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波留敏夫とは?
【基本情報】
【国籍】
日本
【出身地】
京都府京都市東山区
【生年月日】
(1970-05-25) 1970年5月25日(48歳)
【身長
体重】
174 cm
75 kg
【選手情報】
【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
外野手、
遊撃手、
三塁手
【プロ入り】
1993年 ドラフト2位(逆指名)
【初出場】
1994年7月3日
【最終出場】
2004年5月9日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
| 選手歴
コーチ歴
- 横浜ベイスターズ
横浜DeNAベイスターズ (2006 - 2013) - 中日ドラゴンズ (2014 - )
波留 敏夫(はる としお、1970年5月25日 - )は、京都府京都市出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投右打)、コーチ。2014年シーズンより中日ドラゴンズのコーチを務めている。現役時代は上位打線で闘志を剥き出しにしたプレーを見せ、「ハマの核弾頭」、「突貫小僧」の愛称を持った。
経歴
プロ入り前
大谷高等学校から、社会人野球の熊谷組へ入部。1992年の第63回都市対抗野球大会で準優勝。
1993年度ドラフト会議にて横浜ベイスターズを逆指名し、2位で入団。
横浜時代
ルーキーイヤーの1994年は内野手として登録され、シーズン中盤より一軍に定着。終盤には怪我で戦線離脱した進藤達哉に代わり遊撃手として多く出場する。内野では三塁手も守ったほか、中堅手も多く守り、最終的には53試合に出場した。
1995年は中堅手として多く出場。初めて規定打席に到達し、打率三割を記録。調子や相手先発投手の利き腕に合わせ、同い年の石井琢朗と入れ替わりで1、2番打者を務めた。
1996年は、開幕から1番打者に固定されるなど好調だったが、徐々に調子を落とす。鈴木尚典、佐伯貴弘らとのし烈な外野のレギュラー争いに勝つことができず、規定打席未達に終わる。
1997年は開幕から好調を維持し、前年から石井が1番打者に定着したことにより、2番打者に固定された。打率.295の好成績を残し、自身二度目の規定打席到達を果たす。
しかし同年オフの11月にプロ野球脱税事件への関与が発覚し、1998年の開幕から6週間の出場停止処分を受ける。横浜球団独自の方針で謹慎中は二軍戦にも出られなかったが、5月16日の中日戦で1番・中堅手で復帰する。調整不足からしばらく調子が出なかったが、7月には月間MVPを受賞するなど調子を取り戻し、マシンガン打線の2番打者として横浜の38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献した。
翌1999年は打率.298を記録し、2番打者ながらキャリア・ハイとなる15本塁打、70打点、21盗塁を記録した。
2000年も開幕から好調をキープするも、足の怪我で戦線を離脱。以後閉幕まで一軍復帰できず60試合の出場にとどまった。
翌2001年には背番号を1に変更し、新監督の森祇晶の方針により三塁手に再転向するも、シーズン途中に種田仁、山田博士との交換トレードで中日へ移籍。
バイプレーヤー的な存在の内野手と先発中継ぎの両方ができる投手を求めていた横浜の森祇晶監督が、中日の星野仙一監督に無理を承知で直談判し、異例のシーズン中の同一リーグトレードが実現した。
中日・ロッテ時代
中日に移籍後も前年の故障の影響で成績は低迷し続け、翌2002年オフ、酒井忠晴との交換トレードでロッテへ移籍。
ロッテに移籍した2003年も打率1割台と不振が続いた。翌2004年の西武との開幕戦(西武ドーム)で1番・中堅手として開幕スタメンを果たす。しかし不振を脱することはできず、オフに戦力外通告を受け、現役を引退した。
現役引退後
2005年は、主にJ SPORTS、スカイ・A、テレビ神奈川の解説者として活動。また、社会人野球・クラブチームの熊球クラブに外野手として所属。
2006年、横浜の一軍外野守備・走塁コーチに就任し、2007年には一軍打撃コーチに配置転換。2009年、一軍外野守備・走塁コーチに復帰。2010年、一軍打撃コーチに再び配置転換となったが、前年度から2年連続となるチーム打率12球団最下位を記録するなど打線は低迷した。2011年からは二軍打撃コーチを務め、2013年シーズンからは一軍打撃コーチにみたび復帰する。同年7月4日の対東京ヤクルトスワローズ戦前に、チーム状況の認識を巡って球団社長の池田純と口論になったと報じられた。同年限りで横浜を退団。
2014年シーズンより中日の一軍外野守備・走塁打撃コーチを務める。山崎武司によると同年から選手兼任監督に就任した谷繁元信(横浜、中日時代の同僚)が唯一連れてきたコーチが同じ年の波留だという。
2016年は二軍打撃コーチ、2017年からは一軍打撃コーチ(チーフ格)を務める。
詳細情報
年度別打撃成績
【年
度】
【球
団】
【試
合】
【打
席】
【打
数】
【得
点】
【安
打】
【二
塁
打】
【三
塁
打】
【本
塁
打】
【塁
打】
【打
点】
【盗
塁】
【盗
塁
死】
【犠
打】
【犠
飛】
【四
球】
【敬
遠】
【死
球】
【三
振】
【併
殺
打】
【打
率】
【出
塁
率】
【長
打
率】
O P S
|
1994 | 横浜 | 53 | 187 | 168 | 26 | 50 | 12 | 2 | 3 | 75 | 10 | 7 | 3 | 1 | 0 | 13 | 0 | 5 | 33 | 1 | .298 | .366 | .446 | .812
1995 | 100 | 434 | 378 | 59 | 117 | 14 | 2 | 5 | 150 | 29 | 9 | 8 | 7 | 2 | 43 | 1 | 4 | 55 | 3 | .310 | .384 | .397 | .781
1996 | 114 | 373 | 332 | 32 | 88 | 14 | 2 | 2 | 112 | 21 | 4 | 5 | 12 | 0 | 24 | 0 | 5 | 57 | 4 | .265 | .324 | .337 | .661
1997 | 127 | 573 | 502 | 89 | 148 | 22 | 3 | 8 | 200 | 41 | 16 | 8 | 23 | 1 | 34 | 0 | 13 | 68 | 7 | .295 | .355 | .398 | .753
1998 | 106 | 487 | 428 | 69 | 117 | 23 | 1 | 2 | 148 | 39 | 12 | 2 | 11 | 4 | 39 | 1 | 5 | 57 | 5 | .273 | .338 | .346 | .684
1999 | 130 | 609 | 568 | 95 | 169 | 31 | 5 | 15 | 255 | 70 | 21 | 5 | 14 | 1 | 21 | 0 | 5 | 80 | 11 | .298 | .328 | .449 | .777
2000 | 60 | 237 | 219 | 30 | 66 | 14 | 0 | 8 | 104 | 17 | 3 | 4 | 1 | 1 | 13 | 0 | 3 | 31 | 10 | .301 | .347 | .475 | .822
2001 | 13 | 24 | 21 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | .143 | .182 | .190 | .372
中日 | 92 | 307 | 275 | 21 | 66 | 8 | 0 | 1 | 77 | 20 | 2 | 3 | 15 | 2 | 13 | 1 | 2 | 37 | 8 | .240 | .277 | .280 | .557
'01計
|
105 | 331 | 296 | 22 | 69 | 9 | 0 | 1 | 81 | 20 | 2 | 3 | 17 | 2 | 14 | 1 | 2 | 41 | 8 | .233 | .271 | .274 | .544
2002 | 39 | 94 | 87 | 5 | 19 | 5 | 0 | 0 | 24 | 7 | 0 | 0 | 4 | 0 | 3 | 0 | 0 | 16 | 2 | .218 | .244 | .276 | .520
2003 | ロッテ | 50 | 144 | 111 | 15 | 22 | 4 | 0 | 0 | 26 | 5 | 1 | 1 | 10 | 2 | 19 | 0 | 2 | 22 | 6 | .198 | .321 | .234 | .555
2004 | 29 | 61 | 49 | 5 | 7 | 2 | 0 | 0 | 9 | 7 | 1 | 1 | 3 | 1 | 8 | 0 | 0 | 16 | 1 | .143 | .259 | .184 | .442
NPB:11年
|
913 | 3530 | 3138 | 447 | 872 | 150 | 15 | 44 | 1184 | 266 | 76 | 40 | 103 | 14 | 231 | 3 | 44 | 476 | 58 | .278 | .335 | .377 | .712
表彰
記録
- 初記録
- その他の記録
背番号
-
2 (1994年 - 2000年)
-
1 (2001年 - 同年途中)
-
8 (2001年途中 - 2004年)
-
71 (2006年 - )
脚注
注釈
-
^ 優勝後のビールかけの際、アマチュア時代勤めていた熊谷組のヘルメットを着用。テレビカメラに向かって、当時経営不振に陥り債権放棄問題に揺れていた同社に対し「がんばれ!熊谷組!」と連呼し、当時チーム38年ぶりの優勝だったことから「また38年後に会いましょう!」と叫んだ。
-
^ 中日へのトレードが決まった際、「逆指名で横浜に入団、このまま横浜で終わりたかった」と号泣した。トレード直後の試合では、ドラゴンズ仕様の青色のスパイクの用意が間に合わなかったため、横浜時代に使用していた白色のスパイクに青マジックで色を塗り、試合に出場した。
出典
関連項目
外部リンク
中日ドラゴンズ 2019 |
監督 |
一軍コーチ |
二軍監督・コーチ |
投手 |
捕手 |
内野手 |
外野手 |
育成選手 |
横浜ベイスターズ - 1993年ドラフト指名選手 |
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/02/18 22:18
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