このキーワード
友達に教える
URLをコピー

真珠湾攻撃とは?

真珠湾攻撃

炎上する真珠湾上空を飛行する九七式艦上攻撃機
戦争:太平洋戦争
年月日:日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明, ハワイ時間12月7日
場所:アメリカ合衆国ハワイ州(当時はアメリカ合衆国の準州)オアフ島真珠湾
結果:日本の勝利、太平洋戦争突入
交戦勢力
大日本帝国 |  アメリカ合衆国
指導者・指揮官
山本五十六

南雲忠一

 |  ハズバンド・キンメル
ウォルター・ショート
戦力
航空母艦6隻
戦艦2隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦9隻
特殊潜航艇5隻
艦上航空機350機他 | 戦艦8隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦6隻
駆逐艦30隻
その他48隻
カタリナ哨戒機14機
基地航空機399機
損害
特殊潜航艇4隻沈没
特殊潜航艇1隻座礁
航空機損失29機
航空機損傷74機
戦死64
捕虜1 | 戦艦4隻沈没
戦艦1隻座礁
戦艦3隻損傷
軽巡洋艦3隻損傷
駆逐艦3隻座礁
標的艦1隻沈没
その他1隻沈没
その他1隻座礁
その他2隻損傷
航空機損失188機
航空機損傷159機
戦死2,334
民間人死亡68
民間航空機損失3機
南方作戦


大日本帝国海軍艦隊の航跡図
大日本帝国海軍攻撃隊の侵入経路図

真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、: Attack on Pearl Harbor日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、第二次世界大戦において日本海軍が、アメリカ合衆国ハワイ準州オアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊基地に対して行った、航空機および潜航艇による攻撃である。当時の大日本帝国側呼称は布哇海戦(ハワイ海戦、はわいかいせん)である。

太平洋戦争における南方作戦の一環として、イギリスに対するマレー作戦に次いで実施された。戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に完全に喪失し、開戦初頭にアメリカ軍艦隊に大打撃を与えて、側面から南方作戦を援護するという作戦目的を達成した。

背景

オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年(明治41年)に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、戦艦を圧倒できる16インチ砲を備えた砲台もあり、水上艦船での接近は不可能だった。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。また1910年(明治43年)11月、山本英輔海軍少佐が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出している。

日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年(昭和14年)に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は異なる構想を持っていた。アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していた。

準備

作戦の立案

1941年(昭和16年)1月14日頃、連合艦隊司令長官の山本五十六が第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎少将に手紙を送り、1月26日 - 27日頃に戦艦長門(連合艦隊旗艦)を訪ねた大西は、山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された。山本から大西への手紙の要旨は

「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦初頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」

というものであった。

鹿屋の第十一航空艦隊司令部に戻った大西は、参謀の前田孝成大佐に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談したが、真珠湾は水深が浅いために不可能という回答だった。大西は第一航空戦隊参謀の源田実中佐を2月中旬に鹿屋に呼び、同様の質問をした。源田は、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではないと回答した。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼した。源田は計画案を2週間ほどで仕上げて大西に提出、それに大西が手を加え、3月初旬頃、山本に提出した。源田案は、出発基地を小笠原諸島の父島か、北海道東部の厚岸として、空母部隊を真珠湾から200海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。一つ目は雷撃可能な時、艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案、二つ目は雷撃不可能な時、艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。航路は機密保持のために北方から進攻する。急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になるため計算に入れなかった。これに対して大西は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行うこと、出発基地を択捉島単冠湾と源田の案を修正した。9月頃、源田が大西から参考のために手渡された書面には、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、戦艦に致命傷がなくても行動できなくすることになっていたという。 山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。しかし、不可能ではないと判断されたため、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった。

攻撃順序の主目的は戦艦・空母とし、その達成に際して妨害が予想される敵航空基地・飛行機を副目標とした。工廠や油槽などの後方施設は目標とはしなかった。その意図は、心理的効果と、敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪うためには、戦力を二分して敵艦隊と工廠(こうしょう)、油槽などの施設を攻撃していずれも不徹底に終わるより水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えたためである。水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断したため、工廠や油槽などの後方施設の戦略的価値の重要性は認めながらも、兵力の関係から見逃さざるを得なかった。また攻撃は第一、第二攻撃の1回ずつ(当時の航空母艦は艦載機用カタパルトは無いので搭載機を一度に全機飛ばすことは出来ず、2回に分ける必要があり、その関係で一度の攻撃は2回に分ける必要があった)とし、戦果の如何に関わらず再攻撃は計画されていなかった。攻撃後は山本はハワイ空襲と関連し、ハワイにはアメリカ海軍の半数が存在したため捕虜にすれば回復が困難と見てハワイ上陸も相談していた。

実施部隊である第一航空艦隊(4月10日に編制)に作戦構想が伝えられると、第一航空艦隊司令長官の南雲忠一中将は、先任参謀の大石保中佐、航空甲参謀の源田にハワイ奇襲作戦実行計画の完成を命じた。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、予定通り洋上燃料補給ができない場合を考慮して艦艇の航続力が問題となったが、軍務局の暗黙の了解を得て、第一航空艦隊司令長官の権限で、燃料庫以外にもドラム缶で各艦の強度が許す限りの燃料を搭載することで解決した。

使用する航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、9月1日に編成された第五航空戦隊翔鶴(8月8日就役)・瑞鶴(9月25日就役)の新鋭大型空母2隻を擁しており、連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にすること、山本の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成することから、搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部は4隻案で考えていた。10月9日 - 13日に連合艦隊司令部で研究会が行われた。軍令部航空部員の三代辰吉はこの研究会に出席するために出張してきたが、研究会が終わった後に連合艦隊司令部に着き、6隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った。

軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。

大西と第一航空艦隊参謀長の草鹿龍之介少将は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地フィリピン方面に集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した。

海軍省軍務局や作戦部は大反対であった。大西が9月末に開かれた航空艦隊首脳部の打ち合わせの席上で「日米戦では武力で米国を屈服させることは不可能である。……対米戦に突入する以上、当然戦争の早期終結を考えねばならず、それにはある一点で妥協をする必要がある。そのためには、フィリピンをやってもどこをやっても構わないが、ハワイ攻撃のようなアメリカを強く刺激する作戦だけは避けるべきだ」と述べたように、これらの反対論は、攻撃自体の危険性もさることながら、米国世論の激変を危惧したものであった。

10月19日、連合艦隊先任参謀の黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長の伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長の永野修身大将は作戦実施を認めた。永野総長は戦後、東京裁判の検察尋問に対し、「私はもともと海軍軍令部案に賛成していたのです。……海軍作戦部は南太平洋でアメリカ軍を何年も待つことに計画を使うことに賛同していました」「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったのでこちらの計画に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」と証言した。

また、草鹿によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げして陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたという。

援護作戦として駆逐艦二隻によるミッドウェー島砲撃が計画された。

詳細は「ミッドウェー島砲撃」を参照

航空部隊

真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池・鹿屋・笠之原・出水・串木野・加世田・知覧・指宿・垂水・郡山・七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた。また、この作戦のため空中指揮官の淵田美津雄中佐と雷撃専門家の村田重治少佐が指名されて一航艦に異動した。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった。

当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された。

技術的な課題は、第1に水深12mという浅瀬でどうやって魚雷が海底に突き刺さらないようにするか、第2に戦艦の装甲にどうやって爆弾を貫通させるか、の2点であった。

詳細は「九一式魚雷」を参照

第1の魚雷に対しては、魚雷そのものを航空技術廠が改良し、航空隊は超低空飛行が行えるようにして、最低60mの水深が必要だったものを10m以下に引き下げることに成功した。九一式魚雷は、ジャイロと安定翼(ロール・ラダー)を用いて空中姿勢を安定させ、水平舵を上げ舵にして沈降を抑えることに成功した。鴨池航空隊は、飛行訓練によって超低空で投下できるようになった。実際の攻撃では、投下された魚雷40本のうち射点沈下が認められたのは1本だけであった。

第2の爆弾に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施された。模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場(現;日立金属安来工場)製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。

鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった。ワイキキやダウンタウンなどの市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていた。

また、日本海軍は攻撃に備えて真珠湾を調査するため、スパイとして吉川猛夫をハワイの領事館員として送り込んだ。吉川は日系人を利用し真珠湾のアメリカ軍艦艇の動向を日々調査し、真珠湾のアメリカ軍兵力の詳報を作り上げた。他にも軍令部第3部の鈴木英少佐らが、仏印進駐による経済制裁によりアメリカ行き商船の最終便となった大洋丸に乗り込み、攻撃部隊の予定進路に沿って航海し気象条件やアメリカ軍の警戒態勢などの情報を収集している。鈴木らは1941年11月1日にハワイに到着すると、安全を期して直接吉川と接触は避け、日本総領事の喜多長雄から吉川の調査結果を受け取った。鈴木は無事に日本に情報を持ち帰り、源田らに真珠湾の最新情報を伝えることができた。吉川は攻撃直前まで真珠湾の艦艇の動向を調べ、その情報は暗号電文で総領事館から海軍に伝えられ、第一航空艦隊に伝えられた。

特殊潜航艇

航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであったり、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想があったことを示している。甲標的は1940年9月に正式採用され34基の建造が命令された。1941年(昭和16年)1月中旬から訓練が開始され、8月20日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。訓練により戦力化に目処が立つとともに日米関係が悪化する状況に、搭乗員から開戦時に甲標的を使って港湾奇襲を行うべきであるとの意見が盛り上がり、先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員である有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束した。

9月初旬に原田と岩佐が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが、搭乗員の生還が難しいことから却下された。司令部を納得させるため、甲標的から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行ったが、搭乗員の収容に確実性がないとの山本の判断で再度却下された。部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長するなどの研究を行い、10月初旬に三度の具申を行った。この結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、ついに計画が採用された。10月11日 - 13日に長門で行われた図上演習には甲標的を搭載した潜水艦5隻による特別攻撃隊が使用された。特別攻撃隊の甲標的5隻には岩佐ら10名の搭乗員が選抜され、作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊16、伊18、伊20、伊22、伊24が選ばれた。

真珠湾の状況

1941年10月、開戦直前の真珠湾
軍施設の整備が進む1920年代のフォード島

1898年(明治31年)7月、アメリカはハワイ併合を行うと、順次海軍基地を整備していき、太平洋上における戦略上の軍事拠点として、またフィリピンへの中継拠点として、その存在意義が高まっていった。1940年(昭和15年)5月には、日本の南方政策を牽制するためサンディエゴに駐留していた太平洋艦隊の主力が、ハワイの真珠湾に駐留するようになった。当時のハワイはアメリカが巨費を投じて構築した要塞であり、太平洋のジブラルタルと呼ばれ、難攻不落と思われていた。軍事評論家フレッチア・ブラッドは「真珠湾はおそらく、世界中で最良の海軍基地であり、これほど最良の位置にあり、最高に防御され、また最高に補給された基地は他のどこにもない。」と評価し、アメリカ極東陸軍司令官のダグラス・マッカーサー少将も「真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られ、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合わせ部隊に比べれば、お話しにならないほど強力なものだった。」と分析していた。アメリカの新聞が「日本は我々を攻撃することはできない。それは軍事的に不可能なことである。ハワイの基地でさえ日本の艦隊の有効な攻撃力の圏外にある。」と報じ、ジャーナリストのクラーク・ビーチが「日本の真珠湾に対する攻撃は、もっともありうべからざることで ある。成功のチャンスは百万にひとつしかない。」と寄稿したように、アメリカの国民や軍の多くの人々は“金城鉄壁の真珠湾”という真珠湾の触れ込みを信じ切っており、日本軍の攻撃への警戒が非常に希薄であった。

しかし、ハワイへの空からの攻撃の可能性については、かなり前から指摘され続けており、古くは1920年代に航空主兵論の熱心な論者ウィリアム・ミッチェルが、ハワイ・オアフ島の防空体制の不備を指摘する意見を公表しており、また1932年(昭和7年)にはアジア艦隊司令長官のハリー・E・ヤーネル大将が、日本が宣戦布告前に空母でハワイもしくはアメリカ西海岸を攻撃する可能性を指摘し、2月7日日曜日、実際に就役間もない空母レキシントンサラトガと4隻の駆逐艦を使用し、152機の攻撃機がオアフ島沖96kmの海上から防御体制のできていない真珠湾を早暁に奇襲する模擬訓練を行ったところ、理論上湾内に碇泊するすべての艦船を沈め、地上の航空機もすべて破壊する計算で、完全に成功している。この演習の模様はホノルルの日本領事館から本国に報告されていた。第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍の快進撃が続いていた1940年(昭和15年)になると、太平洋艦隊司令長官のジェームズ・リチャードソン大将はフランクリン・ルーズベルト大統領に太平洋艦隊主力を真珠湾に置いていることの危険性について進言すると共に、日本軍の奇襲に備え洋上哨戒(しょうかい)を強化したが、ルーズベルトとは意見が合わず解任され、1941年(昭和16年)2月にはハズバンド・キンメル大将が太平洋艦隊司令長官に就任している。

キンメルも前任のリチャードソンと同様に、オアフ島の危険性については十分認識しており、太平洋艦隊司令長官になると直ちに「開戦の布告に先立って、真珠湾の艦船に攻撃があるかも知れない」と極秘指令を出し艦隊に警戒をよびかけたが、結局は潜水艦による攻撃に備えての駆逐艦の哨戒強化の指示に止まった。昼夜を問わず360度の警戒を行うだけの偵察機を有さなかったことを理由に、初めから航空哨戒についての努力を放棄していたのである。 1941年(昭和16年)8月にはハワイ陸軍航空隊指揮官、フレデリック・L・マーチン少将と第5爆撃航空隊指揮官ウィリアム・C・ファーシング大佐と数名のスタッフによる作戦研究で「日本海軍は6隻の空母を使用し、北方から攻撃をかけてくる。オアフ島に対する攻撃は早朝が敵にとってもっとも有利であろう。」という、ほぼ完全に日本軍の作戦を予見した研究結果が出て、キンメルや陸軍省にも報告されているが、その報告により航空哨戒が強化されることはなかった。 この頃のアメリカは大西洋の戦局に大きな関心を向けており、日本軍の真珠湾での攻撃の可能性については十分に認識していたが、それを現実的な脅威とは考えていなかった。キンメルは海軍作戦部長ハロルド・スターク大将に「大西洋の問題を軽く見るわけではないが、ここから見ていると、太平洋は依然として世界情勢の一部である。」と愚痴めいた書面を贈ったのに対し、スタークは「私自身はジャップがやってくるとは思わない」と答えている。

それは、ハワイ方面陸軍司令官のウォルター・ショート中将の陸軍も同様で、ハワイには二個師団の防衛部隊が配置されていたが、常に補給と訓練の問題に悩まされていた。強力な戦力となる「空の要塞」B-17はアメリカ本土の工場で製造されると、オアフ島に空輸されて武装その他の最終装備が施されるが、それからB-17はハワイにほとんどとどまることなく、フィリピンに送られていた。陸軍の誰もがハワイでB-17が必要になるとは思っていなかったからである。ハワイの陸海軍の総指揮官であるキンメルとショートは一週間おきの日曜日に一緒にゴルフを楽しむなど個人的には懇意であったが、陸海軍の連携や協力は無いに等しく、ショートは海軍が航空哨戒をしていると思い込んでおり、陸軍は哨戒活動をほとんどしていなかった。 こうした、陸海軍の警戒態勢の不備、大西洋重視、日本軍に対する過小評価がアメリカ軍の油断を生じさせていた。

1941年(昭和16年)11月27日午前9時にホノルルにて、キンメルとショートを筆頭とするハワイ駐屯のアメリカ陸海軍の幕僚が、ウェーク島ミッドウェイ島への増援について協議していた。両島に陸軍航空隊の戦闘機を増援として送ることの是非について話し合われていたが、両島ともに荷揚げ桟橋の設備がなかったため、陸軍機を空母に搭載して、両島に到着したら空母から発艦して飛行場に着陸させる必要があった。陸軍機は発艦はできても着艦はできなかったため、両島へ送った陸軍機はハワイの防衛に再び利用できない可能性があった。そこで陸軍参謀のジェームス・モリソン大佐が「我々の任務はオアフ島を守ることであって、陸軍機を両島に派遣することは、防衛能力を低下させることになります。」と意見を述べるとキンメルは「君はなぜそんなに心配するのか?我々が攻撃を受けるとでも思っているのか」と質した。そして、海軍のマックスモリス参謀に「日本軍がここを飛行機で攻撃してくる見込みについて、どう思うかね?」と聞くと、マックスモリスは「そんな見込みはまったくありません。」と答えている。

会議が終わった後にキンメルとショートはそれぞれ陸海軍省から日米交渉が破局に至ったことの連絡と、日本軍が近日中に戦争行為を起こす可能性が高いので警戒を怠らないようにとの指示があったが、キンメルに届いた警報については、日本軍の侵略的行動に対する警戒の呼びかけの後段に、日本軍が上陸作戦を行う可能性が高い地域として、フィリピン、タイ、マレー半島、ボルネオが挙げられていたため、深刻には受け取られず、哨戒が取り立てて強化されることもなかった。そのため予定通りウェーク島とミッドウェイ島には増援を送ることとし、翌28日に、ウェーク島にはウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将率いる第8任務部隊の空母エンタープライズと3隻の重巡洋艦と駆逐艦隊を派遣することとした。キンメルはハルゼーに「戦艦を連れていくかね?」と尋ねるとハルゼーは「高速で行かなければいけないときに足手まといになるからいりません」と拒否している。逆にハルゼーが「日本軍と行き会った場合はどうするんです?」とキンメルに指示を仰ぐと、キンメルは「常識でやるんだよ」と暗に攻撃を許可した。それを聞いたハルゼーは「射程距離に入ってきたらただちに撃沈します。」と宣言している。ただし、前日の会議の陸軍の意見を尊重し、陸軍の戦闘機は搭載せず、海兵隊の兵士と戦闘機を搭載し出港した。 12月2日には、高周波無線装置により日本海軍の暗号無線を傍受していたハイポ基地が日本軍の空母のコールサインが消えたことに気がつき、情報将校エドウィン・レイトン少佐がキンメルにその事を報告したが、キンメルは「誰も気づかないうちに、連中がダイヤモンドヘッドまで来ているっていうのかね?」と言ってまともに取り合わなかった。 さらに、12月4日に空母レキシントンが陸軍機を満載し、重巡洋艦3隻と駆逐艦を護衛に引き連れてミッドウェイに向けて真珠湾を出港し、日本軍攻撃前に真珠湾から全ての空母がいなくなってしまった。

12月6日、パープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に『帝国政府ノ対米通牒覚書』が送信された。パープル暗号はすでにアメリカ側に解読されており、その電信を傍受したアメリカ陸軍諜報部は、その日の夕方にルーズベルト大統領に翻訳文を提出したが、それを読み終わるとルーズベルトは「これは戦争を意味している」と叫んだ。しかしこの覚書にはハワイを攻撃するとか、具体的な攻撃計画についてのヒントはまったくなかった。しかし、午後1時に覚書をハル国務長官に手渡した後にすべての暗号機を破壊せよとの指令も付されており、攻撃時間を連想されるものであったが、そのワシントン時間午後1時が、ハワイ時間7時30分であることを思いつく者はいなかった。この情報を陸軍情報部から知らされた海軍は、海軍情報部長セオドア・S・ウィルキンスン大佐がスターク作戦部長にすぐにでもキンメルに知らせるべきと進言したが、スタークは「ハワイの防衛は陸軍の責任であるため、陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル大将からハワイに連絡するべき」と考え、マーシャルに要請した。マーシャルもこの覚書が開戦を意味すると考えて、ハワイとマニラに警報を送ることとしたが、手続きに時間がかかった上に、ハワイの陸軍無線機が故障しており、商用チャンネルを通じてこの警報がショートに届いたのは、攻撃が終わった数時間後でそれも自転車にのった少年から配達された

12月6日の夜には「日本軍の2個船団をカンボジア沖で発見した」というイギリス軍からもたらされた情報がキンメルとショートにも届いた。キンメルは太平洋艦隊幕僚と、真珠湾にある艦船をどうするかについて協議したが、空母を全て出港させてしまったため、艦隊を空母の援護なしで外洋に出すのは危険という意見で一致したのと、週末に多くの艦船を出港させると市民に不安を抱かせると判断し、艦隊をそのまま在港させることとした。しかし、これは真珠湾の攻撃を予測していたのではなく、あくまでもワシントン当局の警告通り、日本軍が攻撃してくるのは東南アジアだと考えていた。ショートにはさらにFBIが盗聴したホノルル東京間の新聞特派員の国際電話通話記録の情報が報告された。その通話記録では、特派員が東京とオアフ島上空の天候などを頻繁に話し合うなど、航空攻撃を示唆するような情報であったが、ショートも幕僚もこの情報の重要性に気が付くことはなかった。真珠湾攻撃前夜となったこの夜は、キンメルもショートももたらされる重要情報に気を配ることもなく、どちらもパーティに出席し飲酒している。ショートは帰路の車中で妻に真珠湾の夜景を見ながら「何とも美しい眺めだね」「でも恰好の攻撃目標になりそうだ」と話しかけたが、奇しくもこの予言はこの約11時間後に実現することとなってしまった。

経過

ニイタカヤマノボレ

1941年(昭和16年)11月1日、東條英機内閣大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降陸海軍は12月8日を開戦予定日として真珠湾攻撃を含む対英米蘭戦争の準備を本格化した。

11月13日、岩国航空基地で連合艦隊(南遣艦隊を除く)の最後の打ち合わせが行われた。司令長官の山本五十六大将は「全軍将兵は本職と生死をともにせよ」と訓示するとともに、日米交渉が妥結した場合は出動部隊に直ちに帰投するよう命令した。これに二、三の指揮官が不服を唱えたが、山本は「百年兵を養うは、ただ平和を護るためである。もしこの命令を受けて帰れないと思う指揮官があるなら、ただいまから出勤を禁ずる。即刻辞表を出せ」と厳しく言ったという。

海軍機を満載して航行する「蒼龍
「翔鶴」から発艦する九七式艦上攻撃機
魚雷攻撃を受けるアメリカ戦艦群、日本軍機から撮影
ショー (DD-373)の爆発炎上
雷撃を受け着底する戦艦カリフォルニア
手前が爆沈したアリゾナ、その奥にテネシーとウェストバージニアが見える

11月17日、山本は佐伯湾にあった赤城を訪れ、機動部隊将兵を激励するとともに、「この作戦の成否は、その後のわがすべての作戦の運命を決する」とハワイ作戦の重要性を強調している。11月22日、第一航空艦隊司令長官である南雲忠一中将指揮下の旗艦赤城および加賀蒼龍飛龍翔鶴瑞鶴を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島単冠湾に集結。出港直前、空母赤城に搭乗員達が集合し、南雲がアメリカ太平洋艦隊を攻撃することを告げた。赤城艦長は山本の「諸子十年養うは、一日これ用いんが為なり」という訓示を代読している。11月26日8時、南雲機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港した。

航路は奇襲成立のため隠密行動が必要であった。連合艦隊参謀の雀部利三郎中佐が過去10年間に太平洋横断した船舶の航路と種類を調べ、その結果11月から12月にかけては北緯40度以北を航行した船舶が皆無である旨を発見し、困難な北方航路が採用された。

草鹿龍之介によれば、奇襲の一撃で初期の目的を達成できなかった時、もしくは敵に発見され奇襲に失敗した時には、強襲を行う事に定められていた。ただしどこまで強襲を重ねるかについては状況次第であったという。

12月1日、御前会議で対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきことが決定された。12月2日17時30分、大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八ひとふたまるはちの電文が発信された。ニイタカヤマ(新高山)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰(3952m)、一二〇八とは12

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2020/06/06 02:12

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「真珠湾攻撃」の意味を投稿しよう
「真珠湾攻撃」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

真珠湾攻撃スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「真珠湾攻撃」のスレッドを作成する
真珠湾攻撃の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail