このキーワード
友達に教える
URLをコピー

石原慎太郎とは?

移動先: 案内検索
日本政治家
石原 慎太郎
いしはら しんたろう

2009年8月28日、都知事執務室にて

【生年月日】
(1932-09-30) 1932年9月30日(85歳)
【出生地】
日本 兵庫県神戸市須磨区
【出身校】
一橋大学法学部卒業
【所属政党】
(自由民主党→)
(無所属→)
(自由民主党→)
(無所属→)
(太陽の党→)
(日本維新の会→)
次世代の党
【称号】
法学士(一橋大学・1956年)
旭日大綬章
【配偶者】
石原典子
【子女】
5人
長男・石原伸晃
次男・石原良純
三男・石原宏高
四男・石原延啓
【親族】
父・石原潔
母・石原光子
弟・石原裕次郎
【公式サイト】
宣戦布告
衆議院議員

【選挙区】
(旧東京2区→)
比例東京ブロック
【当選回数】
9回
【在任期間】
1972年12月10日 - 1995年4月14日
2012年12月21日 - 2014年11月21日
第59代 運輸大臣

【内閣】
竹下内閣
【在任期間】
1987年11月6日 - 1988年12月27日
第8代 環境庁長官

【内閣】
福田赳夫内閣
【在任期間】
1976年12月24日 - 1977年11月28日
第14-17代 東京都知事

【当選回数】
4回
【在任期間】
1999年4月23日 - 2012年10月31日
その他の職歴

参議院議員
(1968年7月8日 - 1972年11月25日)

石原 慎太郎(いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年(昭和7年)9月30日 - )は、日本の元政治家作家

参議院議員(1期)、環境庁長官(第8代)、運輸大臣(第59代)、東京都知事(第14代・第15代・第16代・第17代)、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任した。

目次

  • 1 概要
  • 2 経歴
    • 2.1 学生時代
    • 2.2 作家として
      • 2.2.1 評価
    • 2.3 国会議員時代
    • 2.4 東京都知事時代
    • 2.5 衆議院議員復帰後
      • 2.5.1 国会質疑
      • 2.5.2 憲法
      • 2.5.3 脳梗塞発症
      • 2.5.4 経済・財政
      • 2.5.5 国家の会計制度
      • 2.5.6 維新の会分党、次世代の党結党へ
    • 2.6 政界引退後
      • 2.6.1 百条委員会への証人喚問
    • 2.7 略年譜
  • 3 選挙歴
  • 4 政治姿勢・発言
    • 4.1 尖閣・島嶼について
    • 4.2 日本国憲法について
    • 4.3 軍事について
      • 4.3.1 自主防衛推進
    • 4.4 靖国神社参拝
    • 4.5 佐野眞一について
    • 4.6 慰安婦について
    • 4.7 諸外国に対する見解
      • 4.7.1 国際連合
      • 4.7.2 中華民国・台湾
      • 4.7.3 中華人民共和国
      • 4.7.4 北朝鮮
        • 4.7.4.1 在日北朝鮮人の代表なる男たちから脅迫を受ける
        • 4.7.4.2 朝鮮総連施設・朝鮮学校への対応
      • 4.7.5 米国(アメリカ)
        • 4.7.5.1 TPP反対
      • 4.7.6 南アフリカ共和国
      • 4.7.7 外国人参政権
    • 4.8 話題にされた発言
    • 4.9 新党構想
    • 4.10 交流
    • 4.11 議員連盟
  • 5 家族・親族
    • 5.1 石原家
    • 5.2 系図
  • 6 著書
    • 6.1 創作
    • 6.2 短編作品
    • 6.3 その他
  • 7 共著
  • 8 随筆・対談・評論選集
  • 9 作詞曲
  • 10 翻訳
  • 11 外国語訳
  • 12 関連作品
    • 12.1 映画
    • 12.2 テレビドラマ
    • 12.3 舞台
    • 12.4 楽曲の作詞等
  • 13 演じた俳優
  • 14 逸話
  • 15 脚注
    • 15.1 注釈
    • 15.2 出典
  • 16 参考文献
  • 17 関連項目
  • 18 外部リンク

概要

三島由紀夫と。奥にいるのが石原。1956年千代田区紀尾井町文春ビルにて

兵庫県神戸市生まれ。神奈川県立湘南高等学校一橋大学法学部卒業。

一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年(昭和31年)に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。

1968年(昭和43年)に参議院議員となり、政治家に転ずる。福田赳夫内閣環境庁長官を、1987年(昭和62年)に竹下内閣運輸大臣を歴任。1995年(平成7年)議員辞職。

1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一鳩山邦夫明石康柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では都知事選史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。2012年(平成24年)、後継に猪瀬直樹副知事を指名し、次期衆議院選挙に出馬するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。2014年第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で出馬、落選の確定を受けて政界引退。

趣味サッカーヨットテニススキューバダイビング射撃。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓

経歴

学生時代

湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、ともに高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた。江藤とは作家となってから共著を出版するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーレイモン・ラディゲアーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという。

公認会計士になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している。

石原君が西原君だったかもう一人の学生とやって来て、その雑誌が出来たのだが、金が足りなくて印刷所から引きとれないと言って、七千円だったか八千円だったかの金がほしいと言った。そのときも私は石原という名前を知らず、背の高い学生だな、と思っただけである。だが、そのもらい方がとてもよかったことが印象に残っている。押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊の印象だった。すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた。 — 伊藤整「石原慎太郎君のこと」

慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。

『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。

慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。 — サンデー毎日1956年9月9日号「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」

石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。

作家として

石原 慎太郎
(いしはら しんたろう)

【職業】
作家
【言語】
日本語
【国籍】
日本
【活動期間】
1955年 -
【ジャンル】
小説随筆評論
【主題】
不可知なもの、暴力、生と死
【文学活動】
怒れる若者たち
【代表作】
太陽の季節』(1955年)
処刑の部屋』(1956年)
亀裂』(1958年)
化石の森』(1970年)
わが人生の時の時』(1989年)
』(1996年)
【主な受賞歴】
文學界新人賞(1955年)
芥川龍之介賞(1956年)
芸術選奨(1971年)
平林たい子文学賞(1988年)
毎日出版文化賞特別賞(1996年)
文藝春秋読者賞(1969年、2001年)
【デビュー作】
『灰色の教室』(1954年)

一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた。

詳細は「太陽の季節」を参照

その後『処刑の部屋』 (映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1970年(昭和45年)に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年(昭和63年)『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年(平成8年)の『』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞。

また1969年『日本について語ろう』(小田実と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも文藝春秋読者賞を受賞している。

1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜辻仁成花村萬月町田康青来有一中村文則青山七恵西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。

創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部)、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、92万部)などがベストセラーとなっている。

映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年(昭和33年)、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年(平成19年)5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている。

俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している。

政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。

評価

  • 作家としての石原は、田原総一朗水道橋博士豊崎由美栗原裕一郎などのような国家観の異なる者からも高く評価されている。
  • 1957年10月『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない。
  • 1959年(昭和34年)に文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的ジャズ短編小説『ファンキー・ジャンプ』を三島由紀夫は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した。
  • 文芸評論家福田和也は、日本の現役小説家を採点した自著『作家の値うち』(2000年)の中で『わが人生の時の時』に100点満点中96点と最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、「数世紀後に、20世紀日本文学をふり返った時に名前が挙がるのはこの作品ではないだろうか」と評した。
  • 季刊文芸誌「en-taxi」2013年11月号のインタビューで集英社の文芸誌『すばる』の女性編集長に、三国人発言を理由に、作品の掲載を拒否されたエピソードを明かしている。

国会議員時代

ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、田中角栄の金権選挙を批判。1968年(昭和43年)に第8回参議院議員通常選挙全国区から自由民主党公認で出馬、史上最高の301万票を集めて初当選。1972年(昭和47年)、第33回衆議院議員総選挙に当選、衆議院に鞍替えする。1973年(昭和48年)、田中角栄による中華民国と国交断絶し、中華人民共和国と国交を結ぶ『日中国交正常化』に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成する。1975年(昭和50年)、東京都知事選挙に出馬、美濃部亮吉革新都政に挑戦するも、僅差で敗れる。

1976年(昭和51年)、第34回衆議院議員総選挙で国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣環境庁長官にとして初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本国政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる。」「患者団体が政治組織に利用されている。」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。

1979年(昭和54年)、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年(昭和59年)、清和政策研究会に合流する。

1987年(昭和62年)、竹下内閣運輸大臣に就任。1988年(昭和63年)5月に新東京国際空港を視察する。その際、成田新幹線用に造られ、放置されたままになっている成田空港駅を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や、日本国有鉄道財政悪化の影響で建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年(平成3年)3月にはJR東日本京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。

成田空港高速鉄道」および「成田新幹線」も参照

1989年(平成元年)、亀井静香平沼赳夫園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派海部俊樹に敗れる。1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年(平成7年)4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行ない、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。

東京都知事時代

都知事時代(2006年9月1日)
詳細は「石原都政」を参照

議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。

衆議院議員復帰後

国会質疑

衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。 国政復帰初の2013年2月12日の国会質疑を「国民への遺言」とした。 同年4月17日と12月4日には安倍首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には衆議院本会議において代表質問を行った。

憲法

国政復帰後は、主に自主憲法の制定を強く訴えている。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。

脳梗塞発症

石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。

経済・財政

アベノミクスに関して
2013年2月12日、石原慎太郎は衆院予算委員会において「何としてもアベノミクスを成功させて欲しい」と応援する発言をした。

国家の会計制度

2013年2月12日、石原は衆院予算委員会において「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全なバランスシート財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と安倍総理および麻生副総理に、石原が都知事時代に東京都の会計に採用した複式簿記・発生主義会計制度を国家の会計制度にも導入するよう提言を行った。

維新の会分党、次世代の党結党へ

日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した

さらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスをつらぬき、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。

2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、同6月5日付で「新党準備会」を発足。石原グループの離党ではなく一度解散したうえでの分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。

7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。

2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として出馬を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位にあたる9位だった。結果として次世代の党は石原が出馬した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた。

2015年春の褒章で旭日大綬章受章。

政界引退後

百条委員会への証人喚問

豊洲市場の土壌汚染(築地市場移転問題)に関連し、土地購入をめぐる責任を理由として石原が東京都に578億円の賠償することを求める住民訴訟があり、東京都は2017年1月に石原の法的責任調査に乗り出した。また都議会に設置される百条委員会において同年3月20日に石原が出頭した。先立つ3月3日に石原は会見し、自らに責任は無く、豊洲は安全であり速やかに豊洲移転を行わない小池百合子知事に責任があると糾弾したが、これに対し小池知事からは「人の責任と言うのは簡単」と批判された。

なお、石原は交渉にはまったく関与していないと証言で述べたものの、一橋大学OB会の如水会で東京ガスの上原英治社長と豊洲移転について語っている。

百条委に都が提出した資料に石原都知事への青島幸男元知事からの引継ぎ書類が有り、そこに豊洲に移転させる方向性が示され、それ以外の候補地は記されていないことが、証人喚問に先立つ10日分かった。3日の記者会見で「知事就任早々に、豊洲移転は既定路線と聞いた」と説明しており、それを裏付ける資料となる。

石原の言う豊洲の安全性について、「建屋の安全性」には2016年12月末に検査済み証が交付され、「地下ピットの揮発性ガス」は換気すれば問題なしとの調査が発表され、「地下水の安全性」には2点目を含め専門家らが小池の姿勢に疑問を呈しいる。

略年譜

出典:wikipedia
2018/05/11 09:52

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「石原慎太郎」の意味を投稿しよう
「石原慎太郎」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

石原慎太郎スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「石原慎太郎」のスレッドを作成する
石原慎太郎の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail