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渡瀬恒彦とは?

受賞 【日本アカデミー賞

最優秀助演男優賞
1978年事件
ブルーリボン賞

助演男優賞
1978年『事件』
【その他の賞】


【備考】

兄は俳優の渡哲也

渡瀬 恒彦(わたせ つねひこ、1944年7月28日 - 2017年3月14日)は、日本俳優歌手。本名、同じ。

島根県安来市生まれ、兵庫県出身。東映マネージメント所属。兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。身長174cm、血液型AB型。

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 生誕からデビューまで(1944〜1969年)
    • 1.2 デビュー(1969〜1977年)
    • 1.3 成熟期(1978〜1991年)
    • 1.4 円熟期(1992〜2014年)
    • 1.5 晩年(2015〜2017年)
    • 1.6 没後
  • 2 人物
    • 2.1 人柄
    • 2.2 仕事に対する姿勢
    • 2.3 兄・渡哲也
    • 2.4 結婚
    • 2.5 交友
    • 2.6 没後、共演者・スタッフの追悼
  • 3 受賞
  • 4 出演
    • 4.1 映画
    • 4.2 テレビドラマ
    • 4.3 その他
    • 4.4 CM
  • 5 歌
    • 5.1 シングル
    • 5.2 オリジナル・アルバム
  • 6 「渡瀬恒彦」を演じた俳優
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 外部リンク

来歴

生誕からデビューまで(1944〜1969年)

幼少期はガキ大将だった。同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ。生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。高校時代は水泳部に所属(柔道にも励んでいたという説もある)、当時から同世代の女子に人気があり運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという。同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内」。また恩師によれば、当時から頭の回転が早くリーダーシップがあった。また俳優かけだしの頃、三田学園の寮を何度か訪れ淡路の海を「昔はヤスで魚やサザエを取った」と懐かしんでいたという。渡瀬曰く高校在学中は新聞記者に憧れていた。

三田学園高等学校卒業後、1浪の末中央大学早稲田大学慶応大学に合格。尾崎士郎人生劇場」にも影響され、早稲田大学の法学部に入学。当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まる。空手部に所属し、二段の腕前だった。またボクシングもやっていた という説もある。

しかし、渡瀬曰く「いい加減な学生」 で、当時の大学は学生運動全盛期で講義もなければ卒論もない。新聞記者になりたい夢はいつしか消え、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあった が、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、仲間たちと「いつも何かねぇのかな」と語り合っていたという。だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、卒業見込み で電通PRセンターに就職した。しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った「ジャパーク」という広告代理店に移る。仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。そこでたまたま東映の社員が居合わせ、「俳優にならないか?」と声をかけられる。最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる。実際会いに行ったら岡田の人柄にすっかり魅了され、こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたいと即決で決まった 渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を付けられそうになったが気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。

デビュー(1969〜1977年)

1970年(昭和45年)、石井輝男監督の映画『殺し屋人別帳』の主役としてデビュー。岡田茂から「やれ」の一言で、演技の勉強もなく京都に来て監督の石井と同じ部屋に泊まり、毎朝監督と一緒に起きて撮影所に行き、出番の有無に関わらず終わりまで撮影に付き合う毎日だった。しかし、デビュー作の演技を渡瀬曰く「そりゃそうだ、昨日までは素人だったんだから」と開き直っても、根がマイナス思考のため、凄まじいまでの酷さとひどく落ち込み、間違った世界に来たのかと思ったが、悩む暇がないほど次から次へと仕事が舞い込んでいったという。デビュー当時の渡瀬はやんちゃでとにかく熱く突っ走っていたと大勢の映画関係者が証言しているが、渡瀬と旧知の仲だった東映・奈村協もその1人。奈村は1972年工藤栄一監督『かげろう忍法斬り』で体を壊した兄・渡哲也の代役を任された時が初対面。東映京都撮影所駐車場で当時の愛車だったフェアレディ240Zを使ってスピンの練習をしていたり、当時東京から京都まで新幹線で3時間15分でかかっていたが自分なら車で新幹線より早く東京に着けると豪語していた という。「現場では10代の新人でも70、80歳代のベテランでもみんな同じライバル」 という渡瀬にとって、錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が「アクション」だった。

そんなやんちゃで熱い渡瀬を東映京都撮影所でも次第に認められ、中島貞夫工藤栄一深作欣二山下耕作といった監督を始めあらゆる人から「恒さん」と呼ばれるようになった。東映京都撮影所では若い人を通常「○○ちゃん」、「○○ぽん」と呼ぶため渡瀬の「恒さん」は別格だった。

中島貞夫は渡瀬が演技に開眼したのは「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)における荒木一郎との出会いと話している。ある三兄弟の末弟を演じた渡瀬が、もぐらと仇名される気弱な男を演じる荒木一郎と不思議な友情で結ばれるあるシーン。2人には長回しするからと事前に伝えてあったが、どちらが言い出したのか2人だけでリハーサルを行っていた。妙にウマも合ったのか、演技にはうるさい荒木の影響を受けて、それまでのただ生身をぶつけるような演技から変貌を遂げた。

また常に新しいことに挑戦しようとする気構えもあった。中島貞夫が東映での監督生活が10年近くが過ぎ、一部の映画作家には「低予算ながら企業の制約なしに好きな作品が撮影できる」理由で人気があったATG作品として『鉄砲玉の美学』(1973年)に挑戦してみることにした。それでも1000万という予算は苦しかった。撮影の費用は工夫を重ねて切り詰めたが、キャスト費をどう捻出したらよいか。そんな折だった。何処で聞きつけたのか渡瀬が中島に付きまとい始める。「ねぇ、何かやるんだって」「俺やるよ」。渡瀬は撮影所のスタッフルーム、中島の自宅にも押しかけて出演を直談判した。作品の内容(従来の義理と人情ばかりの紋切り型ではない、いわゆる格好悪いヤクザを描こうとしていた)製作方式、そしてまともにギャラが払えぬと監督の中島が渡瀬が作品への出演を断念するように説得した。しかし渡瀬は諦めることなく「ギャラなんかどうでもいいから俺にやらせて」と猛烈に売り込み、中島が「じゃあついでにあんたの車をロケ地に持ってきて劇用車に使わせてくれるか」と渡瀬に伝えると渡瀬は「いいよ」と答えた。撮影は宮崎県。宿はタイアップした都城市の旅館の大部屋でスタッフ・キャストの区別なく大部屋でゴロ寝。そこで10日あまり撮影で過ごし、中島はヤンチャで喧嘩早い渡瀬が細やかな気配りができるか目の当たりにした。

1976年の「狂った野獣」では中島が当初「まがりなりにもスターなんだから顔に怪我させられない」と横転するシーンのみスタントを使うことを主張するが、渡瀬は大型バス運転免許を運転教習所が驚くほどの早さで取得し、中島に「どうしても俺がやる、そのために免許を取ったんだ」と訴え、自らバスを運転し引っ繰り返す命がけの撮影に挑んだ(渡瀬の盟友ピラニア軍団もバスに同乗したが、本音は「横転するバスになんか乗りたくなかった。でも、世話になっている渡瀬の手前断れなかった」という)。中島は当時の渡瀬を「飛び立つヘリコプターにぶら下がったり、運動神経がとにかく抜群だった」と絶賛する。だが、次第に中島は渡瀬が運転に関して自信過剰になっていると危惧する が、渡瀬のアクションはどんどん過激になっていく。「暴走パニック大激突」(1976年)では200台もの車やバイクが衝突するクライマックスシーンの撮影時に出演者の中でたった1人ノースタントを志願。自らハンドルを握り、対向車に飛び込んだ。

「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)、高田宏治に「あんなハチャメチャなヒロポン中毒の殺人鬼は彼しかできない」と言わしめた「実録・私設銀座警察」(1973年)、小林旭と壮絶で悲劇的な兄弟の殺し合いを繰り広げた『唐獅子警察』(1974年)、梶芽衣子と日本版ボニー&クライドを演じた「ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派」(1974年)などデビュー以来渡瀬は底辺でもがくアウトローを演じ続けてきた。しかし、1977年北陸代理戦争」の撮影中渡瀬が運転ミスでオープンジープから投げ出されて、ジープに足を潰され生死の淵をさまよう大怪我を負い降板(代役は伊吹吾郎)。監督・深作欣二と脚本家・高田宏治は責任を感じ、渡瀬の病室を見舞った。麻酔が効いて眠り目が覚めるとその度に枕元に深作がいた。「こうなっちゃ仕方ないよ」と逆に深作と高田を慰めた という。自分の人生を考えるというよりも、振り返る感覚もなく、ただ「久しぶりに何もない時間があった」 この時の大怪我が元でアクション俳優から性格俳優へと転向する。渡瀬自身も後年「結果的には役の幅が広かった」と述懐した。

私生活では三本目の映画『三匹の牝蜂』で共演した大原麗子1973年結婚したが、1978年離婚している。

成熟期(1978〜1991年)

渡瀬は2009年当時のインタビューで、東映以外の映画会社(松竹)初出演作になった1978年『事件』で、ブルーリボン賞日本アカデミー賞・キネマ旬報等助演男優賞を受賞したことが自分にとっての大きな転機になったと話している。しかし、その当時は実感も感慨もなかった。同年、松竹映画『皇帝のいない八月』でも、狂気を湛えた自衛隊将校の反乱分子を演じた。1979年(昭和54年)には松竹映画『震える舌』『神様のくれた赤ん坊』でキネマ旬報主演男優賞を受賞した。

小林信彦が「唐獅子株式会社」の映画化に渡瀬が乗り気で、小林が渡瀬の自宅まで出かけたことがあった。だが、松竹ではやくざ映画は不可能で後年小林は大変惜しいことをしたと述懐している

セーラー服と機関銃」では、現場入り朝9時から撮影開始深夜0時まで薬師丸ひろ子へひたすら集中力を磨くために三國連太郎と共に繰り返し稽古をつけていた(2016年7月22日放映「スタジオパークからこんにちは」ゲスト薬師丸ひろ子より)という。また薬師丸が機関銃を撃つシーンでガラスが飛び散り、薬師丸の顔が負傷した際、周囲は「すぐ治るよ」と楽観する中渡瀬だけが「自分の娘だったらどうする」と薬師丸の怪我を心配した(セーラー服と機関銃 (映画)#薬師丸負傷参照)。

「南極物語」の大ヒット以降からテレビドラマに軸足を移すようになる。

1990年代バスクリンCMに出た事が自身の幅を広げてくれたと2014年当時のインタビューで語っている。コミカルなCMソングと共にお風呂から勢いよく出てくる演出は、それまで銀幕の大スターでシリアスな役どころが多かった渡瀬が、子供から大人まで認知度をあげるきっかけになり、お客さんとの距離が近くなった という。

円熟期(1992〜2014年)

存命中本人の口から語られることはなかったが、ごく一部の人間のみが知る事実として1994年脳梗塞を起こした際、左手に軽い障害が残ったといわれ、それが従来の屈強な渡瀬のイメージと併せ人間味が溢れる類まれな存在感が出てきたきっかけと見られる向きもある。脳梗塞をきっかけで「最高の仕事をするために」煙草をスッパリやめ、酒は適量なら血流にいいと言われる赤ワインだけにした。連日のように1時間歩き、趣味のカメラで道端の花を撮影していた姿が目撃されている。

忠臣蔵外伝 四谷怪談』(1994年)など話題作の映画にも出演していたが、1992年から主演を続けてきた『十津川警部シリーズ』や『タクシードライバーの推理日誌』など次第にテレビドラマへの出演本数が多くなる。

2002年からは渡瀬がデビューした東映京都撮影所で制作された「おみやさん」がスタート。

2007年度下期の連続テレビ小説ちりとてちん』では、かつて「上方落語界の四天王」と呼ばれた徒然亭草若を演じた。

2006年からは『警視庁捜査一課9係』シリーズがスタート。松本基弘プロデューサーによれば「『ER緊急救命室』みたいな群像劇をやってみたかった。『土曜ワイド劇場』の枠で『警視庁捜査一課強行七係』(05年)を作ったが2時間ドラマでは群像劇にはならないことがわかった。その時上層部から『相棒』をやらない時期にやる新たな刑事ドラマを考えろと言われたので、七係の反省から『警視庁捜査一課9係』の企画を出しました。事件を解決するだけではなく、レギュラー刑事たちのプライベートも描く群像劇で、主人公が必ず中心になるわけではない、ある意味チャレンジの企画なんですがいいですか?と尋ねたら、「おもしろそうだからいいよ」と。昼行灯みたいな係長・加納倫太郎の立ち位置をよく理解して、企画に乗ってくださいました」

2012年には『おみやさん』などの主演が認められて、第20回橋田賞受賞。「褒められるとすごく元気が良くなります。僕は人が褒めるのが下手で、家でも仕事場でも人を褒めない。たまに褒めるのは犬だけ。これからは褒めるようにしたい」とコメントを残している。

晩年(2015〜2017年)

2015年(平成27年)8月末、体調不良を訴え受けた検査で胆嚢に癌が見つかった(当時も調子が良くなかったと思われるが、8月2日に大原麗子の七回忌法要に参列 していたことが確認されている)。余命1年の告知を受け、都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受けた。その後も入退院を繰り返しながら、少しずつ仕事をこなしてきた。その間も高額な抗癌剤を試そうとしたり、がん専門病院で特別な放射線治療を受けようとしたが、転移のため叶わなかった。自身が癌に侵されていることは、「あえて自分から話すことではないと思った」という理由 で、2016年5月26日発売の「女性セブン」が報じるまでは公にされなかった。

「9係」プロデューサーの松本基弘には2016年の11シーズン終了後に渡瀬自身から癌であることを伝えられた。しかし松本は治療すれば必ず良くなると信じていた という。どんな体調が優れない時でも「俺はやる、とにかく現場に戻るんだ」という意欲を燃やし、2016年に入ってからは血流を良くする気功術を導入した。

病魔が渡瀬の体を蝕み、2016年6月から8月に撮影された「おみやさんスペシャル2」では、6月親友の成瀬正孝が陣中見舞いに訪れても調子が悪いながら一緒に食事へ行くなどの気遣いを見せる余裕があったが、7月には隠し切れないほどの体調悪化で撮影が続行できるか一時検討された。しかし撮影途中から妻が京都に駆けつけ献身的に支えたことで撮影を乗り切った。松本基弘によれば『おみやさんスペシャル』の後に『タクシードライバーの推理日誌』新作撮影予定だったが、体調を崩したことを考慮し延期して静養に努めた。

遺作となったテレビ朝日系列のスペシャルドラマ『そして誰もいなくなった』(2017年3月25日・26日放送)への出演を藤本一彦プロデューサーが渡瀬にオファーしたのは11月。藤本によれば、最初は別の役を依頼するつもりだったが、準備稿を読んだ渡瀬が犯人の磐村兵庫役をやりたいと話した という。

渡瀬の直筆で毎年宛名から文面まで律儀に書かれていた年賀状が、2017年には「賀春 おめでとうと、ありがとうを申し上げます」と健筆で書かれていた。2016年までの年賀状とはちょっと違うことに気づき、文面に込められた渡瀬の思いに井上茂は心がざわめいたという。

『そして誰もいなくなった』の撮影は、2016年12月24日から2017年2月12日まで続いた。クランクインで渡瀬は「皆さんご存知だと思いますが、私は癌です。それでもこの役を全うしたい」と挨拶した という。撮影の際には風邪が蔓延しないように全員がマスクを着用、照明のセッティング待ちがないように照明なしのカメラを用意し、出来るだけロケの回数を抑えるために、藤本プロデューサーは監督の和泉聖治へ工夫するよう指示した。最後に磐村が犯行を告白する13分間の独白シーンは、渡瀬の負担にならないよう通常は現場で行うカット割りを和泉は事前に作業した。移動は車椅子、撮影の合間には酸素吸入器の管を鼻から挿入して、命を削って容態が急変する前まで撮影を終わらせた。

3月2日の制作会見では、渡瀬は「スケジュールの都合」で欠席だったが、共演者の津川雅彦 によれば共演者は癌に侵された渡瀬を気遣い労わったという。そんな渡瀬は誰よりも早く現場に入るので、つられて共演者も現場に入るのが早くなったという現場の様子を明かした。

1月25日には警視庁捜査一課9係の取材で、テレビ朝日で(最後のマスコミ個別対応になった)サンケイスポーツの取材に応じた。その時も鼻には酸素吸入器をつけてはいたが口調や足取りはしっかりしていたという。その際、記者へ「『9係』は僕にとって『やらせてください!』と言いたい作品なんです」と力を込め、同作品への並々ならぬ思い入れと役者魂をぶつけた。だが記者からの「ライフワークにしたいか?」という質問にひと呼吸して「生きていれば…」と声を落としたという。2月19日、『警視庁捜査一課9係 season12』の取材会に力強い足取りで現れ、12作目になる本作の見所を話した。その際、「体調は良くない。現状維持という感じ、食欲はないけど一生懸命食べている」と自身の体調を包み隠さず話し、会見に同席した羽田美智子が涙ながらに感謝を伝えると、渡瀬も背中を叩いて羽田へ感謝を伝えた。しかし、渡瀬が生前公式の場に登場したのは、この日が最後になった。

2月中旬に左肺の気胸を発症し入院治療を行うも、3月に入って敗血症を発症。しかし現場に戻る執念は衰えず、一般病棟にいる時から『警視庁捜査一課9係 season12』の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていた。死去の前日にはマネージャーと『警視庁捜査一課9係 season12』の打ち合わせをこなし、「今月から撮影だ頑張ろう」と自らを鼓舞していた という。しかし3月14日、細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。病院にかけつけた妻と2人の子供に看取られ、同日23時18分、胆嚢癌による多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。72歳没。

没後

人物

人柄

仕事に対する姿勢

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