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清原和博とは?

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清原 和博
西武時代(1990年、川崎球場にて)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
大阪府岸和田市
【生年月日】
(1967-08-18) 1967年8月18日(50歳)
身長
体重 188 cm
104 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
一塁手
【プロ入り】
1985年 ドラフト1位
【初出場】
1986年4月5日
【最終出場】
2008年10月1日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


清原 和博(きよはら かずひろ、1967年8月18日 - )は、大阪府岸和田市出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)、野球評論家タレント甲子園通算最多本塁打数記録保持者(13本)。血液型B型

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 小学生~中学生時代
    • 1.2 高校時代
    • 1.3 西武時代
    • 1.4 巨人時代
    • 1.5 オリックス時代
    • 1.6 引退後
    • 1.7 薬物疑惑騒動
    • 1.8 逮捕
    • 1.9 その後
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備・走塁
  • 3 人物
    • 3.1 ニックネーム
    • 3.2 交友関係
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 タイトル
    • 4.3 表彰
    • 4.4 記録
    • 4.5 背番号
  • 5 関連情報
    • 5.1 野球以外での表彰
    • 5.2 出演したテレビ番組
    • 5.3 出演した舞台
    • 5.4 テレビCM
    • 5.5 著書
    • 5.6 関連書籍
    • 5.7 関連映像作品
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

小学生~中学生時代

 | 
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年5月)

実家は電器店(東芝ストアー)を経営。父(阪神ファン)以外の家族は巨人ファンであり、その影響で自身も巨人ファンとして育った。1974年に巨人は中日ドラゴンズにV10を阻止され、翌1975年は球団史上初のリーグ最下位に沈み、広島東洋カープにリーグ優勝をさらわれた。家族が応援する巨人が2年連続で優勝を逃したことが、野球に入っていくひとつのきっかけであった。

1974年、岸和田市立八木南小学校に入学。ここで野球を始めたが、当初は、木の棒で石ころを打ち返すという程度でしかなく、1976年5月、岸和田リトルリーグの部員募集ポスターを見て入団テストを受け、岸和田リトルリーグに入団(小学3年生でありながら、すでに身長が155cmあったとのこと)。毎日祖父から100円を貰い練習をしていた。1977年、6年生ばかりのレギュラーに混じり唯一4年生でレギュラーを獲得。その後投手としても才能を発揮し、6年生の最後の試合ではエースで4番を務め、完全試合を達成した。

その後、岸和田市立久米田中学校に進学すると共に、岸和田シニアリーグに移り、中学2年生にしてキャプテンとして関西シニアで優勝を果たす。3年時には日生球場のネットを揺らす本塁打を放った。

高校時代

高校は30校近いスカウトの中からPL学園高校を選ぶ。天理高校かPL学園かどちらに行くかで悩んでいたが、両校の練習を見学した際に、毎年100人前後の部員を抱える天理高では3年生が練習をしている際に1年生が球拾いをしているのに対し、少数精鋭をとるPL学園では学年に関係なく同じメニューの練習ができることが決め手となった。また、清原の母親が奈良県出身で地元の強豪の天理で甲子園に行ってほしいと幼少のころから言われていて、本人もそのつもりだったが、後にPL学園の在阪スカウトの方から「小学生時代から目をつけていた。ぜひPLの練習を見に来てほしい」と熱心に勧誘され、心が揺らいだとも語っている。

早くから1年生では田口権一と共にレギュラー組に選ばれていたが、6月ぐらいに(入学当初から希望していた)投手の、練習はもうしなくていいと言われた。その後、同期の桑田真澄の傑出した実力を知り、「(桑田には)絶対勝てない」と野手を選んだ(新入部員が最初に集まった際に、清原は名の通っていた桑田を探しその姿を発見すると「なんだ、こんな小さい奴か」と思ったが、実際の投球を見て驚嘆し、PL学園で投手になることを断念したと後にコメントしている)。

当時はバッティング練習の際には飛距離の出ない竹バットを使用していたが、それでもネットを軽々越えて場外に飛ばしていたために、清原用の金網が継ぎ足されたという逸話が残っている。このネットは「清原ネット」と呼ばれていた。

全国から精鋭の集まるPL学園野球部にあって1年生から4番に座り、エース桑田と共に甲子園に5季連続出場を果たす。1年生のに優勝、2年生のは共に準優勝、3年生のはベスト4、3年生のは2度目の優勝を経験している。

特に清原と桑田はKKコンビと呼ばれ、後には桑田清原世代と呼ばれるようになるこの世代を代表する人物となった。後にプロ入りした松山秀明(元オリックス)、今久留主成幸(元横浜大洋西武)、内匠政博(元近鉄)も、共に活躍した。

個人としても甲子園通算13本塁打を放つなど(第66回大会香川伸行の記録を更新)、高校通算64本塁打を記録。3年夏の決勝戦でこの試合2本目、当時の1大会での新記録となる5号を放った際、当時朝日放送アナウンサーだった植草貞夫は「甲子園は清原のためにあるのか!」と実況した。3年生春の対浜松商戦と同年夏の東海大学山形高等学校戦(共に大量得点差のついた最終回)では監督の中村に懇願し、投手として登板させてもらった。しかし、その初球にカーブを投じたことに対し、同試合の球審を務めていた西大立目永から「真ん中、まっすぐ放りなさい!」と指導されるエピソードが残されている。

豪快な本塁打など、試合での活躍が多くの伝説を生んだが、練習に対する姿勢も真摯であった。そのエピソードとして、3年春のセンバツ準決勝で伊野商渡辺智男に3三振と完璧に抑えられ、チームも3-1で敗れた際は試合後ベンチで涙を流したが(高校三年間で唯一甲子園大会の決勝に進むことができなかった)、その日学校に戻ってからの夜、監督の中村順司が誰もいないはずの室内練習場に明かりがついているのを見つけて中をのぞいてみると、上半身裸の清原が、湯気のような汗を流しながら一人で黙々とバッティング練習をしていたといい、夏の大会では宇部商(山口)とぶつかった決勝での2打席連続を含む大会新記録の5本塁打と爆発し、1年生のとき以来、2年ぶりの頂点をつかみ、その悔しさをはらしたとのこと。

子供の頃から熱烈な巨人ファンで、甲子園球場での伝統の一戦をいつも楽しみにしていた清原は、父親以外全員がファンである読売ジャイアンツもしくは、父親がファンである阪神タイガース入りを熱望し、両軍が自身への交渉権を逃した場合には、次のドラフトまでに社会人野球日本生命硬式野球部で野球をする事を表明していた。しかし巨人は早稲田大学進学を表明していた桑田をドラフト1位で強行指名。当の清原は南海ホークス日本ハムファイターズ中日ドラゴンズ近鉄バファローズ西武ライオンズ、阪神の6球団から1位指名を受けた(KKドラフト事件)。もし巨人に入団できなければ、同じセントラル・リーグで実家から近い阪神を希望するも、抽選の結果、西武が交渉権を獲得。ドラフト会議直後の記者会見では、失意で涙を溜めた姿が放送された。後に自宅で泣く清原を見て、母親が「あんたが勝手に惚れて、勝手に振られたんやないの。男らしく諦めなさい。男なら見返してやりなさい。泣いてる暇なんてないはずやで!」と言い聞かせ、巨人を見返すために日本生命硬式野球部の内定を取り下げ、プロ入りを決断。

西武時代

清原はそのまま西武に入団、背番号は3。ルーキーイヤーの1986年、オープン戦ではプロの洗礼を受け本塁打を1本も打てないまま開幕を迎えるが、打撃フォームの修正を重ね、開幕2戦目の南海ホークス戦の6回表から一塁の守備につき途中出場でプロ公式戦デビューすると、第1打席では四球、第2打席には藤本修二からプロ初打点・初安打かつ、初本塁打を打つ。試合は2対4で負けたが、個人的な活躍から、なおも大喜びしていたため、「味方の負け試合でそんなに天真爛漫に喜ぶやつがあるか」と怒られてしまったという。打たれた藤本は試合後のインタビューで、「本塁打よりもその前の打席で誘い球にも手を出さず、ベテランのようにきっちり四球を選んだことのほうが驚きだった」という内容の言葉を残している(清原はこのことを自著で「単純に自分を新人だと思ってナメてかかっただけ。だから単調で読みやすかった」と語っている)。その後は4月8日に8番で初スタメン出場を果たすと以後はスタメンに定着。徐々に打順を上げ、5月27日には早くも5番を任されることとなった。

前半戦を打率.252、11本塁打で折り返し、オールスターゲームにはファン投票で1位選出された。高卒新人がオールスターに出場したのは1954年梶本隆夫(阪急)、1955年榎本喜八(大毎)、1970年太田幸司(近鉄)に次ぐ史上4人目だったが、清原はその中で初めて安打、本塁打を放った選手となった(第1戦で安打、第2戦で本塁打)。第2戦ではMVPを獲得している。後半戦だけで20本塁打をマークし、9月には高卒新人初となる月間MVPを受賞した。同年のチームは調子が上がらず、前半戦は下位を低迷していたものの、清原が調子を上げるのに合わせてチームの成績も上がり、バファローズと激しい優勝争いを演じた。9月27日の近鉄戦では初回に28号を放ち豊田泰光の高卒新人本塁打記録を33年ぶりに更新すると、8回にも29号を放ち、長嶋茂雄のルーキーシーズンの記録に並んだ。10月7日のロッテ戦で初の4番に抜擢され、その試合で1点ビハインドの6回、田子譲治から高卒新人史上最多の31本目の本塁打を放って1959年の桑田武に並ぶ新人本塁打記録の最多タイ記録を達成。桑田は達成時は23歳、清原は19歳であった。同点で迎えた7回には二死二塁の場面でプロ初の敬遠も経験した。10月9日、2安打1打点で勝利に貢献し、チームの優勝が決定。当時はシーズン130試合制だが、129試合目まで争いがもつれた。この時点で打率.301であったが、翌日のシーズン最終戦では森監督が清原に出場するかどうかの打診をし、清原は「出ます」と出場して3安打を放って打率を.304まで伸ばした。

1986年シーズンは本塁打31の他、打率.304及び打点78も1955年・榎本の打率.298・67打点を更新する高卒新人の歴代最高記録を残し、新人選手の二桁本塁打は27年ぶり、5人目の快挙であり、新人王に選出された。同年の日本シリーズには8試合全てに4番・一塁でフル出場を果たし、初戦で自打球を左足に当てて親指を骨折するというアクシデントに見舞われたものの、打率.355(31打数11安打)でシリーズ首位打者および最多安打を記録して、チームの日本一に貢献。シリーズ優秀選手賞を獲得した。この年は流行語大賞を獲った「新人類」の代表として、工藤公康渡辺久信と表彰式に出席した。

1987年は打率.259と下がり、2年目のジンクスに陥る形となったが29本塁打を放つなど長打力は健在で打点は前年を上回った。また三振数も100を割った。日本シリーズでは、王貞治監督率いる巨人と対戦。西武3勝と王手をかけていた第6戦では、清原の先制2ラン本塁打などで3対1とリードし、9回ツーアウトになった時、一塁の守備についていた時に涙を流し、試合が一時中断となった。清原は自著の中で「9回、ファーストから、三塁ベンチの巨人の選手、王さんの姿が見え、ドラフトのことを思い出し涙が止まらなくなった」と述べており、二塁手の辻発彦になだめられた。この試合に先発し9回のマウンドに立っていた工藤公康は、試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったので)どんなガッツポーズをしようか考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつも、「あの涙は本当に美しかった」と語っていた。

1988年も前年同様全試合出場を果たし、31本塁打をマークし、打率も前年より上げた。7月5日のロッテでは小川博からプロ入り初となるサヨナラ本塁打を打っている。中日との日本シリーズでは第1戦の2回小野和幸から特大の先制ソロ本塁打、第4戦では5回に上原晃から2ラン本塁打、第5戦では6回に小松辰雄からソロ本塁打など3本塁打を打ちチームも4勝1敗で3年連続日本一、優秀選手賞を受賞した。

1989年6月4日には史上最年少となる21歳9ヶ月での100号本塁打を達成。しかし、優勝争いの真っ只中の9月23日、対ロッテ戦で、4回に平沼定晴から受けた死球に怒り、バットを放り投げ乱闘を起こしたとして初の退場処分を受け、パリーグから即日「厳重戒告・制裁金30万円・2日間出場停止」の処分が下された。このため、前日まで続いていた清原の連続試合出場は490でストップした。なお、この件は後に、2015年10月11日放送の『行列のできる法律相談所』で、改めて謝罪した。最終成績は35本塁打を放ち、打率.283を残した。三振数は60で、これは規定打席に到達した年では自己最少の数字だった。

1990年は打率.307、37本塁打、94打点をマークした。37本塁打は自己最多である。自身2度目の打率3割を達成したが、これ以降は規定打席に到達しての3割は記録できなかったため、規定打席到達の3割は同年が最後だった。オフの契約更改では当時としては史上最年少となる23歳で1億円プレイヤーとなり、「25歳までに1億円プレイヤーになる」という願望を成し遂げた。

1991年は、開幕7試合で6本塁打と最高のスタートを切るも、そこから35試合・151打席のあいだ本塁打が出ないという極端なスランプに陥り、成績を落とした。

1992年6月26日には同じく史上最年少となる24歳10か月で200号本塁打を達成。同年は最高出塁率のタイトルを獲得した。しかし、日本シリーズでは野村監督率いるヤクルトに研究され絶不調に陥り、第4戦から第7戦まで17打席無安打となり、第7戦は途中で守備からベンチに下げられて胴上げの瞬間はベンチで迎えた。

1993年5月3日の対ロッテ戦(西武球場)で、伊良部秀輝との対戦時に当時の日本球界最速の158km/hのストレートを投げられた(最後は157km/hのストレートをセンター前に打ち返し、対戦は清原に軍配が上がった)。同年は三振数が120となり、5年ぶりに三振数が100を超えた。清原はこの時の事を度々回想している。

1994年も三振数が100を超えたが、一方で四球も100を超えるなど選球眼の良さが光った。四球が100を超えるのは4年ぶりだった。

1995年は右肩を脱臼、安打100本未満と9月19日での試合でオリックスがリーグ制覇を果たしプロとして初めて相手チームの優勝を見届けてしまい球団自体も黄金期に終止符を打つ事となる。

1996年は前年より打撃3部門全てを上回った。打率は.257と不調だったが8年ぶりに全試合に出場し、4年ぶりに30本塁打以上をマークした。

かつては王貞治を超えるのは清原しかいないとまで言われ、森祇晶監督在任中の9年間でリーグ優勝8度、日本一6度を成し遂げ名選手を多数輩出した「西武黄金時代」の4番に君臨、3番・秋山幸二とのコンビは「AK砲」と呼ばれた。88年はタイ・バンバークレオが加わり「AKB砲」となり、89年以降はオレステス・デストラーデに代わって「AKD砲」となる。森は清原の能力と人柄を非常に高く評価しており、西武監督退任時に「清原は年々、野球への考えが進歩してきている」と述べている。

清原を一年目から一軍レギュラーで使うことにはコーチ陣や野球評論家でもかなり異論があり、当時評論家だった野村克也は「清原は一年目は一軍では使えない」というほどだった。しかし森はそれらの異論をはねつけてあえて清原を使いつづけ成功した。当時西武の一軍打撃コーチだった土井正博は「今だから何でも言えるけれど、清原を二軍スタートさせようと言い張ったのは森さん自身。ところがオーナーのバックアップがあると知ったら、ガラリと態度を変えて、自分が我慢して使ったと言う。(森は)毀誉褒貶の激しい人だった」と述べている。清原も自分をプロとして育ててくれた森のことをのちの野球人生で出会った長嶋茂雄仰木彬とともに名監督として深く尊敬し、森が2005年に野球殿堂入りしたときは一番に駆けつけて祝辞を述べ、森がハワイに移住後も付き合いが続いている。日本シリーズでは一度もMVPは獲れなかったが、1986年と1988年は優秀選手に、敗戦した1993年と1994年は敢闘賞に選出されている。引退後、西武時代は毎年自らの年度ごとの通算本塁打数を王のそれと比較していたと語った。

清原本人も自分は恵まれすぎていると自認していたが、それだけにジレンマを感じていた事とFAの資格を得て、巨人への移籍が可能になったことから、オフにFA宣言。巨人と阪神が獲得に名乗りを上げた。阪神監督・吉田義男の「(ユニフォームの)縦縞を横縞に変えてでも…」、巨人監督・長嶋茂雄の「僕の胸に飛び込んできなさい」という口説き文句が話題となった。5年契約で念願の巨人に移籍し、背番号は長嶋が自らの永久欠番3を譲る考えも明らかにしたが、「5」に決定(ただし提示された契約金は阪神の方が倍近く高かった。当時阪神で背番号3をつけていた八木裕も清原加入の際は同番号を譲る意思を表明していた)。なお、清原加入により巨人の一塁を守っていた当時43歳の落合博満が出場機会を求め日本ハムに移籍。巨人退団会見にて落合は「清原君と勝負して負けるとは思わないが、(落合と清原の)どちらを使うかで悩む長嶋監督の顔は見たくない」と落合の自著「不敗人生」で記述している。3番・松井秀喜とのコンビは「MK砲」と呼ばれた。後に高橋由伸が加わり「MKT砲」となる。

巨人時代

1997年は開幕から4番を務め、開幕3試合目に移籍第一号となる本塁打を放って、西武時代の終盤と遜色ない成績を残すものの、シーズンを通じて阪神の4番・桧山進次郎と三振数を争い、当時のリーグ新記録152三振を記録(桧山は150三振)、求められたものが大きかったためか一時は応援ボイコット(応援歌・コールなし)も受けた。最終的には打率.249、32本塁打、95打点の成績で、本塁打、打点は前年よりも上回り巨人の右打者での30本以上の本塁打は1988年の原辰徳以来であり、90打点以上も1987年の原以来の達成である(尚これが清原にとって30本塁打を超えたのは最後の年であった)。しかし、勝負どころで相手チームが松井秀喜を敬遠、清原勝負を選択、清原が凡退した結果敗戦した試合も度々あり、清原のエンジンがかかり始めたのも優勝争いから脱落してからであった。また4番での出場試合数的には清原がトップであったが、清原以外に4番に座った広澤克実石井浩郎の方が勝利に結びつく打撃をしていたこともあって、数字以上に大いに期待外れの印象を残してしまった。巨人はこの年、優勝戦線から早々に離脱し、清原自身プロ入り初のBクラスでシーズンを終えた。

1998年は前年の反省から、長年の神主打法からの大幅な打撃フォーム改造を敢行した。セ・リーグの厳しいインコース攻めに対応するため、より最短距離で球を捉えようと、これまで垂直気味に立てていたバットを寝かせ、グリップも一握り余すなどプライドを捨ててまで清原は再起に懸けていた。そうして3番清原、4番松井で始まったシーズン当初、膝の故障もあって不振に苦しむ松井とは対照的に、清原は打撃改造の甲斐あって絶好調。4月は広島の前田智徳を抑え月間首位打者で終えるなど順調なスタートを切り、4番の座を松井から奪い取った。しかし、左太腿肉離れなど故障もあって次第に調子を落としていった。最終的に同年シーズンは100試合近く4番を打ち打率.268、23本塁打、80打点と打撃成績の数値的には落としたものは多かったが、三振数は前年の半分以下に抑えた成績を残し、原辰徳の12年連続を上回り、プロ入りから13年連続20本塁打の日本記録を達成した。一方、この年以降は常に下半身の故障に悩まされることになった。

1999年は開幕から怪我に悩まされ、阪神タイガース藪恵壹からの死球で左手を亀裂骨折。更に6月には広島戦でクロスプレーの際に右足靭帯を負傷。出場試合数は86試合、成績は.236、13本塁打、46打点とプロ入り後最低の数字にとどまり、前年までの「連続20本塁打記録」は13年で途切れてしまった(ただし、右足の負傷は膝側副靭帯断裂という重症であり、手首亀裂骨折とあわせ強行出場を続けさせた球団の姿勢にも疑問が上がった)。いよいよ土俵際となった清原はオフに鹿児島・最福寺にて護摩行を行った後、アメリカに飛び筋力トレーニング(「肉体改造」)に励む(詳細は後述)。この年には、96年のオフに暴力団員と賭けゴルフをしていたことが報じられており、この時の騒動が後の薬物事件に繋がったという声も逮捕時に上がっている。

2000年もキャンプ中に肉離れを起こし、プロ入り初の開幕二軍スタートとなった。その際、巨人のオーナーであった渡邉恒雄には「(清原が一軍にいないことで)勝利要因が増えたな」とまで言われた。前年から清原離脱の際に一塁に入っていたドミンゴ・マルティネスがこの年も活躍していて清原も崖っぷちに立たされていたが、7月7日の復帰後初打席で代打三点本塁打を放ち復活をアピール。7月12日の毎年恒例の札幌シリーズ(札幌市円山球場)では先発メンバー入りし、場外本塁打でプロ入り通算400号本塁打を達成。夏場にはレギュラーの座に返り咲き、75試合の出場で.296、16本塁打を記録。チームも清原移籍後初優勝し、日本シリーズも制覇した。この年、モデルの木村亜希と結婚している。また、この頃ようやく禁煙に踏み切った。

2001年は5年契約の最終年であり、これまでの成績から契約更新は絶望的であるといわれていた。しかし、開幕から大きな怪我をすることなく打ち続け、特にチャンスに滅法強く終盤まで打点王争いをするなど、打率.298、29本塁打、121打点と巨人入団以降では自己最高の好成績を残し(打点においては自身初の100点超えの自己最高)、年俸大幅アップと4年契約を勝ち得た。

2002年も開幕から好調であったが、故障のため戦線離脱。8月23日には長男が誕生した。シーズン終盤には復帰し55試合出場に終わるが、打率.318、12本塁打と一定の成績は残した。この年の開幕第2戦(巨人-阪神:東京ドーム)で400号本塁打達成時に目標にしていた尊敬する長嶋の現役通算本塁打数「444」本に並ぶ。またそれは試合当日、解説を担当していた長嶋の目の前で放った。故障を押して出場した日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第1戦に松坂大輔から2ラン本塁打、第3戦では1点ビハインドの2回に張誌家から同点本塁打を放つなど計2本塁打を放ち、日本一に貢献し、西武時代だった1988年以来、14年ぶりに優秀選手賞に選出。清原自身はこれ以降はリーグ優勝も日本一も経験していないため、この年が自身にとって最後のリーグ優勝と日本一となった。また張誌家からの本塁打は日本シリーズ最後の本塁打となった。

2003年は前年オフに松井移籍数日後、燦々会の会合で原辰徳監督に早々と4番に指名され、故障に悩まされ続けながらも打率.290、26本塁打を記録。5月18日の対阪神戦で下柳剛安藤優也から本塁打を放ち門田博光を抜いて本塁打を打った投手が185人でトップに立ったりして記録を作ったが、シーズン後半にはロベルト・ペタジーニが4番を打つことが多くなり、(ただ、ペタジーニも規定打席不足)清原は主に5番を打ち114試合、341打数と評価の分かれるシーズンとなる。またこの年以降100試合出場がなかったため、2003年が最後の100試合出場となった。なお7月5日PLの2年後輩で中日の立浪和義が先輩清原に先んじて通算2000本安打をドームの巨人戦で達成、その際一塁守備に就いていた清原が花束贈呈し、祝福。

2004年はペタジーニとの併用で出場試合数が減少。史上31人目、巨人の選手では落合以来6人目の2000本安打を達成するが、6月に死球を受けて骨折して長期離脱した影響もあり、40試合の出場に終わり、打率.228、12本塁打、27打点と低迷。この年の安打数は23本で安打数の半分近くが本塁打で27打点だったことから打点のほとんどが本塁打によるもので、確実性に欠けるシーズンとなった。シーズン終了後には堀内恒夫監督の戦力構想から外れたことが判明し、退団の危機に陥ったが、滝鼻卓雄新オーナーに「編成権は監督にあるのか、フロントにあるのか」と直談判、巨人には契約があと1年残っていたこともあり、なんとか残留を果たす。残留決定の際、「泥水をもすする覚悟で精一杯プレーしたい」とコメントした。この年の秋には、後述するオリックスやセ・リーグのあるチーム(交換相手は投手)から巨人にトレードが打診され、オーナー辞任直後の渡邉恒雄が特に清原放出に積極的だったが、これらは成立しなかった。

2005年は400m日本記録保持者、東海大学陸上競技部コーチの高野進から走法の指導を受け、下半身の強化に努めた。また、ダイヤのピアスを両耳に付けて試合に臨んだ。これは一般にメジャーリーガーであり、尊敬してやまないバリー・ボンズにあやかったと受け取られていたが、実際には後に自らの著書「男道」で「巨人軍に契約交渉の席で煮え湯を飲まされ、その悔しさを忘れないために刺青の代わりにつけた」と述べている。このピアスに関しては巨人OBをはじめ、他球団のOBからも評判は悪く、野村克也など苦言を呈す人も多かった。なお、元来巨人は茶髪、ひげ、ピアスなどは基本的に禁止であったが、当時の監督堀内もキャンプでは無精ひげを生やし、タブロイドには「お山の大将同士の冷戦」と揶揄された。それでもこの年開幕4番を任され、4月14日の阪神戦で福原忍から本塁打を放ち、本塁打を打った投手の人数が200人に到達(史上初)した。東京ドームでの阪神戦で藤川球児との対戦時に、藤川が追い込んだ後フォークを投げてきて三振したため品のない発言をした事で問題になった。4月29日の対広島戦(広島市民球場)で広池浩司から本塁打を打ち、史上8人目の通算500本塁打を達成。その後もしばらくは本塁打、打点の暫定2冠王で、打率も一時は.269まで上昇、オールスターゲームにも出場し、本塁打を放った。しかし、チームは相反する様に開幕からなかなか勝てない日々が続き、清原自身も交流戦の対オリックス戦で山口和男から頭部への死球を受け、下半身の故障なども重なって成績は徐々に低迷。ケガから復帰した8月4日の対広島戦では、4回表に本塁打を放ち、ダイヤモンドを一周した後、ベンチで堀内やコーチ、選手とのハイタッチを拒否したことから。7番打者で起用されたこに激怒したとされているが、この本塁打が巨人時代最後の本塁打となってしまった(先述した大怪我から最前線に立てる状況ではなく、球団も配慮をしての対応だったが、清原の打者としてのプライドから認めることができなかったとのこと)。結局この年は張本勲に並ぶ入団以来20年連続2桁本塁打、2年ぶりの20本塁打以上を記録し、前年よりも出場機会を増やし96試合に出場するも、打撃が本塁打一発狙いが多い結果打率は自己最低となる.212と清原自身も満足な結果とはならなかった。

結局は左膝半月板損傷の怪我と、前述のハイタッチ拒否事件で自ら孤立したため、シーズン終了を待たずに球団から戦力外通告を受け、12月2日に正式に自由契約選手として公示された。

清原の巨人時代は否定的な意味で語られることが多く、巨人在籍中にはマスメディアや世論やファンからの様々なバッシングに晒され続けたものの「巨人に入団して後悔しているか」との質問に対しては「NO」と即答しており、「巨人時代の苦労が自分自身を成長させてくれた」と語っている。また、著書の一つである「反骨心」では「巨人に入って苦労はしたが、人生最高の時だと思えることが何度もあった」と書かれてある。その一方で同年監督を辞任した堀内は週刊ポストで「清原は野球に向かない。団体競技である野球に進んだのが間違い」と批判していた。

巨人時代は規定打席に到達したのは1997年、1998年、2001年の3回だけで、巨人では規定打席に到達しての3割は記録できなかった。また、100試合出場は前述の規定打席到達年の他、2003年の計4回しかなかった。また巨人入団後の優勝経験も2000年と2002年の2回しかなかったがいずれも日本一となっている。

巨人から戦力外通告を受けた2005年シーズン終了後のある日、オリックス・バファローズのシニアアドバイザーである仰木彬から電話がかかり、「大阪に帰って来い。お前の最後の花道は俺が作ってやる」と何度も説得され、オリックス入団を決意した。仰木は以前から清原を買っていた。仰木が近鉄の監督1年目だった1988年、10.19の死闘の末西武との優勝争いに敗れ、その後清原擁する西武が中日との日本シリーズを制し、清原は日本シリーズ優勝後のインタビューで「これで近鉄の選手の皆さんに顔向けができます」と語った。これを観た仰木は「なんて男気のある奴なんだ」と心を打たれ、以来、事ある毎に清原に声を掛けていた。直後に仰木は肺癌による呼吸不全で他界したが、なおも清原は仰木を「野球界で最も尊敬する人物」と語っている。しかし、オリックス入団の決断は仰木の死去後に下されたため、「他球団からのオファーが無かったことを確認してからオリックス入りを決めたのではないか」との批判もなされたが、これについては本人は「入団は決意していたが、膝の具合をみて自分が戦力になるかどうか判断したかった」と否定している。仰木は近鉄との球団合併前年のブルーウェーブ時代、2004年オフにも熱心に清原を勧誘し、巨人の球団代表らと直接会ってトレードの交渉をしていた。

背番号は巨人時代に引き続き「5」(当初は西武時代の3と巨人時代の5を足した8も用意されたが、8は同年入団の中村紀洋が着けた)。入団会見では「ヒットにせよデッドボールにせよ、塁に出てチームの勝利に貢献したい」と新たな決意を語った。当時体重は120kgに達していたが、2か月足らずで約20kgの減量をした。

オリックス時代

2006年は開幕前に球団が吉本興業と業務提携を結んでいたことから、中村らと共に吉本新喜劇にも出演した。シーズンでは開幕後しばらくは清原の持ち味であるセンターからライト方向へのヒットや四球が目立った。5月21日の対阪神戦に代打で出場し、満塁で中前適時打を放って史上8人目の通算1500打点を達成。5月26日の対横浜戦で通算517号となる3号ソロ本塁打を三浦大輔から右翼席に放ち、史上12人目の4000塁打を達成。翌5月27日の対横浜戦では、9回裏に4号逆転サヨナラ満塁本塁打をマーク・クルーンから放ってチームを勝利に導いた。なお、このサヨナラ本塁打で野村克也の持つ通算サヨナラ本塁打記録11本に並んだ。7月23日のオールスターゲーム第2戦では8回2死走者なし代打で登場し、藤川球児と対戦、あと1本と迫っていたオールスターゲーム最多本塁打記録を狙ったが、空振り三振に倒れている。8月29日の対西武戦で長田秀一郎から10号サヨナラ本塁打を放つ。この本塁打で21年連続2桁本塁打を達成し、通算サヨナラ本塁打(12本)及び通算サヨナラ安打(20本)でプロ野球歴代単独トップに立った。一方で、死球を受けた後日、死球についてインタビューされた際に「もしそういうことがあれば命をかけてマウンドに走っていき、そいつを倒したいと思う」と報復を宣言したともとれる発言をしたため問題になった。9月2日のロッテ戦で初回に清水直行から11号3ラン本塁打を放つが、2007年は1軍出場できず、2008年は現役最終年で2年ぶりに1軍出場したがホームランを打てなかったため、これが現役最後の本塁打となった。この年は前述のサヨナラホームランなど記憶に残る活躍もあり、ホームラン数は11本と中村に次ぐチーム2位のホームラン数だが、中村も清原も故障離脱を繰り返し、チームに大きく貢献してるとはいえず、中村と合わせて23本のホームランしか打てず67試合の出場で打率も.222と低迷し、チームの順位も5位と下がった。中村は契約交渉が決裂しその後退団し、中日に移籍した。

2007年はキャンプ中に左ひざを痛めて離脱し、2月28日に左膝の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/04/20 06:24

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