田中 和基(たなか かずき、1994年8月8日 - )は、東北楽天ゴールデンイーグルスに所属する福岡県福岡市出身のプロ野球選手(外野手)。右投両打。
福岡市立高取小学校3年時に、原少年野球部で野球をスタート。福岡市立高取中学校への入学当初は硬式野球の福岡ウイングスに所属していたが、1年の夏から校内の軟式野球部へ転じた。
西南学院高校への進学後は、両打ちの捕手として、対外試合で通算18本(右打席で10本、左打席で8本)の本塁打を放った。しかし、在学中は春夏とも甲子園に足を踏み入れる事は出来なかった。
立教大学への進学後は、硬式野球部での生活を四軍扱いの「D班」からスタート。東京六大学野球リーグ戦へのベンチ入りを許される「A班」へ昇格したのは、2年時の夏になってからだった。しかし、2年の秋季リーグ戦では、左翼手のレギュラーの座を確保。打撃面でも、左打ちに専念すると、打率.302、2本塁打を記録した。3年時には、春季リーグ戦こそ打率.214、ノーアーチと振るわなかったが、秋季リーグ戦では規定打席不足ながら打率.353を記録。さらに、対明治大学戦で柳裕也と上原健太から2試合連続本塁打を放つなど、谷田成吾(6本)・横尾俊建(5本、いずれも慶応大学)に次ぐ4本の本塁打を記録した。4年時の春季リーグから両打ちに戻すと、1シーズンに両打席で本塁打をマーク。7月には第28回ハーレムベースボールウィークの代表に選出された。在学中には、リーグ戦で通算59試合に出場。打率.270(185打数50安打)、9本塁打、28打点、16盗塁という成績を残した。また、野球部の1学年先輩に大城滉二、同期に田村伊知郎や澤田圭佑がいる。
2016年のNPBドラフト会議で、東北楽天ゴールデンイーグルスから3巡目で指名。契約金6,000万円、年俸1,200万円(金額は推定)という条件で入団した。担当スカウトは沖原佳典で、背番号は25。
2017年、開幕一軍入りを逃したものの、5月17日の対北海道日本ハムファイターズ戦(岩手県営野球場)9回表の守備で、中堅手として一軍公式戦にデビュー。5月19日の対千葉ロッテマリーンズ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、チームの1点ビハインドで迎えた9回表1死から島内宏明の代走に起用されると、次打者・岡島豪郎への初球に二塁への盗塁に成功(一軍公式戦初盗塁)。相手投手・涌井秀章の暴投で三塁へ進むと、次打者の藤田一也の一塁ゴロの間に本塁へ生還して公式戦初得点を記録するなど、持ち味の俊足を強く印象付けた。5月20日の同カードで「9番・右翼手」として初めてスタメンへ起用されると、延長10回表に右投手の有吉優樹から公式戦初安打を二塁打で記録。延長12回表に迎えた次の打席では、左投手の土肥星也から、右打席で決勝のソロ本塁打を放った。一軍公式戦全体では、代走や外野の守備固めを中心に51試合へ出場。打率は.111にとどまったものの、主に代走で盗塁を重ねた結果、全143試合中142試合へ出場したゼラス・ウィーラーと共に、チームトップの7盗塁を記録した。
チームのレギュラーシーズン3位で迎えたポストシーズンでは、クライマックスシリーズで、埼玉西武ライオンズとのファーストステージ(メットライフドーム)および、福岡ソフトバンクホークスとのファイナルステージ(福岡ヤフオク!ドーム)へ2試合ずつ出場。ファーストステージでは二塁打、ファイナルステージでは得点を記録した。その一方で、イースタン・リーグの公式戦では、42試合の出場で打率.295、6本塁打、14盗塁、OPS.858をマーク。7月13日に草薙球場で催されたフレッシュオールスターゲーム2017では、同リーグ選抜チームの「3番・中堅手」としてフル出場を果たした。さらに、シーズン終了後に台湾で開催の2017アジアウインターベースボールリーグにも、NPBイースタン選抜の一員として派遣されている。
2018年、 公式戦の開幕を一軍で迎えたが、開幕直後の4月5日に出場選手登録を抹消。抹消後もイースタン・リーグ公式戦での打率が1割台の前半にまで低迷していたため、池山隆寛二軍監督の勧めでノーステップ打法を導入した(詳細後述)。5月23日から一軍へ復帰すると、中堅手としてスタメンに定着。復帰から1ヶ月足らずの間に(2試合連続を含む)チームトップの4本塁打や8盗塁を記録したほか、セ・パ交流戦直前の対ソフトバンク戦(5月26日)から交流戦期間中(6月8日)の対広島東洋カープ戦(マツダスタジアム)まで11試合連続で安打を放った。8月1日の対オリックス・バファローズ戦(京セラドーム大阪)では、3回表の第1打席で左投手のアンドリュー・アルバースから右打席でシーズン10号本塁打、8回表の第4打席で右投手の近藤大亮から左打席で11号本塁打を記録。NPBの一軍公式戦では2010年の赤田将吾(オリックス)、チームでは2009年のフェルナンド・セギノール以来の1試合両打席本塁打を達成した(左右打席本塁打参照)。9月17日の対ロッテ戦(ZOZOマリン)では、右投手の高野圭佑から左打席でシーズン18号本塁打を放ったことによって、球団の生え抜き選手によるシーズン最多本塁打記録を更新。一軍公式戦通算105試合の出場ながら、パ・リーグの最終規定打席へ初めて到達するとともに、打率.265、18本塁打、45打点、21盗塁という成績を残した。また、パシフィック・リーグ(パ・リーグ)新人王の資格を有していたことから、新人王選考の記者投票で有効投票258票中112票を獲得。チームでは2013年の則本昂大以来3人目、野手としてはチーム史上初の新人王に選ばれた。さらに、シーズン終了後の日米野球では、プロ入り後初めて日本代表のメンバーとして参加。全6試合中3試合でスタメンに起用されたほか、盗塁と得点を記録した。
2019年、日本代表の強化試合(オープン戦期間中の3月上旬にメキシコ代表との2連戦として京セラドーム大阪で開催)に向けた代表のメンバーに選ばれていたが、強化試合の直前にチームの台湾遠征(Lamigoモンキーズとの親善試合)へ同行したところ、「1番・右翼手」として出場した3月1日の親善試合6回裏の守備で打球を追った際にファウルグラウンドで転倒。そのまま起き上がれずに担架で病院へ搬送されると、右足首の捻挫が判明したため、日本代表の辞退を余儀なくされた(オリックスに所属する大城を代替選手として選出)。オープン戦の終盤に実戦へ復帰すると、一軍公式戦の開幕からスタメンに名を連ねたが、開幕後に左手の三角骨を骨折。その影響で打撃が振るわず、4月下旬からのスタメン落ちを経て、5月13日に出場選手登録を抹消された。6月下旬に実戦へ復帰したが、骨折の影響が右打席での打撃に残ることから、事実上左打席に専念している。レギュラーシーズン全体では、一軍公式戦59試合の出場で、打率.188、1本塁打、9打点と1年目とほぼ同じ水準へ逆戻り。シーズン終了後の11月22日には、推定年俸3,200万円(前年から800万円減)という条件で契約を更改する一方で、高校時代の同級生とシーズン中に結婚したことを発表した。
スイッチヒッターとしては珍しいホームランバッター。立教大学の2年時に「D班」から「A班」へ抜擢されたのは、フリーバッティングで3打席連続本塁打を放ったことがきっかけとされる。楽天への入団当初も、内野手出身の沖原スカウトから、「びっくりするほどのパワーを持っている」と評価されていた。
大学時代には、手動計測ながら50メートル走で5秒89、遠投で120メートルを記録している。松坂大輔が剣道を通じて肩を強くしたエピソードに倣って、小学生時代には、6年間にわたって剣道の道場に通っていた。
元来は右利きだが、前述したほどの俊足を生かすために、小学生時代から左打ちに挑戦。大学4年時の東京六大学野球では、春季リーグ戦でトップタイの7個、秋季リーグ戦で単独トップの5個の盗塁を成功させた。楽天への入団後は、左打席で柳田悠岐、右打席で浅村栄斗のバッティングを参考にしながらも、右打席でのバッティングを課題に挙げている。
楽天2年目の2018年シーズン途中からは、自身と同い年の大谷翔平のようなノーステップ打法で左右両打席に臨んでいる。二軍でも打撃が低迷していた時期に、大谷翔平がMLBのロサンゼルス・エンゼルスで左打席から長打を量産していたことを背景に、東京ヤクルトスワローズでの現役選手時代に右の強打者として活躍した池山二軍監督(当時)から軽い口調で「やってみい(『やってみろ』というニュアンスの関西弁)、大谷打法や!」と勧められたことによる。田中自身も「全く打てない以上、とりあえず1回試してみよう」という感覚でノーステップ打法へ取り組み始めたが、打席でのタイミングが取りやすいことや、目線がぶれないこと、バットが一番強く振れるポイントでボールに当たることを発見したという。
学生時代には、学業でも優秀な成績を収めていた。中学生時代に福岡ウィングスを短期間で退団したのは、「練習場が自宅から遠くて、勉強に専念できない」との理由による。福岡県内有数の進学校である西南学院高校時代には、2年時まで理系コースに籍を置いていたが、指定校推薦による立教大学への進学を見越して、3年時に文系コースへ転籍。3年時の評定平均は、5点満点で4.1と高かった。田中によれば、進学先を立教大学に絞ったのは、「(東京六大学野球リーグに参加している他の私立大学に比べて)指定校推薦や一般入試で入学した選手でも、(登録選手としてリーグ戦の)ベンチに入ったり、リーグ戦へ出場したりしていて、高校時代までクリーンアップの座が約束されていた自分にもレギュラー争いのチャンスがあると思ったから」という。
立教大学「D班」時代の練習では、1学年先輩に当たる大泉健斗のサポートを受けていた。大泉は、「C班」(三軍)の外野手として卒業した後に、読売広告社で1年3ヶ月間勤務。2017年7月にニッポン放送へ転職してから、スポーツアナウンサーとしての取材で田中と再会している。
楽天への入団後は、「カー君(かーくん)」というニックネームがファンの間に浸透している。この愛称は、楽天への在籍中に「マー君」と呼ばれていた田中将大投手や、自身の名前の和基(かずき)にちなんで付けられた。