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相川亮二とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
千葉県市川市
【生年月日】
(1976-07-11) 1976年7月11日(44歳)
【身長
体重】
183 cm
86 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
捕手
【プロ入り】
1994年 ドラフト5位
【初出場】
1999年8月21日
【最終出場】
2017年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


コーチ歴

  • 読売ジャイアンツ (2019 - )

【国際大会】

【代表チーム】
日本
五輪
2004年
WBC
2006年2013年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック
男子 野球
 | 2004 | 野球
ワールド・ベースボール・クラシック
 | 2006 | 野球
 | 2013 | 野球

相川 亮二(あいかわ りょうじ、1976年7月11日 - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手(捕手)、プロ野球コーチ野球解説者野球評論家。 2019年から読売ジャイアンツの1軍バッテリーコーチを務めている。

弟はファッションモデル俳優寿里

経歴

プロ入り前

兄の影響で5歳で野球を始め、小学2年生の時に地元市川市リトルリーグに入る。このときのチームメイトにはG.G.佐藤がいた。子供の頃は横浜大洋ホエールズヤクルトスワローズのファンで、憧れていたプロ野球選手は屋鋪要池山隆寛であった。父がバスケットボールをやっていたこともあり、野球だけでなく様々なスポーツに取り組んでいた。中学校までは投手東京学館高校に入学後は外野手だったが、2年生の冬、外野守備を見ていた社会人チームの監督からの薦めで強肩を生かすために捕手へ転向。1学年下には後にプロでも同じチームに所属する石井弘寿がおり、バッテリーも組んでいた。

足も速く、3年生の春からは「1番・捕手」として活躍。高校時代は通算152安打を記録し、夏の千葉県大会はベスト8で敗退。捕手経験は4ヶ月程だったが、地肩の強さとバッティングセンスを買われ、1994年度ドラフト会議横浜ベイスターズから5位指名を受け入団。同期には多村仁志福盛和男がいる。

横浜時代

捕手としての経験が浅いままプロ入りしたため、入団後しばらくは育成担当コーチの指導にただついていくという日々が続く。2年目の1996年、教育リーグで首位打者となり打撃が開花。シーズンに入ってからも二軍で安定した成績を残すが、チーム事情から捕手のポジション争いが激しく、出場機会を得るために外野を守ることもあった。

一軍公式戦の初出場は入団5年目、1999年8月21日のヤクルトスワローズ戦。9月3日の阪神戦で初安打を放つ。

2000年は当時の正捕手、谷繁元信が戦線離脱したのをきっかけに、14試合続けてスタメン出場し10勝4敗とチームを引っ張り、8月25日の読売ジャイアンツ戦では桑田真澄からサヨナラ安打を打つなど、徐々に頭角を現す。

森祇晶監督1年目の2001年も谷繁の控えながら代打などで活躍を見せ勝負強さを発揮する。5月3日のヤクルト戦で高校の後輩である石井弘寿からプロ初本塁打を放つ。オフに一度背番号25番への変更が決定し発表されたが、「変更するなら一ケタ」という相川本人の強い希望から25のユニフォームを着ることなく59に戻った。

2002年は谷繁の移籍により初の開幕スタメンを果たすなど正捕手候補と期待されたが、度重なる故障で離脱を繰り返し、谷繁と入れ替わる形で加入した中村武志がレギュラーとしてスタメンに就くことが多かった。

2003年も中村と併用が続くものの、5割近い盗塁阻止率を記録し存在感を見せる。この年からバッテリーコーチに就任した福田功の基礎からの徹底的な指導により自信を取り戻し、技術を身につけリードに成長をもたらすこととなった。

2004年はシーズン中にアテネオリンピック野球日本代表に選出され銅メダルを獲得。アテネオリンピック時に、裏方(ブルペン捕手も選手が兼任しなければいけなかった)として貢献してくれた相川に、城島が自身のキャッチャーミットに投手陣からのメッセージとサインを募って贈呈。相川はそのミットが宝物と公言している。(アテネ五輪公式DVDより)。帰国後は好調な打撃を発揮し、中村の不振もあって、初めて100試合以上(102試合)に出場した。

2005年は自己最多の144試合出場を果たす。チームも4年ぶりのAクラス入り。前年まで投壊状態だった投手力も安定しチーム防御率もリーグ2位となるなど投手陣を引っ張り正捕手の座を不動のものとした。

第1回WBCにて(2006年)

2006年は開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。この年から2008年まで横浜の選手会長を3年間務め、名実ともにチームの顔となった。

2007年は開幕から器用な打撃力で、高打率を保つ。プロ13年目にしてオールスターゲームに初出場。シーズン終盤、規定打席に到達させるために2番スタメンで出場したこともあり、初めて打率3割台を記録した。右肩の故障もあり盗塁阻止率は.250と低迷したが、攻守ともチームにも他球団にも強い存在感を見せた。北京五輪の代表候補選出では肩の故障が考慮され、星野仙一監督も相川の招集を見送るつもりだったが、手術を先送りして代表入りを熱望し、ギリギリまで代表の合同自主トレに参加していた。シーズン終了後、痛めていた右肩関節唇の手術を行った。契約更改で球団の提示額に不満を持っていたが、同時期に開催したクリスマスパーティーには女性を中心とする200人以上のファンが集まった。当初は20人集まれば良いとされていたイベントであったが、予想以上の人気により球団も考えを変え推定年俸1億円の大台に乗せ、「イケメン査定」として話題となった。

2008年は手術明けや故障で試合を欠場することも多く、チーム成績の低迷もあり、若手捕手に出場機会を譲ることもあった。持病の腰痛の再発もあって101試合の出場で規定打席には届かず打率.255にとどまった。オフには海外FA権を行使し、アラン・ニーロを代理人としてメジャー挑戦を目指した。

ヤクルト時代

2010年4月3日(明治神宮野球場)
2012年3月13日(阪神甲子園球場)

MLBの複数球団と交渉するも契約がまとまらず、2009年1月16日、唯一オファーしていた東京ヤクルトスワローズへの入団が内定。これは、ヤクルト球団史上初のFA補強となり、FA補償は金銭補償となった。

相川が入団した際に、球団と古田敦也が推薦する選手が出るまで欠番となっていた背番号27を提示されたが、本人が辞退している。

2009年は開幕からスタメンマスクを被り、女房役としてチームの好調を支え、オールスターゲームにも選出された。前年まで低迷気味のヤクルトだったが、この年、チームは初のクライマックスシリーズ進出を果たし、相川も2年ぶりに規定打席に到達した。9月28日に左脇腹肉離れで登録抹消され、クライマックスシリーズにはケガをおして出場するもチームは敗戦。

2010年は引き続き正捕手を任される。開幕当初は打撃不振だったものの徐々に打撃の調子が上向き、打率2割台から5月には3割台にまで戻し、打順も上がって主に6番を打ち下位打線を支えた。最終的には打率.293に加え、6月4日の埼玉西武ライオンズ戦から6日のロッテ戦にかけて、自身初の3試合連続本塁打を放ち、自己最多となる11本塁打65打点を記録した。また、チーム防御率もリーグ2位とリードでも貢献し、攻守に充実したシーズンとなった。

2011年8月26日の阪神戦でワンバウンドしたボールを右手に当てて親指の剥離骨折と亀裂骨折と診断される。1度は出場を見合わせるが、代わりにマスクを被っていた2番手捕手の川本良平も試合中に靱帯を断裂し離脱。チームも優勝争いしていたこともあり、骨折をしたまま最終戦、クライマックスシリーズまで強行出場した。また、同年10月25日のレギュラーシーズン最終戦の対広島24回戦(神宮球場)での7回表には、同年限りで現役を引退する高校の後輩である石井弘寿が登板、2004年のアテネ五輪以来かつ最初で最後となったプロ公式戦でのバッテリーを組んだ。先頭打者の松本高明から3球三振を奪い、石井の引退試合に華を添えている。

2012年はチームのキャプテンに就任。4月12日のDeNA戦で守備の際に相手打者のファウルチップを足に受け右足親指の末節骨骨折と診断され、開幕早々と離脱する。骨折から回復し一軍に戻ったものの、今度は8月16日の広島東洋カープ戦でワンバウンド投球を止めに行ったときに胸に当て左第2肋軟骨を骨折。シーズン2度目の離脱となった。ヤクルト移籍後、規定打席に初めて到達できず72試合の出場にとどまった。オフの12月4日に第3回WBC日本代表候補選手34人が発表され 候補入りした。

2013年2月20日に第3回WBC日本代表選手28人が発表され 代表入りし、2大会振り2度目の選出となった。壮行試合のオーストラリア戦では逆転3ランとなる決勝本塁打を放ったこともあって、初戦のブラジル戦では、負傷した阿部慎之助に代わってスタメン出場した。

シーズンでは、4月6日の対DeNA戦で本塁クロスプレイの際に左肩鎖関節の亜脱臼を負い、この年も開幕早々離脱する。全治2ヶ月の診断だったが5月25日より復帰し、6月5日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦では6回に青山浩二から2点本塁打を放ち、史上27人目の全球団から本塁打を達成した。通算58本塁打での達成は糸井嘉男に並び当時史上最少通算本塁打数だった(現在は大引啓次の通算32本塁打での達成が最少)。9月14日の阪神戦では、6回に本塁クロスプレイで阪神・マット・マートンのタックルを受け激高。乱闘騒ぎとなり、両者共に暴力行為で退場処分となり、厳重注意と制裁金15万円が科された。また、この年2度目の退場となったマートンは1試合出場停止となった。この乱闘事件の前の5月にも、チームメイトの田中雅彦がマートンのタックルを受けて鎖骨を骨折しており、相川は田中に「次やったら、俺がやり返してやるから」と約束していた。なお、マートンのタックルは問題視され、2016年に「コリジョンルール」が導入された。この年は打率.278、6本塁打と昨年よりも成績をあげたが、出場試合数は前年より少ない66試合に終わる。

2014年は若手の中村悠平が起用されたこともあり、前年よりも少ない58試合の出場にとどまった。シーズン終了後にフリーエージェントを宣言(年俸ランクB)。ヤクルトの衣笠球団社長は「将来的に指導者の立場と思っていた」と残留を要請したが、第一線でプレーしたいという気持ちが勝り、出場機会を求め球団に巨人に移籍する意思を伝えた。

巨人時代

2015年

それまで正捕手だった阿部慎之助一塁手転向を予定する読売ジャイアンツ(巨人)へのFA移籍がまとまり、2014年12月8日にかつてのチームメイトで同じくDeNAからFA移籍を表明していた金城龍彦とともに入団会見を行った。背番号は23。2度目のFA移籍は工藤公康小笠原道大に続いて史上3人目だが、捕手では史上初となった。この人的補償として奥村展征内野手が巨人からヤクルトへ移籍。

2015年3月29日のDeNA戦(東京ドーム)で移籍後初スタメンを果たすと、ルーキーの高木勇人を好リードし、プロ初勝利をアシストした。しかし4月2日の中日戦(ナゴヤドーム)で走塁の際に右太ももの肉離れで登録抹消された。自身の離脱の間に阿部が捕手に復帰した。5月20日の阪神戦で一軍復帰を果たすと、その後阿部は一塁手に再転向した。自身は復帰後は打撃も好調で前半戦は規定打席不足ながら打率.304を記録した。しかし、7月28日のDeNA戦で左手首を骨折してしまい登録を抹消された。この故障が響き40試合の出場に留まるも、規定打席不足ながら打率.313と高いアベレージを残した。この年のオフに監督となった高橋由伸の引退によりチーム最年長となった。

2016年は3年目の小林誠司が正捕手に定着したため代打での登場が多かったが、不振に陥り前年を下回る37試合の出場に終わった。

2017年7月30日のDeNA戦(東京ドーム)で8回に高木勇人の代打から途中出場し、1点ビハインドの9回二死一塁・三塁で山﨑康晃の初球を左中間に弾き返し、移籍後初サヨナラ打となる逆転サヨナラ2点適時二塁打を放った。10月3日、現役引退の記者会見を行い表明。球団からはあと1年契約をしてほしいと言われていたが、若手捕手の成長により自分の仕事をする場所がなくなった事と気持ちと体が追いつかなくなった事を理由に引退を決意。コーチの打診が巨人側からあったが、人の人生を預かるにはしっかり勉強してからコーチになりたいとの理由で辞退した。同日行われた古巣ヤクルトとの最終戦では9回表に代打で出場し、最終打席を内野安打で終えた。試合後、共にプレーした巨人とヤクルトの選手に胴上げされ、神宮球場が両軍ファンの「相川コール」に包まれる中、横浜時代の背番号と同じ数字の8回宙を舞い23年間のプロ野球人生に幕を閉じた。

引退後

2018年からは、サンケイスポーツの野球評論家に就任。メンタルトレーナーの資格を取得。

2018年10月22日、2019年から巨人の一軍バッテリーコーチに就任することが発表された。11月7日、背番号が発表された。背番号は79に決まった。

選手としての特徴

相川の打撃フォーム
(2011年10月15日、横浜スタジアム)

打撃

若手の頃から打撃の評価が高く、2007年に記録した打率.302は横浜の球団歴代捕手の中では最高打率である。

センター返しを意識した基本に忠実な打撃を特徴とし、捕手らしく配球を読んだ狙い打ちに挑む傾向がある。横浜時代は逆方向を意識したバッティングも目立ったが、ヤクルトへ移籍してからはコースによって広角に打球を打ち分けられるようになった。速球に強く、内角の球にも強い。通算でも得点圏打率が高く、勝負強いバッティングも特長。

現役生活23年間(一軍公式戦19年間)で打率は、横浜では.259、ヤクルトでは.261、巨人では.260と、若手時代からベテランになるまで安定した数字をキープし続けた。

守備

捕手としては攻守ともに総合力が高く、横浜時代に長年バッテリーを組んできた三浦大輔からは「当たり前のことがすべて当たり前にできる捕手」と評されていた。積極的に3球勝負に持ち込む外角中心のリードを持ち味とする。館山昌平からは「配球やバッターに対する洞察力が凄い」と評されている。

盗塁阻止率はレギュラーに定着し始めた2004年から2010年までの通算31パーセントを誇る。特別な鉄砲肩というわけではないがスローイングが安定しており、速い球を投げることよりも、リリースの早さとコントロールを重視しているという。サイド気味の低いリリースポイントから、野手が送球を受けて走者にタッチしやすいようにシュート回転のボールを投げる。レギュラー定着前は盗塁阻止率が低く、これを改善し二塁送球を速くするため2003年から利き足を右足から左足に変える。小学生の頃にサッカーをやっており、そのときの利き足が右だったため極端に重心が左に乗っていたが、捕ってから投げるまでを早くするためにこれを矯正したという。また、小中高と外野手で遠投の練習を続けてきたことが、捕手になってから送球、肩の強さに生きていると語る。

詳細情報

年度別打撃成績









































































O
P
S

1999 | 横浜 | 8 | 8 | 8 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500
2000 | 39 | 82 | 73 | 6 | 16 | 2 | 0 | 0 | 18 | 7 | 0 | 0 | 3 | 1 | 3 | 0 | 2 | 11 | 2 | .219 | .266 | .247 | .512
2001 | 59 | 70 | 64 | 7 | 15 | 2 | 0 | 2 | 23 | 12 | 0 | 0 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 12 | 1 | .234 | .235 | .359 | .595
2002 | 73 | 184 | 174 | 16 | 39 | 6 | 0 | 1 | 48 | 12 | 0 | 1 | 1 | 1 | 6 | 3 | 2 | 34 | 5 | .224 | .257 | .276 | .533
2003 | 70 | 182 | 165 | 16 | 41 | 8 | 1 | 5 | 66 | 14 | 1 | 1 | 5 | 1 | 10 | 5 | 1 | 50 | 1 | .248 | .294 | .400 | .694
2004 | 102 | 323 | 304 | 31 | 80 | 16 | 1 | 8 | 122 | 46 | 3 | 0 | 5 | 1 | 13 | 2 | 0 | 77 | 8 | .263 | .292 | .401 | .693
2005 | 144 | 559 | 498 | 38 | 129 | 20 | 0 | 8 | 173 | 46 | 0 | 2 | 9 | 7 | 39 | 9 | 6 | 90 | 13 | .259 | .316 | .347 | .664
2006 | 119 | 438 | 388 | 36 | 95 | 19 | 0 | 6 | 132 | 39 | 2 | 1 | 9 | 7 | 29 | 10 | 5 | 83 | 11 | .245 | .301 | .340 | .641
2007 | 123 | 450 | 391 | 37 | 118 | 12 | 1 | 2 | 138 | 33 | 0 | 1 | 16 | 1 | 40 | 13 | 2 | 51 | 6 | .302 | .369 | .353 | .722
2008 | 101 | 339 | 306 | 27 | 78 | 5 | 1 | 7 | 106 | 22 | 0 | 1 | 11 | 1 | 19 | 3 | 2 | 52 | 7 | .255 | .302 | .346 | .648
2009 | ヤクルト | 122 | 446 | 413 | 26 | 102 | 21 | 1 | 5 | 140 | 43 | 2 | 2 | 6 | 3 | 23 | 3 | 1 | 69 | 14 | .247 | .286 | .339 | .625
2010 | 120 | 474 | 427 | 44 | 125 | 17 | 2 | 11 | 179 | 65 | 2 | 0 | 6 | 7 | 30 | 4 | 4 | 70 | 8 | .293 | .340 | .419 | .759
2011 | 126 | 458 | 409 | 24 | 100 | 14 | 1 | 1 | 119 | 33 | 0 | 0 | 11 | 4 | 30 | 5 | 4 | 62 | 13 | .244 | .300 | .291 | .591
2012 | 72 | 244 | 220 | 19 | 54 | 8 | 0 | 1 | 65 | 28 | 0 | 0 | 1 | 2 | 20 | 3 | 1 | 33 | 7 | .245 | .309 | .295 | .604
2013 | 66 | 239 | 219 | 23 | 61 | 13 | 0 | 6 | 92 | 30 | 1 | 1 | 4 | 2 | 14 | 1 | 0 | 42 | 2 | .279 | .319 | .420 | .739
2014 | 58 | 207 | 192 | 19 | 48 | 8 | 0 | 2 | 62 | 21 | 0 | 0 | 2 | 2 | 9 | 1 | 2 | 31 | 5 | .250 | .288 | .323 | .611
2015 | 巨人 | 40 | 114 | 99 | 11 | 31 | 3 | 2 | 4 | 50 | 17 | 1 | 0 | 2 | 1 | 12 | 0 | 0 | 16 | 1 | .313 | .384 | .505 | .889
2016 | 37 | 48 | 41 | 2 | 10 | 2 | 0 | 0 | 12 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 1 | 0 | 10 | 0 | .244 | .333 | .293 | .626
2017 | 29 | 40 | 38 | 0 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 3 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | 0 | 9 | 1 | .158 | .175 | .184 | .359
NPB:19年 1508 | 4905 | 4429 | 383 | 1150 | 177 | 10 | 69 | 1554 | 475 | 12 | 10 | 93 | 46 | 305 | 63 | 32 | 803 | 105 | .260 | .309 | .351 | .660

五輪での打撃成績

【年

度】



【試

合】
【打

席】
【打

数】
【得

点】
【安

打】
【二

打】
【三

打】
【本

打】
【塁

打】
【打

点】
【盗

塁】
【盗

死】
【犠

打】
【犠

飛】
【四

球】
【敬

遠】
【死

球】
【三

振】
【併

打】
【打

率】
【出

率】



2004 | 日本 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .--- | .--- | .---

WBCでの打撃成績

【年

度】



【試

合】
【打

席】
【打

数】
【得

点】
【安

打】
【二

打】
【三

打】
【本

打】
【塁

打】
【打

点】
【盗

塁】
【盗

死】
【犠

打】
【犠

飛】
【四

球】
【敬

遠】
【死

球】
【三

振】
【併

打】
【打

率】
【出

率】



2006 | 日本 | 1 | 2 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .500 | .500 | .500
2013 | 4 | 5 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | .333 | .600 | .333

年度別守備成績

【年
度】
【球
団】
捕手
【試

合】


















【企

数】
【許

塁】






1999 | 横浜 | 6 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 2 | 2 | 0 | .000
2000 | 17 | 95 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 12 | 6 | 6 | .500
2001 | 21 | 52 | 4 | 1 | 2 | 1 | .982 | 2 | 2 | 0 | .000
2002 | 71 | 373 | 23 | 4 | 4 | 5 | .990 | 33 | 26 | 7 | .212
2003 | 63 | 352 | 26 | 2 | 6 | 1 | .995 | 35 | 19 | 16 | .457
2004 | 102 | 624 | 44 | 2 | 9 | 2 | .997 | 58 | 40 | 18 | .310
2005 | 144 | 1067 | 68 | 9 | 11 | 4 | .992 | 89 | 61 | 28 | .315
2006 | 116 | 825 | 71 | 5 | 13 | 4 | .994 | 81 | 57 | 24 | .296
2007 | 123 | 865 | 59 | 5 | 4 | 3 | .995 | 80 | 60 | 20 | .250
2008 | 101 | 575 | 69 | 4 | 8 | 5 | .994 | 75 | 50 | 25 | .333
2009 | ヤクルト | 122 | 747 | 80 | 3 | 9 | 2 | .996 | 75 | 45 | 30 | .400
2010 | 120 | 828 | 82 | 2 | 11 | 8 | .998 | 85 | 58 | 27 | .318
2011 | 125 | 851 | 67 | 8 | 9 | 2 | .991 | 63 | 42 | 21 | .333
2012 | 68 | 394 | 43 | 5 | 5 | 1 | .989 | 38 | 23 | 15 | .395
2013 | 60 | 390 | 35 | 1 | 3 | 0 | .998 | 35 | 24 | 11 | .314
2014 | 50 | 295 | 25 | 1 | 1 | 4 | .997 | 37 | 32 | 5 | .135
2015 | 巨人 | 37 | 205 | 18 | 2 | 0 | 2 | .991 | 24 | 19 | 5 | .208
2016 | 15 | 49 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1.000 | 6 | 4 | 2 | .333
通算 1361 | 8597 | 727 | 54 | 95 | 45 | .994 | 830 | 570 | 260 | .313

表彰

アテネオリンピック野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて

記録

初記録
2010Happy Mail