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浦和レッドダイヤモンズとは?

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【浦和レッドダイヤモンズ】

【原語表記】
浦和レッドダイヤモンズ
【呼称】
浦和レッズ
【愛称】
レッズ・赤い悪魔
【クラブカラー】
レッド
【創設年】
1950年
【所属リーグ】
日本プロサッカーリーグ
【所属ディビジョン】
J1リーグ
【クラブライセンス】
J1
【ホームタウン】
埼玉県さいたま市
【ホームスタジアム】
埼玉スタジアム2002
(画像は2009年J1第12節)
【収容人数】
63,700
【運営法人】
浦和レッドダイヤモンズ株式会社
【代表者】
淵田敬三
【監督】
堀孝史
【公式サイト】
公式サイト

ホームカラー
 | 
アウェイカラー


今シーズン

■テンプレート(■ノート)サッカークラブPJ

浦和レッドダイヤモンズ(うらわレッドダイヤモンズ、Urawa Red Diamonds)は、日本埼玉県さいたま市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。呼称は浦和レッズ(うらわレッズ)である。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 運営会社
    • 1.2 クラブの経営状況
    • 1.3 地域への貢献
    • 1.4 国際交流
  • 2 歴史
    • 2.1 浦和レッドダイヤモンズ発足まで
    • 2.2 1990年代
      • 2.2.1 1992年 - 1994年
      • 2.2.2 1995年 - 1998年
      • 2.2.3 1999年
    • 2.3 2000年代
      • 2.3.1 2000年(J2)
      • 2.3.2 2001年
      • 2.3.3 2002年
      • 2.3.4 2003年
      • 2.3.5 2004年
      • 2.3.6 2005年
      • 2.3.7 2006年
      • 2.3.8 2007年
      • 2.3.9 2008年
      • 2.3.10 2009年
    • 2.4 2010年代
      • 2.4.1 2010年
      • 2.4.2 2011年
      • 2.4.3 2012年
      • 2.4.4 2013年
      • 2.4.5 2014年
      • 2.4.6 2015年
      • 2.4.7 2016年
      • 2.4.8 2017年
  • 3 成績
  • 4 タイトル・表彰
    • 4.1 国内タイトル
    • 4.2 国際タイトル
    • 4.3 その他タイトル
    • 4.4 表彰
    • 4.5 その他表彰
  • 5 クラブ記録
    • 5.1 最多得点試合
    • 5.2 最多失点試合
    • 5.3 最多失点勝利試合
    • 5.4 最多得点敗戦試合
    • 5.5 最多得点(失点)引分試合
    • 5.6 最多連続無敗試合
    • 5.7 最多連勝
    • 5.8 最多連敗
    • 5.9 同一カード最多連勝
    • 5.10 同一カード最多連敗
  • 6 個人記録
    • 6.1 通算最多試合出場
    • 6.2 最多連続試合出場
    • 6.3 最年少試合出場
    • 6.4 最年長試合出場
    • 6.5 シーズンフルタイム出場
    • 6.6 通算最多得点
    • 6.7 最多連続得点試合
    • 6.8 シーズン最多得点
    • 6.9 1試合最多得点
    • 6.10 GK通算最多得点
    • 6.11 最年少得点
    • 6.12 最年長得点
    • 6.13 ハットトリック
    • 6.14 その他記録
  • 7 スタジアム
    • 7.1 ホームスタジアム
    • 7.2 年度別観客動員記録
    • 7.3 カップ戦(Jリーグ杯・ACL)での主催試合使用スタジアム
    • 7.4 最多観客動員試合
      • 7.4.1 J1
      • 7.4.2 J2
    • 7.5 最少観客動員試合
      • 7.5.1 J1
      • 7.5.2 J2
  • 8 ユニフォーム
    • 8.1 チームカラー
    • 8.2 ユニフォームスポンサー
    • 8.3 練習着(プラクティスウェア)スポンサー
    • 8.4 ユニフォームサプライの遍歴
    • 8.5 歴代ユニフォームスポンサー年表
  • 9 パートナー(スポンサー)
  • 10 アカデミー
    • 10.1 ユース
    • 10.2 ジュニアユース
    • 10.3 ジュニア
    • 10.4 出身選手
    • 10.5 ハートフルスクール
  • 11 マスコット
  • 12 エンブレム
  • 13 入場曲・ 公式ソング
  • 14 サポーター
  • 15 メディア
  • 16 ホームタウン浦和
  • 17 決算
    • 17.1 損益
    • 17.2 資産
  • 18 脚注・出典
    • 18.1 注記
    • 18.2 出典
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

概要

三菱自動車工業サッカー部(1950年創部)を前身とするサッカークラブで、1991年にJリーグ加盟した10チーム(オリジナル10)の1つ。ホームタウン埼玉県さいたま市(旧浦和市)。ホームスタジアムは埼玉スタジアム2002、練習グラウンドはさいたま市大原サッカー場である。チーム名は「ダイヤモンド」の最高の輝き、固い結束力に由来し、クラブカラーである「レッド」 と組合わせたものである。

国内3大タイトル(J1リーグJリーグカップ天皇杯全日本サッカー選手権大会)を全て獲得しているクラブの1つであり、AFCチャンピオンズリーグにおいて日本で初めて複数回優勝を成し遂げたクラブである(前身のアジアクラブ選手権時代を含む)。また、観客動員と営業収入においては、長年Jリーグ加盟クラブ中最高の成績を維持し続けている(当項目を参照のこと)。

運営会社

浦和レッドダイヤモンズ株式会社
URAWA Red Diamonds Co., Ltd.
種類
株式会社
【市場情報】
非上場

【本社所在地】
日本
336-8505
埼玉県さいたま市緑区美園2-1
【設立】
1992年7月17日
業種
サービス業
法人番号
9030001008072
【事業内容】
サッカークラブの運営他
【代表者】
淵田敬三
【資本金】
2億7280万円(2017年1月26日現在)
【発行済株式総数】
4,000株
【売上高】
60億8800万円 (2016年1月期)
【営業利益】
1億2700万円 (2016年1月期)
【経常利益】
1億2600万円 (2016年1月期)
【純利益】
5100万円 (2016年1月期)
【純資産】
7億8900万円 (2016年1月期)
【総資産】
15億4900万円 (2016年1月期)
【決算期】
1月期
【主要株主】
ダイヤモンドF.C.パートナーズ 50.75%
さいたま市 4.00%
埼玉県 4.00%他
【外部リンク】
http://www.urawa-reds.co.jp
特記事項:1992年から2012年5月までの社名は、「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」。

運営会社は「浦和レッドダイヤモンズ株式会社」。埼玉県さいたま市緑区の埼玉スタジアム2002内に本社を置く。

三菱自動車工業(三菱自工)の全額出資により設立された(設立当初の商号は「株式会社三菱自動車フットボールクラブ」)。1996年の増資時に埼玉県と浦和市の出資を受けた。更に2000年に埼玉県内の複数の企業および三菱グループ他社など計27社から出資を受け、三菱自工は引き続き株式の過半数(50.625%)を保有する筆頭株主であった。

しかし2016年、三菱自工が燃費試験の不正問題に起因する経営難から再建を図る際に日産自動車(日産)が株式を34%保有する単独筆頭株主となったため、日産が株式の約75%を保有する横浜F・マリノスとの間で、Jリーグクラブの親会社が他クラブの親会社の株式の保有を禁じるJリーグ規約第25条(5)の規定に抵触する可能性が生じた。これについて、Jリーグチェアマン村井満が2016年6月の臨時理事会後に「クラブライセンス交付第1審機関 (FIB) が(レッズが日産及び三菱自の子会社・関連会社に該当するかを)認定するためJリーグ側では認定できない」とした上で「現状ではJリーグの規約に抵触する可能性が高い」との見解を表明した。

三菱自工およびクラブ側で株式の委譲などを検討した結果、2016年10月31日に、三菱自工が三菱重工業と共同出資して持株会社ダイヤモンドF.C.パートナーズ株式会社」を設立し、同社にクラブの全株式を譲渡することを発表。これにより三菱自工の間接出資比率が19.8%となったことで問題を解消した。

2017年1月に1億1280万円の第三者割当増資を実施し、新たに15社が株主に加わり、株主数は43社・2団体となった。なお、ダイヤモンドF.C.パートナーズも増資を引き受け(410株)、同社が過半の株式を保有する状況に変わりは無い。

クラブの経営状況

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Jリーグトップの営業収益を上げる背景には以下の点が挙げられる。

  • 1996年-1999年、2001年-2002年、2006年以降と過去に13シーズンでJリーグ観客動員1位を記録。2007年はナビスコ杯4試合、ACL6試合とカップ戦を含めた年間観客動員数がJリーグクラブでは初めて100万人を突破し、2008年はリーグ戦でJリーグ史上最高となる809,353人を動員した。2012年8月4日FC東京との試合で1000万人を動員した。
  • 1人当たり動員単価が約2,900円(新潟:約1,700円)と比較的高水準である。これは、招待券による入場者が極めて少なく(同年度0.5%)、割引率10%未満にもかかわらずシーズンチケット(埼玉スタジアムの約2万2000枚を含む)が軒並み完売していることから、それらが入場料収入の確保に高い安定性をもたらしていることが挙げられる。
  • ユニフォームサプライヤーは、1993年から1996年のリーグ戦 でのミズノ、並びに1997年のリーグ戦でのUMBROを除き、過去は一貫してプーマであったが、2004年からナイキが独占供給契約を結んでおり、2007年からは4年間で16億円の契約に更新することが報じられている。

地域への貢献

浦和区にあるオフィシャルショップ「RED VOLTAGE」(2015年)
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  • 営業収入はチーム強化の他に事業運営の財源にも割り振られ、設備投資をはじめとした高度な地域貢献を可能にしている(参考:同年度事業運営費33億200万円)。2004年には4億5000万円をかけてクラブハウスを新築。2階にサポーターズカフェを設け、1階前面には197席の練習見学スタンドを設けた。クラブはこれを地元のファンを中心にした交流拠点としてさいたま市に寄贈している。また、少年サッカーの普及事業として、各種サッカー教室の開講をはじめ、クラブトップチームの優勝賞金の一部を用具などのかたちで地元の幼稚園・小中学校・特別支援学校に寄贈するなど、独特の地域還元の手法を展開している。女子サッカーに関しては2005年2月、日本女子サッカーリーグさいたまレイナスFCを統合し、浦和レッズ・レディースを設立。アマチュアチームに練習場を提供し、優れた選手にはプロ契約の道を開くなど、女子サッカーの普及と充実に貢献している。
  • 埼玉県内における浦和レッズがもたらす経済波及効果 [1] は、年間127億円(2006年度ベース)。そのうち、直接効果はクラブの支出68億55百万円とサポーターの交通費・飲食代21億25百万円の合計89億80百万円となり、一次波及効果は16億74百万円、二次波及効果が20億65百万円で、経済波及効果の合計は127億19百万円と算出されている [2]。これにはスカパー!(スカパー!プレミアムサービス含む)や、ケーブルテレビ等のJリーグ有料放送の視聴増加分や大画面テレビ等の購入促進効果、地元でのサッカー人気の盛り上がりに伴う消費拡大などは含まれていない。
  • 特色ある事業のひとつに、主に幼稚園児、小学生を対象にした「ハートフルクラブ」の運営がある。2003年にスタートした同クラブは、元日本代表の落合弘がキャプテンを務め、コーチはOBの杉山弘一土橋正樹宮沢克行ら計8人を数える。毎週開催されるサッカースクールのほか、地域の幼稚園(レッズキッズサッカー)、小学校授業サポート、中学校サッカー部活動サポートなどを巡回実施し、また障害者にサッカーの場の提供を行うなど地域貢献にも力を入れている。2006年には約36000人の児童を集め、累計で10万人に達している。中学生未満の児童に対してはテクニック向上を重視せず、サッカーの楽しさやコミュニケーション育成を方針としているため、浦和レッズは競技力を重視する小学生チームを保有していない。
  • Jリーグ百年構想の一環として、さいたま市桜区の14万平方メートルの敷地(元東京農業大学グラウンド)にサッカー場(天然芝2面・人工芝1面)、フットサル場(人工芝8面)、テニス場(全天候型など9面)、野球場(天然芝1面)、ラグビー場(天然芝1面)、サイクリングコース、キャンプ場を整備しており、上述のクラブハウスと併せて、これらの施設をレッズランドとして一般に開放している。現役を引退した浦和レッズの選手が指導するフットサル教室や少年サッカー教室、伊達公子がプロデュースするテニス教室なども開講し、生涯スポーツの普及に取り組んでいる。整備・建設にあたって、批判の多い公的資金の投入を極力回避していることで、このような利用者ニーズに応えた自由な設計が実現している。室内スポーツに関しても、2006年4月に隣接する浦和西体育館指定管理者となった。クラブでは、地域に根ざしたヨーロッパ型の総合スポーツクラブを目標としている。
  • そのほか、2011年3月11日の東日本大震災の復興を支援するために「東日本大震災等支援プロジェクト」に取り組み、サッカーを通じて子どもたちの心のケアに努めている。

国際交流

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  • アジアサッカー連盟が主催する2007年のAFCチャンピオンズリーグ2007(ACL)に日本代表クラブとして出場が決定して以来、「アジアを征して世界と互角に戦う強いクラブを目指す」という目標を掲げている。ACLのホームゲームには、通常予選リーグを開催する水曜は集客率が鈍いため小規模のスタジアムで開催する傾向にあるが、あえて2万人収容の駒場スタジアムではなく6万人収容の埼玉スタジアムで開催。 予選通過後の全ての試合を埼玉スタジアムで開催した。また、ACLの海外遠征時には、「ハートフルクラブ」の活動を遠征地でも実施し、草の根レベルでの国際交流・サッカーの普及をはかった。2008年には、前年のACL決勝の際にUAEのドバイで事前合宿をした縁で、中東では初となる「ハートフルクラブ」の活動を同地で実施した。
  • 定期的にさいたまシティカップを開催し、海外のクラブチームと対戦している。
  • 2006年にイギリスのテレビ番組制作会社IMGロンドンによる、世界を代表する10クラブを題材にした番組「キングス・オブ・クラブス」の対象としてノミネートされた。同番組では、他にレアル・マドリード(スペイン)、チェルシーFC(イングランド)、ACミラン(イタリア)、ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)など世界的な12クラブがノミネートされ、そのうち10クラブが「トップ10」として紹介される。IMGロンドンのプロデューサー、ゲイル・ファーマーは「浦和の知名度は欧州でも高い」と話している。番組は2007年3月から、日本を含めた世界130カ国で放送された。
  • 2014年、フランス『ラ・グリンタ』の「2013-14シーズンのコレオグラフィー・トップ10」で7位に選ばれた。
  • 2017年、スルガ銀行チャンピオンシップ2017アソシアソン・シャペコエンセ・ジ・フチボウ(ブラジル)と対戦した際、同クラブの復興を願いトップチームやレディースチームのホームゲーム会場等で、義援金募金活動(募金合計:4,246,634円)を行った。さらに浦和レッズサポーターは募金活動への参加に加え、「サッカーを愛する仲間として、何か力になりたい」という思いから試合終了直後、ポルトガル語で「世界の舞台でもう一度会おう、友よ!」と書かれた横断幕と共に、緑色のビジュアルシートでゴール裏のスタンドを埋めた。その際に使用したビジュアルシートを、企画主旨に賛同したDHLジャパン株式会社(本社:東京都品川区 社長:山川丈人)の輸送支援を受けアソシアソン・シャペコエンセ・ジ・フチボウへ贈呈した。また、AFCチャンピオンズリーグ2017で浦和が優勝した際、公式Twitterで祝福のメッセージを送った。
  • 2017年、アメリカ『フォックス・スポーツ』による「最も筋金入りのファンを持つ5クラブ」に、CAリーベル・プレート(アルゼンチン)、ガラタサライSK(トルコ)、リヴァプールFC(イングランド)、FCバルセロナ(スペイン)と並び選出された。

歴史

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この節には複数の問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

  • 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2017年1月)
  • 大言壮語的な記述になっています。(2017年1月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2017年1月)
  • 雑多な内容が羅列されています。(2017年1月)

浦和レッドダイヤモンズ発足まで

詳細は「三菱重工業サッカー部」を参照

浦和市(当時)は当初、日本サッカーリーグ(JSL)1部所属の本田技研サッカー部を誘致し、本田技研狭山サッカー部と統合した新たなサッカークラブ作りを構想していた。しかし本田技研本社がJリーグ不参加を表明したために、JSL2部所属のNTT関東サッカー部(現大宮アルディージャ)の誘致を試みたがJリーグ不参加を理由に断られた。埼玉県にはJSLに所属し大きな資金協力の見込める大企業のサッカー部が他になかったため、当時プロリーグ検討委員会委員長だった川淵三郎に相談したところ、三菱自工森孝慈を紹介された。森は当時、三菱自工内でサッカー部のプロ化に奔走していた。

三菱自工はサッカー部の活動の中心であり、本社と三菱養和SCが所在する東京都を本拠とする予定であったが、Jリーグが国立霞ヶ丘陸上競技場をホームスタジアムとして認定しない方針を打ち出していたことや、江戸川区陸上競技場の客席増設や同競技場近辺の練習場確保が困難であったことからJリーグ加盟の要件を満たせず、代替候補地の選定を急いでいた。フジタ(現湘南ベルマーレ)が大神練習場を使用し活動していた神奈川県平塚市や、三菱重工サッカー部の初期の活動中心地だった兵庫県神戸市とも交渉したが、いずれも自治体から満足な協力を引き出すまでに至らなかった。

こうした浦和と三菱自工両者の経緯から生じた縁談は、堅実なチームを作っていこうという両者ビジョンの一致を軸に折り合い良く話が進み、時間を待たずに浦和レッズ誕生へと結実した。1991年、浦和レッズはJリーグ参加10団体(オリジナル10)の1つに選出された。

1990年代

1992年 - 1994年

浦和駒場スタジアム(メインスタンド)
  • 1992年 - Jリーグ開幕前に開催されたナビスコ杯に参加し、予選リーグを5勝4敗と勝ち越したが、予選5位で上位4クラブによる決勝トーナメントに進めなかった。また、同年の天皇杯はベスト4へ進出した。
  • 1993年の両ステージ、1994年の第1ステージ(サントリーシリーズ)と3期連続最下位、年間順位でも2年連続最下位となり、1993年シーズンは両ステージともに対戦チーム(サントリーシリーズ:鹿島アントラーズ、ニコスシリーズ:V川崎)の優勝を目の前で決められた。なお、1993年シーズン終了後に当時監督の森孝慈は「3年間分負けた」と発言したほか、1993年・1994年のリーグ戦用のセカンドユニフォームのカラーは水色であったが、このユニフォームを使用した試合では2年間で1勝もすることができなかった。
  • 当時の補強方針にも疑問符がついた。センターフォワードのヴィクトール・ウーゴ・フェレイラが出場4試合で解雇され、さらには攻撃の要として期待されたウーベ・ラーンが結果を残せずセンターバックにコンバートされた事はクラブの迷走を象徴するものであった。また、守備強化のためGKのミロを獲得し、ミロ自体はGKとしては活躍したものの肝心のDFは補強されなかったため、出場3試合目の名古屋グランパス戦に大敗し3連敗を喫した後に報道陣に対し「次が(自分が出場する)最後(の試合)になるかも」「もう帰りたい」とコメントするほどで、結果的にこの時期に外国人選手で活躍したのはミヒャエル・ルンメニゲだけであった。しかし、1994年のセカンドステージからギド・ブッフバルトウーベ・バインが加入すると徐々に改善の兆しを見せていった。
  • 1994年6月の第1ステージ・サントリーシリーズ後、駒場陸上競技場がJリーグ規格の15000人を下回るキャパシティ(当時約1万人収容)であり、Jリーグの勧告を受けるかたちで増築・改修を行うことを決め一時閉鎖。第2ステージ・NICOSシリーズ以後は大宮サッカー場(こちらも当時は約1万人収容でJリーグ規格外)でホームゲームを開催。
  • 1994年11月19日第2ステージ・NICOSシリーズ最終節の横浜マリノス戦は、駒場陸上競技場が改修工事中だったことや、収容15,000人以上の関東のスタジアムに全て断られたことにより富山県総合運動公園陸上競技場で開催。

1995年 - 1998年

ギド・ブッフバルト。レッズOBで後にレッズの監督も務めた。
  • 1995年に就任したドイツ人監督ホルガー・オジェックの下で躍進を遂げる。前年に加入した元ドイツ代表のDFブッフバルトの活躍によって守備が安定し、1995年の1stステージ(サントリーシリーズ)では3位になった。この年には創設時からの中心メンバーで、「ミスターレッズ」の愛称を持つ福田正博が日本人初のJリーグ得点王となった。
    • 同年サントリーシリーズは引き続いて大宮で主催試合を行ったが、NICOSシリーズが開幕する8月に駒場スタジアムの増築が完了し本拠地に復帰。
  • その後は中位にとどまることが多くなる。背景には、三菱自工の経営不振で補強資金が減少したこともある。通年シーズンであった1996年は第22節で首位に立ったが、優勝の期待が高まる中終盤戦に勝ち星を伸ばせず最終的に6位で終了。1997年、ブッフバルトが移籍。1998年は三菱OBの原博実が監督の下、新加入の小野伸二を擁して2ndステージで3位となった。

1999年

2000年代

2000年(J2)

2001年

レッズのメインホームスタジアム・埼玉スタジアム2002
  • それまでのヨーロッパ流サッカーからブラジル流サッカーへ路線変更を図ったが、ブラジルに強力なコネクションはなく、監督のチッタの意向で獲得したアドリアーノは全く機能しなかった。1stステージ終了後に小野伸二がオランダフェイエノールトへ移籍。川崎からエメルソンを獲得した。2ndステージも成績は振るわず、終盤2勝3分と5試合連続無敗により何とかJ1残留を果たした。
  • 10月13日埼玉スタジアム2002での杮落し横浜FM戦が行なわれ、観客動員は当時のJリーグ記録となる60,553人とリーグ戦初の6万人試合となった。なお、埼玉スタジアムは2002年まではW杯開催に備えた芝生管理のため試合数は制限されていたが、2003年から駒場スタジアムと共にホームスタジアムとして登録された。

2002年

  • 森孝慈がGMとして復帰し積極的な補強を行う。元日本代表監督のハンス・オフトが監督、元広島監督のビム・ヤンセンがコーチに就任し再度ヨーロッパ路線へ戻る。2ndステージは第9節まで8勝1分と無敗で首位に立っていたが、その後6連敗で8位に沈んだ。また、ナビスコ杯では決勝で鹿島に敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たした。また、苦難の時代を長年支えてきた福田正博と、元日本代表主将の井原正巳が引退。
  • 森孝慈GMの主導で、これまで教育の観点から運営してきたユース、ジュニアユース改革に着手。プロを育成するための下部組織として再出発し、翌2003年にサッカーの楽しさや心を育むことを目的とするハートフルクラブを発足させた。

2003年

チームスローガン:GO ON SAILING
  • 11月に再びナビスコカップ決勝で鹿島と対戦。試合は大雨の中で行われたが、4-0の快勝で前年の雪辱を果たすと同時に初タイトルを獲得した。
  • J1リーグでは第2ステージの第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、FWエメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃した。なお、この年をもってオフトが監督を退任した。
  • 前年に社長就任した犬飼基昭が、強力な選手補強やクラブハウス改築、親会社依存経営からの脱皮に手掛けた初年度でもあった。魅力あるチームづくりを背景に、埼玉スタジアム2002の利用拡大もこの年から始まった。
  • 3年かけてチームを強くしようとしたオフトの方針と早期にチームを結果を求める犬飼の要求に関して大きく揉めた。その結果、オフトは、シーズン終了後に解任された。

2004年

チームスローガン:速く、激しく、外連味(けれんみ)なく REDS GO MARCHING ON

2010Happy Mail