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田中忠政とは?

凡例
田中忠政 【生誕】
天正13年(1585年)
【死没】
元和6年8月7日(1620年9月3日)
【戒名】
陽嶽院殿傑岫玄英大居士
【墓所】
諏訪山吉祥寺
【官位】
従五位下隼人正、従四位下筑後守、侍従
【主君】
徳川秀忠
【藩】
筑後国柳河藩
【氏族】
田中氏
【父母】
父:田中吉政 母:国友与左衛門女・妙寿院
【兄弟】
吉次吉信吉興忠政、女(中原師廉室)
【妻】
正室:徳川家康養女(松平康元女)・久松院

田中 忠政(たなか ただまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名筑後の第2代国主

生涯

天正13年(1585年)、田中吉政の四男として近江にて誕生した。

早くから父の策略で江戸徳川家康のもとへ人質として送られ、このとき、家康の計らいで従五位下・隼人正となる。また、慶長10年(1605年)には江戸幕府2代将軍徳川秀忠の上洛に随行した。

慶長14年(1609年)4月3日、父の死により家督を継ぐ。これは、忠政が家康と親しかったことに加え、長兄の吉次が父の勘気を受けて追放され、次兄の吉信は亡くなっていて(没年は慶長15年(1610年)説もあり)、三兄の吉興も病弱とし、家督を継いだのである。ちなみに同年、秀忠の計らいで従四位下・侍従となる。

その後は江戸城西の丸の普請、柳河の開拓などで功を顕す。名古屋城の石垣建設にも携わった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、冬の陣において徳川方として参戦し、翌年の夏の陣でも徳川方として参戦しようとしたが、家臣団の一部で旧主の豊臣家に与するべきという反論が起こり、さらに財政難などもあって遅参した。このため、駿河にいる家康に謝罪し、罪は許されたが、代償として7年間の江戸滞留を命じられた。元和2年(1616年)、家康が死去すると領内の山本郡善導寺(久留米市善導寺町飯田)に東照権現宮(東照宮に相当)を勧請した。一方で、父と同じくキリスト教に大きな興味を示して信者を手厚く保護した。家臣の一人がキリシタンを殺害したのを知って激怒し、その家臣を即座に処刑したほどであった。

元和6年(1620年)8月7日、36歳で死去した。嗣子がなく、柳河藩田中家は無嗣断絶となり改易された。幕府の禁教令の中でキリスト教を保護したのは稀有なことであり、その件が幕府の不興を買って改易に結びついたとの指摘もある。忠政の遺骸は神田吉祥寺に葬られたが、甲冑を著して埋葬されたという記述がある。また、供養塔が龍護山千光寺(久留米市山本町)にある。また、位牌浄土宗大本山善導寺に祀られている。

なお、忠政の死後、三兄・吉興は近江に2万石を与えられ、田中家の名跡を継いだ。

参考文献

脚注

  1. ^ 「日本歴史地名大系 福岡県の地名」
  2. ^ 忠政は曹洞宗に改宗した。
田中氏柳河藩2代藩主 (1609年 - 1620年)
田中家 | 

立花家 | 
  • 立花宗茂1620-1638
  • 立花忠茂1638-1664
  • 立花鑑虎1664-1696
  • 立花鑑任1696-1721
  • 立花貞俶1721-1744
  • 立花貞則1744-1746
  • 立花鑑通1746-1797
  • 立花鑑寿1797-1820
  • 立花鑑賢1820-1830
  • 立花鑑広1830-1833
  • 立花鑑備1833-1845
  • 立花鑑寛1845-1871
  • 廃藩置県


  • ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    出典:wikipedia
    2019/11/18 19:46

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