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汪兆銘政権とは?

中華民国
中華民國

 | 1940年 - 1945年 | 

(国旗) | (国章)
国の標語: 「和平 反共 建國」 ("Peace, Anti-Communism, National Construction")
国歌: 中華民国国歌

濃赤 - 維新政府および北京臨時政府(1939年)
淡赤 - 蒙古聯合自治政府(1940年編入)
公用語 中国語・(日本語)
首都 南京
国民政府主席
1940.11. - 1944.11. 汪兆銘
【1944.11. - 1945.8.】
陳公博
行政院長
【1940.3. - 1944.11.】
汪兆銘
【1944.11. - 1945.1.】
陳公博
人口
【1940年(推計)】
1億8,200万人
変遷
成立 1940年3月30日
【解散】
1945年8月16日

通貨

時間帯
UTC +8
【現在】
中華人民共和国

汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は、1940年3月30日から1945年8月16日にかけて存在した、中華民国国民政府日中戦争における日本軍占領地に成立した親日政権(対日協力政権)。行政院長(首相)は汪兆銘(汪精衛)、汪の死去の1944年11月死後は陳公博が行政院長となった。スローガンは「和平 反共 建国」。首都南京。最大都市は上海。正式には中華民国国民政府(ちゅうかみんこくこくみんせいふ)。南京を首都としていたことから、当時の日本では南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)とも呼ばれた。中華民国南京国民政府(ちゅうかみんこくなんきんこくみんせいふ)の名で呼ばれることも多い。

目次

  • 1 名称・政体
  • 2 国旗・国歌・記念日
  • 3 政府組織
  • 4 前史
    • 4.1 日中戦争勃発
    • 4.2 汪兆銘工作と汪の重慶脱出
    • 4.3 汪兆銘政権の成立
  • 5 あゆみ
    • 5.1 日華基本条約
    • 5.2 太平洋戦争と汪政権
    • 5.3 対米英参戦と主権の回復・大東亜会議
    • 5.4 汪兆銘の死とその後の南京国民政府
  • 6 外交
  • 7 軍事
  • 8 行政区画
  • 9 統治原理
    • 9.1 三民主義
    • 9.2 大亞洲主義
  • 10 政権と民衆動員
    • 10.1 東亜連盟運動
    • 10.2 新国民運動
  • 11 政権の性質と評価
    • 11.1 「傀儡政権」
    • 11.2 ヴィシー政権との比較
  • 12 年譜
    • 12.1 1939年以前
    • 12.2 1940年(民国29年、昭和15年)
    • 12.3 1941年(民国30年、昭和16年)
    • 12.4 1942年(民国31年、昭和17年)
    • 12.5 1943年(民国32年、昭和18年)
    • 12.6 1944年(民国33年、昭和19年)
    • 12.7 1945年(民国34年、昭和20年)
    • 12.8 1946年以降
  • 13 脚注
    • 13.1 注釈
    • 13.2 出典
  • 14 参考文献
  • 15 関連項目
  • 16 外部リンク

名称・政体

正式な国号は中華民国(Republic of China)、その政府を中華民国国民政府(Reorganized National Government of the Republic of China)と称する。四川省重慶にあった蒋介石政権も同じ国号・政府名称を使用し、汪兆銘政権を承認しなかった。汪兆銘の名は、中華圏では号の「精衛」の方が一般的に広く用いられており、汪精衛政権と呼称することが多い。なお、現代の中国では、汪兆銘政権を傀儡政権とみなす立場から汪偽政権(Wang's Puppet Regime)ないし偽国民政府(Puppet Nationalist Government)と呼ぶことも多い。

共和政体で、委員会制を採用。統治原理は三民主義である。

国旗・国歌・記念日

1939年5月、日本を訪問した汪兆銘は、国旗として青天白日満地紅旗を採用することを主張したが、日本陸軍の板垣征四郎がそれに難色を示したので、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角旗(瓢帯)を加えて和平旗とした。1943年1月の汪政権の対米英参戦後、汪の指示で黄色の瓢帯は除去された。

国歌中国国民党党歌(中華民国国歌、通称「三民主義」)をそのまま使用し、記念日国恥記念日を除けば、中国国民党国民政府のものをそのまま踏襲した。

政府組織

汪兆銘の南京国民政府では、孫文の三民主義の考えに立った「立法」「司法」「行政」「考試」「監察」の五権分立制が踏襲され、それにもとづいて立法院行政院司法院考試院監察院の五院が設けられた。各院・各部の首脳は以下の通りである。

  • 中央政治委員会


  • 国民政府主席(代理):

汪兆銘(1940.3—1944.11)
陳公博(1944.11-1945.8)


  • 行政院院長:

汪兆銘(1940.3—1944.11)
陳公博(1944.11-1945.8)

  • 行政院副院長:

褚民誼(1940.9-1940.12)
周仏海(1940.12-1945.8)

 | 
  • 立法院院長:

陳公博(1940.3—1944.11)
梁鴻志(1944.11-1945.8)

  • 立法院副院長:

朱履龢(1940.9—1941.2兼)
繆斌(1941.2—1942.8)
褚民誼(1942.8-1945.8)


  • 司法院院長:

温宗尭(1940.3—1945.8)

  • 司法院副院長:

朱履龢(1940.3—1945.4歿))

  • 司法院
    • 最高法院(院長張韜)
    • 行政法院(院長林彪)
    • 公務員懲戒委員会(委員長朱履龢)


  • 考試院院長:

王揖唐(1940.3—1942.3)
江亢虎(1942.3-1944.11)
陳群(1944.11-1945.8)

  • 考試院副院長:

江亢虎(1940.3—1942.3)
焦莹(1942.3-1945.8)

  • 考試院
    • 銓敘部(部長江亢虎)
    • 考選委員会(委員長焦莹)

 | 
  • 監察院院長:

梁鴻志(1940.3—1944.11)
顧忠琛(1944年11月—1945年7月殁)

  • 監察院副院長:

顧忠琛(1940.3—1944.11)
夏奇峰(1944年11月起至投降)



なお、中央政治委員会は年度ごとに委員が選任され、汪兆銘政権が5年半におよんだことから、選任は第一期(1940年3月24日〜1941年4月4日)、 第二期(1941年4月5日〜1941年3月25日)、第三期(1942年3月26日〜1943年3月31日)、第四期(1943年4月1日〜1944年3月28日)、第五期(1944年3月29日〜1945年4月4日)、第六期(1945年4月5日〜1945年8月16日)の6期にわたった。行政院の各部長や各院の院長・副院長などの役職を有する人が、同時に政治委員を兼ねている場合が多い。政治委員は、その資格や権限により、当然委員(5〜6名)・列席委員(3〜5名)・指定委員(19〜23名)・聘請委員(第二期より延聘委員、10〜12名)に分かれ、政治委員会には、このほか秘書長1名・副秘書長2名が置かれた。

前史

日中戦争勃発

民国26年 (昭和12年、1937年)7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(シナ事変)が始まった。対日徹底抗戦を説く蒋介石に対し、汪兆銘(汪精衛)は「抗戦」にともなう民衆の被害と中国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった。日本は、つぎつぎに大軍を投入する一方、外相宇垣一成イギリスの仲介による和平の途を模索していた。しかし、宇垣工作日本陸軍の出先や陸軍内部の革新派からの反対を受けて頓挫した。

11月20日、国民政府は南京から四川省重慶への遷都を通告し、一部の部署は湖北省武漢に移転が図られた。12月13日、日本軍は南京を占領した。翌14日には、日本軍の指導で北平(現、北京)に王克敏を行政委員長とする中華民国臨時政府が成立した。

1938年1月のトラウトマン工作の失敗を受けた近衛内閣は、軍部の強硬論の影響もあって、同1月16日、「今後は蒋介石の国民政府を交渉の相手にしない」という趣旨の第一次近衛声明を発表した。日中戦争は、南京占領後、徐州作戦武漢作戦広東作戦を経て泥沼化していった。

日本占領下の対日協力政権

民国27年(1938年)3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、はじめて中国国民党に総裁制が採用されることとなり、蒋介石が総裁、汪兆銘が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された。すでに党の大勢は「連共抗日」に傾いており、汪兆銘としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである。一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している。

こうしたなか、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになり、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪兆銘をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した。

汪兆銘工作と汪の重慶脱出

汪兆銘工作」も参照
汪兆銘
周仏海

汪兆銘は、早くから蒋介石の「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた。1938年6月、汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触した。高宗武自身は日本の和平の相手は汪兆銘以外にないとしながらも、あくまでも蒋介石政権を維持したうえでの和平工作を考えていた。

1938年10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆したうえで、蒋介石による長沙焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋との対立は決定的なものとなった。日本では、11月3日に近衛文麿が「東亜新秩序」声明を発表していた(第二次近衛声明)。これは、日本が提唱する東亜新秩序に参加するならば、蒋介石政権であっても拒まないことを示しており、第一次声明の修正を意味していた。

11月、上海の重光堂において、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した参謀本部の今井武夫影佐禎昭との間で話し合いが重ねられた(重光堂会談)。11月20日、両者は「東亜新秩序」の受け入れや中国側による満洲国の承認がなされれば日本軍が2年以内に撤兵することなどを内容とする「日華協議記録」に署名調印した。そして、将来的に日華防共協定がむすばれるならば、日本は治外法権を撤廃し、租界返還も考慮するとされたのである。

梅思平

この合意の実現のため汪側は、汪が重慶を脱出し、日本は和平解決条件を公表して、それに呼応する形で汪が時局収拾の声明を発表、汪のシンパとして期待される雲南省昆明や四川省などの日本未占領地域に新政府を樹立するという計画を策定した。12月18日、ついに汪兆銘は重慶からの脱出を決行した。汪一行は昆明に1泊し、12月20日仏領インドシナハノイに着いた。周仏海は、昆明で汪一行に合流し、ともにハノイに渡った。汪の脱出に前後して、陶希聖梅思平らも、それぞれ重慶から脱出した。

汪派の人びとにとって期待はずれだったのは、昆明の竜雲はじめ、四川の潘文華第四戦区(広東省広西省)の司令官張発奎らが、誰ひとりとして汪兆銘の呼びかけに応じなかったことであった。さらに打撃だったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)であり、これには汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪派の人びとを落胆させた。

汪兆銘政権の成立

12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた。これは、韻目代日による「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる。ここで汪は「もっとも重要な点は、日本の軍隊がすべて中国から撤退するということで、これは全面的で迅速でなければならない」と述べ、それ以前の日本側との交渉内容を踏まえ、約束の履行を牽制したものであった。しかし、汪に続く国民党幹部は決して多くなく、日本軍撤退もなかった。蒋政権はこれに対し、ただちに汪を国民党から永久除名し、一切の公職を解いた。

当初の構想に変更を余儀なくされた汪は、しばらくハノイに滞留した。しかし、1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心曽仲鳴を射殺するという事件が起こった。蒋介石が放った暗殺者は汪をねらったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になったのである。

ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした。陸軍大臣板垣征四郎は、汪兆銘の意思を尊重しつつ安全地帯に連れ出すことを命令し、これを受けた陸軍の影佐禎昭は関係各省の合意が必要と主張して、須賀彦次郎海軍少将、外務省・興亜院からは矢野征記書記官、衆議院議員犬養健らを同行させることを条件に、この工作に携わった。4月25日、影佐と接触した汪兆銘はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日上海に到着した。ハノイの事件は、汪兆銘が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった。

汪兆銘は蒋介石との決別を決意した。一方、蒋介石は徹底抗戦を唱えるとともに竜雲・李宗仁唐生智など、かつて汪に親しかった人物の切り崩しを図った。一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件を機に「日本占領地域内での新政府樹立」を決意するに至った。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、日中間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶が「和平」に転向することを期待するものだった。

上海に移った汪兆銘はただちに日本を訪れ、平沼騏一郎内閣のもとで新政府樹立の内諾を取り付けた。汪はまた上海で自政権を支える軍隊の創設をめざし国民政府軍などの高級将校に対して「索反工作」と称する離反作戦を活発に展開した。5月31日、汪とかれの配下であった周仏海・梅思平・高宗武・董道寧らは横須賀の海軍飛行場に到着し、日本側と協議している。このとき板垣征四郎は、汪兆銘政権が青天白日満地紅旗を用いることに難色を示したが、汪兆銘側もこの点に関しては譲れず、結局、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを書き入れた黄色の三角標識(瓢帯)を加えて和平旗とすることで折り合いがついた。

帰国した汪兆銘は、1939年8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく上海で「第六次国民党全国大会」を開催し、自ら党中央執行委員会主席に就任して日本占領地内の親日政権の首班であった王克敏(北平)・梁鴻志(南京)の両名と協議し、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)が三分の一、王克敏の臨時政府と梁鴻志の維新政府が両方で三分の一、その他三分の一」とすることで合意し、彼らと合流して新政府を樹立することとした。

次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨からさえ大幅に逸脱する過酷なものであった。日本の示した日華新関係調整要綱のあまりに過酷な条件に汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどである。汪兆銘は『中央公論』1939年秋季特大号(10月1日発行)に「日本に寄す」と題する思い切った論考を発表し、「東亜協同体」や「東亜新秩序」という日本の言論界でしきりに用いられる言葉に対する疑念と不信感を表明し、「日本は中国を滅ぼす気ではないか」と訴えた。

1939年12月9日、汪兆銘は「中央陸軍軍官訓練団」を組織した。これは、旧維新政府の兵士の受け容れ先であったとともに、南京国民政府の国軍「和平建国軍」のもととなった。

1940年1月、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武と陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた。汪兆銘は最終段階において腹心と思われた部下に裏切られたことに動揺したものの、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、この条約案を最終的に承諾した。一方、それまで態度を保留し、政府を2つに割ることにあくまでも反対していた陳公博は正式に汪兆銘の側に身を寄せた。

台湾日日新報の「祝新国民政府成立」の新聞広告(1940年)
「汪精衛さんを応援しよう」(原文:擁護汪精衛先生(さん))と書かれた汪兆銘政権の標語

民国29年(1940年)3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された。汪兆銘政権は、国民党の正統な後継者であることを示すため、首都を重慶から南京に還すことを意味する「南京還都式」のかたちをとった。ただし、汪は重慶政府との合流の可能性も考慮して、当面のこととして新政府の「主席代理」に就任し、重慶政府にいた国民党長老の林森を名目上の主席とした。政府の最高機関は中央政治委員会で、その下には軍事委員会が設置された。蒋介石はこの日、汪兆銘に従った77名の逮捕令を発した。

北平の中華民国臨時政府と南京の中華民国維新政府は、「還都式」前日の3月29日に解散して新国民政府に合流したが、臨時政府の方は華北政務委員会に改編され、汪の南京政権のもとで一定の自治を保った。

新政府では汪の妻の陳璧君も重要な役割を果たし、陳璧君とその義弟の褚民誼、汪の女婿で私設秘書何文傑、汪の秘書林柏生、臨時政府の王克敏、維新政府の梁鴻志といった人びとが「公館派」として名を連ねた。一方、周仏海をはじめとするグループは「実力派」と呼ばれ、繆斌項致荘周縞特務機関丁黙邨などから成った。陳公博は、「公館派」「実力派」いずれの派閥にも属さなかった。なお、戦後日本の内閣総理大臣を務めた福田赳夫は汪兆銘政権の財政顧問であり、のちに中華人民共和国主席となった江沢民の実父(江世俊)は、汪の南京国民政府の官吏であった。

あゆみ

日華基本条約

日華基本条約の内容を広報するリーフレット(中国語)

日中戦争においては、盧溝橋事件以来、船津和平工作、トラウトマン工作、宇垣工作など、和平が幾度も試みられてきたが、いずれも失敗に帰し、汪兆銘工作は上述のように新南京国民政府の成立をもたらしたが、蒋介石の重慶政府は日本に対する徹底抗戦を唱えており、重慶との和平は依然として日中戦争打開のためには必要とされるべき課題であり、汪兆銘工作とともに桐工作が並行して進められたが、これも失敗に終わった。1940年7月、第2次近衛内閣が成立し、松岡洋右が外務大臣に就任した。松岡もまた銭永銘・周作民工作を進めたが、重慶側と日本側とでは和平案に折り合いがつかなかった。松岡は汪政権を承認する方針に転じた。

汪兆銘政権は、1940年11月30日、南京において日華基本条約(日本国中華民国基本関係に関する条約)と日満華共同宣言に調印した。日本が南京政府を正式に承認したのは、「還都式」より8か月を経過したこのときであった。同時に汪兆銘は、南京国民政府の正式な「主席」に就任したが、これは日華基本条約調印の資格として主席の肩書が必要だったからであった。

日華基本条約は、汪兆銘と日本から特使として派遣された阿部信行元首相の間で調印されたもので、汪の国民政府と日本との間に「東亜新秩序」に基づく互恵関係を結ぶことを謳い、第1条に永久の善隣友好、第3条に共同防共、第6条に共同資源開発・経済提携などを定め、汪政権側が日本軍の蒙疆(蒙古聯合自治政府)への駐留を認めた。また、日清戦争後の1896年に結ばれた日清通商航海条約が正式に破棄された。

日満華共同宣言は、汪、阿部に満洲国外相の臧式毅が加わった三者により調印された。この三国は互いに国家承認をおこない、善隣友好・共同防共・経済提携を柱とする互恵関係を定め、特に経済面では「日満華経済ブロック」の形成が目指された。

新政権は誕生したものの、結局は汪が当初意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、蒋政権と日本の戦争状態はつづいた。南京政府での汪兆銘の演説中の写真には、必ずといってよいほど、背景に孫文の顔写真が掲げられている。汪は常に自らが孫文の意思を引き継ぐ正統な政府であることを訴えたのである。

還都1周年が過ぎた民国30年(1941年)5月、南京政府で汪兆銘の日本公式訪問が立案された。6月16日、上海から神戸港に上陸し東京駅に着いた汪一行を、日本国民は熱烈に歓迎した。汪兆銘は元首待遇として昭和天皇に拝謁し、天皇から日中間の「真の提携」を願うとの言葉をかけられている。汪兆銘は、近衛文麿首相、松岡洋右外相、杉山元参謀総長、永野修身軍令部総長、東条英機陸相らと面談し、6月19日にはレセプションが開かれ、6月23日には近衛首相とで共同宣言を発表した。この訪日を機に、日本から国民政府に対し3億円の武器借款が供与され、中部シナにおける押収家屋と軍管理工場の返還がなされた。

太平洋戦争と汪政権

アメリカ合衆国との対立を深めていた日本は、1940年11月、野村吉三郎を駐米大使として和平交渉にあたらせたが事態は好転しなかった。民間においても日米和平が模索され、米国の満洲国承認を前提に、日本軍が中国から撤退し、それを前提に汪兆銘・蒋介石両政権の合流をはかるという案が出され、近衛文麿も陸軍もこの案に賛成したが、アメリカ政府は同意しなかった。

1941年7月1日、汪兆銘政権はドイツイタリアの両国から承認を受け、外交関係を樹立した。また、この年の秋、汪兆銘は満洲国を訪れ、皇帝溥儀張景恵国務総理と会見した。こうして汪兆銘の南京国民政府は、第二次世界大戦下では外交上日独伊三国同盟の側に立った。

1941年8月28日、日本政府は近衛文麿首相とフランクリン・ルーズヴェルト大統領との会談を米国に申し入れたものの実現しなかった。事情を知らない汪兆銘は日米会談が実現した場合を想定して、近衛首相あてに書簡を送り、米国は日華基本条約の修正を求めてくると思われるが、もし安易に修正に応じれば親米反日の傾向の強い中国民衆はいっそうその傾向を強め、結果としてアジアを不利を招くこと、また、修正の成功をアメリカが独自に重慶に知らせれば、重慶政府は自らの成果であると喧伝し、民衆も惑わされ、汪政権が信用を失うことにつながりかねないとして、もし条約の修正が不可避の場合は事前に汪政権に相談してほしい旨を伝えた。

軍を閲兵する汪兆銘

1941年12月8日、日本は真珠湾作戦を敢行し、米英に対して宣戦を布告して太平洋戦争が始まった。事前に日本の開戦を知らされていなかった汪は驚き、「和平」の実現がいよいよ遠くなってしまったことを悟ったと思われる。汪自身は日本の国力では米英に対抗できないと判断していたが、12月8日付で「大東亜戦争に関する声明」を発した。汪はここで、米英帝国主義を批判し、南京国民政府としては日本とこれまで結んだ条約を重んじ、アジア新秩序の建設という共同目的達成のために日本と苦楽をともにすべきこと、かつての辛亥革命の精神にもとづいて孫文大亜細亜主義を遂行し、和平、反共、建国の使命を全うすべきことを民衆に訴えた。

日米開戦の日、蒋介石率いる重慶政府は日本・ドイツ・イタリアに対し、宣戦布告を行った。汪兆銘は日本の影佐禎昭に対し、南京政府は日本側で参戦する意思があると伝えたが、影佐は満洲国が日ソ中立条約を考慮して参戦していないにもかかわらず南京政府が開戦することは、必ずしも合理的とはいえないとして、むしろ汪の熱意をしずめている。

1942年に入り、特命全権大使として南京に赴いた重光葵は、1月12日に汪兆銘に対して国書を奉呈し、翌日より数度にわたって南京の汪公館にて汪と重光の会談がなされた。汪の発言は、それまでの思慮深い彼からするときわめて大胆であり、「大東亜戦争が勃発したことで、ある種の新鮮な感覚が生まれた」「新時代を画する大展開であり喜ばしい」「中国の立場としては、当然、日本の勝利を願いつつも、政府としてどのように協力すればいいのか苦慮している」、さらに「重慶に反省を促し、もし反省しないなら彼らを壊滅させるよう努力する」というものであった。そして、「当初は蒋介石打倒などということは毛頭考えなかったが、重慶政府が米英と結んでビルマにまで出兵するにいたった以上、和平工作は放棄する以外になく、もし重慶が希望するように日本が敗れるならば、中国は滅亡し、東アジア全体が欧米の植民地に転落してしまうだろう」と述べた。彼としては、孫文における「三民主義」に再解釈をほどこしてでも、孫文のもう一方の主張である「大亜細亜主義」(汪兆銘の言葉では「大亞洲主義」)を前面に掲げ、白人帝国主義に対し抵抗姿勢を示すと同時に、第二次世界大戦が終結する前に日中戦争を解決することが肝要だと考えていたのである。3月25日、日本政府は広東省におけるイギリス租界を汪兆銘政権に移管した。6月1日には、汪兆銘政権の特使として褚民誼が来日し、昭和天皇に拝謁している。

1942年 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/02/20 06:48

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