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盧溝橋事件とは?

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【盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)】


1937年(昭和12年)盧溝橋近郊戦闘経過要図
戦争:日中戦争
年月日:1937年(昭和12年)7月7日
場所:盧溝橋付近
結果:日本軍の勝利
【交戦勢力】

支那駐屯軍 |  国民革命軍第二十九軍
【指導者・指揮官】

橋本群 (少将, 支那駐屯軍参謀長, 司令官代行)
牟田口廉也 (大佐, 支那駐屯歩兵第一連隊長)
森田徹 (中佐, 連隊長代理)
一木清直 (少佐, 第三大隊長) | 宋哲元 (二十九軍軍長, 冀察政務委員会委員長)
秦徳純 (二十九軍副軍長)
馮治安 (三十七師師長)
金振中 (三十七師一一旅二一九団三営営長)
【戦力】

兵員:5,600 (支那駐屯軍の総兵力, 7/8の交戦戦力は510) | 兵員:100 (國防部史政編譯局『抗日戰史』による二十九軍の総兵力、地区には40,000)
【損害】

戦死10、戦傷30 (7/8)
戦死6、戦傷12 (7/10) | 戦死60余、戦傷120余 (7/8)
戦傷死約150 (7/10)
日中戦争
主要戦闘・事件の一覧


盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。英語ではMarco Polo Bridge IncidentBattle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる。

この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)が、日中戦争(支那事変)の発端となったとされる。しかし、盧溝橋事件(7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後、日本軍の軍派遣決定の後、中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)による、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃の連続、及び第二次上海事変によって、戦闘が本格化した。したがって、前年12月の西安事件による一致抗日方針を併せて考慮すると、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作・最後の関頭談話を契機とする中国軍の攻撃と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる。
事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。なお以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。

目次

  • 1 事件の概要
  • 2 事件前の状況
    • 2.1 コミンテルンの人民戦線と中国
    • 2.2 南京政府による中央集権化と抗日の動き
    • 2.3 第二十九軍
    • 2.4 日本軍
      • 2.4.1 共産軍の山西省攻擊と支那駐屯軍増強
      • 2.4.2 北支における日本陸軍の作戦計画要領
      • 2.4.3 第二十九軍との緊張
    • 2.5 第二十九軍の対日抗戦準備
  • 3 北平付近に展開されていた各国兵力
    • 3.1 中国国民党国民革命軍
    • 3.2 日本陸軍
    • 3.3 列強兵力
  • 4 事件の経緯
    • 4.1 7月7日
    • 4.2 7月8日
    • 4.3 7月9日
    • 4.4 7月10日
    • 4.5 7月11日
    • 4.6 7月12日以降
  • 5 共産党の策動
  • 6 関東軍の動き
  • 7 国民党中央軍の北上
  • 8 1発目を撃った人物
  • 9 兵1名の行方不明について
  • 10 事件直後の延安への電報
  • 11 現地軍の折衝
  • 12 停戦協定と和平条件
  • 13 評価
  • 14 脚注
    • 14.1 注釈
    • 14.2 出典
  • 15 参考文献
  • 16 盧溝橋事件を描いた作品
  • 17 関連項目
  • 18 外部リンク

事件の概要

1937年(昭和12年)7月 支那駐屯軍配置図
盧溝橋、宛平県城および周辺の航空写真
宛平県城から出動する中国兵

1937年7月6・7日、豊台に駐屯していた日本軍支那駐屯軍第3大隊(第7、8、9中隊、第3機関銃中隊)および歩兵砲隊は、北平の西南端から10余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。この演習については日本軍は7月4日夜、中国側に通知済みであった。第3大隊第8中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後10時40分頃永定河堤防の中国兵が第8中隊に対して実弾を発射し、その前後には宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。そのため清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告するとともに、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し7月8日午前1時ごろ到着した。7月8日午前0時ごろに急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、および夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた。

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長王冷斉及び冀察外交委員会専員林耕雨等も中佐と同行した。これに先立って豊台部隊長は直ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求したが、その交渉中の8日午前4時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃してきたため、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求した。この戦闘において日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者20数名、負傷者は60名以上であった。

午前9時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は8日午後0時20分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後8時には戒厳令を施行し、憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は8日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。9日午前2時になると中国側は遂に午前5時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前6時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しないばかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対したびたび銃撃をおこなったため、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行ったので、中国側はやむを得ず9日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させ、その結果中国側は午後0時10分、同地の部隊を1小隊を残して永定河右岸に撒退を完了した(残った1小隊は保安隊到著後交代させることになった)が、一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。この日午後4時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉のため天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは10日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があったが、同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から南進した中国兵が9日午前2時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃したため牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後9時頃龍王廟を占領した。この戦闘において日本側は戦死6名、重軽傷10名を出した。

11日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約2kmの五里店付近に集結したが、当時砲を有する七、八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にあり、かつ長辛店及び蘆溝橋には兵力を増加し永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥ったため、11日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のあることを察知すると急遽態度を翻し、午後8時、北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議(中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各種団体取締を行うなど)を受け入れ、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

事件前の状況

コミンテルンの人民戦線と中国

1935年7月25日から開会された第七回コミンテルン大会では西洋においてはドイツ、東洋においては日本を目標とすることが宣言され、同時に世界的に人民戦線を結成するという決議を行い、特に中国においては抗日戦線が重要であると主張し始めた。コミンテルン支部である中国共産党はこの方針に沿って翌8月には「抗日救国のために全国同胞に告げる書(八・一宣言)」を発表し、1936年6月頃までに、広範な階級層を含む抗日人民戦線を完成した。コミンテルンによる中国の抗日運動指導は五・三〇事件に始まっており、抗日人民戦線は罷業と排日の扇動ではなく対日戦争の準備であった。1935年11月に起きた中山水兵射殺事件、1936年には8月24日に成都事件、9月3日に北海事件、9月19日に漢口邦人巡査射殺事件、9月23日には上海日本人水兵狙撃事件などの反日テロ事件を続発させた。さらに1936年12月に起きた西安事件におけるコミンテルンの判断も蒋介石を殺害するのではなく、人民戦線に引き込むことであった。西安事件翌月の1937年1月6日に南京政府は国府令として共産軍討伐を役目としていた西北剿匪司令部の廃止を発表している。

南京政府による中央集権化と抗日の動き

1931年に起きた満州事変は、1933年の塘沽協定により戦闘行為は停止されたが、国民党政府は満州国も日本の満州占領も認めてはおらず、緊張状態にあった。1937年2月に開催された中国国民党三中全会の決定に基づき南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた。地方軍閥に対しては山西省閻錫山には民衆を扇動して反閻錫山運動を起し、金融問題によって反蒋介石側だった李宗仁白崇禧を中央に屈服させ、四川大飢饉に対する援助と引換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し、宋哲元冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた。

一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた。このほかにも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った。

第二十九軍

日本軍と衝突した国民革命軍第二十九軍は1925年以来西北革命軍として馮玉祥の下で北伐に参加。1928年宋哲元陝西省主席就任にともなって陝西に入る。1930年蒋介石との戦いに敗北。1932年宋哲元察哈爾省主席就任時に全軍河北省に移動。1933年に長城抗戦で日本軍に敗れる。1935年6月中央軍撤退を機に河北省に進出して北京・天津を得て兵力十数万となる。

長城抗戦の時期、中国北部を完全に蒋介石直系軍(いわゆる中央軍)の支配とするため、宋哲元らの非中央軍は雑軍整理のために日本軍と対峙させられ、日本軍・満州軍にできるだけ打撃を被るように仕向けられ、敗走すれば中央軍に武装解除されていた。

宋哲元は日本から張北事件の責任を追及された際には、南京政府によって察哈爾省政府主席を罷免された。一方、梅津・何応欽協定により蒋介石直系軍が河北省から撤退し、その後の河北自治運動が宋哲元自身の勢力拡大に有利であり、大義名分もあることを背景に中国北部に新政権を樹立する行動を取ると、宋哲元が北方自治政権樹立を決意したことに激怒した蒋介石は宋に対し「中央の意思に叛くようなことがあれば断固たる措置を取る」という警告の電報を送り、宋哲元からは中国北部の自治を要求する電報が中央に送られると、中央からは中国北部の新政権はあくまで南京政府の支配下に置くという腹案を携えて何応欽北平に派遣されて交渉が開始された。宋哲元はこれに対抗して一切の官職を辞して天津に退避し、何応欽には北平からの退去勧告を出すなどの過程を経て、結局1935年12月18日に冀察政務委員会が成立した。この政権の目的は「河北省の民衆による自治と防共」「外交、軍事、経済、財政、人事、交通の権限を中央からの分離」とされた。日本との提携が強調され、翌年2月には土肥原賢二少将を冀察政務委員会最高顧問に招聘することを求め、日本軍当局は土肥原を中将に昇進させてこれに応じている。なお、日本は華北分離工作において軍事圧力もいて蒋介石と一枚岩とは言えない宋哲元に自治を要求したが拒否されたとする主張がある。

しかし、第二十九軍は抗日事件に関して張北事件、豊台事件をはじめとし、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた。

盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い、国民政府からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた。副参謀長張克侠をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた。

第29軍は盧溝橋事件より2カ月あまり前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、長辛店方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日には既に対日抗戦の態勢に入っていた。

日本軍

日本軍北支那駐屯軍は、中国側戦力を警戒し天津に主力を、さらに北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲のため連日演習を続けていた。北平や天津への支那駐屯軍の駐兵は北清事変最終議定書(北京議定書)に基づくもので、1936年5月には従来の二千名から五千名に増強していた。この増強は長征の期間にあった共産軍の一部が山西省に侵入したことを日本陸軍が重視したことと日本居留民増加のため保護に当たる兵力の不足が痛感されたことが理由であったが、公表されぬことながら北支問題について関東軍の干渉を封ずることも目的にあった。

しかし、豊台は北清事変最終議定書(北京議定書)における駐留地点としての例示にはなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績から選ばれたが、陸軍自身の調査により「豊台ニハ日本軍ノ法的根拠ナキ」との結論が出されている。その上で「取敢一部隊ヲ臨時形式ヲ以テ派遣シ時日ノ経過ト共ニ之ヲ永駐化スル」と、臨時措置を口実として法的根拠の無い永続的駐留を既成事実化する方策の下、豊台駐留は行われた。

共産軍の山西省攻擊と支那駐屯軍増強

長征として知られる中共軍の江西根拠地からの大西遷により、1935年秋陝西省に移った中共軍は、主力の集結を待たず、二万余の全兵力を挙げて、1936年2月17日、突如、山西省内に進出した。陝西の中共軍にたいしては、張学良の東北軍、楊虎城の西北軍、閻錫山の山西軍が第一線に立ち、後方に准中央軍、中央軍が配備されていた。中共の巧妙な工作により、東北軍、西北軍は中共軍に対する戦意がなく、中共軍の攻撃は専ら山西軍に向けられ僅か一ヵ月の間に山西省の三分の一を占領した。数年来討伐軍と戦火を交えた共産軍はその作戦、戦術において山西、綏遠などの地方軍隊に比べはるかに優秀であった。脚力に依存した行軍力に優れ、弾丸が十分でないため射撃に無駄なく秀れた腕前を持ち、斥候の偵察状況判断が的確で住民との連絡は完璧、主力部隊のとの交戦を避け、敵の意表をつき、各個撃破の作戦ではパルチザン式による高い効果を上げ、時と場所、情勢に即して宣伝が巧みであった。一方、山西軍は山西モンロー主義の中、長年産業道路の建設に使役され、銃をとって戦線を駆け回ることが難しく、共産軍一流の宣伝上手により討伐どころか寝返りの危険が全線に蔓延した。閻錫山の計画経済、土地国有も巧みに擬装された山西省の省民搾取の手段方法だったと暴露され山西省の民を取り込む共産軍側の宣伝材料にされてしまった。

宋哲元は山西省共産化の危機が増大したことに鑑み、共産軍の河北省および察哈爾省への侵入を防ぐために取りあえず第二十九軍の一部を省境に配置し、自ら保定に赴き数日間にわたり河北省南部の縣長会議を招集して防共に関する指針を与え、3月29日察哈爾省主席張自忠より察哈爾省における防共の情勢を聴取し協議を行い、午後天津に赴き多田駐屯軍司令官、松室北平特務機関長、今井北平武官らと会見して北支防共に関する会議を行なった。3月30日、多田駐屯軍司令官と冀察綏靖主席宋哲元との間で、防共に関する秘密協定が結ばれ「相協同シテ一切ノ共産主義的行為ノ防遏に従事スル」ことを約したといわれる。また翌31日に調印されたという細目協定の要旨は、(一)冀察政権は閻錫山と協同して共匪の掃蕩に従事す。これがため閻と防共協定を結ぶことに努む。閻にして之を肯ぜざるときは適時独自の立場に於て山西に兵を進め共匪を掃滅す。(二)共産運動に関する情報の交換。(三)冀察政権は、防共を貫徹するため、山東側、綏遠側と協同し、必要に応じ防共協定を結ぶことに努む。(四)日本側は、冀察側の防共に関する行為を支持し、必要なる援助を行なう、と決めている。

東アジア全体の安定のため日本から提議された北支、外蒙古における赤化の日支共同防衛に関して南京政府と協議する件については南京政府にその熱意はなかった。それどころか共産軍の迂回行動に当って、その進路を示したのは蒋介石であり、蒋の意思は共産軍の進路を決定する一要素であった。蒋は剿匪の名の下に討伐の指揮を執りつつ、常に軍事行動を利用して中央の威令の及ばない地方勢力に対する中央政権の拡大強化を計ろうとする巧妙な政略を忘れず、討伐の戦略も決して殲滅作戦は取らず、一定の計画の下に一定の方向に向かって共産軍を駆逐し、それを追撃しつつ大局の目的を遂げるのを常としていた。

1936年4月17日廣田内閣は閣議をもって支那駐屯軍の増強を決定した。北支に派遣される諸隊は、5月910日宇品港から、5月2223日新潟港から乗船輸送され、軍は6月上旬編成を完結した。軍司令官は田代皖一郎中将、そして軍司令部、支那駐屯歩兵第二聯隊、軍直諸隊は天津に位置し、歩兵旅団司令部および支那駐屯歩兵第一聯隊を北平および豊台に、その他一部の歩兵部隊を塘沽、灤州、山海関、秦皇島などに配置した。なお、参謀本部は増強された支那駐屯軍の一部を通州に駐屯させ、これによって冀東防衛の態勢を確立させる案であったが梅津美治郎陸軍次官から外国軍隊の北支駐屯を定めた北清事変最終議定書の趣旨に照らして京津鉄道から離れた通州に駐屯軍を置くことはできないという強い反対があったため通州の代わりに北平西南4キロの豊台に駐屯軍の一部(一個大隊)を置くことになった。豊台は北寧鉄路の沿線であるが北京議定書で例示された地点ではなく、1911年から27年まで英国が駐屯した実績があるとして選ばれたが、陸軍自身の調査でも「豊台ニ法的根拠ナシ」との結論が出されており、法的根拠なしに臨時として部隊を置きこれを永駐化する方針の元に駐兵が行われた。豊台駐兵は中国外交部の反対にもかかわらず行われた上、中国軍兵営とも近く、盧溝橋事件の遠因と指摘されてきた。 東京裁判でも、駐兵場所の問題について議論が行われている。盧溝橋事件の現場に居合わせた今井武夫北平武官によれば豊台は北寧、平漢両線の分岐要点の為、北平の戦略的遮断の意図と誤解され、かえって中国側の神経を刺激し、とかく物議の種となり、豊台事件を惹起するに至った。中村粲によれば、梅津次官は国際条約尊重の念から通州駐屯に反対したが豊台に駐屯した部隊が盧溝橋事件に巻き込まれたこと、さらに多数の日本居留民が虐殺された通州事件が通州における日本軍不在を狙って計画されたことは日本の善意が悲劇を招いた事例であるとしている。

北支における日本陸軍の作戦計画要領

日本陸軍が北支で作戦する場合、作戦計画策定の基礎として、「昭和十二年度帝国陸軍作戦計画要領」が訓令により次のように示されていた。

  • 一 帝国陸軍北支那方面ニ作戦スル場合ニ於ケル作戦要領ヲ概定スルコト左ノ如シ
    • 1 河北方面軍(支那駐屯軍司令官隷下部隊ノ外、関東軍司令官及朝鮮軍司令官ノ北支那方面ニ派遣スル部隊竝内地ヨリ派遣セラルル部隊ヲ含ム)ハ主カヲ以テ平漢鉄道ニ沿フ地区ニ作戦シ南部河北省方面ノ敵ヲ撃破シテ黄河以北ノ諸要地ヲ占領ス 此際必要ニ応シ一部ヲ以テ津浦鉄道方面ヨリ山東方面作戦軍ノ作戦ヲ容易ナラシメ又情況ニ依リ山西及東部綏遠省方面ニ作戦ヲ進ムルコトアリ
    • 2 山東方面作戦軍ハ青島及其他ノ地点ニ上陸シテ敵ヲ撃破シ山東省ノ諸要地ヲ占領ス
  • 二 帝国陸軍北支那ニ作戦スル場合ニ於ケル支那駐屯軍司令官ノ任務左ノ如シ作戦初頭概ネ固有隷下部隊ヲ以テ天津及北平、張家口為シ得レハ済南等ノ諸要地ヲ確保シ北支那方面ニ於ケル帝国陸軍初期ノ作戦ヲ容易ナラシム爾後ニ於ケル任務ハ臨機之ヲ定ム
  • 三 右ノ場合ニ於ケル作戦初期ノ支那駐屯軍作戦地域ハ独石口以東満支国境以南ノ地域ニシテ山東方面作戦軍トノ境界ハ臨機之ヲ定ム

第二十九軍との緊張

事件発生前、蘆溝橋付近における第二十九軍の動静には不穏な動きが日増しに顕著になっていた。この模様を「支那駐屯歩兵第一聯隊戦闘詳報」に、次のように記述している。

事件発生前蘆溝橋附近ノ支那軍ハ其兵カヲ増加シ且其態度頓ニ不遜トナレリ 其変化ノ状況左ノ如シ

  • 一 兵力増加ノ状況
平素蘆溝橋附近ニハ城内ニ営本部ト一中隊ヲ 長辛店ニハ騎兵約一中隊ヲ駐屯セシメアリシカ本年五月中、下旬ニ至ル間ニ於テ城内兵カユハ変化ナキモ蘆溝橋城[宛平県城]外ニ歩兵約一中隊ヲ 蘆溝橋中ノ島ニ歩兵約二中隊ヲ夫々配置セリ 六月ニハ長辛店ニ新ニ歩兵第二一九団ノ約二大隊ヲ増加スルニ至レリ
  • 二 防禦工事増強ノ状況
長辛店北方高地ニハ従来高地脚側防ノ為ニ機関銃陣地ヲ永久的ニ2箇所構築シアリ 又高地上ニハ野砲陣地ヲ構築シアリシカ六月ニ入リテ新ニ散兵壕ヲ構築シ 蘆溝橋附近ニ於テハ龍王廟ヨリ鉄道線路附近ニ亙ル間ノ堤防上及其東方台地ノ既設散兵壕ヲモ政修増強シ而モ従来土砂ヲ以テ埋没秘匿シアリシ「トウチカ」(従来ヨリ北平方向ニ対シ進出掩護又ハ退却掩護ノ意図ヲ以テ蘆溝橋ヲ中心トシ十数個ヲ橋頭堡的ニ永定河左岸地区ニ構築シアリタリ)ヲ掘開ス(主トツテ夜間実施セリ)
  • 三 抗日意識及我ニ対スル不遜態度濃厚トナリ蘆溝橋城内通過ヲモ拒否ス蘆溝橋城内通過ニ関シテハ昨年豊台駐屯当初ニ於テハ我部隊ノ通過ヲ拒否スルコトアリシヲ以テ之ニ抗議シ通過ニ支障ナカラシメ特ニ豊台事件以後ニ於テハ支那軍ノ態度大 ニ緩和シ日本語ヲ解スル将校ヲ配置シ誤解ナカラシムルニ努メシ跡ヲ認メシモ最近ニ至リ再ヒ我軍ノ城内通過ヲ拒否シ其都度交渉スルノ煩瑣ヲ要シタリ
  • 四 演習実施ニスル抗議
蘆溝橋附近一帯ハ北寧線路用砂礫ヲ採取スル地区ニシテ荒蕪地ニ適スル落花生等ノ耕作物アルニ過キス 従テ夏季一般ニ高梁ノ繁茂スル時期ニ於テハ豊台駐屯部隊ニトリ此ノ地区ハ唯一ノ演習場ナリ
然ルニ最近ニ於テハ我演習実施ニ際シテモ支那軍ハ畑ヘノ侵入ヲ云々シ或ハ夜間演習ニ就テモ事前ノ通報ヲ要求スルカ如キ言ヲ弄シ或ハ夜間実弾射撃ヲ為ササルニ之ヲ実施セリト抗議シ来ル等逐次其警戒ノ度ヲ加ヘタリ
  • 五 行動区域ノ制限
従来龍王廟堤防及同所南方鉄道「ガード」ハ我行動自由ナリシカ最近殊ニヨリ之ヲ拒否シ我兵力少キ時ハ装填等ヲ為シ不遜ノ態度ヲ示スニ至レリ
  • 六 警戒配備ノ変更
六月下旬ヨリ龍王廟附近以南ノ既設陣地ニ配兵シ警戒ヲ厳ニス 殊ニ夜間ハ其兵カヲ増加セルモノノ如シ一文字山附近ニハ従来全然警戒兵ヲ配置シアラサリシカ夜間我軍ニテ演習ヲ実施セサル場合ニハ該地ニ兵カヲ配置シ黎明時之ヲ撤去セルヲ見ル
北平附近支那軍ノ状況ハ本年春夏ノ候ヨリ相当戦備ヲ進メアリタルヲ看取セラル 本年六月ニ至リ北平城各門ノ支那側守備兵増加セラレ且警備行軍ト称シ特ニ夜間ニ於テ北平市内及郊外ヲ行軍シアル部隊ヲシバシバ目撃セリ

一方、蘆溝橋付近日本軍の状態については、前述戦闘詳報に次のように記されている。

駐屯軍ハ我行動ヲ慎重ニシ事端ヲ醸ササランコトニ努ムルト共ニ本然ノ任務達成ニ遺憾ナカラシムル為メ鋭意訓練ニ従事シ特ニ夜間ノ演練ニ勉メタリ 而シテ蘆溝橋附近ハ地形特ニ耕作物ノ関係上豊台部隊ノ為ニモ演習実施ニ恰適ノ地ナリ蘆溝橋附近ノ支那軍ノ増強ハ他ノ各種ノ徴候ヨリ判断シ彼等全般的関係乃至ハ南京側ノ指令ニ依ルモノト判断セラルルモ仮リニ我部隊ノ動静カ彼等ノ神経ヲ刺戟シタリト思惟セラルル事項ヲ挙クレハ左ノ如シ

  • 一 豊台駐屯隊ノ中期(五月乃至六月ニシテ其間中隊及大隊教練教練ヲ昼夜ヲ論セス実施セリ
  • ニ 豊台駐屯隊ニ対スル軍ノ随時検閲ヲ五月下旬該地ニ於テ実施セラレ軍幕僚ノ大部一文字山[俗称]ニ参集ス
  • 三 聯隊長ノ行フ豊台部隊ニ対スル中隊教練ノ検閲ヲ該地ニ於テ実施スル如ク計画セリ 随テ補助官ハ度々該地一帯ヲ踏査セリ
  • 四 旅団長、聯隊長ハ該地附近ニ於テ実施セル演習ヲ視察セリ
  • 五 本年六月及七月上旬ニ亙リ歩兵学校教官千田大佐ノ新歩兵操典草案普及ノ為ノ演習ヲ蘆溝橋城北方ニ於テ実施シ北平及豊台部隊ノ幹部多数之ニ参加セリ聯隊長ハ支那側全般的ノ動静力何ントナク険悪ヲ告ケ情勢逐次悪化シ抗日的策動濃厚トナリアルヲ看取シ部下一般ニ注意ヲ倍徒シ彼等ニ乗セラレサルト共ニ出動準備ヲ完整シ置クヘキヲ命シ特ニ豊台駐屯隊ニ対シテハ「トウチカ」発掘及工事増強ノ情況ニ就テ注意スヘキヲ命シタリ

第二十九軍の対日抗戦準備

第29軍は馮玉祥が率いた西北軍が改編されて中国国民党の地方部隊となったため、抗日精神が強烈であった。第29軍は1935年(昭和10年)12月ごろ、日本軍を仮想敵として、秘密裏に作戦計画を作成した。1936年12月の西安事件後、抗日民族統一戦線の形成が促進されると、1937年(昭和12年)4月から5月にかけて、第29軍の幕僚は、対日抗戦の具体的作戦計画を研究、作成した。副参謀長の張克侠は、攻撃をもって守備となす、という積極的作戦計画を作成した。この計画は第29軍10万の兵力を数個の集団に編成し、天津北平察哈爾の三戦区に分け、保定地区を総予備隊集結地区とし、戦区内の日本軍を壊滅し、その後戦況の進展に応じ、全力で山海関に向かって前進し、華北の日本軍を一挙に撃滅するというものであり、中国共産党北方局の同意を経た後、軍長の宋哲元に報告された。宋はこの計画に基づき準備を促進するよう張克侠に命令した。また宋哲元は第29軍全軍に対して、華北の日本軍を標的として軍事訓練を厳しく実施することを命令し、同軍は5月から6月にわたって頻繁に軍事演習を実施した。

そして、盧溝橋一帯の守備態勢を強化した。宛平県城内には歩兵1個連(中隊)と盧溝橋守備の営(大隊)本部が駐屯、長辛店には騎兵1個連が駐屯していたが、5月下旬に、城外に歩兵3個連(中隊)が増駐し、6月に、盧溝橋西南約6キロの町長辛店に第219団(連隊)所属の歩兵2個営(大隊)が新たに駐屯した。機関銃陣地と野砲陣地が構築されていた長辛店北方の高地には、散兵壕が新しく構築され、永定河左岸の10個のトーチカが掘り出され、使用できるようになった。そのほか盧溝橋付近の砂礫地帯と宛平県城の北側、東側、西側の三方面の警戒が厳重になり、夜間には歩哨所が増設された。永定河堤防上には鉄道橋付近から龍王廟にわたり一連の散兵壕が完成しつつあった。

7月6日、第29軍第37師第110旅長の何基灃は、盧溝橋一帯を守備している第219団に対して、日本軍の行動に注意し、これを監視するよう要求し、もし日本軍が挑発したならば、必ず断固として反撃せよ、と命令した。第29軍第37師第110旅第219団第3営長の金振中は、日本軍の演習を偵察した後、宛平県城内で軍事会議を開催し、各連(中隊)に対して周到な戦闘準備を整えるように要求し、日本軍がわが陣地100メートル以内に進入した場合は射撃してよく、敵兵がわが軍の火網から逃れないようにすることを指示した。7月7日保定に常駐している第37師長の馮治安は急遽北平に帰還し、何基灃と協議のうえ、対日応戦準備の手配をした。

なお、張克侠(1939年共産党に入党)、何基灃金振中1948年11月から翌年1月にかけて江蘇省徐州付近の淮海戦役の初期に、国民党軍から共産党軍に寝返った。

北平付近に展開されていた各国兵力

中国国民党国民革命軍

第29軍兵力編成表

司令:宋哲元、副司令:秦徳純、参謀長:張樾亭

【部隊】
【司令官】
【配置】
【隷下部隊】
【兵員】

第37師 | 師長:馮治安 | 西苑 | 第109、第110、第111、独立第25旅 | 約15,750名
第38師 | 師長:張自忠 | 南苑 | 第112、第113、第114、独立第26旅 | 約15,400名
第132師 | 師長:趙登禹 | 河間 | 第1、第2、独立第27旅 | 約15,000名
第143師 | 師長:劉汝明 | 張家口 | 第1、第2、独立第29旅、独立第20旅 | 約15,100名
独立39旅 | 旅長:阮玄武 | 北苑 |  | 約3,200名
独立40旅 | 旅長:劉汝明(兼務) | 張家口 |  | 約3,400名
騎兵第9師 | 師長:鄭文章 | 南苑 |  | 約3,000名
独立騎兵第13旅 | 旅長:姚景川 | 宣化 |  | 約1,500名
特務旅 | 旅長:孫玉田 | 南苑 |  | 約4,000名
河北辺区保安隊 | 司令:石友三 | 黄寺 |  | 約2,000名

河北省察哈爾省にある第二九軍以外の部隊(7月上旬)

【部隊】
【司令官】
【所属】

第39師 | 師長:龐炳勛 | 西北軍
第68師 | 師長:李服膺 | 徐永昌
第91師 | 師長:馮占海 | 旧東北軍
第101師 | 師長:李俊功 | 山西軍
第116師 | 師長:繆徴流 | 万福麟
第119師 | 師長:黄顕声 | 旧東北軍
第130師 | 師長:朱鴻勛 | 万福麟軍
第139師 | 師長:黄光華 | 商震
第141師 | 師長:李鴻文 | 商震軍
第142師 | 師長:呂済 | 商震軍
騎兵第2師 | 師長:黄顕声 | 旧東北軍

総兵力約153,000名

日本陸軍

支那駐屯軍(総兵力約5,600名)

【天津部隊】
【司令官】

軍司令部 | 軍司令官:田代皖一郎中将、参謀長:橋本群少将
支那駐屯歩兵第一聯隊第二大隊 | 
歩兵第二聯隊(第三中隊及び第三大隊欠) | 長:萱嶋高大佐
同戦車隊 | 長:福田峯雄大佐
騎兵隊 | 長:野口欽一少佐
砲兵聯隊(第一大隊 山砲二中隊、第二大隊 十五榴二中隊) | 長:鈴木率道大佐
工兵隊
通信隊
憲兵隊
軍病院
軍倉庫
【北平部隊】
【司令官】

支那駐屯歩兵旅団司令部 | 旅団長:河邉正三少将19期
同歩兵第一聯隊(第二大隊と一小隊欠) | 長:牟田口廉也大佐22期
電信所
憲兵分隊
軍病院分院
【分遣隊】
【注釈】

通州 | 歩一の一小
豊台 | 歩一の第三大隊、歩兵砲隊
塘沽 | 歩二の第三中隊
唐山 | 歩二の第七中隊
欒州 | 歩二の第八中隊〈一小欠〉
昌黎 | 歩二の一小
秦皇島 | 歩二の一小
山海関 | 歩二の第三大隊本部、第九中隊〈一小欠〉

以上のほか、次のような陸軍機関(特務機関)等がいた。

【配置】
【】

北平陸軍機関 | 長:松井太久郎大佐22期、輔佐官:寺平忠輔大尉35期、第二九軍軍事顧問:中島弟四郎中佐24期、長井徳太郎少佐30期、笠井牟藏少佐
通州陸軍機関 | 細木繁中佐25期、甲斐厚少佐
太原陸軍機関 | 河野悅次郎中佐25期
天津陸軍機関 | 茂川秀和少佐30期
張家口陸軍機関 | 大本四郎少佐30期
済南陸軍機関 | 石野芳男中佐28期
青島陸軍機関 | 谷萩那華雄中佐29期
北平駐在武官輔佐官 | 今井武夫少佐30期
陸軍運輸部塘沽出張所 | 

列強兵力

北支駐屯の外国軍隊は、英、米、仏、伊の四力国で、いずれも司令部を天津に置き、部隊を天津、北平に駐屯させ、さらに小部隊を塘沽、秦皇島、山海関に分屯させて

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出典:wikipedia
2018/05/10 01:56

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