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田中義一とは?

田中 義一
たなか ぎいち
礼装である大礼服を着用した田中

【生年月日】
1864年7月25日
(元治元年6月22日)
【出生地】
日本 長門国阿武郡
(現:山口県萩市)
【没年月日】
(1929-09-29) 1929年9月29日(65歳没)
【死没地】
日本 東京府
【出身校】
陸軍大学校卒業
【前職】
軍事参議官
【所属政党】
立憲政友会
【称号】
陸軍大将
正二位
勲一等旭日桐花大綬章
功三級金鵄勲章
男爵
【配偶者】
田中壽天
【子女】
田中龍夫(長男)
【親族】
小澤太郎(娘婿)
小澤克介(孫)
【サイン】

第26代 内閣総理大臣

【内閣】
田中義一内閣
【在任期間】
1927年4月20日 - 1929年7月2日
天皇
昭和天皇
第42代 外務大臣(首相兼任)

【内閣】
田中義一内閣
【在任期間】
1927年4月20日 - 1929年7月2日
初代 拓務大臣(首相兼任)

【内閣】
田中義一内閣
【在任期間】
1929年6月10日 - 1929年7月2日
第45代 内務大臣(首相兼任)

【内閣】
田中義一内閣
【在任期間】
1928年5月4日 - 1928年5月23日
第30代 陸軍大臣

【内閣】
第2次山本内閣
【在任期間】
1923年9月2日 - 1924年1月7日
その他の職歴

第26代 陸軍大臣
(1918年9月20日 - 1921年6月9日)
貴族院議員
(1926年1月29日 - 1929年9月29日)
第5代 立憲政友会総裁
(1925年 - 1929年)

田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日(元治元年6月22日) - 1929年(昭和4年)9月29日)は、日本陸軍軍人、政治家。階級陸軍大将勲等勲一等功級功三級爵位男爵

陸軍大臣貴族院議員内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 軍人として
    • 1.2 軍人から政党政治家へ
    • 1.3 田中義一内閣
    • 1.4 総辞職後・エピソード
  • 2 親族
  • 3 栄典
  • 4 関連項目
  • 5 脚注
    • 5.1 注釈
    • 5.2 出典
  • 6 参考文献
    • 6.1 史料
    • 6.2 文献
  • 7 外部リンク

生涯

軍人として

軍装を着用した田中

萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現:山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという。

13歳で萩の乱に参加。若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。

日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。

1910年(明治43年)、在郷軍人会を組織した。

1915年(大正4年)、参謀次長原内閣第2次山本内閣陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。

1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動など激務に追われていた。さらに追い打ちをかけたのは、西原借款問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞めてしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。

軍人から政党政治家へ

高橋是清(左)と

将来は元帥ともいわれたが政界への転身を図り、1925年(大正14年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないため陸軍は退役している。

1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始まった。だが、最有力候補であった横田千之助は分裂を惹き起こした当事者ということで辞退し、やむなく党外から総裁を迎え入れる話となった。

当初、伊東巳代治田健治郎の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある後藤新平を迎えようとしたものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。

田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたが、陸軍機密費から出たものではないかと他党から追及されている(陸軍機密費横領問題)。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投票行動に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。

折りしも田中の総裁就任直前に、唯一の潜在的競争者であった横田千之助が死去したことにより、田中を阻む人物が党内からいなくなったことも大きかった。田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨西園寺公望原敬らの側近であった横田は板垣退助自由党以来の自由主義伊藤博文立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の有力な担い手であったからである。1926年(大正15年)1月28日、田中は勅撰貴族院議員となった。

さらに、田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士原嘉道司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣小川平吉外務政務次官森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長鳩山一郎が任じられた。3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。当時、青年政客として名を馳せていた肥田琢司に政治活動の協力を求め、第四代朝鮮総督の人選では肥田の推薦により山梨半造を任命した。

鈴木・原によって治安警察法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓して、その受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって、党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。

田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。その後も短期の犬養毅総裁を経て、鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平(久原と同じ軍需関連の政商)と、親軍派あるいは国粋主義派な総裁が同党の分裂・解党まで継続されることになる。

田中義一内閣

政治家時代の田中

1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった(昭和金融恐慌)。若槻内閣は同年4月17日に総辞職し、代わって立憲政友会総裁の田中が4月20日に組閣した。田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。

内閣の主な顔ぶれ

蔵相に起用された高橋是清は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。

田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、あくまでも積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務次官としてやってきたのが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。

1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙が行われ、社会主義的な活動が目だったことから、同年3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に検挙した(三・一五事件)。この選挙後に、人事のもつれから辞意を表明した閣僚を昭和天皇に慰留させ、天皇を政局に利用したと批判され(水野文相優諚問題)、貴族院は異例の田中首相問責決議を可決した。

内閣総理大臣の辞職願

同1928年に起きた張作霖爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。このことを野党立憲民政党に批判された。中野正剛尼港事件の際に田中が「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件の責任を福田司令官に帰し、満洲事件村岡司令官に帰したことは厚顔無恥であるとして、田中が「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と豪語したことに対して、政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなると糾弾した。1929年(昭和4年)6月27日に、関東軍は無関係であったと田中が天皇に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」との旨の愚痴を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。

総辞職後・エピソード

狭心症の既往があった田中に、天皇の不興を買ったことはやはり堪えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年(昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症で帰らぬ人となった。 田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えることになった。

昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかも知れないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まないことを決意した。

政治家としてはどちらかといえば厳しい評価のよく言われる田中であるが、公の前でも「オラが…」と親しく語るその性格は気さく・庶民的で、周囲の人望はきわめて厚かった。そのことを示すエピソードがたくさんある。

親族

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ 『田中義一伝記』などはこれを否定するが、古島一雄の回想録によれば、軍人出身の田中がどこから票を集めるのかと問い質したところ、「俺は在郷軍人300万を持っている」と応えたと記していること、また政友会総裁就任に伴う和歌山県での在郷軍人会副会長退任演説で政友会が主張していた両税委譲の必要性を説くなど、遠回しに政友会へ支援を求める発言も行っている。
  2. ^ 当初は前内閣が任じた出淵勝次次官が留任していた。
  3. ^ 田中が死亡したのが別宅であったことから、妾宅で腹上死したのではないかという憶測がある。満65歳没。『田中義一伝記』によるとこの女性は、入籍はしていないが田中を長年支えてきた女性であるという。
  4. ^ 「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」『昭和天皇独白録』(文藝春秋、1995年(平成7年))

出典

  1. ^ 望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』)
  2. ^ 中野正剛 『國民に訴ふ 中野正剛大演説集』 平凡社1929年4月5日、201頁。
  3. ^ 以上いずれも、原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。
  4. ^ 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017/07/25、「田中義一」の章
  5. ^ 陸軍大将男爵田中義一特旨叙位ノ件アジア歴史資料センター Ref.A11113507600
  6. ^ 『官報』第967号「叙任及辞令」1915年10月21日。
  7. ^ 『官報』第3443号「叙任及辞令」1924年2月18日。
  8. ^ 『官報』第3858号「叙任及辞令」1925年7月3日。
  9. ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。
  10. ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
  11. ^ 中野文庫 旧・金鵄勲章受章者一覧
  12. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  13. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  14. ^ 中野文庫 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧
  15. ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
  16. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  17. ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。
  18. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  19. ^ 『官報』第644号「叙任及辞令」1914年9月22日。
  20. ^ 『官報』第1695号「叙任及辞令」1918年3月30日。
  21. ^ 『官報』第235号「叙任及辞令」1927年10月8日。
  22. ^ 『官報』第777号「叙任及辞令」1929年8月1日。
  23. ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。
  24. ^ ブラタモリ-第106回放送より

参考文献

史料

文献

2010Happy Mail