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湾岸戦争とは?

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湾岸戦争

右回りに、炎上するクウェートの油田、グランビー作戦下のイギリス軍AC-130からの映像、死のハイウェイM728戦闘工兵車
戦争:湾岸戦争
年月日:1991年1月17日 - 2月28日
場所:イラククウェートサウジアラビア
結果:多国籍軍の勝利
交戦勢力
クウェート
アメリカ合衆国
アラブ首長国連邦
イギリス
フランス
イタリア
エジプト
オマーン
カタール
カナダ
サウジアラビア
シリア
パキスタン
モロッコ
非戦闘支援
資金援助
 |  イラク
指導者・指揮官
ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハ
ジョージ・H・W・ブッシュ
ディック・チェイニー
ノーマン・シュワルツコフ
コリン・パウエル
ジョン・メージャー
マーガレット・サッチャー
Peter de la Billière
ブライアン・マルルーニー
ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ
アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ
ハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー |  サッダーム・フセイン

アリー・ハサン・アル=マジード
イッザト・イブラーヒーム
ターハー・ヤースィーン・ラマダーン


戦力
959,600 | 545,000 (クウェート領内 100,000)
損害
多国籍軍:
死亡 240-392
負傷 776
クウェート軍:
死亡 1,200 | 死亡 20,000-35,000
湾岸戦争
Gulf War
リスト


湾岸戦争(わんがんせんそう、英語: Gulf Warアラビア語: حرب الخليج الثانية‎)は、1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、国際連合多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。

目次

  • 1 概説
  • 2 湾岸危機(開戦までの経緯)
    • 2.1 イラクとクウェートの摩擦
    • 2.2 イラクのクウェート侵攻
    • 2.3 多国籍軍
    • 2.4 イラクの反応
    • 2.5 「人間の盾」
  • 3 戦争推移
    • 3.1 砂漠の嵐
    • 3.2 周辺諸国攻撃
    • 3.3 砂漠の剣
    • 3.4 停戦協定
  • 4 損失
    • 4.1 一般市民
    • 4.2 イラク
    • 4.3 連合国
      • 4.3.1 友軍相撃
  • 5 被害と補償
    • 5.1 クウェートにおける石油火災
    • 5.2 ペルシア湾への石油流出
    • 5.3 戦後補償
    • 5.4 国境画定問題
  • 6 戦費
  • 7 投入兵器
  • 8 テロリストへの影響
  • 9 レバノン内戦への影響
  • 10 日本への影響
  • 11 多国籍軍に参加した国一覧
  • 12 投入された兵器一覧
    • 12.1 多国籍軍
    • 12.2 イラク軍
  • 13 呼称の変動
    • 13.1 作戦名
    • 13.2 戦闘
  • 14 脚注
    • 14.1 注釈
    • 14.2 出典
  • 15 参考文献
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

概説

1990年8月2日、イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表した。これに対し、諸外国は第二次世界大戦後初となる、一致結束した事態解決への努力を始めた。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めるとともに、11月29日に武力行使容認決議である決議678を米ソは一致して可決し、マルタ会談とともに当時の冷戦の終結を象徴した。翌年1月17日にアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開し、同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国政府はこれに応じ、いわゆる多国籍軍が構成され、これは第二次世界大戦以来の連合であった。アメリカ軍が多くを占めるこの連合軍にはノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将が司令官となり、イギリスフランスなどといったヨーロッパのみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国(湾岸協力会議)やアラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じバアス党政権のシリアのような親ソ連の国も参加した。この湾岸戦争に参加したアラブ諸国はシュワルツコフではなく、サウジアラビアのハリド・ビン・スルタン陸軍中将の指揮下に置かれた。

国際連合により認可された、34ヵ国の諸国連合からなるアメリカ、イギリスをはじめとする多国籍軍は、バース党政権下のイラクへの攻撃態勢を整えていった。イラク政府による決議履行への意思無きを確認した諸国連合は、国連憲章第42条に基づき、1991年1月17日にイラクへの攻撃を開始した。

イラクのサッダーム・フセイン大統領は開戦に際し、この戦いを「すべての戦争の母」と称した。また呼称による混乱を避けるため、軍事行動における作戦名から「砂漠の嵐作戦」とも呼ばれるこの戦争は、「第1次湾岸戦争」、また2003年のイラク戦争開始以前は、「イラク戦争」とも称されていた。

このクウェートの占領を続けるイラク軍を対象とする戦争は、多国籍軍による空爆から始まった。これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。

空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。

戦費約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた。

湾岸危機(開戦までの経緯)

イラクとクウェートの摩擦

1988年8月20日に、イラクはシーア派イスラーム共和制国家のイランとの8年間に及ぶイラン・イラク戦争停戦を迎えた。

サッダーム・フセイン。

戦争中に五大国のアメリカ、ソビエト連邦中華人民共和国、イギリス、フランスや経済的に豊かなペルシア湾岸のアラブ諸国に援助され、イスラエルをのぞいた中東では最大かつ世界的にも第四位の軍事大国となったが、600億ドルもの膨大な戦時債務を抱え、戦災によって経済回復も遅れていた。イラクの外貨獲得手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレルあたり15~16ドルの安値で、イラク経済は行き詰っていた。

イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農産物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセイン大統領は追い詰められた。

フセイン大統領はOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。この要求は突然のものではなく、7月10日にサウジアラビアのジッダで開かれたサウジアラビア、クウェート、イラク、カタールアラブ首長国連邦の産油5カ国による石油相会議において、原油価格引き上げを希望していたが、OPECは聞き入れなかった。

一方、サウジアラビアとクウェート、アラブ首長国連邦がOPECの割当量を超えた石油増産を行っていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウード家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートとアラブ首長国連邦はOPECを完全無視し大量採掘、原油価格は値崩れし石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。

1990年7月17日、イラク革命記念日での演説においてフセイン大統領は「一部のアラブ諸国が、世界の原油価格を下落させることにより、イラクを毒の短剣で背後から突き刺そうとしている。彼らが言葉で警告しても分からないのならば、なんらかの効果的手段を取る」と間接的にクウェートとアラブ首長国連邦を非難した。

これを受けて、アラブ首長国連邦は石油増産を一応縮小したが、クウェートはいかなる行動も起こさなかった。7月18日、イラクのターリク・アズィーズ外相は、クウェートとアラブ首長国連邦がOPECの生産協定を破り、生産枠を越えた石油生産により、アラブ全体で5000億ドルもの損失を被ったと主張。そしてクウェートに限れば、イラクが890億ドルの損害を被ったばかりか、イラクの領土にあるルマイラ油田から石油を盗掘しているとし、盗掘が1980年代から続いており、イラクは24億ドルも損をしていると述べた。さらにクウェートが、国境付近のイラク領内に軍事基地を建設していると非難した。

クウェートはルマイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田は、イラクも領有を主張、過去幾度か帰属を巡って対立してきた歴史がある(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)。イラクの批判に、クウェートのジャービル首長は、単なる金目当ての脅しと判断し、イラクの主張を否定すると共に、軍を動員した。また、クウェート国内では石油利益配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。

この事態に周辺アラブ諸国が仲介に乗り出し、7月20日、サウジアラビアのサウード・アル=ファイサル外相が同国のファハド国王の親書を携えてイラクを訪問。同日、アラブ連盟のチェディル・クライビー事務総長がクウェートを訪れてジャービルを説得した。そして、クウェート政府はイラクとの間で盗掘問題を交渉することに合意したと発表し、軍の動員も解除した。 これらの外交交渉は実は、内心イラクの軍事的脅威を恐れるクウェート側がサウジアラビアやアラブ連盟に19日の段階で働きかけていたものだった。7月21日には、エジプトのホスニー・ムバラク大統領が、フセイン大統領と電話で会談し、慎重な対応をするように説いた。22日にはエジプトをアズィーズ外相が訪れたが、同日、イラク国営通信は、「クウェートは湾岸への外国勢力侵入に手を貸している」というイラク政府報道官の談話を発表し、国営紙「ジュムフーリーヤ」も「クウェートはまだイラクの油田盗掘を止めていない」と、イラクによる激しいクウェート非難は収まらなかった。

事態を重く見たムバラク大統領は、問題解決のためにイラク・クウェート両国を訪問する意思があると表明し、アラブ外相会議の開催を求めた。一方で、当事者であるイラクとクウェートに対しては非難合戦を止めるよう求めた。しかし、そんなアラブ各国の動きを横目に、イラクは7月24日、クウェート国境に3万人の兵力を集結。同日、ムバラク大統領はイラクを訪問し、フセイン大統領に対してクウェートへ軍事行動を起こさぬよう釘をさし、イラク、クウェート、サウジアラビア、エジプトから成る4カ国会議を提案した。これに対してフセイン大統領は、クウェート側への要求として、石油盗掘分の24億ドルの支払い、国境画定に向けた直接交渉を求め、受け入れられなければイラクは軍事行動を取ると述べた。 ムバラク大統領の提案した4カ国会議は、クウェートに有利なものであったため、イラクが孤立することを恐れたフセイン大統領は、7月25日に4カ国会議を拒否し、あくまでもクウェートとの直接交渉を求めた。

同日、フセイン大統領と会談を行ったアメリカのエイプリル・グラスピー駐イラク特命全権大使が、この問題に対しての不介入を表明したこともあり、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に共和国防衛隊集結をアメリカ軍の偵察衛星も確認した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。

アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はあくまでクウェートに対する脅しと考え、まるで相手にしなかった。OPECはフセイン大統領を懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセイン大統領はすでに交渉による解決に関心を示さなかった。一方クウェートは、充分な防衛体制を敷かなかった。7月31日のジッダで開かれた両国会談では、イラク側代表のイッザト・イブラーヒーム革命指導評議会副議長がこれまでの要求に加えて、イラクが長年領有権を主張していたワルバ島ブービヤーン島をイラクに割譲せよ、と要求をエスカレートさせた。これに対してクウェート側代表のサアド首相はイラクの要求を拒否すると共に、話し合いの継続を希望するとだけ答えた。イラクは、次回協議をバグダードで開くことをほのめかし、会議は成果無く終了した。

8月1日に、両国を仲介していたムバラク大統領とパレスチナ解放機構(PLO)のヤーセル・アラファト議長は「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。

イラクのクウェート侵攻

クウェート市
サウジアラビアのスルターン・ビン・アブドゥル=アズイーズ皇太子と会談するアメリカのディック・チェイニー国防長官。
会見を行うフセイン大統領。
詳細は「クウェート侵攻」を参照

1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とする共和国防衛隊機甲師団10万人はクウェート侵攻を開始。ムバラク大統領とアラファト議長を完全に出し抜いた格好だった。なお、イラク軍にすらこの侵攻計画は事前に知らされておらず、参謀総長や国防大臣は侵攻をテレビやラジオの報道で聞かされ寝耳に水の状況だった。

クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにはクウェート全土を占領。同時に革命指導評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、クウェートにおいて革命を起こした暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人による傀儡政権だったと見られる)の要請により介入したと報じた。一方、クウェートのジャービル3世首長はサウジアラビアへ亡命した。異父弟のファハドも少人数の警護隊とともに宮殿内での銃撃戦により死亡した(一説には、乗っていた飛行機がクウェート国際空港で足止めされたところをイラク軍に拘束され殺害されたともいう)。クウェート暫定政府はアラー・フセイン・アリーを首班とするクウェート共和国と名前を変えたが、翌日にはイラクに併合された。

多国籍軍

イラクの軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求める安保理決議660を採択、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う決議661も採択した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、決議661の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。

8月7日、アメリカのブッシュ大統領は「サウジアラビアへのイラクによる攻撃もあり得る」と説得し、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内にメッカという聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、友好国ではあるものの異教徒の国の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。

しかし、サウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていた。バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。

しかし国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは「有志を募る」という形での多国籍軍での攻撃を決め、アメリカの同盟国かつクウェートと歴史的につながりの深いイギリスやフランスなどもこれに続いた。エジプト、サウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、アメリカと敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(砂漠の盾」作戦)。

イラクの反応

イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として併合を宣言、8月28日にはクウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク第19番目の県「クウェート県」に再編すると発表した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。

8月12日にイラクは「イスラエルのパレスチナ侵略を容認しながら今回のクウェート併合を非難するのは矛盾している」と主張(いわゆる「リンケージ論」)、イスラエルのパレスチナ退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった。10月8日にエルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった。またこの主張によりPLOはイラク支持の立場を表明、結果クウェートやサウジアラビアからの支援を打ち切られて苦境に立ち、後のオスロ合意調印へと繋がる事になった。

「人間の盾」

さらにイラクは8月18日に、クウェートから脱出できなかった外国人を自国内に強制連行し「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表し、その後日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「人間の盾」として監禁した。

なおこの中には、クウェートに在住している外国人のみならず、日本航空ブリティッシュ・エアウェイズの乗客や乗務員など、イラク軍による侵攻時に一時的にクウェートにいた外国人も含まれていた。この非人道的な行為は世界各国から大きな批判を浴び、のちにイラク政府は小出しに人質の解放を行い、その後多国籍軍との開戦直前の12月に全員が解放された。

だが、その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(いわゆる「対イラク武力行使容認決議」)を採択した。

戦争推移

「砂漠の嵐」作戦進路
多国籍軍のコリン・パウエル、ノーマン・シュワルツコフ司令官、とアメリカのポール・ウォルフォウィッツ(左から)。
シェルターに避難するイスラエル市民。

砂漠の嵐

1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃(「砂漠の嵐作戦」)を開始。宣戦布告は行われなかった。この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、アメリカ海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、アメリカ空軍B-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を生中継して世界に実況報道した。

1月27日にアメリカ中央軍司令官であったアメリカ陸軍のノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。

アメリカ空軍はイラク軍防空組織に最初期から攻撃を加えており、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。これによって戦闘開始直後からイラク空軍の組織的な防空戦闘は困難となり、多くの航空機がイランなどの周辺国へと退避した。ただし開戦初日にはイラク空軍MiG-25によりF/A-18が撃墜されている。また、イラクの防空体制がまだ機能している状況下で、JP233による攻撃を行ったイギリス空軍のトーネードIDSは、多国籍軍の攻撃機としては、最も多くの犠牲を出した。

周辺諸国攻撃

一方、フセイン大統領は「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教キリスト教などの異教徒)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。

イスラエルは開戦直前にモサッドなどによりフセイン大統領が攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスク(イラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した。

イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるというフセインの目論見通りになることを恐れたアメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセイン大統領のもくろみは失敗した。続いてイラクはサウジアラビアとバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、「異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろう」という試みであったが、「不法な侵略者イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。

アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役立っていなかったことが判明した(これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。

詳細は「ブラヴォー・ツー・ゼロ」を参照
【画像外部リンク】

「ブラヴォー・ツー・ゼロ」のメンバー

またスカッドを捕捉、破壊するためイギリス特殊空挺部隊(SAS)偵察チームがイラク後方に潜入したが、偵察チームの多くはイラク軍に捕捉され、死傷者が出た。特にアンディ・マクナブ軍曹の指揮する偵察チーム、コールサイン「ブラヴォー・ツー・ゼロ」は8名中3名が死亡、マクナブを含めて4名が捕虜となり、ただ1人クリス・ライアン伍長だけがシリアへの脱出に成功した。

1月29日、イラク軍はサウジアラビア領のペルシャ湾上にあるカフジ油田を奇襲攻撃。しかし戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。

砂漠の剣

塹壕で訓練中のスタッフォードシャー連隊第1大隊C中隊(イギリス陸軍第1機甲師団)の兵士たち(1991年1月6日)。

1か月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止された。同日、多国籍軍は地上戦(「砂漠の剣」作戦)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。

大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く主要のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は反撃もできずに一方的に撃破され、また続々と投降した。

イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させた。しかし、抵抗はここまでであった。地上戦開始から100時間後にイラク軍は二本の幹線道路に長蛇の列を作って撤退開始、2月26日から翌日にかけてそれを米軍機は猛爆し、死のハイウェイと化し、夜が明けた頃には無数の焼け焦げた車両と焼死体が散乱していた。2月27日にはクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。2月28日の朝(イラク時間)に戦闘が終結した。

アメリカのブッシュ大統領は記者会見で、「クウェートは解放された。」「イラク軍は敗北した。我々の戦闘目的は達成された。多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利である。」と述べた。一方で、イラクのフセイン大統領は、「あなたがたは勝利したのだ、イラク国民よ。イラクこそ勝者である。イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだ」と強弁した。

3月3日には暫定停戦協定が結ばれた。

停戦協定

3月3日に、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、米英の介入はないと見たフセイン大統領は温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。

国連では1ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。また、核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。

その後の詳細はイラク武装解除問題およびイラク戦争を参照。

損失

一般
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出典:wikipedia
2019/11/26 16:39

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