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盛岡藩とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年10月)

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。

同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。

【画像外部リンク】

南部氏領(盛岡藩と八戸藩)
黄色が盛岡藩領(+七戸藩領)
ピンク色が八戸藩領

(八戸市博物館八戸藩の誕生」)

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 安土桃山時代
    • 1.2 江戸時代
    • 1.3 明治維新
      • 1.3.1 白石藩
      • 1.3.2 廃藩
  • 2 歴代藩主
  • 3 藩の職制
    • 3.1 家老・加判役
      • 3.1.1 御席詰
      • 3.1.2 御大老
    • 3.2 北地御用所
    • 3.3 御用人所
    • 3.4 目付所
    • 3.5 勘定所
  • 4 家臣団構成
    • 4.1 格と職
    • 4.2 家臣在郷制
      • 4.2.1 在々御給人
    • 4.3 家老
      • 4.3.1 高知
      • 4.3.2 高家
      • 4.3.3 本番組
      • 4.3.4 加番組
      • 4.3.5 新番組
  • 5 領内の統治
    • 5.1 諸城破却書上
    • 5.2 盛岡藩
      • 5.2.1 代官
      • 5.2.2 通制
      • 5.2.3 盛岡町奉行
      • 5.2.4 郷村三役
    • 5.3 八戸藩
      • 5.3.1 通制
  • 6 領内の主要交通路
    • 6.1 陸路の主要街道
      • 6.1.1 南部藩
      • 6.1.2 盛岡藩
      • 6.1.3 八戸藩
      • 6.1.4 明治期における国道・県道・里道の区別(岩手県)
    • 6.2 主要な港
    • 6.3 北上川水運
    • 6.4 盛岡領 番所の所在地
    • 6.5 八戸領 番所の所在地
  • 7 城地
    • 7.1 要害屋敷
  • 8 江戸城の詰間
  • 9 藩邸および江戸での菩提寺
  • 10 飢饉
    • 10.1 飢饉による一揆
  • 11 飢饉・一揆
    • 11.1 元禄の飢饉
    • 11.2 寛延2年 猪飢饉(イノシシけがづ)
    • 11.3 宝暦の飢饉
    • 11.4 天明の飢饉
    • 11.5 寛政 2年 長岡通久保村知行地一揆
    • 11.6 寛政 7 - 8年 盛岡南方税制改革一揆
    • 11.7 寛政11年 - 文政 4年 蝦夷地幕領化にともなう一揆
    • 11.8 天保の飢饉
      • 11.8.1 天保 5年 久慈・軽米通 稗三合一揆
      • 11.8.2 天保 7年 盛岡南方一揆 盛岡越訴
      • 11.8.3 天保 8年 盛岡南方一揆 仙台越訴
    • 11.9 三閉伊一揆
      • 11.9.1 弘化4年 遠野強訴
      • 11.9.2 嘉永6年 仙台強訴
  • 12 他地域との関わり
    • 12.1 蝦夷地との関わり
    • 12.2 盛岡藩領と青森県
    • 12.3 弘前藩との遺恨
  • 13 産業構造
    • 13.1 畜産
      • 13.1.1 南部駒
      • 13.1.2 南部九牧
      • 13.1.3 里馬
      • 13.1.4 御馬買衆
      • 13.1.5 牛の飼育
    • 13.2 鉄器、鉄製品
  • 14 八戸藩と七戸藩
    • 14.1 八戸藩(八戸南部藩)
    • 14.2 七戸藩(盛岡新田藩)
  • 15 幕末の領地
    • 15.1 盛岡藩
    • 15.2 八戸藩
    • 15.3 七戸藩
  • 16 脚注
    • 16.1 注釈
    • 16.2 出典
  • 17 参考文献
  • 18 関連項目
  • 19 外部リンク
    • 19.1 自治体史

歴史

甲斐国(現在の山梨県)に栄えた甲斐源氏の流れを汲んだ南部氏の始祖・南部光行が、平泉奥州藤原氏征討の功で現在の青森県八戸市に上陸し、現在の南部町 (青森県)相内地区に宿をとった。その後、奥州南部家の最初の城である平良崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。後に現在の青森県三戸町三戸城を築城し移転している(現在、城跡は城山公園となっている)。

鎌倉時代源頼朝に出仕して以来、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩島津家と南部家の2家のみである。

詳細は「南部氏」および「南部氏歴史年表」を参照

ちなみに、盛岡市の市章は「違菱(たがいびし)」と呼ばれ、南部氏の家紋「向鶴(むかいづる)」にあしらわれた鶴と、甲斐源氏を出自とすることの表れである元来の家紋「菱」を連想させるものである。現在の市章が使われるようになった経緯は明らかでないが、菱を重ねた紋は、少なくとも江戸時代には既に南部家で使われていたものと言われている。

安土桃山時代

天正18年(1590年)7月、「南部家中興の祖」とも呼ばれる南部家第26代南部信直(初代盛岡藩主・南部利直の父)が豊臣秀吉小田原征伐に参陣しそのまま奥州仕置に従軍中、秀吉から宇都宮において7月27日付で南部の所領の内7ヶ郡(糠部郡閉伊郡鹿角郡久慈郡岩手郡志和郡、そして遠野)についての覚書の朱印状を得ることによって、豊臣大名として公認された。

さらに、翌天正19年(1591年)九戸政実の乱の後本拠を、三戸城から九戸城(のち「福岡城」と改める。現在の二戸市福岡に当たる。)に移したが、津軽為信に安堵されたことで失領した津軽3ヶ郡(平賀郡鼻和郡田舎郡)の代替地として和賀郡稗貫郡の2ヶ郡が加増され、9ヶ郡におよぶ版図が確立し、このとき安堵された9ヶ郡は、現在の岩手県青森県秋田県の3県にまたがっており、蒲生氏郷浅野長政より九戸では北辺に過ぎるとの助言を受け不来方の地を本拠とすべく、仮住まいの郡山城(現在の岩手県紫波町日詰高水寺)を経て、文禄元年(1592年)、盛岡城を中心とした城下町の建設を始めた。

江戸時代

城から仰ぐ岩手山早池峰山姫神山の「南部三山」に大権現を勧請し、城を中心として、上級武士(高知)を住まわせ、その周りに町人を、さらにそれらを、取り囲むように一般の侍町をつづけ、市中の平均した発展を図るために「五の字割」と呼ばれる町割りを行い、周辺の村々に通じる城下はずれの街道沿いには、警護の必要から足軽(同心)を住まわせた。さらに城下北東の山麓には、防護上の配慮から、、城の真北に祖霊を祀る「大光山聖壽禅寺(臨済宗妙心寺派)」を建立した。京都にならって、北部丘陵を「北山」と呼んで領内の寺社を集め、大寶山東禅寺(臨済宗)、擁護山無量院教浄寺(時宗)、瑞鳩峰山報恩寺(曹洞宗)、大智山法泉寺(臨済宗)と合わせ特に「盛岡五山(盛岡五ヶ寺、北山五山)」と定め、東には盛岡八幡宮盛岡天満宮住吉神社などの神社を配した。

物流は北上川舟運による輸送が主流であり、仙台藩の石巻を経由して江戸上方と結ばれていたが、西には鹿角街道(流霞道)があり、遠国との海運を果たす重要ルートであった。盛岡藩は砂金、紫紺、良馬の産地であり、城下には大店が並び上方からの下り物取引があって、飢饉の頻発した農村と比べれば経済的には豊かであった。時に町人の生活は華美になり、過度に山車の壮麗さを競う風潮も生まれ、奢移品を禁ずる法令もが出されたという。それは開府に先立って招聘した近江商人をはじめとする「領外商人」進出による影響が大きい。うち有力な者は現在の滋賀県高島市大溝周辺から進出した村井氏・小野氏ほか一族で、現在の大阪府から「平野杜氏」を招き、清酒醸造の技術を盛岡の南郊「志和」に伝えた。この技術を今に伝えるのが、「南部杜氏」である。城下には近江商人のほか、山城(京都府)・大坂(大阪府)・伊勢(三重県)・美濃(岐阜県)・常陸(茨城県)・富山など主に西日本から多くの商人が定住し、後にその末裔は後世に企業や銀行の創設に関わるなど、盛岡の文化・経済を大きく動かすこととなる。

殊に京都(京)からの移住者は城下の要地に集住し、ここは「京町」(現在の本町通)と呼ばれのちには勧業銀行が置かれるなど、近代まで盛岡の主要な商店街であった。また上方(関西地方)出身の武士が集まって住んだ町は「上衆小路」と呼ばれ、仙北町(秋田県仙北市からの移住者が集住)、津軽町(青森県津軽地方からの移住者が集住、現在の津志田)のほか、「岩手町・久慈町」(現在の材木町)など、領内各地からの移住者による町も生まれた。

重直の将軍への願いを知らされていなかったためか、国元は相続人と家の存続を巡って一時不穏となる。同年12月、家綱は裁定して、2万石減封した上で盛岡8万石を異母弟の七戸重信に与えて家を継がせ、重直・重信双方の異母弟の中里直好に八戸2万石を新規に与えて家を興させ、事実上の分割相続を行った。

石高が上がり藩の格式は高くなったものの、実収入の増加が全く伴わない上、藩主主導の放漫経営や散財、無理に高くした格式に見合った参勤交代や蝦夷地(現在の北海道)警衛など、より多くの兵力準備と動員を義務づけられ、負担が倍増する事態を招いた。以後、盛岡藩の財政は新渡戸傳(新渡戸稲造の曽祖父)によって立ち直されるまで慢性的な赤字体質となり、破綻寸前まで追い詰められる。

この時期の商業として特筆されるのは、創始を元和年間に遡る「菊の司」(現・菊の司酒造)以下、明和4年(1767年)に醸造業「近江屋」(現・平金商店)、文化13年(1816年)に荒物商「茣蓙九」(現・茣蓙九森九商店)、安政4年(1857年)に薬種商「村源」、慶応2年(1866年)鉈屋町に興された木綿商が「川徳呉服店」(現・川徳)として発展するなど、形態を変えながらも、藩政時代創業の商家が現在にまで存続している例が多いことである。

明治維新

明治元年(1868年)、当初、藩内は新政府方・反新政府方に意見が対立していたが、最終的に楢山佐渡が藩論を奥羽越列藩同盟への参加継続で一致させ、途中から新政府側についた久保田藩に攻め込んだ秋田戦線において大館城を落したが、その後は新政府側による大量の補給物資が久保田藩に到達して戦況は一変し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまう。盛岡藩領内へ戻った楢山佐渡以下の秋田侵攻軍は、留守中に藩を掌握した朝廷側勢力によって捕縛され、盛岡藩は朝廷側へと態度を変更しはじめた。

なお、遠野南部家は藩の大評定で強硬に新政府側につくことを主張し、八戸藩は藩主・南部信順薩摩藩主・島津重豪からの養子であり、ともに秋田戦争に参加していない。

以下日付は全て旧暦。

戊辰戦争の戦後処理として、途中から新政府側に参加した久保田藩、津軽藩が論功行賞を受ける一方で、転封を命じられたのは、盛岡藩と出羽会津藩、出羽庄内藩、それに近江朝日山藩に5万石で移された出羽山形藩などがあり、減封を命じられたのは、明治元年12月7日、仙台藩は62万石から28万石に、米沢藩は4万石を削減され14万7,000石などがあった。

白石藩

利恭は明治政府が仙台藩から没収した所領の一部、白石13万石(刈田郡柴田郡伊具郡亘理郡および宇多郡の一部)への減転封を命じられた。明治2年(1869年)4月、旧城主片倉氏から白石城が南部氏側に引き渡され、6月17日の版籍奉還にともない白石藩知事に任命されたが、その間も重臣たちが中心となって国替停止と盛岡城地安堵の運動が続けられ、領民たちも政府に対して藩主・利恭の盛岡復帰請願を続けた。その結果7月22日に上納金70万両の献納を条件に盛岡復帰が認められ、(実際は一部を納めたのみ)、8月10日に利恭は盛岡藩知事を拝命し、陸中四郡(岩手郡紫波郡稗貫郡和賀郡の一部)13万石を管轄した。

白石藩領はその後政府直轄の白石県となり、10月に南部氏から後任の県知事に引き継がれた後、11月県庁を角田城に移し角田県となる。

廃藩

念願の盛岡復帰を果たした南部家とその家臣たちであったが、その条件として課せられた70万両もの大金は明らかに献納不能なものであった。また凶作で税収が見込めない中、前藩主・南部利剛の娘の郁子が華頂宮博経親王に嫁ぐことになり多額の出費を余儀なくされるなど、藩財政は完全に破綻していた。藩を取り仕切っていた大参事の東政図は、この状況を切り抜けるには南部利恭の藩知事辞任と廃藩置県を実行する他にないと考え新政府に嘆願していた。明治 3年(1870年)4月、70万両の献納は撤回されたものの、他藩への影響などを考慮して藩知事の辞任は許可されずにいた。しかし藩の再三の嘆願を受けた新政府により明治 3年7月10日、盛岡藩を廃して盛岡県が設置された。

盛岡県は明治 5年(1872年)1月8日岩手県と改称され、後に江刺県磐井県の一部を編入し現在に至る。盛岡県成立時の領地は陸中国岩手郡稗貫郡および紫波郡和賀郡の一部のみであり、旧領のうち陸奥国北郡二戸郡および三戸郡の一部と陸中国鹿角郡および九戸郡の一部は三戸県に(三戸県の大部分は後に江刺県に、鹿角郡は秋田県にそれぞれ編入された)、陸中国閉伊郡および和賀郡の一部は江刺県に、岩代国伊達郡の一部は福島県にそれぞれ移管されていた。

盛岡城の城郭は明治元年(1868年)に新政府に接収され、当初は廃城令の存城とされたものの、建物の老朽化が著しく、明治7年(1874年)に廃城となり、建造物はことごとく破却、民間に払い下げられた。現在、盛岡城の地上建造物が残されていないのはこのためである。

歴代藩主

藩の職制

藩の行政組織は10万石の軍役組織によるもので、中央の職制は幕府を模倣し、藩主の下に家老のほか諸役を置いた。

家老・加判役

藩行政の最高機関であり、常時は数人の家老の合議制によって大綱が決定された。日常中丸に登城して庶務を決議し、連署に応ずる。

御席詰

藩主の常勤する御用の間に出仕する、家格が高く、家老の経験を積んだ老練な人が選任される。

御大老

筆頭家老であった。

北地御用所

北方警備の監督部署であった。分轄された蝦夷地の警備・下北半島から釜石浦に至る海岸の防備についての費用調達、動員計画、陣屋説定、配備計画などを行う。

御用人所

城内中丸の御用人所に常勤し、その庶務を執る。

目付所

御目付所は司法、検察等、主として治安方面を総轄し、その大目付は高知格についても検察の権があり、常時二人とされた。勘定所、寺社町奉行とともに公示三役と称されて、広汎に亘っていた。

御目付所の所管には、寺社町奉行、表目付、牛馬目付、武具奉行、御境奉行などがあり、監査・検察を要するものは、目付所の管轄に置かれている。

勘定所

城内に設置されてあった出納事務所で、目付所、寺社町奉行とともに公示三役と称された職掌であった。御郡支配方、御代官方、御支配方、山林方、御土蔵方の七つの分掌となって、領内の地方行政に関わっていた。

家臣団構成

盛岡藩士の家系を調べる際の必須の書とされている『参考諸家系図』が岩手県立図書館に架蔵されており、復刻版も出版されている。

格と職

家格として、高知(たかち)・高家本番組加番組新番組などが決められていた。高知衆は後期には細分化したほか、藩主一族のための身分も設けられている。 また1,000石以上が高知衆に対し、1,000石以下は平士と呼ばれた。

主な家格
 | 天保15年(1844年) | 明治元年(1868年) | 明治2年
高 知 | 御家門 | 3 家 | 御家門 | 2 家 | 上 士
高 知 | 28 家 | 御三家 | 3 家
着座高知 | 7 家
高 知 | 20 家
高 家 | 御新丸御番頭 | 21 家 | 御新丸御番頭 | 19 家 | 中 士
本番組 | 平士 100石以上 | 平士 150石以上
加番組 | 平士 50石以上 | 平士 50石以上 | 下 士
新番組 | 平士 50石以下 | 平士 50石以下
 | 一生御給人 | 一生御給人
勤中御給人 | 勤中御給人
御医師茶道 | 100石以上御医師 | 100石以上御医師 | 中 士
100石以下御医師 | 100石以下御医師 | 下 士
御茶道 | 御茶道
在々御給人 | 在々御給人 | 在々御給人 | 平民のち士族
その他 | 御同朋から御同心 | 御同朋から御同心 | 卒 族
在々御与力・御同心 | 在々御与力・御同心

「天保十五年御国住居緒士」「明治二年身帯帳」

家臣在郷制

通常の武士身分で在郷している御給人制があり、また、陪臣は在郷のものが多い。

在々御給人

代官の下に下役以下各種奉行その他の役職を務めさせるため「御給人」を置いた。藩士とは区別され、城下を離れた在町に土着して、自ら農業もしくは商業を営みつつ士分に準ずる待遇を受けている者のことである。形式的には苗字帯刀を許され、知行が与えられるが、この知行地は自己所有の石高

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出典:wikipedia
2019/01/16 00:41

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