このキーワード
友達に教える
URLをコピー

法解釈とは?

移動先: 案内検索

法解釈(ほうかいしゃく)とは、各種の法源について、その内容を確定することをいう。法源とは、法解釈の対象となる、の存在する形式のことをいう。

目次

  • 1 概要
  • 2 法解釈の対象
    • 2.1 慣習法
      • 2.1.1 悪法は法か
      • 2.1.2 慣習法解釈の問題点
      • 2.1.3 刑法及び行政法における慣習法
      • 2.1.4 民事法及び手続法における慣習法
      • 2.1.5 国際法における慣習法
    • 2.2 判例法
      • 2.2.1 判例法解釈の問題点
      • 2.2.2 刑法及び行政法における判例法
      • 2.2.3 民事法及び手続法における判例法
      • 2.2.4 国際法における判例法
    • 2.3 条理
    • 2.4 学説
    • 2.5 成文法
      • 2.5.1 一般法と特別法
      • 2.5.2 上位法と下位法
      • 2.5.3 前法と後法
      • 2.5.4 強行法規と任意法規
  • 3 法解釈の主体
  • 4 法解釈の手法
    • 4.1 立法的解釈
      • 4.1.1 立法的解釈の問題点
        • 4.1.1.1 立法的解釈の限界
        • 4.1.1.2 立法的解釈か学理解釈か
    • 4.2 学理的解釈
      • 4.2.1 学理的解釈の問題点
      • 4.2.2 文理解釈
        • 4.2.2.1 文理解釈の問題点
      • 4.2.3 論理解釈
        • 4.2.3.1 反対解釈・類推解釈
        • 4.2.3.2 拡張解釈・縮小解釈
        • 4.2.3.3 変更解釈
        • 4.2.3.4 論理解釈の問題点
        • 4.2.3.5 論理解釈の典型例
        • 4.2.3.6 論理解釈における沿革及び比較法の考慮
        • 4.2.3.7 立法者意思説と法律意思説
  • 5 概念法学と自由法論
    • 5.1 概念法学による近代個人主義・自由主義の確立
    • 5.2 自由法論による法の社会化とその後の進展
  • 6 法解釈の現代的展開
  • 7 脚注
    • 7.1 註釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 関連項目

概要

つなぐべからず」という立て札があるときに、はつないでも良いのであろうか?

文字に表された抽象的規範ないし法則は、たとえそれ自体は一見極めて明瞭なようでも、千変万化の具体的事象に適用するに当たっては、不可避的に解釈上の疑義を生む(右画像参照)。法学の対象とするもまた例外でないから、法律暗記してもそれだけでは役に立つものではなく、ここに法解釈の必要が生じる(→#論理解釈)。

法解釈においては、単に具体的事件のみに妥当な結論を導くことができれば足りるものではなく、同種の事件が生じたときにも、同様の結論を得ることができるように客観的に行われなければならない。さもなければ、どのような行為があればどのように法的に判断・処理されるかについて一般人が不安をもつ必要のない状態、すなわち法的安定性(:Rechtssicherheit; :sécurité juridique; :legal certainty)が害されてしまうからである。したがって、法解釈においては、法的安定性を害すること無く、いかにして個別の事案についての社会正義、すなわち具体的妥当性を発揮するかが最大の課題である(→#立法者意思説と法律意思説)。そして、注意しなければならないのは、法的安定性と具体的妥当性のどちらを重視し、両者をどこで調和させるかは、時代によって(→#概念法学と自由法論)、また法律の領域によっても異なってくるということである(→#刑法及び行政法における慣習法)。要するに、解釈という論理操作を経ずに意味の明瞭な法は、一つも無いと言ってよい。

そこで、次のように言われている。

真の解釈のためには為すべきことが多い。諸外国の類似の制度を顧み、且沿革に遡って現行制度の特質を理解することがその一である。判例を明かにして条規の文字の実際に有する活きた意味を知ることがその二である。社会生活の実際に即して法規の作用を検討し、人類文化の発達に対して現行法の営む促進的或は阻止的な作用を理解し、進んでその批判を努むべきことがその三である。社会生活の変遷に順応した、しかも現行法の体系として矛盾なき統一的解釈理論を構成することがその四である。而して、その何れの場合にも先進の学者の説に学ぶべきことは謂うまでもない。これをその五とする。 — 我妻栄

法解釈の対象

近現代における法解釈学は、イルネリウスをはじめとする註釈学派スコラ神学における聖書解釈技法を取り入れて、成文のローマ法大全の解釈方法としたものに由来するところが大きい。しかし、法源法典を始めとする明文の制定法(成文法)に限られないから、慣習法判例法などの不文法についても、解釈は必要である。成文法以外に法源を認めるか、認めるとして成文法との関係をどのように捉えるのかについては、法解釈の基本的態度の違いに直結するから、裁判の前提たる法源を明らかにする法源論は、法解釈のあり方を考察するにあたって必須の一大要素である。

慣習法

慣習法とは、慣習に基づいて成立する法のことをいう。判例を含めたものをいう場合もある。

悪法は法か

1543年、Hans Gieng作、スイスベルンテミス像。目隠しされた正義の女神像は、法の下の平等原則から要請される法的安定性の確保のための、個別的事案の特殊性への意図された無関心を象徴する。アリストテレス以来の西洋正義論の中核は平等という思想にほかならなかった。

歴史的沿革のうえでは、慣習法は成文の制定法に先立つものであるから、両者に共通する法解釈の根本問題は慣習法より生まれた。

すなわち、原初社会においては、人々は例えば正義の女神テミスの名を冠した神託裁判によってなされたというだけでその結果を受け入れるのが普通であったが、社会の発達にしたがってその思想は次第に変化し、公平さを求めて次第に神託そのものも同種の事件は同様に扱うようになっていった。故に、そのような神託裁判もまた慣習法の起源もしくはその一種であると考えられている。

法的安定性の重視を端的に表す有名な法格言、「(酷)法もまた法なり」(:Dura lex, sed lex)も、本来は古代ローマにおいて制定法ではなく慣習法についていわれたものである。慣習法は民衆一般より自然的に生じるものであるから、たとえ他民族からみてそれが過酷に過ぎるものであっても、当該社会では通常のこととして認識されるからである。一方、制定法においては、これとは逆に人為的に社会を改善しようとするものであるから、「至厳の法は最大の不正義」(悪法は法にあらず)という法律格言がかなり古くから行われていたことはキケロの著書中に確認することができ、この格言はイギリスの衡平法裁判の起源となるなど、ヨーロッパ各国に継承されたのであるが、後の18世紀末から19世紀の立法権過信時代には、かえって正反対の「悪法も法なり」が制定法について承認され、道徳と法律の厳格な峻別が主張されるに及んだのである。その結果として現れたのは、裁判官の権力縮小と、慣習法の効力否認であった。

つまり、法解釈においては、悪法もまた法であるとのテーゼに対し、これを肯定的に解して客観的な成文法のみをその対象とすることで司法を拘束し、もっぱら立法によってその是正を図ろうとする立場と、それとは逆に、司法を信頼して成文法以外に広くその対象を求めることによって悪法の不備を是正しようとする立場との二大潮流がありうることになる。

慣習法解釈の問題点

歴史法学派の巨頭にして、近代法学の祖とされるサヴィニー。民族精神に裏付けられた慣習法の蓄積による緩やかな法形成という理想は、古城を愛でるかのようなロマン主義に基づくものとして文学者ゲーテとの同源性を指摘され、しばしばアンゼルム・フォイエルバッハ及び詩人シラーとに対比される(→#概念法学と自由法論)。

元々既存の成文法中に存在が予定されていなかった現象であっても、譲渡担保のように独自の発展を遂げ、裁判実務上もしばしばその俎上にあがるものがある。日本では、平成16年には動産の譲渡担保を正面から認める立法が成立したが、そのような法律が存在しなかった時代においては、民法上認められたによる以外の担保方法は法律上の保護を与えられないと解する余地も理論上ありえた。このように、人為的に制定された成文法すなわち実定法のみが法源であって、慣習法などの不文法は実定法が明文を持って許容しない限りは法源になることはないという考え方を、法実証主義という。

これに対し、判例・通説において承認されていたように、民法上の質権の規定を、動産担保の全てを規律する規定ではなく、動産を質という制度で担保にする場合だけの規定だと解釈すると、所有権を譲渡する方法で担保にすることについては、民法の規定が欠けているということになるから、慣習法による補充が許容されるということになる。このように、慣習法の解釈においては、慣習そのものが本来明確なものでないから、その存在、内容などをある程度はっきり確定させ、#成文法と調和させることが重要な任務になる。

慣習法と成文法の調和の仕方を巡っては、成文法の優位を説いて法と道徳の峻別を重視する法実証主義と、成文法と慣習法の連続性を強調して両者の共通点に着目する自然法論の対立があり、前者が慣習法を排除して悪法もまた法なりのテーゼを肯定するのに対して、後者が悪法は法ではないとの立場に結びつくものであると説明されることがある。

しかし、歴史法学の立場から、自然法論を批判する論者が慣習法の尊重を説くこともあり、また逆に自然法論者が不文の慣習法の排除を説いて悪法もまた法なりに傾斜することもあるから、厳密に言えば、両者が必ずしも対応するわけではないとも考えられている。

例えば、18世紀から19世紀にかけてのフランスにおいては、自然法の現れとみなされたナポレオン諸法典による慣習法の統一を背景に、法典化されなかった慣習法の効力を否定して、紛争はことごとく法文解釈の枠にはめて規律しようとしていた。一方、ドイツにおいては、1794年に成立したプロイセン一般ラント法同様の見地を徹底して詳細かつ網羅的な立法を試みたが、その故に法典が極度に膨張して挫折を強いられ、法の普遍性を強調する自然法学派に対し、法の歴史的必然性を強調する歴史法学派により、フランスとは逆に、早急な人為的立法によることなく、社会的な自然の慣習法の発達に多くを委ねるべきとの立場が有力になった。当時ヨーロッパを席巻していたロマン主義(右画像参照)や進化論、及び分断化されていたドイツの政治的事情が背景にある。ナポレオン戦争の影響によって、ティボーらにより、国家統一のための統一的な法典整備の必要が叫ばれたのに対し、サヴィニーをはじめとする歴史法学派が反対したのはこのためであった(法典論争)。ところが、19世紀末から20世紀にかけて、ナポレオン法典の老朽化とドイツ民法典の制定によって、両国の解釈態度は逆転し始めたのである。

これに対し、英米法特にイギリス法は、このようなフランス・ドイツを中心とする大陸法における法典化運動、すなわち慣習法の全面的な制定法化には従わなかった。むしろ、かつてドイツの歴史法学派が主張したように、成文法の制定は慣習法の個々の点について生じた誤りを是正するためにのみなされるべきだと考えられたのである。

これは、成文法は立法者の恣意によって変動しうるから、それよりも何世紀にもわたる慣習法と判例法の蓄積によって、裁判官を拘束し恣意的判断を防ぐことが合理的であると考えられたためである。

詳細は「コモン・ロー」を参照

一方、大陸法の法制度を採る国々においては、もし法源として成文法を重視する主義に立てば、法源の明確さゆえに法的安定性の確保に資するが、反面、慣習法や判例法のような不文法をも重視する主義によれば、柔軟な解釈によって、より具体的妥当性を実現しやすいと考えられている(もっとも、過度の成文法偏重はかえって法的安定性を損なうと考えられるし、成文法を重視する立場に立っても、しばしば成文法規の中に「書かれざる法」を読み込もうとすることについては後述)。

刑法及び行政法における慣習法

犯罪刑罰の均衡を説くベッカリーアベンサムJ.S.ミルらの潮流を受け、カントの影響の下罪刑法定主義の理論的基礎を構築したアンゼルム・フォイエルバッハ。バイエルン刑法典の起草者であり、法典論争ではサヴィニーに対抗する論陣を張った。

近代刑法においては、「法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰なし」という法格言に表されるように、どのような行為が犯罪となり、どのような刑罰が科されるのか、あらかじめ成文法で定められていなければならないという罪刑法定主義の原則があるため、慣習法や#条理を独立の法源とすることは許されない。もっとも、例えば「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とする、日本刑法35条のように、成文の「法令」によらない慣習法の解釈に委ねたとみられる規定もあることから、成文法規の解釈に当たって慣習や条理を考慮することまで排除されるわけではない。

行政法分野においても、法的安定性の確保及び三権分立による国家権力の恣意的行使の抑制という見地から、現に存在している法律による行政の原理に依拠した国家権力のコントロールが重要になる。つまり、慣習法の成立する余地は本来少ない。

したがって、この観点からは、日本において広く行われている行政指導には批判がある。行政指導に従うべき法的な義務は無いが、これに抵抗することは実際上困難なことが多く、違背すると法令の根拠があるとは限らないにもかかわらず、しばしば事実上の不利益を受けるからである。

もっとも、問題のある行為に対して、いきなり法令の適用という最終手段に訴えることを抑制しつつ、望ましい適法状態の具体的実現を図ることによって、具体的妥当性を実現しうるという積極的意義をも認めることができる。

一方で、行政指導を信頼してした私人の行為に対し、行政機関が先の行政指導と矛盾した扱いをする場合、信義誠実の原則違反、禁反言の法理に対する違反を理由に(→#概念法学と自由法論)、不利益を受けた私人の側からの行政訴訟を提起される場合が多々あり、行政法学上重要な解釈問題になっている。

また、税法分野は特に法的安定性への要請が強い領域であり、近代法の下では租税法律主義が妥当するから、法解釈において慣習法の入り込む余地は更に少なくなる。租税は国民から強制的に財産権を奪うものである以上、近代法治主義の理念に基づき、立法機関の承認を受けたものでなければならないからであり、租税法律主義の趣旨を損なわない範囲で、規定の細部を政令などに委任することが許されるだけである。逆に言えば、法律に特別な規定のない限り、政府の先例それ自体には原則として裁判官への拘束力は認められないが、行政庁における長年にわたる取扱例が、広く一般国民の間に社会的な法的確信を得るに至った場合、これを無視することは法的安定性を害するから、行政先例法と呼ぶ一種の慣習法として、先例にも解釈上一定の法的拘束力が認められる場合がある(→#法解釈の主体)。

民事法及び手続法における慣習法

罪刑法定主義や行政による法律の原理のような厳格な要請がない民事法(私法)分野においても、国民の権利・利益に関するものである以上、裁判はなるべく立法府の適法な手続によって制定された成文法によるべきではないのか、そもそも法とは何であるかの問題と深く関わっている。

特に、成文法を中心とする大陸法においては、成文法を正面から否定する解釈態度は避けなければならない。そこで、刑法と同様、成文法の解釈上慣習法を取り込むことによって、両者を調和させる努力をすべきことになる(#論理解釈)。注意すべきは、たとえ同じ民法の解釈であっても、債権のように当事者の個別的関係を取り扱うものについては、具体的妥当性により重きを置くべきものが多くなると考えられているのに対して、物権相続法人のようなものは、統一的取り扱いの必要から、少なくとも一般論としては法的安定性の要請が比較的強くなると考えられていることである。

例えば、現代の複雑な法律関係を簡明に処理するためには、当事者にとっても第三者にとっても、婚姻成立を客観的に明確にしておくことが望ましいとの立法趣旨から、日本民法第739条(旧775条)は戸籍法上の「届出」という適法な手続を経ることを「婚姻」の成立要件として要求しており、慣習に則って結婚式をし、夫婦の実質を伴った共同生活をしていようとも、それだけでは法律上の「婚姻」と認めることはできない。だとすれば、「届出」を経ない内縁については、本来一切の法律的効果は認められないはずである(反対解釈)。これに対し、世間一般では夫婦と認められるにもかかわらず、法律が夫婦と認めないという関係は民法の予定しないものであると解釈すると、内縁関係に適用される法律の規定が無いことになり、慣習法による補充は法の許容するものだという結論を導くことができる。現在の判例・学説は、内縁を社会の習俗・道徳と法律の食い違いから生じた一種の準婚関係とみて、一定の範囲で婚姻に準じた取扱いをしようとして、本来の立法趣旨である法的安定性を尊重しつつ、具体的妥当性を発揮させようと努力している。

このほか、訴訟法などの手続法の分野においても、裁判所書記官などによる事務の慣習が実務上一定の役割を果たし、立法化されることもある。

国際法における慣習法

主に主権国家間の関係を規律する国際法においても、慣習法の存在を認めることができる。これに対し、法の本質を主権者による命令であるとするオースティンらによって、主権者による強制という要素を欠く国際法の法的性質を否定する見解もかつては主張されていたが、1921年に制定された常設国際司法裁判所規程は、国際条約のみならず、国際慣習法が裁判上の直接の基準となることを認めており、国際慣習法は国際条約と並ぶ重要な法源として機能している。伝統的な通説は国家の意思が明示的又は黙示的に国際慣習法に同意していることをその根拠であるとしており、ある事項に関する諸国家の一般的な慣行が認められることと、その慣行が全ての国によって遵守・履行されなければならないという法的ないし必要的信念という二要件を慣習法の形成要件として立ててその解釈基準としている。そのような意思的・主観的要件への批判もある(→#概念法学と自由法論)。

判例法

判例」という言葉は、一般には、過去に出された裁判例を指して用いられることもあるが、法解釈分野においては、過去の裁判の内、現在も法源として拘束力を持つものをいい、とくにこれを判例法ということがある。判例法の解釈においては、個々の具体的裁判例を帰納的に観察し、類似の事案から一定の抽象的法則を抽出して、一般的に妥当する射程を明らかにすることが必要である。

判例法解釈の問題点

判例を法源としてどれだけ尊重し、判例法としての事実上又は法的な拘束力を認めるかは、法的安定性を脅かすことのないよう、かつ個々の事案についての具体的妥当性を実現させるという、矛盾・対立する要請をいかに調和させるかの問題でもある(→#立法的解釈の問題点)。

特にイギリスでは、法的安定の確保のために上級審の判例遵守(英:stare decisis)の原則が立てられている。もっとも、1966年には、厳格な先例拘束の原則が緩和され、判例の変更が可能になった。

これに対し、アメリカ法においてはイギリスのような中世以来の判例法の伝統を欠いており、フランス法系のルイジアナ州に典型的にみられるように各州の法制度の独立性が高いこと、訴訟が頻発し判例の蓄積が極めて膨大という社会的事情などと相まって、判例の拘束力は相対的に弱いものとなっている。

英米法では、勝訴・敗訴や違憲・合憲といった判決の結論それ自体や、判決文が言及する一般論の全てが法源としての拘束力を持つものとは考えられておらず、一般に、判例とは判決の結論を導くうえで重要な意味のある法的理由付け、即ち判決理由(羅:ratio decidendi [ラティオ・デキデンディ]、レイシオ・デシデンダイ)のことを言い、そのような意味を持たない傍論(羅:obiter dictum [オビテル・ディクトゥム])との区別(英:distinguish)の手法が発達している。

これに対し、大陸法においては直接の法源とはならないが、成文法を補充するものとして、事実上の法源としての一定の拘束力を認めることができる。この範囲については、英米法の国々との比較においてさえ最高裁判所の判例をより強く重視する傾向の強い日本法においても、英米法と同様判例はレイシオ・デシデンダイのみに限られると解するのが通説であるが、実際には必ずしも厳密に区別されて運用されているわけではなく、最高裁判所の傍論もまた下級審の裁判実務に指導的な役割を果たし、事実上の法源として機能する事が少なくない。

刑法及び行政法における判例法

罪刑法定主義の下では、一般に判例の法源性は否定されている。しかし、法律の規定を超えて犯罪や刑罰をみとめるのではなく、成文法の抽象的内容を解釈によって具体化してその内容をより明確にする、という意味での二次的な判例法を認めるのであれば罪刑法定主義に反しないばかりか、法的安定性の確保に役立つという意味で、むしろ罪刑法定主義の要請するところであるとも考えられている。

行政法についてもこれに準じて考えられるが、成文法が整備されていない分野も少なくないため、法律による行政の原理にもかかわらず、判例の果たす役割が実際上極めて重要であると指摘されている。

民事法及び手続法における判例法

民事法の領域では判例法による新たな法規範の生成は顕著にみられる。民事事件では、刑事事件と異なり裁判所は該当する法律が存在しない(法の欠缺)という理由で紛争当事者が求める裁判を拒否することは許されないから、事案に適合する規範を発見・創造して裁判しなければならないためである。

手続法の分野についても同様で、たとえ詳細な成文法令が整備されていても、なお法の予定しなかった問題が生ずることは避けられないから、やはり判例法が重要な役割を果たす。

詳細は「裁判を受ける権利」を参照

国際法における判例法

国際法においても、前述の国際司法裁判所規程により、判例法を二次的な法源とすることが認められている。しかし、判決におけるレイシオ・デシデンダイと傍論とを区別しないで引用するという慣行が裁判上定着しており、解釈上の問題点となっている。

条理

条理とは、物事の筋道であり、人間の理性に基づいて考えられるものをいう。

ある事件について適用すべき制定法の不備・欠缺があり、適当な慣習法も判例法も無い場合に、この条理に基づく裁判をすることができるかは困難な問題である。なぜなら、裁判官が裁判に際して制定法・慣習法のほかに拠るべき基準を自ら発見するのは困難が伴うとともに、その判断の客観性が問題とならざるをえないからである。そこで、英米法においてしばしば条理として採用されたのはローマ法であった。また、自然法論者であったトマス・アクィナスは、人の法は神の法によって補完されなければならないと主張したが、聖書が法源となることによってかえって魔女裁判のような恣意的な裁判を許し、アンシャン・レジームの理論的支柱となって、フランス革命の遠因になったと批判されている。19世紀の歴史法学が、自然法思想を徹底的に排撃しようとしたのはこのような背景がある。

一方、成文法がある程度整備されている場合には、近代的な三権分立の原則から、可能な限り成文法の枠内で補充的に条理を取り込む解釈によって、法的安定性具体的妥当性の調和をはかることができると主張される(→#論理解釈の典型例)。このような立場からは、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』や大岡忠相の大岡政談などに対しては、狡猾な脱法行為であるとして法的安定性の観点から批判的な目が向けられることもある。

もっとも、いかに成文法の解釈及び判例・慣習法による補充をもってしても、なお法律の不備が生じることは避けがたいと考えられる。そこで、司法を信頼して裁判官の自由な裁量を認め(→#立法的解釈か学理解釈か)、正面から条理の法源性を肯定すべきであるという自由法学に代表される立場も有力化しており、例えば後述するスイス民法1条をはじめ、オーストリア普通民法7条やイタリア法例3条2項等は、明文で条理の法源性を認めたものと解されている。このような立場は、人為的な成文法の上に普遍的な自然法を認める自然法学派の主張が形を変えて現れたものとみることができる。

日本でも、明治8年には、民法典が制定されておらず、統一的・近代的な法慣習も無かったことから、明治八年太政官布告百三号裁判事務心得第三条において、「民事ノ裁判二成文ノ法律ナキモノハ習慣二依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スヘシ」とされ、これに基づく裁判が為されたが、何をもって条理とすべきか紛糾した。フランス法系の法律学校で学んだ者はフランス法を条理であるとし、イギリス法系の法律学校で学んだ者はイギリス法を条理として援用し、日本の昔の教育を受けた者は昔の道徳倫理を基礎に物事を決し、その不統一が問題となったのである。実際に施行されることのなかった旧民法公布されたときにおいても、裁判官や学者がこれを事実上の法源として利用・研究したのはこのためであった。民法典が制定された直後には、条理を法源から排除すべきと主張されたこともあったが、この裁判事務心得の規定は21世紀に入っても廃止されておらず、なお効力を保っているとみられており、古い判決文の中にも「筋合」とか新しい時代の「社会の観念」を理由とするものがしばしば見受けられる。特に、国際私法分野において強調されることが多い。しかし、これは成文法の解釈にあたって考慮すべき一要素として条理があるという当然のことを確認した規定にすぎないとみることもできるから、必ずしも条理の独立の法源性を強調する必要はないと考えることも可能であり、法解釈の考え方の違いを巡って理論的な対立がある。

学説

学説も、歴史的には法源たりえてきた。特に、古代ローマ帝政時代には皇帝勅許に基づいて法学者に法律問題を解答する権限が与えられ、ハドリアヌス帝の時代になると、解答権を有する法学者の意見が合致するときには、法律としての効力が認められた。その集大成が、ユスティニアヌス帝の命によって編纂され、後のパンデクテン法学で重要視されてドイツ民法典の基盤となった、ローマ法大全中の要部を占める『学説彙纂』である。ただし、ユスティニアヌス帝の時代には、学説は法典化された限りにおいて法源として承認されたにとどまり、これに対する学説の法源性は完全に否定されていたことに注意する必要がある(後述)。

近世においても、権威ある学者の学説はしばしば法源と同等の価値を認められ、例えば、17世紀のザクセンにおいては、ライプチィヒ大学の正教授であったベネディクト・カルプツゥの著書『プラクティカ・ノーヴァ』は、1世紀以上にもわたってほとんど刑法典と同等の効力を認められていた。

近代以降においても、学説は問題解決の手がかりを与え、新たな立法や判例法の形成、条理の探求等において、成文法を補う二次的・補助的な法源としての性格を認めることは可能である(→#学理的解釈の問題点)。例えば、19世紀の終わりの30年の間、ドイツの裁判所では、ローマ法を基本的な法源としつつも、多くの事案がローマ法大全を体系化・抽象化したベルンハルト・ヴィントシャイトの主著『パンデクテン法教科書』に従って判断・処理された。また、1900年に成立したドイツ民法典もヴィントシャイトの学説の影響が非常に強く、特にその第一草案は「小ヴィントシャイト」と呼ばれたほどであった。しかし、近代三権分立原則の下においては、学説は単独で法源となることはない。

20世紀以降の現代においては、成文法の草案の立法理由書や、著作群に現れた起草委員の学説であっても、裁判官を直接拘束する法源とはならないというのが一般的な理解である(法律意思説)。起草者個人は立法権を有する立法者自身ではないからである。むろん、重要な解釈資料としての価値までが失われるわけではない。

一方、イスラム法系においては、第一次的な法源はコーラン及びムハンマドの言行録であるハディースであるが、イスラム法学者の著作群にも伝統的に一定の範囲で法源としての効力が認められてきた。もっとも、その解釈手法においてはスンニ派の四学派と、これに対するシーア派とがあり、各派により解釈の手順・内容が異なっている。

なお、日本の律令制を含む中国法系においては、時代によっては司法官僚による法解釈技自体は相応に高度なものを有していたが、法家思想が衰退したことによって法学者が育たず、一貫したものとしての体系的な法解釈が後世に継承され発展するところヨーロッパ法学に比べて稀であった。

成文法

フランス民法典は、ローマ法に影響を受けながらも、慣習法の集大成にフランス革命の精神を加えて成立したものであった。

大陸法系において最も重要な任務は、文字によって明示され、一定の手続を経て制定された成文法(制定法、実定法)の解釈である。成文法規は、主権者の委任により、立法権に基づき、司法的判断の恣意性を排除し、客観性を保障する機能を持つべく制定されたものであり、法規自体がひとつの利益衡量に基づく結果の集積ともいえるものであるから、客観的な条文を離れていたずらに理論学説に走り、あるいは法律の立場を離れた生の主観的価値判断、いわゆる裸の利益衡量のみによって法律を議論することは厳に慎まなくてはならないとしばしば警告される。

もっとも、立法府が制定した法律を補充するものとして、政令・規則等の命令条例等があるから、これらを含めた法令全体が法解釈の対象になる。

なお、行政機関が統一的取り扱いの確立のために内部的に発する訓令通達などは、前述のとおり慣習法となりうるものの、直接には裁判官を拘束する法令には含まれない。

一般法と特別法

ある事柄につき一般的に規定した法がある場合に、その事柄につき特定の場合に限って異なる内容を定めた法があるときには、この2つの法は、一般法(:ius generale; 独:gemeines Recht; 仏:droit général; 英:general law)と特別法(羅:ius speciale; 独:Spezialrecht, Partikularrecht; 仏:droit spécial, droit particulier; 英:special law, particular law)の関係に立つといわれ、特別法が優先して適用される。

例えば、民法は私法の一般法であるが、商事については、商法が特別法となる。もっとも、商法の特別法も存在するのであって、この一般法・特別法の区分は相対的なものに過ぎない。法令によっては明文の定めを置く場合もあるが(#立法的解釈)、そういう明文の定めが無い場合においても、当該法令全体の趣旨から判断する必要がある(#論理解釈)。また、同一の法令の各規定同士の関係においても、同様な判断が必要である。

上位法と下位法

各種の法形式相互間で、競合する所管事項について内容に矛盾衝突が生じることがある。この場合、例えば日本法上、国会の制定した法律は、行政機関の定めたの命令・規則よりも上位の法であるとして優先される。つまり、上位法は常に下位法よりも強い効力をもつため、下位法は上位法に反する定めを置くことはできないし、そのような解釈を採ることもできない。憲法は上位法の典型例であり、法律は可能な限り憲法に適合するように解釈しなければならないことは、特にアメリカの判例が多く言及するところである。憲法と条約とが矛盾するとき、どちらが上位法として優先されるかについては議論があるが、条約の高度の政治性故に、アメリカ及び日本の司法は伝統的に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/02/21 20:11

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「法解釈」の意味を投稿しよう
「法解釈」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

法解釈スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「法解釈」のスレッドを作成する
法解釈の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail