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石野真子とは?

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いしの まこ
石野 真子
【本名】
同じ
【別名義】
石野 眞子
【生年月日】
(1961-01-31) 1961年1月31日(57歳)
【出生地】
日本兵庫県
【身長】
156 cm
【血液型】
A型
【職業】
女優歌手
【ジャンル】
テレビドラマ舞台映画
【活動期間】

アイドル歌手時代: 1978年 - 1981年

復帰後:1983年 -
【活動内容】
1977年: 『スター誕生!』決戦大会合格
1978年: 「狼なんか怖くない」で歌手デビュー
同年: 「九月の空」で映画デビュー
1979年: 『熱愛一家・LOVE』でドラマデビュー
同年: 「ジュリーがライバル」でNHK紅白歌合戦初出場
1980年: 『なさけ坂旅館』(ドラマ)
同年: 「ハートで勝負」でNHK紅白歌合戦2回目出場
1981年:芸能界を一時引退、長渕剛と結婚
1983年:長渕との離婚により芸能界へ復帰
1986年: 『いのち
1990年: 広岡瞬と再婚、芸能活動は続行
1996年: 広岡と2度目の離婚
【配偶者】
長渕剛(1981年-1983年)
広岡瞬(1990年-1996年)
【著名な家族】
妹 (いしのようこ宝乃純)
【事務所】
フロム・ファーストプロダクション
【公式サイト】
プロフィール
【主な作品】

テレビドラマ
いのち
君の瞳をタイホする!
特捜戦隊デカレンジャー
花より男子』シリーズ
メイちゃんの執事
受賞
受賞歴参照

【備考】

靴のサイズ23cm、みずがめ座

石野 真子 (いしの まこ、1961年1月31日 - ) は、日本女優歌手。別名、石野 眞子

兵庫県生まれ。フロム・ファーストプロダクション所属。日本テレビ『スター誕生!』出身。第20回日本レコード大賞新人賞受賞、NHK紅白歌合戦出場歴2回。実妹に女優のいしのようこ (旧表記・石野陽子)と宝乃純

目次

  • 1 経歴とエピソード
    • 1.1 芸能界デビューまで - 1977年
      • 1.1.1 誕生、幼少期
      • 1.1.2 1973年
      • 1.1.3 1975年
      • 1.1.4 1976年
      • 1.1.5 1977年
    • 1.2 アイドル期 〜100万ドルの微笑〜 1978年 - 1981年
      • 1.2.1 1978年
      • 1.2.2 1979年
      • 1.2.3 1980年
      • 1.2.4 1981年
    • 1.3 芸能界一時引退 1981年 - 1983年
    • 1.4 芸能界復帰以降 1983年 -
      • 1.4.1 1983年
      • 1.4.2 1985年
      • 1.4.3 1986年
      • 1.4.4 1987年
      • 1.4.5 1990年 - 1999年
      • 1.4.6 2000年 - 2003年
      • 1.4.7 2004年 - 2008年
      • 1.4.8 2009年
      • 1.4.9 2010年
      • 1.4.10 2011年
      • 1.4.11 2012年
  • 2 著名人のファン
  • 3 八重歯タレント
  • 4 アイドルとして
  • 5 音楽
    • 5.1 シングル
    • 5.2 オリジナル・アルバム
    • 5.3 ライヴ・アルバム
    • 5.4 ベスト・アルバム
    • 5.5 CD-BOX
    • 5.6 DVD
  • 6 出演
    • 6.1 映画
    • 6.2 テレビドラマ
    • 6.3 オリジナルビデオ
    • 6.4 吹き替え
    • 6.5 舞台
    • 6.6 情報・バラエティ・歌番組
    • 6.7 ラジオ
    • 6.8 CM
  • 7 受賞歴
    • 7.1 1978年度
    • 7.2 1979年度
    • 7.3 1980年度
  • 8 NHK紅白歌合戦出場歴
  • 9 脚注
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

経歴とエピソード

芸能界デビューまで - 1977年

誕生、幼少期

1月31日、石野家の長女として生まれる。みずがめ座のA型 (アイドル時期のファンクラブ会報にはO型との表記がある。編集段階でのミスか、幼少時の検査結果によるものかは不明) 。両親と妹2人の5人家族。父親はビーズ製のハンドバッグ製造会社の経営をしていた。石野が幼い頃の実家では大型犬のセント・バーナード (名前は「バズ」) を飼っていて可愛がっていた」。

1973年

4月、尼崎市カトリック系女子校の私立百合学院中学校に進学。石野の父親は非常に躾が厳しく、中学・高校時代の門限は16時30分で、1分でも遅刻すると「どこへ行ってたんや」と父親が玄関で待ち構えていた。帰宅後は、実家で製品確認等の家業手伝いをしていた。

中学1年の頃、日曜日の午前11時に放映されていた日本テレビ系列のオーディション番組『スター誕生!』をよく見ていた。同番組から歌手デビューした白いエンジェル・ハット桜田淳子の活躍を見て「私もあんな風にテレビに出たい」と密かに決意する。

中学時代に自宅でよく歌っていたのがアグネス・チャンの「ひなげしの花」。初めて買ったレコード荒井由実の「あの日にかえりたい」だった。

1975年

中学3年後期、躾に厳しかった父親も習い事には理解を示し、歌が好きだった石野は「歌のレッスンを受けたい」と相談すると、「きちんとした所に通うんやったら、ええやろう」と許可された。平尾昌晃歌謡学院大阪校 (現在の平尾昌晃ミュージックスクール大阪校)のオーディションを受けて合格、同校のレッスン生となり通うことになった。入学審査オーディションで石野が歌ったのは、アグネス・チャンの『冬の帰り道』。

1976年

この頃にデビュー前の川崎麻世文通をしていた。この時期二人は、共に平尾昌晃歌謡学院大阪校へ通う生徒だった。

4月、百合学院高等学校に進学(同高校には2年生の2学期までの在籍。歌手デビューのため上京した2年生3学期からは都内の堀越高等学校へ転校)。この年の秋、平尾昌晃歌謡学院の講師から「本気で歌手になる気があるならオーディションを受けてみないか、君の実力ならきっと受かると思う」と勧められる。これがきっかけで日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に応募ハガキを出す。父親に「オーディションを受けてもいいかな?」と訊ねると、「どうせ落ちるやろから、まあええよ」と反対されなかった。

1977年

1月26日、『スター誕生!』の予備審査と予選会を勝ち進み、本選の大阪大会(豊中市民会館、テレビ放送日1977年2月13日)に出場。ダニエル・ビダルの『天使のらくがき』を歌った。審査発表では会場の一般審査員からの得点だけで合格点を超えてしまい、阿久悠ら専門審査員を驚かせる。合格ラインは250点((5人出場時の大会では300点)で、この日の石野の最終得点は530点になり1,000点の過半数を独占した結果になった。しかし、最終目標は後日合格者が集まって開催される「決戦大会」に出場して芸能事務所からのスカウトを受けることであり、ここでスカウトされなければ「歌が上手な一般人」で終わる。なお、この大阪大会に出場した際、バーニングプロダクションのスカウト担当者から「もし決戦大会でダメでもうちに来ませんか、責任を持って歌手に育てますから」と声をかけられていた。

3月23日、『スター誕生!』第20回決戦大会に出場(会場:東京・後楽園ホール、放送日: 1977年4月3日)。父親から「これに落ちたら、もうオーディション番組を受けたいなんて気持ちを起こすんじゃないぞ」と念を押されて挑戦した。再びダニエル・ビダルの『天使のらくがき』を歌う。「11番、石野真子、一所懸命頑張りました、どうぞよろしくお願いします!」と挨拶した石野に対し、スカウト意向の芸能事務所プラカードが16社挙がる。スカウト希望した事務所には、ビクター音楽産業バーニングプロダクション田辺エージェンシー第一プロダクションキングレコード徳間音楽工業ワーナーパイオニア日本コロムビア長良音楽事務所(名称は放送当時)などがあった。尚、同決戦大会の合格者には石野の他、翌1978年の同期歌手デビューの渋谷哲平がいた。

石野本人の『スター誕生!』審査時の書類が残されている。そこには「テレビに出演するにあたってのあなたの抱負は?」との質問があり、「新人賞をとりたい、誰からも愛されたい」との回答が記されている。

『スター誕生!』決戦大会の勝因について尋ねられた石野は、「選曲が自分に合っていた事と、自分で勝手に考えた振り付けが歌に合っていた事が良かった(のではないか)」と後にコメントしている。

デビュー前からファンが付いていたと言われているが、実際に『スター誕生!』第20回決戦大会(1977年4月3日)のスカウト発表場面のDVD映像によると、素人の石野に対して早くも会場の男性ファンから「真子ちゃーん」との声援が飛んでいる事が確認できる。

『スター誕生!』の合格を経て、石野の所属事務所はバーニングプロダクションに決まる。事務所選定時のエピソードについて後の取材で石野は、「何かホントに素人判断なのですが、バーニングには先輩に郷ひろみさんがいらっしゃるから大丈夫じゃないか、と思ったんです。もちろん両親や周りのスタッフの方とも相談して決めましたが、当時の事務所の専務さんから「当社はあなたを将来こういう風にしたい」という温かいお手紙をいただき、ここだったら安心、みたいな気がしました。」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)

その後、約1年間をかけてデビューへの準備を行う。父親の希望もあってデビュー曲が出来上がるまでは芦屋の実家で歌のレッスンに励み、高校2年の夏休み1ヶ月間は東京へ出向いて日本テレビ音楽学院に通った。デビュー曲の作曲を担当する吉田拓郎と東京六本木のバーで初対面する。この時の「石野真子」の印象を、吉田は後の著書の中で「本当にこの人デビューするんですか?と思うほど太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月後(レコーディングの時)には見違えるほど変身させて連れて来た」、と記している。

アイドル期 〜100万ドルの微笑〜 1978年 - 1981年

1978年

所属事務所からデビュー曲が決定したとの知らせが届き、レコーディング準備に入るため、1月7日、上京することになった。電話の受話器越しに作曲者の吉田拓郎が歌う『狼なんか怖くない』のデモテープを初めて聴き感激したという。レコーディングに関しては「狼なんか怖くない」の「レコーディング」の項を参照。

3月25日、デビュー・シングル「狼なんか怖くない」(作詞: 阿久悠/作曲: 吉田拓郎/ジャケット撮影: 篠山紀信)がビクターから発売。アイドル歌手として芸能界にデビューした。当時のアイドルには必ずと言っていいほどキャッチフレーズが付けられており、石野に付けられたものは「100万ドルの微笑」。ファースト・アルバム『微笑(ほほえみ)』の帯にもその記述が見られる。また、八重歯と垂れ目であることをチャームポイントにしていた。「狼なんか怖くない」を観客の前で初披露したのは、TBSテレビの『笑って!笑って!!60分』。後日感想を訊かれて「私の歌をあんなに喜んでくださるなんてもう最高!、すごく嬉しかった!」とコメント。

3月27日、デビュー2日目にフジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。「狼なんか怖くない」を歌い終えた石野に対し、司会者の芳村真理は「いやー真子ちゃん、デビューして2日目!ご苦労様でした!」と声をかけている。

デビューからしばらくの間、石野が仕事の移動で使っていた車はマネージャーの井上が運転する「フォルクスワーゲンの真っ赤なビートル」。これは所属事務所の1年先輩の高田みづえが使用していた車を譲り受けたもの。また、当時は極度の男性恐怖症があり、男性マネージャーと2人で車に乗っている時はいつでも車から飛び降りられるように助手席のドアノブを握っていた。

6月25日、シングル2作目『わたしの首領』(わたしのドン)発売(作詞担当の阿久悠は、当時広島で起きていた暴力団抗争からヒントを得て、「首領」を「ドン」と読ませた)。

8月、デビューシングルと2作目を作曲した吉田拓郎がパーソナリティーを務めるラジオ番組『セイ!ヤング』にゲスト出演。本番中のCM開けのジングル「♪セ〜イ!ヤ〜ング♪」を口ずさんだ石野は吉田から「そうやって、いつも歌ってるわけ?」と尋ねられ、「子供の頃からいつも歌っています」と告白。また、自分を動物に例えると何?とのリスナーの質問に、石野が「タヌキ…じゃないですか?」と答えると、吉田は「僕は自分をカモシカだと思ってますけどね」と応じて石野を笑わせた。また吉田は番組内で石野について「あなたは頭が良い」「あなたはラジオよりテレビのほうが面白い!」と称賛した。

当時披露した物まね芸に、アメリカ人美女プロゴルファー「ローラ・ボー」(1978年8月、文化放送『吉田拓郎のセイ!ヤング』で披露。当時流行した日清製油 (現・日清オイリオグループ)のテレビCMに出演した)の歌真似と、「アグネス・チャン」(1979年7月20日、日本テレビカックラキン大放送!!』で披露) などがあった。

8月27日、いわゆる「西武園1万人コンサート」開催。この年8月最後の日曜日に、自身初となるコンサート西武園(埼玉県所沢市)で行う。ファンの集いを兼ねたこのコンサートは「石野真子のドンとやってみよう、宿題なんか怖くない、1万人大集会」というタイトルで中高生をターゲットに開催したもので、石野の歌を楽しむ一方、大学教授を招き夏休みの宿題対策を冗談を交えて行う企画だった。集まったファンへのプレゼントとして夏休み期間のお天気情報(天候、気温、湿度)が配られた。

10月2日、銀座音楽祭アイドル賞受賞。

10月5日、シングル3作目『失恋記念日』発売。

10月12日、新宿音楽祭金賞受賞。

10月22日、石野が初めて出演する映画『九月の空』が松竹大船撮影所にて撮影開始。高橋三千綱芥川賞受賞作品『九月の空』を映画化したもので、山根成之監督作品。主人公の高校生・小林勇(坂東正之助)に淡い憧れを抱く初々しい女子高生の松山小夜子役。また、石野の所属事務所先輩の郷ひろみが、ライバル高校の剣道部員役で友情出演している。この映画には主演の坂東正之助とのキスシーンがあったが、元来恋愛に奥手でプライベートですらキスの経験がなかった石野は撮影当日、相当緊張した。キスシーンの撮影自体は1度でOKを出せたものの、本番後の石野は大粒の涙を流した。

10月25日、横浜音楽祭新人賞受賞。

11月15日、日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞。。

11月18日、マスコミ関係者を招き東京プリンスホテルにて「早く来い来い、クリスマス・ホームパーティ」を開催。これは石野サイドが普段お世話になっているマスコミ関係者とその家族に感謝の意を表して企画した“ちびっ子サービスを交えたアットホームな歌のショー”である。

12月2日、映画『九月の空』が松竹系映画館で公開。同時上映は『博多っ子純情』。

12月31日、『失恋記念日』が第20回日本レコード大賞新人賞を受賞。「『失恋記念日』は賞を頂けたという事で、いつも唄う時には1曲につき2着の衣装があったんですけど、3着・4着と増えたっていうのがすごく嬉しかった」

1979年

1月11日、イタリアサンレモ音楽祭に出演(新宿音楽祭金賞受賞者が派遣されていた)。

1月25日、シングル4作目『日曜日はストレンジャー』発売。バーニングプロダクションの当時のプロデューサー小口が企画段階から「次のシングルは徹底的に明るい歌にする」としていた作品。

1月31日、TBSの連続テレビドラマ、水曜劇場『熱愛一家・LOVE』に出演が決まり、撮影初日。石野がスタジオに姿を現すと、照明が消えてハッピー・バースデーの曲が流れ、バースデー・ケーキにロウソクが灯り共演者や撮影スタッフから拍手が沸き起こる。18回目の誕生日をサプライズ企画で祝ってもらい感激したという。

2月14日、TBS水曜劇場『熱愛一家・LOVE』放映開始。石本家の末娘、高校生のみどり役で出演。

ドラマデビューとなった『熱愛一家・LOVE』出演について後年の取材コメントで、「当時は“女優”とか“演じる”とかの意識はほとんどなかったのですが、現場がものすごく楽しかったのはよく覚えています。森光子さんや泉ピン子さん、西田敏行さんとか、素晴らしい俳優さんたちに囲まれて、私は能天気に本当に自由に伸び伸びとやらせていただいたので、NG出したらどうしようかとか先輩が怖いとか、そういうのは全くありませんでした」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)

4月5日、シングル5作目『プリティー・プリティー』発売。

6月25日、水着姿で出演した日本テレビ系『紅白歌のベストテン』の中で、「(自分は)スタイルが悪いので水着を選ぶのに苦労する」とコメント。

7月5日、シングル6作目『ワンダー・ブギ』発売。

7月16日、野球チーム「PRETTIES」結成。このチームのユニフォーム姿でフジテレビ系『夜のヒットスタジオ』に出演して『ワンダー・ブギ』を歌ったことがある。

8月23日、「第5回日本テレビ音楽祭」開催。デビュー2年目の歌手の中で最も活躍した歌手に与えられる「金の鳩賞」を受賞する。石野は前年の新人賞に続いての受賞。『ワンダー・ブギ』を披露。

9月25日、シングル7作目『ジュリーがライバル』発売。この曲のレコーディングで「石野は感情の入れ方が上手くなった」と周囲のスタッフが感じ始める。

10月27日、TBSラジオ『真子のワンダーランド』出演(毎週土曜17時30分〜、〜1981年4月4日)

12月、仕事で札幌に行った時に偶然ペットショップで黒いプードルの子犬を見かける。「黒いフサフサの毛が、可愛くって可愛くって堪らなかった」ので、石野はマネージャーに相談し購入を決定(年明け1980年1月にその子犬をマネージャーの婚約者が東京まで運び、石野の元に届けられる)。子犬は「ツン」と名付けられた(名前の由来は二説あり、(1)初め呼んでもツンとしていたから、(2)歩くと足の爪が「ツンツン」と音を立てるから)。

12月31日、「第30回NHK紅白歌合戦」に『ジュリーがライバル』で初出場。石野は紅組のトップバッターとなり、この年の紅白歌合戦1曲目を歌った。尚同曲の歌唱中、白組出演で「ジュリー」こと沢田研二の苦々しい表情が映る場面があった。

1980年

1月1日、シングル8作目『春ラ!ラ!ラ!』発売。この曲は自己最大のヒットとなる。

1月13日、ニッポン放送『真子と水島裕のスマッシュ・ルンルン』出演(毎週日曜17時〜、〜1980年10月5日)。

音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS系)では、『春ラ!ラ!ラ!』(2月7日放送時、最高10位・1週)と次作品『ハートで勝負』(5月8日放送時、最高9位・1週)の2曲がランクイン。石野は同番組への出演は合計2回のみだったが、石野の登場時は司会の久米宏黒柳徹子らに対し、手製のクッキーチーズケーキを焼いて持参するという気配りを見せる一面があった。また同番組では初登場の際、アルバムに直筆のサインを書くのが伝統となっているが、石野はその1枚のアルバムに何人も書くと勘違い(石野がサインを書くそのアルバムの左頁側は、初登場時のクリスタルキングのメンバー・合計約10名の直筆サインがそれぞれ小さく書かれていた)して、片隅の方にほんの小さくサインをした。それでも久米・黒柳からは「これは又これで良いですね」「とってもあなたは若々しい謙遜さが。その気持ちをいつまでも忘れないで」と誉められている。その後同番組2度目の出演時に、石野は改めてそのアルバムに自身の似顔絵入りで大きくサインをしていた。

3月3日、堀越高等学校を卒業。石野はデビュー直後から多忙になってしまい、単位不足で1年留年した後の卒業であった。留年後の同期卒業生には、渋谷哲平岩崎良美、レコードデビュー直前の松田聖子(NHKレッツゴーヤングのサンデーズで活躍中)がいた。

3月10日、芦屋市の実家が失火で全焼する。出火当時、石野は静岡県内で開催された千昌夫ショーにゲスト出演していて、終了後にスタッフから「家が全焼した」と連絡を受け、涙ぐんだという。

3月21日、テレビ朝日系列の連続ドラマ『なさけ坂旅館 一日三食人情つき』放送開始(金曜21時〜、〜9月26日(全26回))。東京神楽坂にある旅館「丸川」を舞台に三代の女系家族が織り成す人情ドラマ。主演は山田五十鈴、共演者には市原悦子林隆三らが揃っており、前年出演のドラマ『熱愛一家・LOVE』に続いて共演者に恵まれた。

4月5日、シングル9作目『ハートで勝負』発売。オリコン週間ランキングは自己最高の15位に上昇した。

4月13日、NHK『レッツゴーヤング』(毎週日曜18時〜)の新司会(榊原郁恵の後任)を太川陽介と共に務めた(〜1981年3月7日)。

5月25日、東芝日曜劇場「およめちゃん」に初出演。「熱愛一家・LOVE」のディレクター・鴨下信一が、石井ふく子プロデューサーに紹介し、出演が実現した。「およめちゃん」は好評のため、その3まで製作された(共演:山村聰・おりも政夫・織本順吉、脚本:折戸伸弘、演出:鴨下信一、プロデューサー:石井ふく子)。

7月5日、シングル10作目『めまい』発売。

8月28日、日本テレビ系列『日本テレビ音楽祭』のトップ・アイドル賞を受賞。昨年まで女性部門は山口百恵が連続受賞していた。“普通の女の子が歌をうたっているだけ”と日頃から思っていた石野にとって思いがけない受賞で、「ありがとうございます、ホントにありがとう、こんな私がトップ・アイドル賞をいただけるなんて」と笑顔でコメントしていた。

8月30日 - 31日、日本テレビ系の第3回24時間テレビ 「愛は地球を救う」でメインパーソナリティーを務める。

9月21日、シングル11作目『彼が初恋』発売。

11月21日、自身初となる両A面のシングル12作目『フォギー・レイン/恋のハッピー・デート』発売。尚「恋のハッピー・デート」は、当時の流行グループ歌手だったノーランズカバー曲で、元のタイトルは「Gotta Pull Myself Together」。歌番組での石野は『恋のハッピーデート』を披露する事が多かった。

12月31日、「第31回NHK紅白歌合戦」に2年連続2度目の出場を果たし、青いレオタード衣装で『ハートで勝負』を披露。また同じNHKの『レッツゴーヤング』でバックダンサーを務める「サンデーズ」の面々も駆け付けた。なお現時点で石野のNHK紅白歌合戦は、同回が最後の出演となっている。

1981年

2月5日、1981年で最初となる13作目のシングル『思いっきりサンバ』をリリース。

4月12日、日本テレビ系『スター誕生!』の新司会を坂本九と共に務める。4月21日、14作目のシングル『彩りの季節』をリリース。

6月、シンガーソングライターフォーク(当時)歌手の長渕剛婚約結婚を前提に交際宣言を発表。その際石野は同年8月末をもって、歌手活動を含めた芸能界からの引退を表明する。

6月21日、2ヶ月連続リリースの第1弾としてシングル・15作目の『恋のサマー・ダンス』を発売。

それから1か月後の7月21日、2ヶ月連続リリースの第2弾シングル・16作目『バーニング・ラブ』発売。これが石野のアイドル時代で最後に発売したシングルとなった。

7月26日、金沢観光会館を皮切りに「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」が全国18ヵ所で公演。8月30日、「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」最終日(渋谷公会堂)。日本テレビ「日曜スペシャル・いよいよ引退!石野真子ラストコンサート」でその様子がテレビ生中継された。当時、女性アイドル歌手(デュオ・グループを除く)の「引退コンサート」としてテレビで生中継されたのは、山口百恵と石野真子の2人だけだった。

8月31日、フジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』の生放送。番組内では石野の婚約・結婚を祝い「さよなら引退」セレモニーがあった。武田鉄矢が『贈る言葉』を歌い、駆けつけた森光子や当日の番組出演者一同が合唱して、感極まって涙を流し続ける石野の引退を見送っていた。

9月6日、日本テレビの『スター誕生!』最後の司会を務める回の放送日(録画)。この回の収録では番組サイドが石野の引退に配慮して、「石野真子ヒット・メドレー」のコーナーを番組内に組んでいる。『わたしの首領』『プリティー・プリティー』、『彩りの季節』の3作をメドレーで歌い、最後に『バーニング・ラブ』を披露した。

芸能界一時引退 1981年 - 1983年

芸能活動引退直後の1981年9月、長渕剛との婚約記者会見を行う。石野は幼い頃から、幸せな結婚をして家庭に入ることが夢のひとつであった。また、長渕から「家庭に入って欲しい」と望まれたこともあり、結婚出来るのであれば喜んで芸能界を未練無く去る気持ちだったという。

長渕剛との出会いは、シングル「順子/涙のセレナーデ」が大ヒット中だった1980年、ニッポン放送オールナイトニッポン』でパーソナリティを務めていた長渕の希望を受けて、番組の構成作家だった秋元康が石野のゲスト出演をセッティングしたことがきっかけ。番組内で二人が意気投合したことから後に交際に発展した。また、長渕は石野との関係を自身のシングル8作目『二人歩記(ふたりあるき)』という歌に残している。

石野と長渕の結婚式は当初ロサンゼルスにあるガラスの教会として有名な「ウェイフェラーズチャペル」」で1982年1月15日に行われる予定だった。しかし長渕の母の体調が悪くなったため延期となった。石野には「二十歳の花嫁」に強く憧れがあったため、21歳の誕生日(1月31日)よりも前に挙式したいと希望した。その希望を叶えるべく、1982年1月22日の挙式となった。結婚式の仲人を務めたのは長渕の師匠である吉田拓郎浅田美代子夫妻(当時、のち離婚)。吉田は石野のデビュー当時の楽曲提供者であり、石野にとっての恩師でもあった。

挙式直後、当時のワイドショーテレビ番組「3時のあなた」の記者のインタビューでは、長渕は「やっと自分のものになった。うちはもう亭主関白でいきます!」とコメントした。仲人の吉田拓郎は「どんな結婚式に映りましたか?」との質問に対し、「やっぱり僕の知っている長渕剛からいくと見たことの無い長渕剛でした。非常に傲慢さの無いですね、非常に硬くなっている印象で、初めて見ました」と発言。

しかし結婚後の二人は、様々な見解の相違を表面化させていく。長渕剛からの度重なる家庭内暴力や長渕の母との確執などが原因で、週刊誌でも大きく取り沙汰されるようになり、結局二人の結婚生活は僅か2年持たずにピリオドが打たれた。1983年3月、既に長渕と別居していた石野は、同年5月に長渕との離婚を決意、結果として石野の“芸能界引退”は一時的なものとなった。

なお石野の芸能活動引退時、1981年12月に『私のしあわせ PARTII』、1982年9月には“引退1周年記念盤”と題して『明日になれば』と、各シングルをリリースしている。

芸能界復帰以降 1983年 -

1983年

1983年5月、離婚と同時に芸能界へ復帰の記者会見を開き、本格的な芸能活動の再開を発表する。主に女優として活動し、所属事務所はデビュー時のバーニングプロダクションと同じグループ会社のフロム・ファーストプロダクションへ移籍。会見には「およめちゃん」のプロデューサーでもある石井ふく子が同席し、時折涙を見せた石野にハンカチを差し出した。復帰作品は、石井ふく子プロデュースの東芝日曜劇場「ねえちゃんの夏」 。

9月25日、『スター誕生!』の最終回に他の卒業生らと出演。

11月14日、フジテレビ系列『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのコーナーに鶴見辰吾からの紹介で初出演。司会のタモリからは、「太った?」「目が腫れてる?」「相変わらず歯があっちこっちだね」「手が大きいね」「爪も大きい、アサリ貝みたいだね」などといじられた。自分の手は指が短く形が悪いので洗剤の宣伝など手が映る仕事は絶対に出来ない手だと思う、などと話した。仕事の宣伝としては、初めての舞台芝居となる「おしん」のポスターを持参した。翌火曜日へのお友達紹介では、1980年にテレビドラマで共演した林隆三の自宅へ石野自身が直接ダイヤルしてバトンタッチした。

1985年

歌手活動を本格的に再開する。10月30日、フジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』放送。1981年8月31日放送の“さよなら引退”以来の4年ぶり出演で、シングル『めぐり逢い』(リリースは6月21日)を披露。この日、石野は黒いドレス姿で登場したが、歌の最中にこのドレスの肩の部分がズリ落ちてしまうハプニングに見舞われて必死に耐えながら歌った。

1986年

1月5日、NHKの大河ドラマいのち』放送開始(1月5日 - 12月14日、日曜20時〜)。高原佐智(サチ)役を石野が演じて好評を得る。後年、中南米の国キューバでも『いのち』がテレビ放映され視聴率が80%を記録。「イシノマコ」は同国で知名度の高い日本人の一人になった。「みんなが一所懸命に頑張っていこうとする姿に(我々)キューバ人は皆が泣いたのだ」との事。キューバでのテレビ放送から10年経って石野が同国を訪れた際に、国賓級で招待され、国営テレビ局が取材に訪れ、ニュースとして扱った。

4月7日、日本テレビ『歌のトップテン』の初代司会者を、徳光和夫と共に約1年間担当(翌1987年3月30日迄)。尚9月1日、元夫の長渕剛が「注目曲コーナー」で同番組に生出演。長渕が直接「元気?」と尋ねると石野は「元気」と頷きながら答え、長渕が「SUPER STAR」を歌唱する直前、石野は「頑張って!」と励ましの声を掛けていた。

1987年

7月21

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出典:wikipedia
2018/12/11 01:27

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