石毛 宏典(いしげ ひろみち、1956年9月22日 - )は、元プロ野球選手(内野手)・監督・野球解説者。
日本に於ける独立リーグの創設者・運営者としても知られ、IBLJを設立し、初代代表取締役を務めた。愛称はミスターレオ、ハチ。千葉県旭市出身。
現役時代は主に西武ライオンズで活躍し、1996年に福岡ダイエーホークスで現役を引退した後に、同球団の二軍監督・オリックス・ブルーウェーブの監督などを経て、2004年に四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)を創設し、2009年創設の関西独立リーグ (初代)でも、最高顧問を務めた。
2009年より城西国際大学客員教授。2014年6月1日付で、千葉商科大学付属高等学校硬式野球部のテクニカルアドバイザーに就任。
銚子市立銚子高等学校では1番・遊撃手として活躍し、3年次に1974年夏の甲子園予選千葉大会で決勝に進出する。しかしエースの土屋正勝、4番の篠塚利夫を擁する銚子商業高校に完封負けし、甲子園出場を逃した。1年下のチームメートに銚子洋二(早大、銚子利夫の兄)、遠藤伸久両投手がいた。同年のドラフト会議でロッテオリオンズから6位指名を受けたが、入団を拒否し進学を公言した。
駒澤大学へ進学後は、東都大学野球リーグでは3年生までに5回優勝を経験し、1977年の全日本大学野球選手権大会では、決勝で原辰徳のいた東海大を延長10回で降し、優勝した。4年次には主将をつとめるが、尾藤福繁、渡部一治ら攻守の主力が卒業し、1978年春季リーグでは一転最下位に沈む。日大との入替戦では投手が払底、急遽石毛が登板し勝利投手となった。同年秋季リーグも4位と低迷するが、石毛は首位打者を獲得し、大学通算では107試合出場、378打数114安打、打率.302、7本塁打、57打点。ベストナイン6回。通算114安打は藤波行雄の133安打、高木豊の115安打に次ぐリーグ3位で、1976年から2年連続で、日米大学野球選手権大会日本代表に選出された。
大学卒業後はプリンスホテルに入社した。チームメートには住友一哉、中尾孝義、金森栄治などがいた。1979年の第50回都市対抗に東芝府中の補強選手として出場する。初戦第1打席で本塁打を放つなどしたが、準々決勝で中尾が補強されていた熊谷組に敗れた。同年の第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の準優勝に貢献した。1980年にはプリンスホテルとして初となる第51回都市対抗に出場するが、2回戦で新日鉄釜石に延長13回の末に敗退した。同年の第26回アマチュア野球世界選手権日本代表にも選出される。
1980年度ドラフト会議を前に、プロ入り拒否の態度を示していたが、直前に西武に1位指名であればプロ入りすると表明する。ドラフト会議では、西武ライオンズと阪急ブレーブスから1位指名を受け、西武が石毛の指名を引き当て、入団した。
1981年、ルーキーイヤーから遊撃手として開幕スタメン出場し、ロッテの落合博満と首位打者争いを演じるなど活躍した。長嶋茂雄以来の、新人打者として規定打席に達しての打率3割を達成し、新人王を獲得した。
翌1982年、西武監督に就任した広岡達朗に春季キャンプで「お前、それでよく新人王が獲れたな」と挑発を受けた。このことを広岡は「守備はそう上手いと思わなかったが、打撃で活躍して意気揚々としていた。もう少し上手くなれる選手だと思ったから、あえて挑発した。また、セの原辰徳かパの石毛かと言われていたので、『今、人気からすると原のほうが上だが、その実力では力でも勝てない。もっと勉強しろ』とも言った。」と振り返っている。
このことに反発した石毛は、最初は広岡の言うことを素直に聞かなかったが、石毛のライバル選手に広岡が手取り足取り教える姿を見るうちに、「監督、僕にも教えてください」と率先して教えを受け入れるようになっていった。以降、常勝西武のチームリーダーとしてチームを引っ張り、読売ジャイアンツとの1983年の日本シリーズでは、第6戦で1点ビハインドの9回裏1死満塁で同点打を放つなど活躍した。
1986年は打撃三冠王の落合博満や、高卒新人記録を次々と塗り替えた清原和博らを抑え、パ・リーグMVPを獲得した。膝の故障やチーム事情から、1987年に遊撃手から三塁手へコンバートされるが、日本シリーズではセ・リーグ優勝チームの本拠地での試合の場合は指名打者が使えない事もあり、その後もたびたびショートを守る事になる。中日との1988年の日本シリーズでは全5試合で遊撃手としてフル出場し、第1戦はセ・リーグ最多勝のタイトルを獲得した先発の小野和幸からソロ本塁打、第3戦は山本昌広からソロ本塁打・タイムリーヒット、日本一を決めた第5戦では初回小野からタイムリー2塁打、1点リードされた9回裏、リリーフエース郭源治からバックスクリーンへ起死回生の同点による昭和時代の最後の本塁打を放つなど活躍し、シリーズMVPを獲得した。この年オフには、パ・リーグ野手として初の1億円プレイヤーになる。
現役時代の前半は主にトップバッターとして活躍していたが、辻発彦の成長、オレステス・デストラーデの入団などのチーム事情もあり、現役時代後半は6番を任されるようになる。ゴールデングラブ賞の常連でもあり、通算成績で200本塁打を放ちながら200盗塁・200犠打を決めているように、走攻守三拍子揃った選手でもあった。
1994年、同じ三塁手のマイク・パグリアルーロが入団した。結果は石毛は111試合出場(101安打)、パグリアルーロは80試合出場(75安打)だった。巨人との日本シリーズでは12打数1安打に終わり、チームも2勝4敗で敗退した。
シーズンオフ、辞任した森祇晶監督の後任監督を打診されたが、就任を固辞した。石毛は「やればできるじゃんと自分で思いました。それなのに、引退して監督になってくれというのは冗談じゃない。三塁の守備だって鈴木健より上手い。監督は今じゃなくてもできるし、2,000本安打も頭にありました」と述べている。FA権を行使し、11月26日に根本陸夫が球団専務を務める福岡ダイエーホークスへ移籍した。同年、工藤公康もFAでホークスへ移籍したが、同一チームの2選手が、別の同一球団へ同一年度にFA移籍した史上初の事例となった。
ダイエー初年度となる1995年は怪我で出遅れ、打率2割、本塁打1、打点11と自己ワースト成績に終わり、新人から14年続いていた年間100試合出場、年間100安打、規定打席が途切れ、オールスターゲームの連続出場数が14回で途切れた。オフには年俸も50%ダウンの1億円(推定)で更改した。
翌1996年は出番が少なく、オフに戦力構想から外れ、10月9日現役引退を表明した。引退後もダイエーに籍を置き、球団職員の立場で、1997年にロサンゼルス・ドジャースにコーチ留学した。
同年シーズン終了後の10月24日、福岡ダイエーホークスの二軍監督に就任するが、翌1998年10月24日に1年で事実上解任された。スタメンをあみだくじやジャンケンで決めていたことが話題となったが、さまざまな打順を経験させることで、たとえば二軍で主砲であっても、一軍でバントを命じられて失敗しないようにといった狙いがあった。
解任となった原因はスタメン選びではなく、球団の管理部長にダイエーの強化策について聞かれ、進言した内容にあったという。「西武では根本(陸夫)さん(西武管理部長→ダイエー専務)がまず素材のいい人間を集めた。これはある面では編成の仕事だ」という部分が、ダイエーフロントに対する批判と受け取られ、球団側の怒りを買ってしまったという。
1999年から3年間はNHK野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家を務めた。
2001年10月9日オリックス・ブルーウェーブ監督に就任した。しかし、正式発表前にNHKにメジャーリーグのポストシーズン解説を依頼され、断るためやむなく就任を打ち明けたところ、『NHKニュース』で報道されることになり、こうなっては仕方がないと、スポニチにも監督打診の話を打ち明けた。これが「内部機密を外に漏らすようなやつは信用ならん」とオーナーの宮内義彦の不興を買い、石毛も反発して「この話、白紙に戻しましょうや」と応じた。結局NHKとスポニチに事前報道しないよう依頼し、いずれも自粛に応じた。
最終的に監督就任は実現し、打撃コーチに立花義家を招聘した。オリックスの監督に就任して、仰木彬前監督は選手が一堂に会したミーティングを開いたことがなく、指示は選手に個別に伝えていたと聞いて驚き、早速マネージャーにミーティングの場所を確保させた。
初年度となる2002年は球団では39年ぶり、オリックスでは初の最下位に終わった。2003年も開幕から低迷し、20試合(7勝12敗1分け)終了時点である4月23日に解任された。
采配振りから監督としての資質が疑問視されたが、石毛は「イチローも田口壮もジョージ・アリアスも加藤伸一もいなくなって戦力が足りなかった」と述べている。石毛によると、解任の引き金となったのは、新入団の外国人選手(ルーズベルト・ブラウン、ホセ・オーティズ)が不振で、日本野球に慣れさせるため二軍に落としたことが、採用した球団社長の岡添裕への意趣返しと見なされ、解任されたという。
2004年、IBLJを設立し代表取締役に就任し、四国アイランドリーグ(現四国アイランドリーグplus)を設立した。オリックス監督を解任された後、IBLJの設立を思いついたことについては「(監督が)3年契約で、残り1年8ヶ月分の給料はもらえる。どうせあぶく銭だし、活動資金になるなと思ってね」と述べている。
2007年3月10日、IBLJ代表取締役を退任し、コミッショナー専任となり、12月31日の契約満了を以ってリーグ運営から完全に撤退したが、同社設立時(単独で全額出資)から現在も主要株主の中に名を残している。コミッショナー退任について、自身のブログで「自分から言い出したものではなく、リーグ側で契約の更新を行わないと決めた」と説明した。2008年1月、愛媛マンダリンパイレーツのシニア・チームアドバイザーに就任した。
また、2008年3月には関西独立リーグの構想を表明し、2009年に関西独立リーグ発足後は最高顧問に就任。しかし、同年5月に発覚したリーグから球団への分配金の未払問題に関連して、リーグ発足後はほとんど運営にタッチしていないことが報じられた。リーグ運営から撤退した株式会社ステラに代わる運営会社の代表に就任した木村竹志は、5月28日に開いた会議後の会見で、「(石毛との)関係には区切りが付いたと考えてもらっていい」と発言し、新会社発足後のリーグ運営に石毛が関与しないことを示唆し、石毛は最高顧問を辞任。これに関して石毛は「オレは(リーグの)広告塔みたいな感じ(で参加した)」「(最高顧問なのに何もしてくれなかったという各球団の声に)立ち上げの前段階でいろいろやったのに、これまで礼もなければ報告も相談もなく、こうなってから『何もしてくれなかった』って言い方はない」と話す一方、「自分が悪者にされても、存続して(独立リーグが)広がってくれればいい」とも述べている。
2009年、古巣の西武ライオンズが主催する『ライオンズ・クラシック2009』のエグゼクティブプロデューサーに就任するとともに、始球式にも登場。9月1日付で、地元・千葉県に本部を置く城西国際大学の客員教授に着任。
2010年12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。
2013年、FOX SPORTS ジャパンによるNPB試合中継への参入を受けて、同局のプロ野球中継・情報番組『BASEBALL CENTER』のアナリスト(専属解説者)に就任。その一方で、プロ野球経験者による学生野球の指導に必要な研修会を受講した。
2014年、1月20日付で、日本学生野球協会から学生野球資格の回復を認定。6月1日からは、駒澤大学時代の石毛の2年後輩・染谷希一が監督を務める千葉商科大学付属高等学校硬式野球部で、非常勤のテクニカルアドバイザーとして部員を随時指導している。ちなみに、NPB球団の監督経験者が母校以外の高校で本格的に野球を指導するのは、石毛が初めてである。
野球解説者としては、2018年からは『サンデーモーニング』(TBSテレビ)のスポーツコーナー「週刊ご意見番」のコーナーに随時出演している。西武OBとして2018年から文化放送のゲスト出演するほか、2020年からは本数契約としてテレビ埼玉のプロ野球中継に出演する。