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皇居とは?

【分類】
宮殿御所宮内庁宮中三殿など皇室関連施設の収容地
【所在地】
日本
東京都千代田区千代田1番1号

【面積】
宮内庁管理部分
約115万m
総面積(含 皇居外苑)〉
約230万m
【前身】
江戸城、宮城(皇居の旧称)
【現況】
皇居
【事務所】
宮内庁管理部
【事務所所在地】
東京都千代田区千代田1番1号
【公式サイト】
皇居(宮内庁)

皇居(こうきょ、:Imperial Palace)は、日本天皇の平常の居所。現在は東京都千代田区にある。

古くは宮城(きゅうじょう)、皇城(こうじょう)、皇宮(こうぐう)などと称した。「皇居」の呼称が広く用いられるようになったのは現在の皇居からである。

目次

  • 1 概要
  • 2 現在の皇居
    • 2.1 宮殿
    • 2.2 その他の施設
    • 2.3 ギャラリー
    • 2.4 その他
    • 2.5 皇居の自然環境
    • 2.6 内濠・外濠
    • 2.7 現皇居の歴史
  • 3 皇居・宮の歴史
    • 3.1 飛鳥の宮
    • 3.2 平安時代から江戸時代
    • 3.3 明治時代以後
  • 4 歴代の皇居
  • 5 脚注
  • 6 参考文献
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

概要

現在は、第二次世界大戦後に宮城(きゅうじょう)の名称が廃止された江戸城一帯を指して皇居と呼んでいる。公式の英語表記は「The Imperial Palace」。天皇の住居である「御所」、各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。

詳細は「#明治時代以後」を参照

平安時代(794年延暦13年〉)〜明治時代(1869年〈明治2年〉)までは京都にあり、御所、禁裏、内裏などと呼ばれていた里内裏(後述の「皇居・宮の歴史」参照)であった。明治維新後の東京行幸の後に留守となり、明治天皇の指示で保存されて現在に至り、京都御所(京都市上京区)と称されている(英名は「Kyoto Imperial Palace」)。行幸後に首都機能が東京に移った際、明確な遷都の法令が発せられなかったので、京都御所を現在も皇居とみなす向きもある(詳細は東京奠都を参照)。しかし明治以降、京都御所に近代的居住機能が付加されることはなく、平安時代の様式を伝える最高格式の紫宸殿(正殿)や日常生活の場である常御殿などが保存されている文化財となっている。長岡京など京都以前の御所は、遺構・遺跡や伝承地が残るのみである。

皇居の呼び名は、史料や古典文学に登場するものの現在では使われない表現を含めると様々ある。内裏(だいり)、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、宮中(きゅうちゅう)、禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。

現在の皇居

東京の皇居近辺航空写真
(1979年(昭和54年)撮影)
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

明治以降の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍家が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭(内堀内)には、本丸二の丸三の丸西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火(1657年(明暦3年))以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。

皇室関連施設のうち、宮殿、宮内庁庁舎などは旧西の丸に位置するが、天皇の住まいである御所は江戸城の「吹上」、現在の「吹上御苑」に建てられている。旧西の丸と吹上御苑は道灌堀という堀で隔てられている。城郭としての江戸城は本丸、二の丸、三の丸および西の丸部分のみを言い、道灌堀の西側にある庭園部分は厳密には江戸城には含まれないので、御所は城郭としての江戸城跡に建っているわけではない。皇居と呼ばれる区域は、旧西の丸・吹上御苑と皇居東御苑からなる宮内庁の管理用地の区域を指す場合と、この区域に環境省管轄の皇居外苑を加えた区域を指す場合がある。

旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部分は皇居東御苑として、1968年(昭和43年)10月1日以降、一般公開されている。。皇居の一部エリアを一般人が訪問できる機会としては一般参賀と、の開花や紅葉の季節に合わせた乾通りの通り抜けがある。

現在、皇居一帯は東京都心にありながら緑豊かな地区で、濠()に沿って皇居を取り巻く歩道ジョギング散歩コースとしても親しまれている。皇居の宮内庁管理部分の住居表示東京都千代田区千代田1番1号(郵便番号100-0001)で、居住していなくても登録できる本籍として人気が高い住所になっている。また、国有財産としての皇居の価値は2146億4487万円である(財務省資料に基づく、2009年5月時点)。

人工衛星パノラマ画像プログラムのGoogle Earthにおいては世界のランドマークの一つとして登録されている。

宮殿

宮殿(きゅうでん)は、天皇が国事行為皇室行事など儀式を行う施設。明治宮殿跡地の皇居西の丸地区に建設され、1969年(昭和44年)4月から使用されている。焼失した明治宮殿と区別して新宮殿(しんきゅうでん)とも称する。

【宮殿(新宮殿)】

宮殿東庭から見た長和殿


【情報】

【用途】
国事行為、皇室行事、外国元首歓迎行事 等
【設計者】
吉村順三
【施工】
宮殿造営工事共同企業体
【建築主】
宮内庁
【事業主体】
宮内庁臨時皇居造営部
【管理運営】
宮内庁管理部
(宮殿管理官)
【構造形式】
鉄骨鉄筋コンクリート造
(地下駐車場及び設備管制所は鉄筋コンクリート造)
【敷地面積】
64,640 m²
【建築面積】
15,643 m² (建蔽率24%)
【延床面積】
35,789.89 m² (容積率55%)
【階数】
地上2階、地下1階
【高さ】
20.19m
【戸数】
7(正殿、豊明殿、長和殿、連翠、千鳥・千草の間、表御座所北棟、表御座所南棟)
【駐車台数】
大型乗用車120台(東庭地下駐車場)
【着工】
1964年(昭和39年)6月
【竣工】
1968年(昭和43年)11月14日
【開館開所】
1969年(昭和44年)4月
【所在地】
100-0001
東京都千代田区千代田1
座標
北緯35度40分57秒 東経139度45分10秒 / 北緯35.68250度 東経139.75278度 / 35.68250; 139.75278座標: 北緯35度40分57秒 東経139度45分10秒 / 北緯35.68250度 東経139.75278度 / 35.68250; 139.75278

鉄骨鉄筋コンクリート造で、地上2階、地下1階、宮殿全施設の延床面積は、35,789.89平方メートル。基本設計は吉村順三。正殿(せいでん)、豊明殿(ほうめいでん)、連翠(れんすい)、長和殿(ちょうわでん)、千草の間・千鳥の間、表御座所北棟、表御座所南棟の7棟からなり、これらの建物に面して中庭(ちゅうてい)、東庭(とうてい)、南庭(なんてい)がある。

その他の施設

御所車寄でイギリスケンブリッジ公爵ウィリアム王子を迎える

1950年代の皇居を上空から見た写真。手前の吹上御苑から奥が宮殿のある旧西の丸地区である。一番手前のコンクリート製の陸屋根の建物が皇宮警察吹上護衛署。その奥の寄棟作りの建物が生物学研究所で、南に水田温室が広がっている。奥に隣接するのが宮中三殿。太平洋戦争時の空襲で宮殿は焼失しており、宮殿のあった場所は空き地になっている。宮殿跡広場の左側(北)には仮皇居となっていた宮内庁庁舎がある。
宮内庁庁舎
宮内庁書陵部

ギャラリー

その他

皇居の自然環境

皇居東御苑
生物の宝庫である下道灌濠

江戸時代以降に開発が進んだ東京都心の他地区と異なり、皇居は江戸城時以降の自然が残り、貴重な生態系が維持されている。皇居の森を中心とする広大な緑地と、水中生物が隠れやすい石垣水草が多い堀(濠)が一体となっているうえ、釣りなど人間による採捕活動が制限されているため、植物と昆虫類、魚介類、鳥類哺乳類を含む陸上動物などの間で食物連鎖が成立し、希少種を含む生物多様性が保全されている。

吹上御苑と道灌濠周辺で行われた国立科学博物館による1996 - 2000年度と2009 - 2013年度の二回の調査で、植物2077種、動物6375種の生息が確認されている。フキアゲニリンソウ(草)やニホンコシアカハバチ()のような新種が発見されたほか、イシカワモズク(藻)やヒロクチコギセル()といった絶滅危惧種も保全されている。一方で、アカボシゴマダラ()やスズミグモ(蜘蛛)のような外来種の侵入も確認された。

大型動物としては、タヌキが1990年代半ばから宮内庁や皇宮警察の職員に目撃されるようになった。明仁天皇の発案で、宮内庁と国立科学博物館が2006年度から糞の分析による餌の解明や、6匹を一時捕獲して発信器を付けての行動追跡といった調査を行い、2008年と2016年に明仁天皇を共同執筆者とする論文にまとめられている。

こうした調査から、太田道灌の遺徳を偲び道灌時代の遺構に手を加えなかった伝承の信憑性や、明暦の大火後に防火帯として整備した庭園に古い生態系が閉じ込められたこと、2003年に始まった東京都によるディーゼル車規制条例の効果が現れている可能性、地球温暖化(ヒートアイランド)が進行していることなどが示唆された。

皇居周辺の堀では、管理する環境省が並木の手入れ、ヘイケボタルの放流といった環境保全・改善を進めている。

内濠・外濠

内濠
外濠

現皇居の歴史

明治元年10月の明治天皇の東京行幸における六郷の渡しでの情景。

1868年(慶応4年)、明治天皇東京行幸により江戸城が東京城(とうけいじょう)と称され、東京の皇居となる。1869年(明治2年)、2度目の東京行幸で天皇の東京滞在が発表され、東京城は皇城(こうじょう)と称される(東京奠都)。1873年(明治6年)、それまで天皇の御座所とされていた江戸城西の丸御殿が火災のため焼失し、一時、赤坂離宮を仮皇居とした。

1879年(明治12年)西の丸に新宮殿を造営することが決まり、1888年(明治21年)に明治宮殿が落成し、同年10月27日以後、宮城(きゅうじょう)と称された。明治宮殿は、御車寄、正殿、東溜、西溜、豊明殿、千種の間、鳳凰の間など、儀式・応接・政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇の住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿は木造で、外観は和風建築だが、内部は和風の格天井からシャンデリアを下げるなど和洋折衷とし、椅子とテーブルを用いていた。この明治宮殿は太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、空襲による飛び火で焼失した。

1935年頃、宮内省第2期庁舎に鋼鉄扉の防空室(地下金庫室)が作られた。だが、内部が狭く大型爆弾に耐えられないことから、宮内省工匠寮の設計で、吹上御所近くに新たに防空壕を作ることになった。後に御文庫と命名される大本営防空壕が完成するまでの間、昭和天皇・香淳皇后は空襲警報発令の度に宝剣神璽(三種の神器のうち剣と璽)とともに地下金庫室に避難していた。

御文庫

1941年(昭和16年)4月12日に御文庫(おぶんこ)が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。施工を請負ったのは大林組。建築費は約200万円であった。建坪1,320m。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、便所などがあった。このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった。天皇は午前中は表御座所(御政務室)、午後は御文庫で過ごすのが日課であった。

1945年(昭和20年)6月頃に戦況が悪化したため、さらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90 m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330 m、56 mの会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1 mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。この地下壕では後に、終戦を決める2度の御前会議が開かれた。戦後、御文庫附属庫は昭和天皇の意向で修理・保存されることなく朽ちるままになっている。しかし定期的に写真や映像などの記録はとられており、戦後70年にあたる平成27年8月にはデジタル音源化された玉音放送とともに映像や写真が公開された。

1948年(昭和23年)7月1日に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった。1952年(昭和27年)からは宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮の宮殿とした。

なお日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令や日本国憲法施行により、戦前・戦中に皇居を管理した宮内省宮内府を経て現在の宮内庁に改組された。皇居の警備は陸軍近衛師団宮内省の皇宮警察から警視庁皇宮警察部へ移管された。

戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政によると、「お上(昭和天皇)は戦争終了後、『国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ』と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけていた」と述べている。

1955年頃の広庭(現・新宮殿)

昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇の御所とは接続させず、御所と宮殿を別々に造ることとなった。まず1961年(昭和36年)、昭和天皇および香淳皇后の住居として皇居内吹上地区の御文庫に隣接・組込まれて建設された吹上御所が完成した。新宮殿は明治宮殿跡地に1964年(昭和39年)着工し、1968年(昭和43年)10月竣工。同年11月14日に落成式が挙行され、翌1969年(昭和44年)4月から使用された。なお吹上御所は、1993年(平成5年)12月9日に、皇太后(香淳皇后)の住まいとして吹上大宮御所と改称された。

明仁天皇(当時)、皇后美智子(当時)は、即位後も暫くは引き続き赤坂御所(現東宮御所)に居住しながら皇居宮殿に通っていたが、皇居内吹上地区の一角に新たな御所が建設され、1993年(平成5年)12月8日から使用している。

皇居・宮の歴史

宮(みや)は家(や「屋」)に尊称(み「御」)がついた言葉である。身分の高い人の住居という意味から出発し、やがて天皇や皇族の宮殿を意味するようになった。古代には、大王(天皇)の住居は一世ごとに移転され、皇居は(みや)と呼ばれる宮殿を指した。『古事記』や『日本書紀』には、4世紀から6世紀にかけての宮殿の多くが、現代で言う奈良盆地の東南の地に営まれたと記されている。

飛鳥の宮

592年推古天皇が即位した豊浦宮から694年持統天皇藤原京へ遷都するまでの約100年間は、奈良の南の地飛鳥周辺に宮殿が集中したので飛鳥京と呼ぶことがある。このような宮には、小墾田宮(603年 - 630年)、飛鳥岡本宮(630年 - 636年)、飛鳥板蓋宮(643年 - 655年)、後飛鳥岡本宮( ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/08/14 08:11

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