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清教徒革命とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年5月)
【清教徒革命】

ネイズビーの戦い後の風景(1645年)

【種類】
市民革命
【目的】
王権の制限、カトリック勢力の排除
【対象】
絶対王政、カトリック勢力
【結果】
絶対王政の打倒。議会制民主主義の優位。アイルランド再征服
【発生現場】
イングランド
スコットランド
アイルランド

清教徒革命またはピューリタン革命(せいきょうとかくめい/ピューリタンかくめい、英語:Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms)は、狭義には1642年から1649年にかけてイングランドスコットランドアイルランドで起きた内戦革命である。広義には1638年主教戦争から1660年王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれる。革命中に起きた諸事件については清教徒革命の年表も併せて参照。

目次

  • 1 概要
  • 2 内乱の前提
    • 2.1 富農の出現
    • 2.2 財政の悪化
    • 2.3 親政(Personal Rule)
    • 2.4 短期議会と長期議会
    • 2.5 三十年戦争
  • 3 内戦・革命における党派
    • 3.1 国王派
    • 3.2 議会派
    • 3.3 中立派
    • 3.4 盟約派
    • 3.5 カトリック同盟
  • 4 イングランド内戦と革命政府
    • 4.1 イングランド内戦
    • 4.2 共和政イングランド
      • 4.2.1 反革命勢力の排除
      • 4.2.2 議会と軍の不和
      • 4.2.3 聖者議会
    • 4.3 護国卿体制
  • 5 王政復古
  • 6 スコットランド革命
    • 6.1 国民盟約の成立
    • 6.2 主教戦争
    • 6.3 派兵と内紛
    • 6.4 対イングランド戦争
  • 7 アイルランドの清教徒革命と内戦
    • 7.1 蜂起とアイルランド・カトリック同盟
    • 7.2 国王軍との和平
    • 7.3 クロムウェルの遠征と虐殺
    • 7.4 土地収用
    • 7.5 ヘンリー・クロムウェルの統治
    • 7.6 王政復古の影響
  • 8 清教徒革命の影響
    • 8.1 経験論
    • 8.2 絶対王政の終焉
    • 8.3 文民統制の確立
    • 8.4 財政軍事国家への出発
  • 9 革命の歴史的評価
    • 9.1 ロックの革命権
    • 9.2 ホイッグ史観・唯物史観による評価
    • 9.3 ジェントリ論争と地方史研究
      • 9.3.1 「17世紀の危機」
    • 9.4 修正主義以降
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

概要

ステュアート朝イングランド王国国教会による王の絶対主義によって維持されていたが、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝期とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来している)。三十年戦争では、1624年にフランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェー対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、王室は財政難に苦しむことになった。

しかし、1625年に王位を継承したチャールズ1世は、変化に対応する能力に欠けており、王権神授説にもとづき議会と対立し、大陸の戦火がイギリスにも及ぶことに成った。イングランド内戦は、1641年アイルランドのカトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立したアイルランド革命(アイルランド同盟戦争の発端)から始まった。翌1642年にイングランドでも王と議会の対立から第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)が始まった。スコットランドでも二次にわたる主教戦争を経て1644年、盟約派と国王派の間でスコットランド内戦が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。国王派(騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は議会派が勝利して終わった。議会派内でも内部対立がおこって第二次イングランド内戦(1648年 - 1649年)が起こり、国王チャールズ1世の処刑が行われた。 共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)が樹立された。第三次イングランド内戦(1649年 - 1651年)はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し(三王国戦争、英語: Wars of the Three Kingdoms)、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となったクロムウェルのアイルランド侵略(1649年 - 1653年)が行なわれた。1652年には第一次英蘭戦争が始まり、イングランド内戦を制した後もイングランド共和国は安定せず、1653年には大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。1654年英西戦争が始まってダンケルクを占領したものの、護国卿体制は5年で破綻した。

1660年王政復古によって清教徒革命は失敗に終わり、かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復した。しかし、星室庁や独自の財源を失ったステュアート朝の王権弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招いて、王を中心とする絶対君主制から議会を中心とする立憲君主制へと移行することになった。清教徒革命はステュアート朝の王たちが目指していた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。

内乱の前提

革命の直接の原因としてチャールズ1世が政治能力に欠けていたことは確かであるが、遠因としてはエリザベス1世治世期、特に末期にその源泉はすでにもとめられる。農村や社会構造の変化に国家体制が対応できず、社会のひずみはしだいに大きくなっていた。かつては内乱の原因として「17世紀の危機」論争などが起こった。

富農の出現

農民(ヨーマン)は次第に裕福になってジェントリになってゆく者と、より貧しくなって離農する者へ二極化した。エリザベス1世は救貧法などによって社会的安定を保とうとしたものの、貧農が都市、中でもロンドンに集中して急激な人口増加をもたらした。この変化に宗教改革修道院の解散も影響して、貧しい人々をみる視線が「慈善の対象」から「怠惰の結果」に変わっていった。こうして社会的・経済的に追いつめられた人々が急進的な思想を醸成していった。

ヨーマンや小作農のなかから、しだいに広い土地を持つものが出てきて、かれらはジェントリ化していった。これには、封建領主制からブルジョワ的土地経営に様変わりしたことが原因としてあげられる。すなわち、農民は階級的支配による耕作ではなく、商契約に基づく労働としての耕作という方向に徐々に変貌してゆく。そのなかで余裕をもてた者が、農業生産性の向上もあって、その所有する土地を漸次広げていった。そしてジェントリの一角に食い込んでいったばかりでなく、富農の発言力も強まっていった。

財政の悪化

当時、国家財政は急激に悪化していた。収入面では余剰生産が寄生地主・富農の手にとどまって国家まで上がってこなかったこと、支出面では価格革命による物価の上昇および戦費がかさんだことがそれぞれ原因だった。代々の王は王領地を売却することで当座をしのいできたが、すでに王領地はヘンリー8世時代の半分以下にまで目減りしていた。結果として王室は議会の承認する税収への依存を強める一方で、中世以来の国王大権に基づいた徴発権後見権関税の徴収強化に乗り出して王権に基づいた財政基盤強化にも乗り出していた。これが農民のみならず、貴族商人階層の不満をも高める結果となった。

特にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド国王(ジェームズ1世)に迎えられてステュアート朝が始まると、財政の膨張に拍車がかかる様になり、国王からの議会に対する予算の要求が増加していった。これを危惧する廷臣グループから1610年に「大契約」と呼ばれる仲裁案が国王と議会に出されたものの結局は失敗に終わり、それ以後も財政悪化が益々深刻化する中でジェームズ1世の息子チャールズ1世が王位を継ぐ事になったのである。

こうした情勢にもチャールズ1世は王権神授説を捨てず、議会に対して予算を要求するのみだった。一方で議員達にとっての議会とは、地元の陳情を処理する場であった。両者の関係はしだいに離れてゆき、1628年6月の「権利の請願」提出を経て1629年、議会は解散を命じられた。

親政(Personal Rule)

チャールズ1世の治世当初はジェームズ1世からの寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズが政治を取り仕切っていたが、失敗の連続で議会の不満を買い、1628年にバッキンガム公が暗殺された後はチャールズ1世が親政を始めた。この親政時代(1629年 - 1640年)は"Eleven Years' Tyranny"(en)(専制の11年間)とよばれる。親政では倹約と教会の監督制強化、新規課税による財政再建がおもな課題となった。財政再建においてはトン税・ポンド税・船舶税の徴収強化をはかったが、議会の承認を経ない税ゆえに反発を招いた。チャールズ1世はジョン・ハムデンら反発した者を星室庁で裁き、投獄・耳そぎの刑に処した。教会の監督制強化の面では側近のカンタベリー大主教ウィリアム・ロードの進言でスコットランドへの祈祷書施行が行われたが、スコットランド国民盟約の反発を招き主教戦争をおこした。戦争の結果、賠償金を支払うこととなり、資金が払底したチャールズ1世は再度議会を開かざるをえなかった。

短期議会と長期議会

かくして議会が召集されたのは1640年4月だったが、行き違いはむしろ深刻になっており、議会は3週間たらずで解散された。これが「短期議会」といわれるものである。しかし主教戦争を遂行するためにも予算が必要であり、予算を得るためには議会の開催が必要だった。こうしてやむなく再度議会を召集し、「長期議会」が同年11月に開会された。議会は国王とその側近、および国教会ヒエラルキー(特にアルミニウス主義)に対する攻撃を強調した。一方で治安が急速に悪化し、アイルランドでカトリック同盟による内戦が起こった。現地プロテスタント虐殺の報に沸騰したロンドンでは国教会に対する不満が噴出していた。1641年5月には国王派で議会内の反対派鎮圧を画策していたストラフォード伯トマス・ウェントワース(元は議会派であったが、親政期に国王側に離反して閣僚となっていた)が議会によって人身保護の権利を剥奪されて処刑されている。

1641年11月に、外交などの国王大権を制限して議会主権を主張する「議会の大諫奏」(英語: Grand Remonstrance)が僅差で可決されたことが、事態を決定的なものとした。この抗議文は急進性を有しており、すべての議員に支持されてはおらず、可決したものの票差は159対148とわずか11であった。この抗議文への姿勢の違いから議会は国王派(騎士党)と議会派(円頂党)に分裂した。続いて12月に議会が民兵条例を可決すると、国王側近はこれを「議会による絶対主義」であるとして激しく非難した。こうした状況を受けてチャールズ1世は1642年1月に議会派の中心人物の逮捕を命じ、これを見たロンドン市民は議会派についた。身の危険を感じて王がロンドンを離れると、国王派と議会派に分かれてイングランド全土を巻き込む内戦が始まった。この時期、民衆はピューリタンらの発行したパンフレットを通じて一連の政治問題に強い関心を示し、請願や暴動などが起きて民衆の政治活動が活発に起きはじめていた。この中から後述する平等派(レヴェラーズ)がつくられていき、長老派との抗争において独立派を支持した。

三十年戦争

三十年戦争とそれによる疲弊は、フランスなど大陸諸国が介入する余力を残さなかった。これによって清教徒革命は、大陸に波及することがなく、後の名誉革命フランス革命と違って、海外の干渉をほとんど受けずに進展した。

内戦・革命における党派

ここでは、清教徒革命においてみられた主な党派について説明する。イングランドにおいては、各党派は階級や地方による分類が難しく、どの党派に属するかは血縁などの個人的関係が大きく影響していたといわれる。

国王派

議会にいたものの、大抗議文の趣旨に賛同せず国王側についた議員とその領袖をさす。国王派といっても議会との妥協をはかる者から徹底抗戦を主張する者まで、見解には振幅があった。産業化がすすんでおらず、ピューリタニズムの浸透が浅いイングランド北部・西部及びウェールズコーンウォールにおいて有力であり、1644年ニューモデル軍結成までは有利に戦局を展開させていた。ほぼ国教会信徒によって構成された。

議会派

詳細は「ピューリタン」を参照

大抗議文の作成を主導したか、賛同して国王軍と戦った議員が議会派であるが、主張の濃淡は多様であった。イングランド東南部で支持された。多くは国教会改革を唱え、求める改革の方向は宗派によってまちまちであった。以下のほか、浸礼派(バプテスト)やクエーカーが入り乱れ、百家争鳴の様相を呈した。

長老派
中央権力を弱めた長老制教会をめざした一派であり、国王派と和解に積極的姿勢を示した穏健派である。同じ長老制教会をとるスコットランドと友好関係を保った。議会多数派であったが、チャールズ1世と妥協を図って独立派と対立し、『プライドのパージ』(en)によって議会から追われた。中産階級以上が多かったといわれ、追放後はランプ議会に対してパンフレットによる言論攻勢をかけた。
独立派
分離派の一派で、カルヴァン主義独立派(Independent、インディペンデント)に属する。ほかの分離派と長老派の中庸をめざした党派で、革命を積極的に推進した議会内勢力である。宗教面の主張よりも政治的利害の一致によって結びついた。オリバー・クロムウェルなど将校に多く、内戦においては主戦派であった。平等派と共同歩調をとって長老派を追い落とし、ランプ議会で議会を掌握した。独立派の多くが国王の処刑に署名し、王政復古後逮捕・処刑された。
平等派
分離派のひとつ。もと独立派左翼で兵士やロンドンの一般市民からなり、平等な政治体制の実現をもとめて社会契約や普通選挙導入を主張した。「レヴェラーズ」(Levellers、「水平派」とも)と呼ばれ、教義より政治的主張を重視した。ジョン・リルバーンら論客のパンフレットにより盛り上がりを見せ、革命の徹底を主張した。当初は独立派と近かったものの、共和政以降対立し、1650年から弾圧に遭って衰退した。
第五王国派
分離派のひとつ(Fifth Monarchists)。アッシリアペルシアギリシアローマに続く第5のキリスト教千年王国を実現せんとした急進派である(Millennialism)。トマス・ハリソン等、一般市民や兵士および一部将校からなる。聖者による統治をめざし、共和政やクロムウェルを支持したが、護国卿制になってからは反体制側にまわって暴動を起こすなどテロリスト化していった。王政復古後弾圧に遭い勢力は衰え、その一部は北米植民地(後のアメリカ合衆国カナダ)に移住した。
真正水平派
分離派の一つ。「ディッガーズ」(Diggers)と呼ばれる。指導者はウィンスタンリー原始キリスト教社会主義思想に基づく土地共有を推進した。貧農に支持者が多く、サリー州で1649年共有地を開拓した。議会派きっての穏健派でもっとも民衆のことを考えていた。ウィンスタンリー自身も平和的に説得して支持者を増やした。後に独立派によって弾圧され衰退した。初期のユートピア社会主義と見る向きもある。

中立派

便宜上中立派とよばれるが、まとまりのある党派ではなく、各党派をむすびつけて和解に至ろうとした個人を総称していう。その活動範囲は多様であり、精力的であったが、革命期において存在感を示すことはあまりなかった。

盟約派

スコットランドの勢力で、国民盟約に加わった者からなる。国教会の中央集権的教会制度をきらって長老制にもとづく。信仰面ではイングランド長老派とほぼ同じである。のち、スコットランドの完全支配をめざした強硬派と、あくまで王のもとでの長老制を支持した穏健派に分かれて抗争が起こった。

カトリック同盟

アイルランドの勢力。ゲール人イングランド人ともに、官職から疎外されてきたカトリックが団結して作った。国王との和解およびカトリック信仰の承認を求めた。信仰面から、イングランド議会派や盟約派と対立した。大陸のスペインなど対抗宗教改革勢力の支援も受けていたといわれる。

イングランド内戦と革命政府

内戦勢力図。黄色は議会派、赤は王党派。
左上:1642年、右上:1643年、左下:1644年、右下:1645年。

イングランド内戦

1642年からイングランドで議会軍と国王軍の内戦が始まった。当初は実戦経験や質でまさる国王軍が有利に戦ったが、ニューモデル軍をはじめとする軍制改革が行われて議会軍が強化されると、議会軍が優勢になった。当初騎兵隊の隊長に過ぎなかったオリバー・クロムウェルは議会軍のなかでしだいに頭角をあらわしてゆき、ニューモデル軍結成にあたってはその副司令官となった。議会軍はネイズビーの戦いで勝利を決定づけ、急進的になった民衆や議会のもと、1645年にウィリアム・ロードが、1649年にチャールズ1世が処刑された。

そのなかで、議会は革命の推進役となった軍に警戒を強めつつあった。軍はバプテストや独立派などが多く信条面で急進的であり、議会は長老派が一定数を占めていたため穏健であった。特にクロムウェルなど軍指揮官の名声はいや増す一方であり、議会としては革命の主導権を奪われかねない状況にあった。議会と軍の関係はしだいに疎遠になってゆき、議会が財政難を理由に軍隊の削減を主張するにおよんで、軍は反撃に出た。プライドのパージがそれであり、軍が長老派議員たちを議会から追放した。このパージ以降、軍の意を色濃く反映した議会運営がすすめられてゆくことになる。国王の処刑や対アイルランド・スコットランド戦争も、そうした文脈の中で起こった。

イングランド内戦」を参照
清教徒革命の勢力図(1649年 - 1660年)

共和政イングランド

共和政宣言をもって成立した共和政イングランド(1649年 - 1653年)はさまざまな内部対立を抱えていたが、これを維持しえたのは、軍人として名望が高まりつつあったクロムウェルの軍功と、三十年戦争で諸外国が消耗していたからだった。共和政府はまた、財政立て直しのために王・国王派の領地を没収・売却したが事足りず、軍縮に手を付けざるを得なかった。これによって軍との対立を招き、護国卿政治にとって代わられることとなった。

ダンバーの戦い

反革命勢力の排除

共和政イングランドにおいては独立派がランプ議会を主導し、保守派(長老派)と革命の徹底を求める平等派の追い落としを始めた。追放された長老派はスコットランドにその活路を求め、オランダに亡命していたチャールズ2世を迎え入れた。一方、平等派は独立派に徹底的な弾圧を加えられ、その勢力はなお健在ではあったが、組織化されることはなくなり、独立派の単独政権が確立された。平等派を追い落とした独立派はアイルランドのカトリック同盟をすみやかに鎮圧し、チャールズ2世を擁するスコットランドとの間に1650年7月戦端を開いた。

9月3日ダンバーの戦いでスコットランド軍は決定的敗北を喫し、イングランドに潜入したチャールズ2世もちょうど1年後の1651年9月3日、ウスターの戦いで完膚なきまでに叩きのめされた。一連の戦闘を指揮していたのはクロムウェルであり、この華々しい戦果に圧倒的な名声を得た。また共和政イングランドは、これらの勝利によっていちおうの安定を得た。

議会と軍の不和

反乱の鎮圧には膨大な戦費がかさんでおり、一段落したところで議会は財政立て直しのために軍の削減を主張した。さらに議会は航海条例を通過させ、オランダと険悪な関係になった。革命の担い手と自負していた軍は議会に対する態度を硬直させ、軍隊内では議会の解散をもとめる声が大きくなっていった。軍隊の立場を代弁・代表していたのはトマス・ハリソンであった。彼をはじめとする軍隊内の「第五王国派」は、神の王国の実現は近いとし、革命を導いたニューモデル軍こそその担い手であると主張していた。両者の対立を軟着陸させようと考えていたクロムウェルも、こうした軍隊内の過激化を抑えきれず、ついにハリソンと同調して議会の解散を強行し、「聖者議会」を成立させた。

聖者議会

「指名議会」「ベアホーンズ議会」「小議会」「いやしい身分の狂信者たちの集まり」などとよばれたこの議会は、ランプ議会にかわって1653年7月2日に開会した。この議会で中心的役割を果たしたのが急進派(第五王国派)ハリソンと穏健派ジョン・ランパードであり、クロムウェルは両派から英雄として担ぎ上げられていた。穏健派は議会の解散とクロムウェルの国王就任を目論み、その思惑通りに事態が進展した。こうして聖者議会は4ヶ月で自主解散した。クロムウェルはこの構想に同意したわけではなかった。しかし議会がなくなってしまった以上、政権を引き受けざるを得ず、KingではなくLord Protector(護国卿)として渋々政権の座についた。

護国卿体制

1653年12月16日に成立し、元首である護国卿(Lord Protector)、内閣にあたる国務会議、そして議会の三者均衡をめざしていた護国卿体制は、独裁制とは性格を異にしていた。護国卿の権力は「統治章典」によって制限され、立法権は州選出の議員によって運営される議会に留保された。しかしこの制度はすぐに破綻をきたし、反乱分子を抑えるために強権的にならざるを得なかった。

クロムウェルは独裁者たることを望んでおらず、合意による国政運営を目指していたといわれるが、国王派から平等派・第五王国派まで包含していたイングランド内にあって合意などもとより不可能な状況にあった。反革命勢力は議会に選出され、政府の支配の道具として使われた軍隊の削減を求めた。革命勢力たる軍と保守化する議会の間に「合意」を引き出せるはずもなく、クロムウェルはどちらにつくか逡巡したのち議会の解散(1655年1月22日)を選択せざるをえなかった。各地で平等派や国王派の反乱が相次いでおり、軍縮できる状況になかったためである。また、これら反乱分子を抑えるため、独裁的行政手段に訴えなければならなくなってきていた。

こうして解散された議会だったが、財政の逼迫はクロムウェルに変節をよぎなくさせた。「議会の同意なき課税は無効」という伝統がすでにイングランドに成立しており、これに基づいて議会を再召集する以外になかった。1656年9月17日に開かれた2度目の議会は、議員資格をめぐって混乱があったもののどうにか開かれた。議会は保守化の傾向を促進させようとし、クロムウェルに王の称号を贈り、上院の復活を求めるなどステュアート朝時代の政治体制に戻そうと腐心した。クロムウェルは王の称号以外の部分はおおむね受諾した(1657年5月25日)が、これが王政復古への道を決定づけたとも指摘されている。

王政復古

詳細は「王政復古」を参照

軍の弱体化を狙う政府内の動きに、第五王国派や平等派、そして兵士たちは反感を募らせていき、請願や抗議行動を活発化させていった。自らの支持基盤が軍であることを知っていたクロムウェルは、こうした動きにやむなく1658年2月4日議会を解散し、軍から忠誠をとりつけた。しかし議会を解散したことによって、いままでの反乱分子だけでなく独立派なども反対勢力にまわり、軍以外に支持基盤を見出せない状況に追い込まれていた。そんな中クロムウェルがインフルエンザにかかり、1658年の彼が名声を得た日と同じ9月3日世を去った。

後を継いだ3男のリチャード・クロムウェルは無能ではなかったといわれるが、またも財政問題から議会を開かざるを得ない状況に追い込まれていた。また、オリバー・クロムウェルという核を失って、再度ひらかれた議会と軍の対立はもはや覆いがたくなった。選挙資格や選挙区の区割りを元に戻して行われた選挙から選ばれた議会には長老派と党派抗争をも復活させた。そしてクーデターによる議会の解散、ランプ議会の復活という変遷をへて、限界を悟ったリチャードは引退を決意した。クロムウェルを失ったことは軍隊をも四分五裂させたが、そこにジョージ・マンクが率いるスコットランド軍の侵攻が重なった。

チャールズ2世はこの好機を逃さず、1660年4月4日ブレダ宣言を発して復位を促した。混乱と内紛にうんざりしていた議員や国民の圧倒多数によってこれは支持され、5月7日、宣言を受諾する使節がオランダに向けて出航していった。

スコットランド革命

1639年の盟約戦争・主教戦争から1651年のクロムウェルによる征圧までの内戦はスコットランド革命とよばれる。イングランドにおける急進勢力が独立派やバプテストであったのに対し、スコットランドでは長老派の中で強硬派(アーガイル侯リーヴン伯)と穏健派(モントローズ侯など)に分かれ、強硬派は王に対する徹底抗戦とスコットランドの実効支配を目指した。いっぽう穏健派は、盟約の目的は長老制の確立のみであり、スコットランドは国王のもとに帰するべきと考えた。この違いが、内戦のみならず対イングランド外交にも影響し、強硬派の勝利・実権掌握がイングランドとの対立を招いた一因となった。これに続くクロムウェルの遠征によって、スコットランドは史上初めて直接支配を受けることになった。

国民盟約の成立

スコットランドは山岳地帯や大小の島々が多く、中央集権に向かない地域であった。地方ごとに有力貴族・氏族がそれぞれの領地をおさめ、王がそれを束ねる分権的な封建制にも似た国制をとっていた。そうした地方における宗教は、信徒の代表である治会長老と、教役者である宣教長老という長老が、合議によって教会自治を行う長老制が優勢となっていた。

1637年、チャールズ1世は国教会祈祷書(儀式などの手順を指定した書)を施行した。国教会は監督制すなわち国王を頂点とするヒエラルキー構造に基づく主教制的な要素が強いものであり、したがってスコットランドの激しい反発を招いた。スコットランドの有力貴族らは反乱を起こし、モントローズ侯らは1638年2月「国民盟約」を成立させて長老主義のもと団結した。

盟約派のねらいは、1603年の同君連合成立以来のスコットランド・イングランド両国のありかたを問い直すものであった。すなわち、イングランドに吸収合併されるスコットランド(ロンドン中心の物的同君連合)ではなく、対等な関係をめざしていた。しかし対等な関係はイングランド側からすれば分不相応な要求というべきものであった。人口比で5対1、経済力ではそれ以上の開きがある両国が対等などとは、とうてい応じられないものであった。

主教戦争

第1次(1639年)および第2次(1640年)の主教戦争によってイングランド王室は財政の限界に達し、親政を中止して議会を召集せざるをえなくなった。これがイングランド議会と国王の対立を招いた一因とされる。

スコットランド内はほぼ盟約派として団結し、祈禱書の停止を議会で宣言した。さらにイングランドのチャールズに主教戦争を挑み、両軍はイングランド北端、トゥイード川河口のベリックで対峙した。これは結局対峙しただけでチャールズが和議を申し込み、ベリックの和約が成立した。

和約が成立したものの、チャールズは主要な対立点である宗教問題について譲歩しなかった。それだけでなくカトリックの有力氏族を北方長官に任命し、スコットランドに主教制度の浸透をはかった。必然的にスコットランド盟約派はふたたび軍をおこし、モントローズ侯がディー橋の戦いで国王派を破った。これによって、第2次主教戦争が始まった。

盟約軍の南進の報がイングランドに届いたが、チャールズには軍をしたがえるだけの資金が底をついていた。盟約軍がニューバーンの戦いでイングランド軍を破り、ニューカッスル・アポン・タインを占領したところでチャールズが和平をもとめてやってきた。こうして締結されたリポン条約は賠償金の支払いが盛り込まれた。これがイングランド財政をいよいよ払底させ、長期議会召集につながることになった。主教戦争が一段落すると、スコットランド議会は国政の中心機関となり、さまざまな議会改革が進められた。この改革がイングランド長期議会での改革および大抗議文のモデルとして採用された。

派兵と内紛

スコットランドを統治していた盟約派は、「敵の敵は味方」の論理でイングランド議会派と誼を通じるようになった。議会軍の求めに応じて、盟約軍はカトリック同盟を平定すべくアイルランドに遠征したり、イングランドの国王軍の背後を襲うためにイングランド侵攻も行った。これは平定後、イングランドに「貸し」を作って将来の

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出典:wikipedia
2018/08/17 14:01

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