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江青とは?

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江青(1976年10月16日)
「藍蘋」時代(1935年)

江青(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiāng Qīng。1914年3月 - 1991年5月14日)は、中華人民共和国指導者の毛沢東共産党主席の4番目の夫人で政治指導者、女優山東省出身。文化大革命(文革)を主導し「紅色女皇」と呼ばれた。文革末期には王洪文張春橋姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で影響力を持ったが、毛沢東の死後に逮捕、投獄され、死刑判決を受ける。無期懲役に減刑ののち、病気治療仮釈放(保外就医)中に北京の居住地で自殺した。

「江青」は女優時からの名乗りであり、出生時の名は李淑蒙とも李進(李進孩)ともいう。毛沢東の漢詩に「李進同志」に宛てたものがある。小学校入学時には李雲鶴と名乗る。「江青」と改名する前には「藍蘋」として広く知られた。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 共産党入党
    • 1.3 女優「藍蘋」
    • 1.4 毛沢東との結婚
    • 1.5 政治活動
    • 1.6 大躍進政策の失敗
    • 1.7 「四人組」
    • 1.8 逮捕
    • 1.9 自殺
  • 2 人物
    • 2.1 身体的特徴
    • 2.2 ファッション
    • 2.3 趣味等
  • 3 脚注
  • 4 関連項目
  • 5 外部リンク

生涯

生い立ち

中華民国山東省諸城県で生まれ、済南市の中流家庭で育つ。良家への結婚を求めた母は、李に纏足を施したが、李はすぐにこれを解いた。

1929年、済南で山東省実験劇院に進んだのち青島大学の図書館で副司書として働く。1931年に最初の結婚をするも2ヶ月で離婚した。

共産党入党

この頃青島大学での学生運動の指導者で共産主義者であった兪啓威(黄敬)と知り合い同棲するようになる。その影響で1933年中国共産党に入党した。しかし同年、その兪啓威が中国国民党政府に反政府活動のかどで逮捕され死刑宣告を受けた(後に釈放)。

女優「藍蘋」

映画雑誌の表紙を飾る(1935年頃)

その後一時済南に戻ったが、後上海へ移った。その後、上海において「藍蘋」の芸名で女優活動を始める。上海の外国租界における社交界でも有名人となり、「ブルー・アップル」と呼ばれ持て囃された。しかし主演映画には恵まれず、唯一の主演話劇「娜拉(人形の家)」(1935)のノラ役以外の作品は皆脇役端役であった。また同時期、時代の寵児であった才媛・王瑩を藍蘋時代から一方的にライバル視するが、主演をめぐり女優の世界ではことごとく王瑩に敗れており、これに恨みを飲んで後の文革での迫害につながった。

1934年に俳優・映画監督・映画評論家で知られた唐納と結婚した。結婚式は趙丹ら当時の上海芸能界のスター3組の合同結婚式であり、たいへん華やかなものであった。しかし結婚生活はうまくいかず、挙式2ヶ月後には藍蘋は他の男性のもとへ走る。唐納は精神的に不安定になり、2度自殺未遂を起こしている。これらの騒動は大スキャンダルとなり、姦淫を犯した藍蘋が上海芸能界で活動することは事実上不可能になった。

この間に江青の出演した映画『王老五』(1937年)はヒット作となり、「王老五」の役名そのものが「独身期間の長い男」をあらわす慣用句となった。内容は、独身期間が長い、貧しい労働者の王老五の人生と抜け出せない貧困の苦しみを描いたもので、江青は貧困の苦しみにあえぐ王老五の妻を演じている。

1937年にようやく唐納との離婚が成立したが、8月には第二次上海事変が勃発。藍蘋はかつて同棲していた俞啓威と共に上海から脱出し、中国共産党の本拠地延安まで歩いて移動した。この時から藍蘋は「江青」と名乗っている。

毛沢東との結婚

毛沢東とともに(1946年)

延安に到着後、魯迅芸術学院で演劇を教えていた。かつての人気女優であった江青は都会的で比較的スリムな美人で、男ばかりの延安で羨望の的だったという。やがて毛沢東と出会い、二人は交際を開始するようになった。この時江青は25歳、毛沢東は45歳だった。

しかし当時の毛沢東は賀子珍(毛沢東にとって3番目の夫人)と結婚しており、江青との関係は不倫であった。毛沢東は賀子珍と離婚して江青と結婚をすることを決めた。しかし不倫関係が元であり、さらにスキャンダルで広く知られた江青を毛沢東の妻とすることに対する危惧感が、朱徳周恩来といった幹部達の反発を招くことになる。結局、毛沢東は結婚の条件として江青を政治の表舞台に立たせないことを約束させられたという。

幹部たちの反発はあったものの、日中戦争真っただ中の1939年に毛沢東と江青は正式に結婚した。翌1940年には1人目の娘の李訥が生まれた。

政治活動

中華人民共和国


中華人民共和国の歴史
【組織集団】

中国共産党中国人民解放軍
【主な出来事】

日中戦争国共内戦
チベット侵攻ウイグル侵攻
朝鮮戦争
中ソ対立
大躍進政策
中印戦争
文化大革命
国家主席の廃止林彪事件
四五天安門事件
中越戦争中越国境紛争
改革開放
一人っ子政策
六四天安門事件
香港返還
2008年北京オリンピック
上海万博

【指導者】

毛沢東周恩来劉少奇朱徳
華国鋒林彪江青
鄧小平胡耀邦趙紫陽
江沢民李鵬朱鎔基
胡錦濤温家宝
習近平李克強
【理念】

マルクス・レーニン主義
毛沢東思想鄧小平理論
4つの基本原則3つの代表
一つの中国科学的発展観
九段線一帯一路
習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想
【統治機構】

中国共産党中央委員会
中央委員会総書記
中国共産党中央政治局
中央政治局常務委員会
中国共産党中央書記処
中央軍事委員会
中央規律検査委員会
【国家機構】

全国人民代表大会
常務委員会
中華人民共和国国務院
中央軍事委員会
中国人民政治協商会議
最高人民法院
最高人民検察院
【地域】

中国華北東北
華東華中華南
西南西北
香港澳門
中華人民共和国の行政区分

国共内戦の結果、1949年に毛沢東を中央人民政府主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなったが、この頃には体調を崩しソビエト連邦で療養生活を送る。帰国後の1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。江青は王光美(劉少奇国家主席夫人)や宋慶齢(孫文未亡人)といった女性政治家にライバル心を持った。1962年9月、インドネシアスカルノ大統領夫人ハルティニが訪中した際に、毛沢東とともに歓待の席に姿を見せ、「人民日報」に初めて毛夫人として取り上げられ公けにされた。これはその前に接待した王光美とハルティニ夫人の模様が連日「人民日報」に報じられたことに反発した江青が、毛沢東を通じて公式の場に出ることを計ったものだった。

大躍進政策の失敗

数千万人の餓死者を出した大躍進政策の失敗で国家主席から失脚した毛沢東を支え、劉少奇の打倒を毛沢東に勧めるようになった。これがやがて文化大革命につながった。

「四人組」

やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に名を轟かせることになる。

1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。この背景として、女優として活動していた彼女はそれなりの評価をもらっていたものの、正当な演技の訓練を受けていない自分を「演技派女優」として高く評価してくれなかった演劇界に対して個人的怨嗟があったといわれる。

1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落とし入れ、張春橋王洪文姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。

表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。

嫉妬深く自分より優れた所のある女性は容赦なく攻撃し、王光美を逮捕・投獄させたり、周恩来養女で女優の孫維世を死に至らしめた。

また、1967年には、女優生命を自分で絶つきっかけとなった『芸能界最大のライバル』、中国演劇界の寵児・王瑩を、彼女の夫・謝和庚とともに牢獄に送って迫害し、緩慢死に至らしめている(夫は生き延び、2005年に逝去)。

なお、この時は賀子珍に対して激しい嫌悪感を持ち、同じ町で宿泊することすら耐えられなかったという。

江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。

逮捕

さらに、1976年には復活した鄧小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。

1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。「四人組裁判」の法廷においては、これが一種の「政治裁判」であることを批判・嘲笑する言動をたびたびおこない、何度も退廷処分を受けている。もっとも裁判では毛沢東の責任を検証しないなどそうした側面があったのは事実で、それ故に江青の言動が裁判を「茶番劇」から救ったと逆説的に評価する見解もある(辻康吾『転換期の中国』『文化大革命と現代中国』、いずれも岩波新書)。1983年には無期懲役に減刑された。1984年に病気治療仮釈放(保外就医)されていたことが、彼女の自殺時の報道で明らかにされた。

自殺

1991年5月14日に、の療養のため病気治療仮釈放中に北京の居住地で首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの戦友が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

江青の自殺については6月4日になってようやく新華社より発表された。江青本人は「生家の山東省諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を説得し、2002年に北京の北京福田共同墓地に埋葬された。また、葬儀費用約5~6万元は李訥が負担させられた。墓石には「先母李雲鶴之墓 1914年~1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とは分からないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、21世紀の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマで「賢女」として描写されるなど、一部で「名誉回復」もうかがわれる。

人物

身体的特徴

李志綏によると、江青は多指症(右の足指が6本あった)だったという。

ハリソン・ソールズベリーによれば、1976年当時の江青の頭髪はかつらで、実際にははげ頭だった。毛沢東の死後、人民大会堂の遺体安置所で、毛の従弟・王季范の孫で当時外交部副部長だった王海容(女性。毛沢東に「四人組」からの言葉を伝える仕事をしていた)が、江青の花輪に書かれた「わが師へ あなたの教え子江青より」という献辞に「あなたにこんな言葉を書く資格はない」と反発し、その場にいた江青とつかみ合いの喧嘩を始めた。王が江青の髪をつかんで引っ張ったところ、王は反り返って床に尻をつきそうになる。王の手に黒い塊があったため、江青を見たところその頭には毛がなく、手の中にあったものはかつらだったという。

ファッション

1974年、江青はフィリピンイメルダ・マルコス大統領夫人との会見に際して武則天を意識した特製の礼服を作らせたが、出来たものを見た江青はさすがにそれを着ることをためらった。背景には毛沢東の反対もあったという。

毛沢東の葬儀で江青は黒の喪服に黒のベールで顔を覆っていたが、その姿が2年前に死去したアルゼンチンフアン・ペロン大統領の葬儀に臨んだ未亡人のイサベル・ペロン新大統領のそれと良く似たものだった。イサベルは夫に副大統領へ指名され、夫の死とともに大統領に昇格したものだが、そのイサベルを彷彿とさせる喪服姿に毛沢東の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った者もいたという。

趣味等

江青は女優時代から、養顔(美容)のために、出身地である山東省特産の阿膠(アキョウ)を飲んでいた。

写真撮影はプロ級で、現存する毛沢東の生活写真の一部は彼女が撮影したものである。陳永貴に「給料は食代と生活費以外殆ど本とフィルムにかかった」と述べた。また、上海照相机厰は江青のために東風と紅旗カメラを開発した。

脚注

  1. ^ ハリソン・ソールズベリー『天安門に立つ 新中国40年の軌跡』日本放送出版協会、1989年、pp.129 - 130
  2. ^ 当時の日本の新聞でも「珍しや毛主席夫人」(朝日新聞1962年10月5日夕刊2頁)と報じられた。記事にはハルティニ夫人と会ったのは9月29日とある。
  3. ^ ““文革”时江青与贺子珍“水火不相容”:她是什么东西?”. (2014年2月10日). http://history.people.com.cn/n/2014/0210/c372327-24312174.html 2015年12月1日閲覧。
  4. ^ “暴かれなかった江青夫人の墓 一族復権、富豪の子孫も”. 産経新聞. (2013年12月26日). http://sankei.jp.msn.com/world/news/131226/chn13122608530002-n1.htm 2013年12月26日閲覧。
  5. ^ 女たちの中国 日本テレビ2009年放映
  6. ^ 「文革の女帝」江青が夫・毛沢東を支えた賢妻に!再評価のきっかけか?―中国 - Record China(2009年9月19日)
  7. ^ 李志綏『毛沢東の私生活』上巻文藝春秋、1994年、p.243。ただし、本書の内容の信憑性には議論がある(当該記事を参照)。
  8. ^ 『天安門に立つ』pp.253 - 254

関連項目

外部リンク

文化大革命 (1966 – 1976)
前史 | 
三反五反運動 反右派闘争 大躍進 廬山会議 中ソ対立 反党小説劉志丹事件 四清運動 七千人大会

主要事件 | 
一月風暴 二月逆流 六十一人叛徒集団事件 武漢事件 道県事件 内モンゴル人民革命党粛清事件 上山下郷運動 国家主席の廃止 五七一工程(林彪事件) 批林批孔運動 海城地震
沙甸事件 板橋ダム決壊事故 四五天安門事件 唐山地震 毛沢東死去 懐仁堂事変

主要人物 | 
中国共産党指導者:毛沢東 周恩来 劉少奇 鄧小平 朱徳 林彪 四人組(江青 張春橋 姚文元 王洪文) 陳伯達 謝富治 康生 毛遠新 戚本禹 華国鋒 汪東興
林彪グループ:林彪 葉群 林立果 陳伯達 謝富治 林彪派四天王(黄永勝 呉法憲 李作鵬 邱会作) 李雪峰
失脚させられた政治家:彭徳懐 呉晗 彭真 羅瑞卿 陸定一 楊尚昆 ウランフ 薄一波 劉少奇 鄧小平 陶鋳 賀竜 陳毅 葉剣英 李富春 李先念 徐向前 聶栄臻 谷牧 蕭華 楊成武 胡耀邦 張愛萍 万里 李立三
迫害を受け亡くなった著名人:張東蓀 老舎 傅雷 熊十力 容国団 趙九章 翦伯賛 周作人 田漢 陳寅恪 趙樹理 王瑩
その他:聶元梓 張承志 遇羅克 張志新 張鉄生

文書 | 
海瑞罷官(新編歴史劇『海瑞罷官』を評す) 五・一六通知 司令部を砲撃せよ 一六箇条の決定 毛主席語録 毛沢東選集 工業は大慶に学べ/農業は大寨に学べ 貴方がやれば、私は安心だ

概念 | 
四旧(破四旧運動) 批斗大会 全国大武闘(武漢事件 清華大学百日大武闘) 革命無罪 造反有理 二つのすべて 大字報 走資派 黒五類(地主 富農 反革命分子
破壊分子 右派) 反動的学術権威

集団 | 
紅衛兵(造反派 保守派) 中央文革小組 革命委員会 上海人民コミューン 8341部隊 知識青年 毛沢東思想宣伝隊 紅小兵

芸術 | 
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毛沢東頌歌:東方紅 大海を行くには舵取りに頼る 毛主席の長寿を祈る 北京の天安門が好き 太陽は最も赤く、毛主席は最も親しい

外交 | 
善隣学生会館事件 北京空港事件 中ソ国境紛争(珍宝島 テレクチ) クメール・ルージュ(民主カンプチア) アルバニア決議 ピンポン外交 ニクソン大統領の中国訪問 日中共同声明(日中国交正常化) 西沙諸島の戦い

結果・影響 | 
第11期三中全会 建国以来の党の若干の歴史問題についての決議 改革開放 中越戦争 北京の春 日中共産党の関係 文革墓群

関連作品 | 
傷痕文学 毛沢東の私生活 マオ 誰も知らなかった毛沢東
中国女 (映画) 中国 (映画) パリの中国人 芙蓉鎮 さらば、わが愛/覇王別姫 活きる シュウシュウの季節 小さな中国のお針子 サンザシの樹の下で 妻への家路

関連項目 | 
毛沢東主義 スターリン批判 (1956) ベトナム戦争 (1960-1975) ミャンマー内戦(ビルマ内戦)(1955-1972) 香港六七暴動(1967) 六四天安門事件 (1989) 北京地下城 毛主席紀念堂

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毛沢東思想
基本概念 | 

重要人物 | 

国際組織 | 
  • マルクス=レーニン主義政党・機構国際会議
  • 革命的国際主義運動

政党 | 
出典:wikipedia
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