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琉球王国とは?

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琉球国
琉球國


 | 1429年 - 1879年 | 

奄美群島を含む最大版図の頃の琉球王国
公用語 琉球語の内、主に沖縄方言
首都 首里
国王→藩王
1421年 - 1439年 尚巴志王(初代)
1469年 - 1476年 尚円王(第二尚氏初代)
1847年 - 1879年 尚泰王(最後)
三司官(最後)
1872年 - 1879年 浦添親方朝昭
1875年 - 1879年 富川親方盛奎
1877年 - 1879年 與那原親方良傑
面積
1571年 - 1609年 3,454km²
1609年以降 2,223km²
人口
1632年 108,958人
1729年 173,969人
1879年 286,787人
変遷
王国成立(三山の統一) 1429年
第二尚氏王統成立 1469年
琉球藩設置 1872年10月16日
琉球藩廃止・沖縄県設置 1879年4月4日

【現在】
日本
  • 1. ^ 琉球藩時代も含む。
  • 2. ^ 現在の那覇市首里に相当。
  • 3. ^ いずれも推定。1609年以降、奄美群島薩摩藩領になっている。
  • 4. ^ 薩摩藩による人口調査「宗門手札改」による。『図説琉球王国』(高良倉吉・田名真之 編、河出書房新社、1993年)参照。
  • 5. ^ 『沖縄門中事典』(宮里朝光 監修、那覇出版社、2001年)参照。

琉球王国(りゅうきゅうおうこく)は、1429年から1879年の450年間、琉球諸島を中心に存在した王国。当時、正式には琉球國(りゅうきゅうこく、沖縄方言:ルーチュークク)と称した。

最盛期には奄美群島沖縄諸島及び先島諸島までを統治した。この範囲の島々の総称として、琉球列島(琉球弧)ともいう。王家の紋章は左三巴紋で「左御紋(ひだりごもん、フィジャイグムン)」と呼ばれた。

勢力圏は小さな離島の集合で、総人口17万に満たない小さな王国ではあったが、隣接する大国海禁日本鎖国政策の間にあって、東シナ海の地の利を生かした中継貿易で大きな役割を果たした。その交易範囲は東南アジアまで広がり、特にマラッカ王国との深い結び付きが知られる。

外交的に貿易上の理由から、明及びその領土を継承した清の冊封を受けていたが、1609年に日本の薩摩藩の侵攻を受けて以後は、薩摩藩による実質的な支配下に入った。ただし対外的には独立した王国として存在し、中国大陸、日本の文化の影響を受けつつ、交易で流入する南方文化の影響も受けた独自の文化を築き上げた。

目次

  • 1 国号
    • 1.1 「琉球」が指す範囲の変遷
  • 2 民族
  • 3 歴史
    • 3.1 三山統一
    • 3.2 第二尚氏王統
      • 3.2.1 16世紀の琉球人
    • 3.3 薩摩による琉球侵攻
    • 3.4 黒船来航
    • 3.5 琉球処分
  • 4 政治
    • 4.1 王府行政機構図
    • 4.2 王府行政機構
      • 4.2.1 評定所
      • 4.2.2 物奉行所
      • 4.2.3 申口方
  • 5 文化
    • 5.1 文学
      • 5.1.1 おもろさうし
      • 5.1.2 琉歌
      • 5.1.3 和歌
      • 5.1.4 漢詩
    • 5.2 絵画
    • 5.3 琉球舞踊
    • 5.4 音楽
    • 5.5 工芸
      • 5.5.1 陶芸
    • 5.6 武芸
    • 5.7 馬術
    • 5.8 食文化
  • 6 経済
  • 7 軍事
  • 8 言語
  • 9 宗教
    • 9.1 琉球神道
    • 9.2 神道
    • 9.3 仏教
    • 9.4 道教
    • 9.5 キリスト教
  • 10 身分制度
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

国号

現在は「琉球王国」という表記が一般的だが、当時の名称は琉球國(りゅうきゅうこく、ルーチュークク)である。「琉球」という名称は、7世紀中国の史書『隋書』卷81 列傳第46 東夷 流求國條に記述される、大業6年(610年)にが侵攻した国、流求に由来するが、この「流求」がそのまま「琉球王国」(今日の沖縄県周辺)を指したわけではない(後述)。との交易が本格化した14世紀頃には「琉球」が今日の沖縄県域周辺の呼称として定着し、「琉球國」という国号は1872年の日本政府による琉球藩設置(琉球王国の廃止)まで用いられた。

「琉球」が指す範囲の変遷

「琉球」の初期の表記である「流求」の語は、636年に『隋書』「東夷伝」に記述があるのが史書における初出である。隋書においては、「流求」は福建省の東海上に位置する一介の島嶼としている。隋書に続く時代の『北史』、『通典』、『諸蕃志』においては『隋書』の記述を踏襲し、『太平寰宇記』(代の地理書)においても内容に大差はなかった。代に完成した『文献通考』においては、「琉球」は台湾沖縄県周辺を混同して指す記述となっている。一方「沖縄(おきなは)」の語の初出は779年、『唐大和上東征伝』に「阿児奈波」と表記されたものである。

その後13世紀まで、北から奄美群島沖縄諸島先島諸島台湾のいずれの地域も小勢力の割拠状態が続き、日本列島の役所が置かれた奄美群島(喜界島)以外は、中国大陸や日本列島の中央政権からの認識が薄い状態であった。14世紀、沖縄本島中部を根拠地とする中山王が初めて明の皇帝に朝貢したことで認識が高まり、朝貢した沖縄地方を「大琉球」、台湾を「小琉球」とする区分が生まれた。その後、「琉球」は琉球王国(琉球国)の勢力圏を指す地域名称として定着していく。

14世紀中頃に作成された行基図では、龍及として国名が書かれており日本国内でも知名度が高かったことがうかがえる。

近代に入って「琉球(流求)」の語が指す地理的領域の考察が進んだ。1874年(明治6年)にサン・デニーが『文献通考』の一部を翻訳し、その琉球条により流求は台湾であるとする説を発表した。1895年(明治28年)にはグスタフ・シュレーゲルが、以前の「琉球」は台湾のことを指し、以降は沖縄県周辺のことを指すようになったとする説を発表した。1897年ルートヴィヒ・リース(当時、帝国大学文科大学(現東京大学)史学科の教授)は著書『台湾島史』(吉国藤吉訳、1898年)において、「流求」は台湾を指すとした。

民族

琉球王国の正史中山世鑑』や『おもろさうし』などでは、12世紀源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき、1922年(大正11年)には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「上陸の碑」と刻まれて、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている。『中山世鑑』を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている。沖縄学の研究者の伊波普猷は、琉球の古語や方言に、中国文化の影響が見られない7世紀以前の日本語の面影が残っているため、中国文化流入以前に移住したと見ている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀から12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されており、遺伝子研究では、沖縄県民は遺伝子的に中国人台湾人とはとても遠く、九州以北の本土住民と近く、同じ祖先を持つという研究結果も複数出ている。

1336年には、から久米三十六姓が琉球に渡っている。

歴史

三山統一

1429年第一尚氏王統尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと見なされている。

第一尚氏は大和(日本本土)や中国(明)・朝鮮半島(李朝)はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大した。第一尚氏王統、第6代の尚泰久王は、万国津梁の鐘を鋳造せしめ、海洋国家としての繁栄を謳歌した。

しかし、一方で第一尚氏の権力基盤は不安定であった。統一後も依然として地方の諸按司や豪族の勢力が強く、ついに王府が有効な中央集権化政策を実施することはなかった。尚泰久自身、王位継承権争い(志魯・布里の乱)の両者が滅んだため即位したのであり、その治世の間にも阿麻和利・護佐丸の乱が起き、これを平定している。これは地方豪族の力が強かったことを示している。後継の尚徳王は喜界島親征といった無謀ともいえる膨張政策を取ったため、政権としては63年間で瓦解した。尚泰久が抜擢した重臣・金丸(尚円王)のクーデタによるものである。

第二尚氏王統

1462年尚泰久王の重臣であった金丸(尚円王)が、尚徳王薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、尚徳王の世子は殺害されており、クーデターによる即位であったと考えられている。

その後、第二尚氏王統は、尚真王の時代に地方の諸按司を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功した。彼の治世において、対外的には1500年には石垣島にてオヤケアカハチの乱を平定し、さらに1522年には与那国島を制圧して、現代まで続く先島諸島の統治権を確立した。1571年には奄美群島北部まで進軍して勢力下におさめ、最大版図を築いた。

琉球王は、明国に対しては朝貢国として、形式上その臣下となることを強いられたが、一方で、国内では、時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性がある。その例として、『朝鮮王朝実録』には、1545年に朝鮮からの琉球への漂着民が残した証言として、「王は紅錦の衣を着て、平天冠をかぶり、一人の僧侶と対面して紫禁城遥拝の儀礼を行っている」(『朝鮮明宗実録』)という記述がある。

16世紀の琉球人

1515年ごろに東方についての書物を著したポルトガル人のトメ・ピレスは、琉球が中国と盛んに交易した様を伝え、琉球人の気質について「彼らは正直な人間で、奴隷や娼婦を買わないし、たとえ全世界とひきかえでも、自分たちの同胞を売るようなことはしない。彼らはこれについては死を賭ける。レキオ人(琉球人のこと)は偶像崇拝者である。彼らは色の白い人々で、シナ人よりも良い服装をしており、気位が高い」と記した。

薩摩による琉球侵攻

詳細は「琉球侵攻」を参照

16世紀後半、豊臣秀吉とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。

1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。

これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝であるにも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。

黒船来航

1853年(琉球暦:咸豊3年、和暦:嘉永6年)5月に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍マシュー・ペリー提督首里城に入って開港を求めた。黒船は翌1854年にも来航し、両国は琉米修好条約を締結して那覇が開港した。ペリーは、琉球が武力で抵抗した場合には占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。

琉球処分

1871年明治政府廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。そのため1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。琉球の王族は、日本の華族とされた。しかし琉球士族の一部はこれに抗して清国に救援を求め、清国も日本政府の一方的な処分に抗議するなど問題は尾を引いた。外交交渉の過程で、清国への先島分島問題が提案され、アメリカ合衆国大統領グラントの熱心な調停もあって調印の段階まで進展したが、最終段階で清国が調印を拒否して分島問題は流産、のちの日清戦争における日本側の完勝をもって琉球全域に対する日本の領有権が確定した。

なお、尖閣諸島の領有問題や東シナ海のガス田開発に絡めて、琉球処分そのものが無効であって、琉球は中国の領土であると主張するが、過去の冊封関係をもって現代中国の領有権主張の根拠とは出来ず、また琉球処分が無効である根拠も尚泰王、第二尚氏王統第19代にして最後の琉球国王が日本の琉球藩王とされた後に侯爵の身分を享受したことからも明らかではない。

政治

王府行政機構図

王府行政機構図
宝座 | 国王


所 | 御座 | 摂政
三司官
下御座 | 表十五人
中央政庁 | 物奉行所 | 申口方
用意方物奉行所 | 給地方物奉行所 | 所帯方物奉行所 | 平等方 | 泊地頭 | 双紙庫理 | 鎖之側
物奉行 | 物奉行 | 物奉行 | 平等之側 | 泊地頭 | 双紙庫理 | 鎖之側
吟味役 | 吟味役 | 吟味役 | 吟味役 | 吟味役 | 吟味役 | 日帳主取 | 日帳主取
役座
(役所) |  |  |  |  |  |  | 

王府行政機構

琉球王国の行政の中心・首里城(世界遺産)

評定所

評定所は国政を司る王府最高機関である。摂政および三司官が執務する場所は御座もしくは上御座と呼ばれ、表十五人が控える場所は下御座と呼ばれた。

摂政
摂政(シッシー)は日本の摂政職に近いが、ほぼ常設の官職である。国王を補佐し、三司官に助言を与える役目だが、辣腕をふるった羽地王子朝秀などを例外にすれば、通常は儀礼的な閑職であった。王子や按司など、王族から選ばれた。
例外は薩摩の侵攻直後に就任した僧菊隠で、これは薩摩との交渉役を期待されたためである。漢訳で国相と言った。
三司官
三司官(さんしかん)は実質的な行政の最高責任者であり、宰相に相当する。三人制で投票により親方の中から選ばれた。選挙権を持つ者は王族、上級士族ら200余名であった。王族には選挙権はあるが、被選挙権は無かった。
職掌は、用地方、給地方、所帯方に分かれ、3人がそれぞれを分担した。三司官の品位は正一品から従二品で、士族が昇進できる最高の位階であった。漢訳で法司と言った。
表十五人
表十五人(おもてじゅうごにん)は、摂政・三司官の下に位置する、物奉行3人、その下の次官級の吟味役3人、申口方の長官4人、その下の次官級の吟味役3人・日帳主取2人を合わせた計15名からなる協議機関である。国政の重要課題を協議し、摂政・三司官に上申するなどした。十五人衆、奉行衆とも言う。現在の国務大臣に相当する。
尚賢王の治世の1643年に置かれたが、表十五人は正式な官職名というよりは通称であり、普段はそれぞれの役所の長官および次官として働き、必要があれば集まって協議した。それゆえ、評定所の常設官職には含まれない。

物奉行所

物奉行所は用意方、給地方、所帯方の3つの物奉行所からなり、それぞれに物奉行が一人いた。各物奉行は、同じく各物奉行所を担当するそれぞれの三司官の監督のもとで職務を行った。物奉行は今日の大臣・長官に相当し、その下に次官級の吟味役が置かれた。主に物奉行は親方(従二品)が、吟味役は親雲上(ペークミー・正四品)がその任に就いた。

用意方物奉行所
用意方(よういほう)は国有財産の管理・山川保全などを職掌とする官庁である。山奉行所、砂糖蔵、用意蔵、大台所、料理座、催促方の各役所を管轄した。
給地方物奉行所
給地方(きゅうちほう)は役人の給与・旅費などを職掌とする官庁である。船手蔵、高所、勘定座、用物座、給地座、救助蔵、道具当の各役所を管轄した。
所帯方物奉行所
所帯方(しょたいほう)は租税・国庫の出納などを職掌とする官庁である。田地方、取納座、座検者方、諸製方、米蔵、仕上世座、宮古蔵、銭蔵、賦方、蘇鉄方、紙座、櫨垂方、請地方の各役所を管轄した。

申口方

申口方(もうしぐちほう)は平等方、泊地頭、双紙庫理、鎖之側の四官庁からなる。平等方を除いて、それぞれ官庁名であると同時にその長官名を指した。各長官の下には次官級の吟味役か日帳主取が置かれた。申口方の長官は親雲上(正三品)が、その下の次官級は親雲上(正四品)がその任に就いた。従って、申口方の長官は物奉行よりも品位が下に位置する。長官は漢訳で耳目官と言った。

平等方
平等方(ひらほう)は司法(裁判所・警察署)と首里の土地山林を職掌とする官庁である。平等所とも言う。長官名は平等の側(ひらのそば)と言った。他に王家陵墓・玉陵の警備なども管轄した。
泊地頭
泊地頭(とまりじとう)は戸籍、民事、公安、消防、宗教、建設および琉球第二の貿易港のある泊村を職掌とする官庁およびその長官名である。寺社座、大与座、総横目、泊村方、普請奉行所、鍛冶奉行所、亙奉行所、総与力の各役所を管轄した。
双紙庫理
双紙庫理(そうしこり)は知行、褒賞、工芸や宮中のことを職掌とする官庁およびその長官名である。下庫理、書院、納殿、小細工奉行所、貝摺奉行所、厩方の各役所を管轄した。
鎖之側
鎖之側(さすのそば)は外交、文教などを職掌とする官庁およびその長官名である。御系図座、久米村方、那覇里主所、国学、久米村明倫堂、首里三平等学校所、那覇四町学校所、泊村学校所、首里各村学校所、、諸浦在番の各役所を管轄した。

文化

琉球王国は、律令制を参考にした政治や、士族は中国風の名前も持つなど、最大の交易相手だった中国の影響を強く受けた。一方で書き言葉は主に漢字かな交りの和文を用い、神社を建立するなど日本の文化的影響下にもあり、羽地朝秀による改革により王朝の支配に武家政権の要素が取り入れられた。琉球は、日中双方の文化や制度を受け入れつつ、独自の文化を育んでいた。

文学

おもろさうし

尚清王から尚豊王の治世にかけての1531年から1623年の間に、琉球最古の歌謡集『おもろさうし』が編纂された。古来から伝わる歌謡(おもろ)を平仮名を主とする日本語で著わした歌謡集であり、おもろ1554首が収録されている。

琉歌

17世紀になると、短詩型の叙情歌謡である琉歌が盛んになった。琉歌には様々な形式があるが、一般的には8・8・8・6の30音からなる形がよく知られている。琉歌の名人には惣慶忠義(1686年 - 1749年)、平敷屋朝敏(1700年 - 1747年)、玉城親方朝薫(1684年 - 1734年)、与那原親方良矩(1718年 - 1797年)、本部按司朝救(1741年 - 1814年)、東風平親方朝衛(1701年 - 1766年)等が古来より有名である。これらの歌人は、和歌・和文にも精通していた。女流歌人では、吉屋チルー(1650年 - 1668年)と恩納なべ(尚穆王時代)が双璧としてよく知られている。

和歌

琉球における和歌の起源は史料が乏しいため判然としない。1585年、安谷屋親雲上宗春が豊臣秀吉と大坂で謁見した際、天王寺で開催された歌会に参加した記録があり、この頃にはすでに和歌が詠まれていたのではないかという説もある。一般には、識名親方盛命(1651年 - 1715年)が琉球における和歌の祖と言われている。元禄以前の和歌の名人には、他に屋良親雲上宣易(1658年 - 1729年)、池城親方安倚(1669年 - 1710年)、安仁屋親雲上賢孫(1676年 - 1743年)、石嶺親雲上真忍(1678年 - 1727年)、国頭親方朝斉(1686年 - 1747年)、惣慶忠義らが著名である。

元禄以降、和歌が盛んになり多数の名人を輩出するようになった。平敷屋朝敏、栢堂和尚(1653年 - ?)、東風平親方朝衛、本部按司朝救、読谷山王子朝憲(1745年 - 1811年)、宜野湾王子朝祥(1765年 - 1827年)、浦添按司朝英(1762年 - 1789年)、世名城親雲上盛郁(1774年 - 1833年) 、大工廻親雲上安詳(1791年 - 1851年)、義村按司朝顕(1805年 - 1836年)らが著名である。また、宜湾朝保が和歌集『沖縄集』(1870年)に載せた36人の歌人が沖縄三十六歌仙としてつとに有名である。

漢詩

漢詩は、『喜安日記』(尚豊王時代)に菊隠(? - 1620年)らの漢詩がいくつか収められているように、当初は僧侶達によって作詩された。漢詩集では、程順則が編纂した『中山詩文集』(1725年)が琉球初である。個人の漢詩集としては、蔡鐸『観光堂遊草』、程順則『雪堂燕遊草』、程搏万『焚余稿』、周新命『翠雲楼詩箋』等がある。

絵画

城間清豊筆『白澤之図』

文献で確認できる琉球王国最初の画家は、17世紀前半の城間清豊(自了、代表作に「白澤之図」)である。18世紀に入ると尚敬王の保護により画壇が栄え、中国より朱肉の製法を伝えた山口宗季(呉師虔)、琉球の代表的絵師といわれる殷元良(座間味庸昌、代表作に「神猫図」「雪中雉子の図」)や、国王の肖像御後絵を多く制作した向元瑚(小橋川朝庵)などが輩出した。

琉球舞踊

詳細は「琉球舞踊」を参照

琉球舞踊は、中国からの使節を歓迎するために舞う宮廷舞踊「御冠船踊り」がその起源である。御冠船踊りはすべて貴士族の子弟のみによって踊られた。宮廷舞踊のことを明治以降の舞踊と区別する意味で、古典舞踊とも言う。古典舞踊には、老人踊り、若衆踊り、二才踊り、女踊り、打組み踊りなどがある。

廃藩置県によって琉球王国が消滅し、士族階層が没落すると、古典舞踊を元にして雑踊りと呼ばれる民間舞踊が誕生した。昭和以降には、現代感覚を導入した創作舞踊というジャンルも出現し、これも琉球舞踊に含まれる。

音楽

御座楽の演奏風景
琉球古典音楽」も参照

宮廷音楽として、室内楽の御座楽(うざがく)や、屋外楽の路次楽などがあった。

工芸

染織の技法である紅型漆器には琉球漆器陶磁器には壺屋焼などがある。

陶芸

琉球王国における陶芸は、南方貿易が盛んであった頃、泡盛の容器として輸入された南蛮甕の製法に学んだことに始まる。ここから古我地焼知花焼が生まれる。1617年には薩摩藩から朝鮮の陶工、張献功ら三人が招かれ本格的な技術が伝わる。1670年には平田典通中国()に渡り、釉薬の技術を伝える。また、18世紀には仲村渠致元八重山に陶器製法を伝え、また薩摩藩で技術を習得し白焼陶器を広めた。1682年、古我知、知花、湧田の3箇所の窯が壺屋に統合された。

武芸

琉球王国の詳しい武術については「手 (沖縄武術)」、「空手道」、「琉球古武術」を参照

沖縄固有の沖縄手、中国武術から発展したといわれる唐手などの手(ティー)という武術があった。

馬術

詳細は「琉球競馬」を参照

速さではなく美しさを競う琉球競馬が行われていた。17世紀には王室直轄の競馬場も設けられた。また、組踊の中にも、競馬の登場する作品がある。

食文化

琉球料理 王族や上級士族が居住した首里では洗練された宮廷料理が作られた。その料理の味わいの表現の一つとして「あふぁい(淡い)」というものがある。 一般的には「薄味」と捉えられているようだが「感謝の念から、素材そのものの味を味わい尽くす」ために余計な「味付け」をしない状態であると考えられる。 王族・上級士族は別として、無禄の士族を含む平民は重税によって苦しい生活を強いられた。貴重な動物性タンパクである「」は一般庶民の家で飼われてはいたものの、日常的な食事に供されるものではなく、比較的裕福な家庭でさえ盆や正月といった行事の時にしか口にすることはできない貴重な食べ物だった。そういった時代背景によって庶民が生きるために、ありとあらゆるものを食べるために工夫することを余儀なくされ「豚はひづめと鳴き声以外全て食べる」と形容されるようなところにまで行き着いたと考えられる。

経済

中国への進貢船

琉球はに冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に、海禁政策を行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1つ

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出典:wikipedia
2018/09/24 03:18

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