校・大学時代
    • 1.2 社会人野球からプロ野球へ
    • 1.3 南海時代
    • 1.4 阪神時代
    • 1.5 タレント活動から政界へ
    • 1.6 世界各国での活動
    • 1.7 2010年代の活動
    • 1.8 現役引退をめぐるエピソード
  • 2 プレースタイル
  • 3 人物
  • 4 プロ野球における成績詳細
    • 4.1 年度別投手成績
    • 4.2 記録
    • 4.3 背番号
  • 5 関連情報
    • 5.1 野球以外での表彰
    • 5.2 著書
    • 5.3 編共著・監修
    • 5.4 ゲーム監修
  • 6 出演
    • 6.1 レギュラー
    • 6.2 映画・ドラマ
    • 6.3 準レギュラー、不定期出演番組
    • 6.4 過去の出演番組
    • 6.5 ゲスト出演
    • 6.6 CM出演
  • 7 ディスコグラフィー
  • 8 脚注
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

経歴

高校・大学時代

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警官の実父の転勤に伴い小学校時代は転校を数回経験したが、野球に打ち込んだ。高知商ではエースとして1964年の秋季四国大会に進む。準決勝で今治南高金子準一、決勝では高松商小坂敏彦らに投げ勝ち優勝を飾る。これにより1965年春の選抜への出場を決めるが、部員が不祥事を起こしたため辞退。同年夏の高知大会も出場停止処分によって参加できなかった。

その後、第1回プロ野球ドラフト会議西鉄ライオンズから4位指名を受けるが、元々大学進学希望だったため入団を拒否し、法政大学経営学部へ進学した。この時の西鉄1位指名が同じ高校で同級生の浜村孝であったため、4番で投手の自分が4位指名で、3番打者の浜村が1位指名であることに納得できなかった、とされているが江本はこれを否定している。東京六大学野球リーグでは在学中に3度の優勝を経験する。1年生の春からベンチ入りし、1968年春季リーグには同期の山中正竹と投の二本柱を組み活躍、同季のリーグ優勝に貢献した。しかし監督の松永玲一の方針に合わず幾度となく反発、最終シーズンはベンチ入りからも外れ、半ば退部状態となった(後に松永とは和解する)。リーグ通算14試合に登板し6勝1敗、防御率2.35、39奪三振。法大の1年先輩には「法政三羽ガラス」の田淵幸一山本浩司富田勝、同期には東京六大学リーグ戦で史上最多の通算48勝を挙げた山中をはじめ、黒田正宏堀井和人らがいる。

社会人野球からプロ野球へ

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大学でのプレー後、社会人野球熊谷組へ進む。1970年第41回都市対抗野球大会に出場。1回戦で三菱重工神戸と対戦、大敗を喫する(1回を無失点で都市大会唯一の登板)。秋の大会調子よく、完封勝ちなど成績も良くドラフトで指名されると自信があったが1970年のドラフト会議指名なし。その後法政の前任監督でロッテオリオンズのスカウトをしていた田丸仁から誘われたが当時のロッテは小山正明成田文男木樽正明村田兆治がエース級がゴロゴロいた為先発ローテに食い込むのは難しいと判断して断った。在職中には、公共事業の入札に参加した事もあった(『おれ、紆球曲球』より)。1971年キャンプ直前東映フライヤーズのスカウトが前年のドラフトで2位指名した選手が入団拒否した為「あんた、ウチ来る気はないのか?」誘わ「行きますと」OKしたが周囲は「お前にはプロは無理」、「スカウトに騙されているぞ」と反対されて母親からも「熊谷組とような立派な会社に入れて将来も安定しているのにやめといたら」言われたが父親は唯一賛成してくれた。契約金は400万円、年俸は120万でサインし契約金は税金で引かれ手取り330万円、給料は手取り月に8万9000円。キャンプ合流後フリーバッティングに登板した際が調整不足もあり、大杉勝男白仁天に1球もストライクが入らず、大杉、白に「バカ野郎」、「アホか」、「ストライク入らん奴がプロのピッチャーか」と貶され、しまいにバットとボールを飛んできたという、投手コーチの土橋正幸も怒っており、次ストライク入らなかったら辞めますと言うつもりで次の打者が張本勲で江本は足が震えたまま案の上ストライク入らなかったが張本はストライクゾーンに入っていないボールを片手で打ち、その後も投げるボールを文句言わず当ててそのうちに江本はストライク入るようになったという。 その後自信も回復し紅白戦で調子も上がりその結果キャンプを順調に過ごし3月からオープン戦で1軍、公式戦でも開幕1軍入りを果たし、「この年に入団した中では100人いたら100番目の選手だ。ドラフト外として最後の最後にプロ入りしたルーキーが開幕1軍に食い込むことができたのもあのフリー打撃があったからこれはすべて張本さんのおかげ、間違いなく大恩人の一人だ。」と回想している。

初登板は4月11日の西鉄ライオンズ戦(平和台球場)で連続四球と安打で2失点に終わった。初年度の成績はは26試合に登板し、0勝4敗。成長株として好評価をもらい、翌年ローテ入りピッチャーとしてチームから期待かけられ秋季キャンプは「江本を先発入りさせるためのようなもの」とまで言われ江本自身も自信と希望にあふれて猛練習をこなした。同年オフに南海ホークス佐野嘉幸と共に、高橋博士との交換トレードで入団わずか1年で移籍する。このトレードについて江本は著書の中で「いずれにしてもこのトレードは野村さんの戦略家、商売上手、を示す伝説として語られるようになった。世間では江本は野村監督に発掘させて育てられたという伝説が流布しているがこれは違うと断言させていただく少なくとも投げられるピッチャー江本に育ててくれたのは東映であり、土橋さんだ。1年目東映で徹底的に鍛え上げられた。そこでマグマのように蓄えられたパワーが2年目に噴き出すのは自然な流れだった。勝てるピッチャー江本にしたのが野村さんだったが真相だ。しかし野村さんがただ者ではないことは事実だ。」と記している。

南海時代

江本は「東映よりは全然よかった。東映は恐ろしかったもん。張本さんに白さんに大杉さん。南海は門田とか黒田とか、堀井とか同級生がいっぱいいたし。全然違和感がなかった。」と語っている。

野村は江本が入団した初日グラウンドにリンカーンを乗り付けて降りた瞬間「お前ら俺みたいにいい車乗りたかったらしっかり練習して頑張れや。」と憎たらしい顔で言ったと言う。野村に監督に呼ばれ言ったらタバコを吸い、江本に「おまえなあ。敗戦処理でよう投げてきとったけど。お前のボール俺が受けたら二桁勝つ。」、野村から背番号16を渡され、江本は「東映では49番でしたから電気が走りました。人間って一言で変わるんですよ。」としている。野村のこの一言に発奮した江本は、移籍初年度の1972年から先発陣の一角に加わり、背番号と同じ16勝を記録して一躍西岡三四郎と並ぶ南海のエース級投手になった。1973年にも12勝をマークしてチームの前期優勝に貢献、プレーオフ第5戦9回2死に一打同点の場面で阪急の代打本塁打世界記録保持者の高井保弘を迎えたところで抑えの切り札佐藤道郎に代わって登板し、見事空振り三振にとって胴上げ投手となった。緊急登板であったため、江本はこの時投球のための準備を全くしておらず、審判が運よくストライクを取ってくれたので助かったと後に著書で述べている。読売ジャイアンツとの日本シリーズで第一戦野村から指名され先発投手として登板土井正三森昌彦に本塁打打たれたが(江本曰く2人を小兵をナメていたから)3失点で完投勝利、第4戦目も先発し2回4失点(四球とエラー絡みで自責点は0)、第2戦から4連敗し巨人に敗れた。江本は「野村さんがいなかったら今の自分は完全に存在していない」と常々語っている。また「やっぱり野村監督の野球理論はしっかりしていました。試合3時間前にはミーティングをやって1番バッターから順に1球目ストライクだったら次は?もしボールだったらとやるんです。マウンドに立つと、データを忘れることもあるんですけどこれだけ準備してきた。というピッチングに集中できるんですよ」と述べている。1974年にはオールスターゲームへの出場を果たして第2戦に先発した。

1975年オフに、野村の愛人・伊東芳枝(のちの野村沙知代)が大阪球場(南海の本拠地)に電話かけてきて「なんであんな選手を使ってるの!」、「コーチを出しなさい」などと怒鳴り、「選手起用が悪いからバッティング・コーチを電話口に呼び出せと」と言い「えらいこと言うオバハンやな」、「公私混同でひっかきまわないでくれや」と選手もウンザリし成績も1973年のパリーグ制覇、以降1974年3位、1975年が5位と成績も下がり野村に不満に拍車をかけ、選手達が選手会で緊急会合をもち「野村監督に忠告しよう」と決議し最後まで残った江本、西岡、藤原満の3人が大阪のホテルで野村に直談判した。その後野村から江夏豊とのトレードで阪神タイガースへ移籍を言い渡される江本は承諾したが最終的には4対2の交換トレードになった(南海からは江本と島野育夫長谷川勉池内豊。阪神からは江夏、望月充)。このトレードについて「その際、江本を格下に見ていた江夏との間で激しい舌戦を交わしているが、後に和解し、1993年に江夏が覚せい剤取締法違反で逮捕された際には、江本も法廷で情状陳述を行い、服役中も度々刑務所に面会に訪れて江夏をサポートするという間柄になった。

阪神時代

阪神移籍後初のキャンプでは甘いマスクで女性ファンの人気を集め、キャンプ地は押すな押すなの盛況となった。1976年は先発陣は江本、古沢憲司上田二朗谷村智啓でシーズン130試合中ほぼ4人で120試合近く投げ、8完投し15勝9敗、1976年は11勝14敗1セーブ、1977年が11勝13敗11セーブで先発にリリーフに重宝された。阪神に移籍して最も驚いたのはサインが一つしかなかったことと複雑なサインが一切なし、野村仕込みのシンキング・ベースボールに鍛えられた江本は拍子抜けし、「それで勝っているんだから。逆にいえばこのチーム本当に強いということや」と一緒に南海から移籍した島野は妙に感心していた。監督の吉田義男は負けても分析するのではく単純に相手が頑張ったからとしか考えていないようだった、この感覚のズレへの違和感が最後までぬぐえなかった。江本曰く「戦術もクソもない野球を続けていればチームの長期低迷は避けらない」とし77年は4位で後藤次男に監督が代わった78年は球団史上初の最下位に終わった。

チーム再建案について話をしていた大学の先輩田淵と盟友古沢がトレード(西武ライオンズへ)に大きなショックを受けて球団にトレードを申し入れを行った。この年オフ球団初の選手会長になったが最初断ったが球団社長に就任した小津正次郎は阪神電鉄本社の労務という実力者で労働組合を相手に辣腕を振るて叩き上げたで小津に対抗出来るのは江本と選手会の会合で要請されたこともあり選手会長なった。

小津は初対面の際江本に「タイガースの改革に一番必要なものは?」と意見を求められ江本は「フロントにゴマすって長年コーチなどをやってる奴がいる。実力のみで評価できる監督を呼んでください。」と答えた。小津は江本を呼び出し「監督、決めたでブレイザーや」、理由を聞くと「お前言うとったやろ。野球を知っている監督で、ゴマすったりしない人をって」と答え、南海時代ヘッドコーチだったブレイザーについて江本は「もちろん、グッド・チョイスだ。確かに実力優先主義だった。いつもコンセントレイション(集中しろ)が口癖だった。ブレイザーならチームも変わる。確信めいたものがあった。」とし、「それにしても選手会長の意見を取り入れて監督を決めるとは、今では考えられない事だろう。」と回想している。

1979年は最下位を脱し4位江本は名門再建の道筋が見えてきたと言う。1980年岡田彰布が入団、岡田のポジションセカンドには榊原良行という名手がいたため「1軍でずっと活躍できる。と確信を持てるようになるまで岡田を安易には使わない。」と宣言し、しかしブレイザーの信念をマスコミとファンが受け入れず家族にまでカミソリ入りの手紙を送り付けられてブレイザーは退団、著書の中で「ブレイザー監督がなければ、阪神は改革できなかった。ついに再建のチャンスは消えたと、俺は失望感を覚えた。」と記している。練習は手抜きの名人だったという。その後、ブレイザーの後任となった中西太の起用に不満を募らせ、先発で登板した1981年8月26日の対ヤクルトスワローズ戦(甲子園球場)の8回表途中に交代を命じられると、新聞記者などを前にベンチ裏で「ベンチがアホやから野球がでけへん」と発言(後述)。この発言が「監督批判」というニュアンスで翌日のスポーツ紙を賑わせたことから、「チームやファンに迷惑をかけて申し訳ない」と謝罪したうえで、同年限りでの現役引退を表明した。中西とは元々キャンプ中から対立していた険悪な仲だった。

なお、阪神への移籍後は、南海時代に野村が禁じていた口ひげをトレードマークのように生やしていた。その一方で、クラウンライターライオンズから大型トレードで移籍した1979年から正捕手を務めた若菜嘉晴と共に、絶えず黒い交際を噂されていた。しかし実際には、阪神で選手会長を務めたこともあるほど、選手からの人望があった。酒も飲まず、かなりの読書家であり、根は真面目であったという。

タレント活動から政界へ

1982年に発売された著書『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が200万部を超えるベストセラーとなった。森光子主演田中丸家御一同様ではスナックのマスター役、1982年からはフジテレビニッポン放送野球解説者、サンケイスポーツの野球評論家の傍ら、タレント活動も行い、映画、ドラマ、バラエティ出演、歌手デビュー、週刊誌コラム、コメンテーターなど、1983年に上映された細雪 (1983年の映画)では市川崑監督から誘われ吉永小百合が相手役という事で出演し、1989年からは三田寛子とフジテレビ系ドキュメンタリー番組『なんてったって好奇心』の司会(三代目)を務める。

その後政界入りし、1992年7月の第16回参議院議員通常選挙スポーツ平和党より参議院比例代表選出で出馬し、初当選する。1995年、党の副代表を辞任、離党して無所属になる。その後、自由連合無所属の会に短期間在籍(当時の無所属の会は院内会派で、政党化は1998年)。総理大臣指名選挙で支持した橋本龍太郎総裁を務める自民党入党も検討したが、細川護熙らと1997年12月26日、フロムファイブ、1998年の1月23日民政党、4月27日民主党の結成に参加。長嶋茂雄読売巨人軍監督の支援も受けて1998年7月の第18回参議院議員通常選挙に、民主党より比例代表選出で再選。1999年8月12日成立の通信傍受法案など組織犯罪対策三法案では、反対の党議に従わず退席した。2001年1月から8月にかけて(第151回・152回国会)参議院内閣委員会委員長。

2004年に民主党を離党し、大阪府知事選に立候補。自身最後の政治活動として表明し、選挙に臨んだが、当時知事であった太田房江に完敗。その後も自身が代表の政治団体「エモヤンサポーターズクラブ」は現在も大阪府知事候補としての総務大臣届出資金管理団体として存続している。また、法大の同窓で1992年参院初当選同期の平野貞夫小沢一郎ら政治家や言論人などとも交流が続いている。

世界各国での活動

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2004年10月、アメリカ合衆国独立リーグであるノーザンリーグに加盟を予定していたカルガリー・フォースの特別顧問(スペシャルアドバイザー)に就任することを発表した。同球団は日本人の三沢博明と樋口直人の出資によるもので、彼らの依頼を受けた形だった。就任会見の席で2006年度からの日本独立リーグの設立構想を明かし、設立後はこちらもコミッショナーに就任することが予定されていた。しかし、カルガリー・フォースは進展がなかったことから、三沢と樋口は同年12月にリーグから運営権を剥奪されて頓挫(地元の経営者が引き継ぎ、カルガリー・ヴァイパーズとなる)。それに連動する予定だった日本独立リーグも事実上頓挫した状態になっている。

その後、2005年4月にアメリカ独立リーグのゴールデンベースボールリーグのバイスコミッショナーに就任し、このシーズンのみ同リーグに参加したジャパン・サムライ・ベアーズにも人脈面などで援助した。ジャパン・サムライ・ベアーズがシーズン後に日本でクラブチームなどと試合を行った際には監督を務めた。同年11月にはジャパン・サムライ・ベアーズは日本のクラブチームである京都ファイアーバーズとして再発足することとなり、監督兼主催者となる。この京都ファイアーバーズには上記の樋口直人も代表者として名を連ねている。

2005年堀江貴文率いるライブドアによるニッポン放送の株式所得問題が起こった際、「ニッポン放送をホリエモンが買収するようなことがあれば、同局の解説から撤退する」ことを示唆する発言が行われた。

2007年7月24日にタイ王国ナショナルベースボールチームの総監督に就任。この年11月に台湾・台中で行われた第24回アジア野球選手権大会に出場したが、予選リーグ敗退に終わった。

2010年代の活動

2010年度から法政大学で非常勤講師を務める。

2010年5月、参議院選挙国民新党公認の比例代表候補として立候補することを発表。6月、大相撲木瀬親方が土俵下の「維持員席」(いわゆる「砂かぶり」の席)を暴力団組長に手配していたとされる問題に関連して、2009年9月の大相撲秋場所4日目に、砂かぶり席で江本が暴力団組長2人と言葉を交わしながら相撲観戦しているところをNHK中継カメラに捉えられていたことが報じられた。これについて江本は「議員になった暁には、この問題を文部科学省の委員会にかけて、相撲協会の正常化を訴える」などと釈明した。7月、参議院選挙落選。選択的夫婦別姓制度導入に反対していた。

2015年10月26日、来シーズンから四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスで総監督(現場指揮をおこなう監督とは別)に就任することが決定した。

2017年秋の叙勲で旭日中綬章を受章。2018年1月29日に「叙勲受章祝賀会」が行われ鳩山由紀夫原辰徳が祝辞を述べ、乾杯の音頭はアントニオ猪木が取り、司会は松本秀夫が務め、金田正一、野村克也、川淵三郎森喜朗周防郁雄山本浩二谷沢健一上田次朗佐々木主浩など球界、政界、芸能界から約650名が出席した。

2018年4月に71冊目の著書「野球バカは死なず」を上梓し阿川佐和子から「私はこれをNHK朝の連続テレビ小説の原作にすればいいのにと思った。笑えるところもたくさんあるし、こんな波乱万丈な男な男の子の人生はなかなかないと」と言われた。

現役引退をめぐるエピソード

江本の阪神退団・現役引退のきっかけになったとされる「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言をめぐっては、以下のような周囲の証言があり、それらにともなって江本自身の発言にも変遷が見られる。

江本は1981年8月26日の甲子園球場でのヤクルト戦に先発で登板すると、7回表まで3安打1失点と好投。しかし、阪神の3点リードで迎えた8回表、一死から大杉勝男に安打、杉浦亨に二塁打を打たれ一死二、三塁となり、続く渡辺進に適時打を喫し2対4と2点差となる。ここで投手コーチの藤江清志がマウンドに向かうが、江本は続投。八重樫幸雄を三振に打ち取るが続く水谷新太郎に2点適時打を打たれ4-4の同点となる。西井哲夫を三振に打ち取ってチェンジとなるが、マウンドから一塁側のベンチに向かう際グラブを投げ付け、球場の2階にあった選手用のロッカールームに向かった。

サンケイスポーツ』への入社3年目に阪神担当記者として上記の発言に接した田所龍一は、産経新聞大阪本社の運動部長に就任した2009年に、同紙の署名記事で一部始終を回顧。降板直後の江本の発言を取りにベンチ裏へ向かったところ、通路からロッカールームへ向かって田所の視界から消えたところで江本が「アホやから」発言を大声で叫んだという。その発言を田所から聞いたサンケイほか各紙のキャップ記者が江本へ囲み取材を行い発言の真意を質したところ、発言を「独り言」や「愚痴」ではなく「公式発言」として認めたことを明かした。また、江本が阪神を退団した翌日に、田所が江本の自宅を訪れたところ「アホやのう、お前がまだ通路の入り口で立っとると思ったから、わざと聞こえるように言うたんや。お前のせいで辞めたんやない。気にするな」と慰められたことも紹介した。

当時『サンテレビボックス席』で阪神戦中継の実況を担当していた西澤暲(フリーアナウンサー)は、西澤が阪神戦の実況を離れた後の2014年に著した『阪神戦・実況32年。』(講談社)で、江本発言に触れている。西澤は当日、翌日の実況に向けて、発言の当日に取材を兼ねて甲子園球場の放送ブースでこの試合を観戦していた。ところが、マウンドを降りた後の江本の様子にただならぬ気配を感じたことから、ロッカールームに向かう階段の踊り場で待機。やがて、スポーツ紙の阪神担当記者と共に姿を現した江本に向けて、顔なじみのよしみで「エモ、お疲れさん」と声を掛けた。西澤によれば、この直後に江本が「ベンチがアホやから、やってられませんわ」と言い放ったため、「若い記者のいる前でそんなことを言うな」とたしなめながらしばらく2人だけでやり取りを続けたという。

江本自身の発言を見ると、引退直後の1982年に刊行した『プロ野球を10倍楽しく見る方法』では、「ベンチがアホやから野球がでけへん」という発言を「ぼくの発言じゃない」と明確に否定していた。その後も複数の著書において「そういうセリフは何も言っていない」と否定したり、「人に言わせると……」という表現で間接的に否定していた。

しかし、上記の田所と西澤の証言が出た後の2014年には、自ら行った発言であることを認め、その背景を以下のように述べている。当時監督だった中西太とは1979年キャンプでの練習中、打撃コーチの中西が狭いスペースで打撃練習を始めさせ、打球が別の練習をしている選手に当たるという事件があり、「私は選手会長だったから、中西さんに文句を言った。それだけならまだよかったんですが、のらりくらりとした中西さんの態度に腹が立ち、熱くなってタバコまで投げつけてしまった。以来、犬猿の仲でした。そんな中西さんが翌年から監督になったものだからシーズン中、先発だリリーフだとめちゃくちゃな起用されてきた。そんな伏線があった上で迎えたのが8月26日のヤクルト戦でした。あの発言は、積もり積もった恨みに対するものだったんです。議員をやったり、指導者をやったりして、自分も人に何かを伝える側に立った時、ふと中西さんの気持ちが分かるようになったんです。人間は立場によって言いたくないことも言わなければならない。私のように生意気な選手には、中西さんは厳しく接するしかなかった。そうしなければ監督としての威厳が保てなくなり、チームは機能しなくなっていたでしょう。」と述べている。

江本が降板後に阪神ベンチの方向へグラブを投げた瞬間をベンチ側から映したモノクロの報道用写真は、現在でも以上のエピソードをメディアで紹介する際に、「(江本が暴言を吐く)決定的瞬間が見られる唯一の証拠資料」として引用されている。江本によれば、ベンチへ投げ付けるつもりだったグラブがベンチ前のフェンスに当たってグラウンドへ跳ね返ったため、改めて一塁側の内野スタンドにグラブを投げたという。さらに、江本のグラブをスタンドで受け取った観客が水島新司(南海時代の江本・野村・江夏などが実名で登場する野球漫画「あぶさん」の作者)にグラブを見せたことから、水島はグラブに江本の似顔絵を描画。観客が後にそのグラブを『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)へ持ち込んだところ、スタジオゲストとして出演していた江本の目の前で、「60万円の価値がある」という鑑定結果が示された。

プレースタイル

通算24ボーク日本プロ野球記録。1973年のシーズン10ボークも、2003年に広島東洋カープクリス・ブロックに抜かれるまで日本記録であった。記録の背景にはパ・リーグが1973年から1974年の2年間、ボークの宣告を極端に強化したことが大きく影響している。

王貞治が現役時代に苦手としていた投手であり、通算対戦打率は約1割と、50打席以上の対戦がある投手の中では1位。被本塁打はわずかに1本。これは満塁本塁打で、いつもと違う攻めを試した結果であったという(自著『おれ、紆球曲球』)。

球速は高校時代は150km/hを超えていたと自称するが、プロ入り後すぐに速球派から技巧派へ転向、コントロール中心型のピッチャーであった(自著『プロ野球を20倍楽しむ方法』)。しかし変化球を多数種類おぼえるタイプではなく、同じカーブ・フォークでも幾種類かのカーブ、フォークを使い分けるというピッチングをしていた。変化球に関しては「エモ・ボール(魔球)はフォークのスッポ抜け」(前著)、「フォークボールは高校時代から得意にしていた」「エモ・ボールは一種の都市伝説のようなもので、実際には投げていない」(自著『プロ野球 勝てる監督・使える選手』)、「ストレートとカーブしか投げられなかった」(近藤唯之『引退そのドラマ』)といった具合に、微妙に発言の内容を変えている。

高橋慶彦の連続試合安打を阻止した投手である(1979年)。実は高橋は日本記録を更新した試合で負傷して長期離脱を余儀なくされており、復帰戦で対決した江本は「ボールに目が慣れていない」と判断、速球で押し通す配球で無安打に抑え込んだという(近藤唯之『運命を変えた一球』)。また『FNS27時間テレビ2011』では偶然にも高橋の話題になり、高橋を敬遠との指示を受け4球も投げるのが面倒だから1球(死球)で済ませたことがあると語っていた(直後に冗談ですと言ったので真偽は不明)。高橋の前に連続試合安打(32試合)の記録を持っていた長池徳士を抑えたのも江本である(高橋慶彦談)。

投手としては打撃が良く、通算7本塁打を記録している。本塁打を打った試合でロッテ監督の金田正一から野次られたことがあり、後に金田自身の実績を逆手に取って反論し金田をしどろもどろにさせたことがある。もちろん金田はベンチで感情にまかせて江本を野次っただけのことで、金田自身は「一流投手は打者としても一流」と主張し、その主張通り投手としての本塁打日本記録保持者である。

人物

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出典:wikipedia
2018/09/14 06:03

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