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砂糖とは?

砂糖の結晶
グルコース (左) とフルクトース (右)の二糖類であるスクロース(砂糖)
単糖類:フルクトース(果糖)、グルコース(ブドウ糖)、ガラクトース(脳糖)
二糖類:スクロース(ショ糖)、マルトース(麦芽糖)、ラクトース(乳糖)
ショ糖を酵素的に分解してできる果糖とブドウ糖の混合物(転化糖)は、砂糖より甘みの強い甘味料として使われる。

砂糖(さとう、: sugar)は、甘みを持つ調味料(甘味料)である。物質としては結晶で、一般に多用されるいわゆる白砂糖の主な成分はスクロース(ショ糖)である。サトウキビテンサイなどを原料としてつくられる。

砂糖の歴史は古く、その発明は2500年前と考えられている。インドからイスラム圏とヨーロッパへ順に伝播してゆき、植民地に開拓されたプランテーションでは奴隷を労働力として生産された。19世紀末にはそれまでの高級品ではなく一般に普及する食品となったが、20世紀を通じてグローバルな生産調整が行われた。欧州で1968年から行われてきた砂糖クオータ制度は2017年9月末をもって廃止された。

世界保健機関(WHO)は2003年の報告で、砂糖摂取量は総カロリー対して10%以下となるよう推奨したが、2014年には証拠の蓄積により新たに5%以下にすることの利点を追加した。2016年にWHOは清涼飲料水への課税を促し、肥満、2型糖尿病、虫歯を減らせた。各国は肥満税やガイドラインを作成し、砂糖消費の削減を狙ってきた。

搾りかすなどの副生成物の年間排出量は、世界中で約1億トン以上で、製糖工場自身の燃料として利用されるだけでなく、石灰分を多く含むため、製鉄化学工業大気汚染防止のための排煙脱硫材、上下水の浄化、河川海域の水質底質の改善、農業用の土壌改良材 など様々な利用がされている。また搾りかすの一部は、堆肥として農地に還元されるほか、キクラゲの菌床栽培の培地原料としても利用される。

目次

  • 1 原料と製法
    • 1.1 サトウキビ
    • 1.2 テンサイ(サトウダイコン)
    • 1.3 サトウカエデ
    • 1.4 オウギヤシ(サトウヤシ)
    • 1.5 スイートソルガム(サトウモロコシ)
  • 2 世界の歴史
    • 2.1 インドへの憧れ
    • 2.2 西インド諸島への道のり
    • 2.3 メイク・プランテーション
    • 2.4 チャドボーン協定
  • 3 日本の歴史
    • 3.1 純然たる舶来品
    • 3.2 国産化の試み
    • 3.3 自給率の向上
  • 4 生産と消費
    • 4.1 世界
    • 4.2 日本
  • 5 種類
  • 6 調理上の特性
  • 7 食品に含まれる砂糖
  • 8 健康問題
  • 9 健康管理
  • 10 脚注
  • 11 参考文献
  • 12 外部リンク

原料と製法

サトウキビ

収穫後、処理過程前のサトウキビ

サトウキビを細かく砕いてを搾り、その汁の不純物を沈殿させて、上澄み液を取り出し、煮詰めて結晶を作る。伝統的な製法では、カキ灰に含まれるカルシウム等のミネラル分が電解質となり、コロイドを凝集させる為、カキ殻を焼いて粉砕したカキ灰を沈殿助剤として加える例もある。煮詰めてできた結晶と結晶にならなかった溶液(糖蜜)の混合物を遠心分離機にかけて粗糖を作る。粗糖の表面を糖蜜で洗った後、さらに遠心分離機にかけて、結晶と糖蜜を分ける。その結晶を温水に溶かし、不純物を取り除き、糖液にする。それを煮詰めて結晶を生じさせ、真空状態のもとで糖液を濃縮する。結晶を成長させた後、再び遠心分離機にかけて、現れた結晶が砂糖となる。

光合成において飽和点が高いため、他の植物よりも多く糖質を生産できる。

テンサイ(サトウダイコン)

テンサイの根部

テンサイを千切りにし、温水に浸して糖分を溶け出させて、その糖液を煮詰め、濾過して不純物を取り除く。真空状態のもとで糖液を濃縮し、結晶を成長させた後、遠心分離機にかけて現れた結晶が砂糖である。

砂糖の原料となりうるテンサイのベータブルガロシド(betavulgaroside)類には小腸でのグルコースの吸収抑制等による血糖値上昇抑制活性が認められた(詳細はサポニンを参照のこと)。

サトウカエデ

サトウカエデに穴を穿ち、そこから樹液を採集する。その樹液を煮詰めて濃縮したものがメープルシロップである。これを更に濃縮を進めて固体状になったものがメープルシュガーである。

なお、糖分がやや低いものの、日本などに自生するイタヤカエデからもメープルシュガーを作ることは可能であり、終戦直後の砂糖不足の時代に東北や北海道で製造が試みられたことがあるが、商業化ベースには乗らずに終わった。

オウギヤシ(サトウヤシ)

オウギヤシは東南アジアからインド東部にかけて栽培されている。樹液からパームシュガー(椰子砂糖)が作られる。また、それを発酵させて酒を作る。

スイートソルガム(サトウモロコシ)

モロコシ属のうち、糖分を多く含むものの総称で、アメリカを中心に栽培されている。煮詰めてソルガムシュガー(ロゾク糖)をつくることもできるが、グルコースフラクトースを多く含むため結晶化させにくく、結晶糖の収量としてはサトウキビやテンサイに劣るため、シロップの原料として使用されることが多い。近年ではバイオエタノールの原料としても多く利用されている。

世界の歴史

詳細は「砂糖の歴史」を参照

インドへの憧れ

サトウキビの原産地は、南太平洋の島々で、そこから東南アジアを経て、インドに伝わったとされるが、「インド原産」という説も強い。 砂糖の歴史は古く、約2500年前に東インドでサトウキビの搾り汁を煮詰めて砂糖をつくる方法が発明されたと考えられている。例えば、カウティリヤにより紀元前4世紀後半に書かれたとされるサンスクリットで書かれた古典「アルタシャーストラ」(「実利論」)には、純度が一番低いグダ、キャンディの語源とされるカンダ、純度が最も高いサルカラ (SarkaraあるいはSarkkara) の3種類の砂糖の説明が記載されている。サルカラは英語のSugarやフランス語のSucreの語源になった。 また、パタンジャリが紀元前400~200年の間に書いたと推定されるサンスクリット文法の解説書「マハーバーシャ」には、砂糖を加えたライスプディングや発酵飲料などの作り方が記載されている。 砂糖は病気による衰弱や疲労の回復に効果があるとされ、としても用いられた。当時は「インドの」等と呼ばれ、塩などと関連づけられていた。

ダレイオス1世はインド遠征の際にサトウキビをペルシアに持ち帰り、国家機密として輸出と栽培を独占した。その後サトウキビは戦乱とともに黒海方面やペルシャ湾岸、中東一帯に広がっていった。フェニキア人古代エジプト人は砂糖を香辛料生薬として扱った。中国での砂糖製造の歴史は古く主に広東地方で行われていた。唐代の本草学者、蘇敬の『博物誌』には「太宗は砂糖の製造技術を学ぶため、リュー(インド)、とくにモキト(ベンガル)に職人を派遣した」と記述されている。

古代ギリシャのテオフラストスは『植物学概論』で「葦から採れる蜜」について書き留めている。そしてアレクサンドロス3世がインドに遠征した。また、帝政ローマ時代のギリシア人医師ディオスコリデスは砂糖をサッカロン(saccharon)と呼び、考察を行った。プリニウスやストラボンなど以後のローマ時代の学者はこれに倣った。

ローマ帝国の版図はインドに及ぶことがなかった。欧州がインドと経済交渉するときは、トルキスタン西部の銀鉱山を中心とするイスラム経済圏を介する必要があった。英語のシュガーとスターリングは実際アラビア語に由来する。

西インド諸島への道のり

記録によれば12世紀ごろのヨルダンからヨーロッパに派生した輸送状態の円錐形精製砂糖 シュガーローフ。購入者は刃先の付いたニッパー(シュガーニップス)で切りながら消費した。
シュガーニップス
スウェーデンのシュガーローフボックス

966年ヴェネツィア共和国が中東から来る砂糖を貨物集散所に通して流通させる仕組みをつくった。11世紀末に十字軍がサトウキビをキプロスに持ち帰った。まず14世紀にはシチリアで、ついで15世紀初頭にはバレンシア地方へ栽培法が伝播し、地中海周辺が砂糖の生産地となった。しかし、この15世紀からは大西洋の探検が少しずつ始まり、スペインカナリア諸島で、ポルトガルマデイラ諸島アゾレス諸島でそれぞれサトウキビ栽培を始めた。この島々からの砂糖は1460年代には欧州へ輸出されており、シチリアやバレンシアでの砂糖生産は競争に敗れて衰退した。

新大陸の発見によって、まず最初に砂糖の大生産地となったのはブラジルの北東部(ノルデステ)だった。1530年代にサトウキビ栽培が始まり、1630年レシフェを中心とする地方がオランダ領となると、さらに生産が促進された。しかし1654年にブラジル北東部が再びポルトガル領となると、サトウキビ生産者たちは技術を持ったままカリブ海イギリスフランス領に移民し、1650年代からはカリブ海域において大規模な砂糖プランテーションが相次いで開発され、この地方が砂糖生産の中心地となった。砂糖プランテーションには多くの労働力が必要だったが、この労働力は奴隷によってまかなわれ、アフリカから多くの黒人奴隷がカリブ海域へと運ばれた。ここで奴隷船は砂糖を買い付け、ヨーロッパへ運んで工業製品を購入し、アフリカで奴隷と交換した。この三角貿易は大きな利益を上げ、この貿易を握っていたイギリスはこれによって産業革命の原資を蓄えたとされる。またこれらの西インド諸島の農園主たちは本国議会に議席を確保するようになり、18世紀には西インド諸島派として保護貿易奴隷制を主張する一大勢力をなしていた。1764年にイギリス本国議会において可決された砂糖法は、英領以外から輸入される砂糖に課税するもので、税収増と西インドの砂糖業保護を狙ったものだったが、アメリカの13植民地の反対を受けて撤回を余儀なくされた。しかし砂糖法は始まりにすぎず、1765年印紙法1770年タウンゼント諸法などによってアメリカ植民地の支配が強化されると植民地の不満は爆発し、アメリカ独立戦争へとつながっていくことになった。18世紀後半にはフランス領サン・ドマングが世界一の砂糖生産地となったが、1804年ハイチ革命によりハイチが独立すると支配者層が追放されて農園は黒人に分配され、砂糖生産は一気に衰退した。

メイク・プランテーション

一方、1747年ドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ(Andreas Sigismund Marggraf)がテンサイから砂糖と同じ成分をとりだすことに成功した。1806年から1813年の大陸封鎖による影響で、イギリスからヨーロッパ大陸へ砂糖が供給されなくなった。そのためにナポレオンが砂糖の自給自足を目的としてテンサイに注目し、フランスやドイツを始めヨーロッパ各地に甜菜糖業の大規模生産が広まり製糖業が発達した。ナポレオン戦争後砂糖の供給が元に戻ってもテンサイの増産は続いた。

インドのサトウキビプランテーション
インドの砂糖生産量は世界でもトップクラスだが、中国のように巨大な国内人口で消費してしまい、ほとんど製品は輸出されていない。

その一方で、サトウキビからの砂糖生産も増加の一途をたどった。19世紀にはいると、イギリスはインド洋モーリシャス南太平洋フィジーにもサトウキビを導入し、プランテーションを建設した。すでに奴隷制はイギリスでは廃止されていたため、ここでの主な労働力は同じイギリス領のインドから呼ばれたインド人であった。そのため、現在でもこの両国においてはインド系住民が多い。やがてオーストラリアのクイーンズランド州でも生産するようになる。

アメリカの砂糖史は以降の主役である。ルイジアナ買収アダムズ=オニス条約によるスペイン領フロリダ割譲が、最初の生産地誕生であった。関税に保護されてルイジアナとフロリダの生産量は向上していった。そして1860年キューバでの砂糖生産も世界の4分の1を占めるまでになっていた。南北戦争を機会に砂糖は増産され続けた。ハワイ王国からの輸入も1860年から1865年で13倍以上も増加した。終戦後ハワイの対米輸出は需要の減退と関税の引き上げに阻まれた。そこでハワイ製糖産業の中核(エージェンシー)は、政府にアメリカへの併合等を要求して1876年に米布互恵条約を締結させた。この条約は無関税を約束させるかわりに、どのような特権もアメリカ以外に貸与できなくなるものであった。1884年、この条約は真珠湾に米軍基地を建設し同湾を独占使用する条件で更新された(ハワイ併合まで継続)。1890年アメリカは砂糖関税の徴収を廃止した。このマッキンレー関税法は合衆国本土生産者に補助金を出したので、ハワイとキューバの競争は熾烈なものとなった。米布間に海底ケーブルの敷かれた1895年、ハワイの製糖組合HSPA(Hawaiian Sugar Planters' Association)が結成され、さっそく生産性向上に貢献した。キューバ事情としては1899年ユナイテッド・フルーツが設立された。

19世紀末の国際価格低落による砂糖消費の増加は非アルコール飲料の消費増加と軌を一にしている。砂糖入り飲料(イギリスでは砂糖入り紅茶、ヨーロッパ大陸では砂糖入りコーヒー)とパンの組み合わせが庶民の安く手軽な朝食として取り入れられ、一般的なものとなっていったのである。厳しさを増す国際市場では砂糖トラストが生成された。

チャドボーン協定

米西戦争でアメリカは砂糖生産地を拡大した(プエルトリコフィリピン・キューバ)。1903年米玖互恵通商条約は両国間の関税を20%引き下げた。キューバは、産業構造が砂糖生産に特化してしまい、輸出先はもちろんアメリカに限定され、輸入面においては1907年恐慌の非常口となった。フィリピンは南北戦争を機に砂糖の対米輸出を増加させて、1880年代には対米輸出が砂糖輸出額の60%を占めた。しかし低質なフィリピン糖は次第に受け入れられなくなり、1890年代には対米輸出割合が10%に落ち込んだ。その後、革命と牛疫で生産量も減じた。米西戦争でアメリカ領となってからも「パリ条約第四条」の規定に対米自由貿易とアメリカ資本受け入れを阻まれていた。1909年以降、フィリピンは制限を解かれ第一次世界大戦まで順調に対米輸出量を増やした。

戦場となった欧州は焼け野原となりテンサイ糖業も衰退した。一時サッカリンが砂糖の代用品となった。現在アセスルファムKも出回っている。これら代用品は砂糖以上の健康にかかわる問題が指摘されている。この点、高橋久仁子は1999年に砂糖の過剰摂取防止のためにエビデンスのない有害論を持ち出すのは問題であり、「現在の消費水準及び使用法で有害であることを示す証拠はない」と主張している。代用品を売り込む方便としての有害論は危険である。

キューバ糖は戦時中に関税引き下げのため世界で図抜けて増産していた(100万トン)。戦後にアメリカで価格統制が取り払われた。すると1920年5月ニューヨーク粗糖相場は1ポンド23.57セントにまで暴騰した。このときヴェルサイユ体制により旧ドイツ帝国の技術と機械で欧州のテンサイ糖業が復興していた。そして早くも同年8月に価格は下落して12月に4.16セントまで暴落した(世界農業恐慌)。それでもキューバ糖はモノカルチャーなので生産調整できなかった。そのように工作した合衆国は1921年以降、キューバ糖を関税で締め出しながら、本土・属領(ハワイ・フィリピン・プエルトリコ)の砂糖生産は野放しに保護した。

1931年のチャドボーン(Thomas Chadbourne)協定がモノカルチャー国へとどめをさした。キューバは砂糖輸出先の大部分を失った。1925年には500万トンを超えていた生産量は1933年およそ200万トンにまで激減した。キューバの購買力が下がりすぎて、アメリカ製品をキューバへ輸出することが難しくなった。しかし農業調整法は砂糖を政府買上げの対象としなかった。1933年初頭に関税委員会が「供給統制計画」を立案し、同年7月に農務長官が「砂糖安定協定」を作成した。そして1934年5月9日からジョンズ・コスティガン砂糖法(Jones–Costigan amendment)が施行され、1974年まで運用された。法律の割当によると、ハワイ・フィリピン・本土甘藷は減産の必要があったのに対して、キューバ・本土テンサイ・プエルトリコには増産の余地があった。

フィリピン独立法がフィリピン糖の対米輸出を制限した。フィリピンの糖業は次第に縮小した。

ハワイではブルーワー(C. Brewer & Co.)とアメリカン・ファクターズ(Amfac, Inc.)の二大エージェンシーが1935年までに島内プランテーションの半分以上を所有した。後者は元来ドイツ帝国のハックフィールド商会であったが、敵性資産として売却されたのだった。ハワイの地域総生産高において、1930年代後半から第二次世界大戦に備え軍事支出が30%を占めるようになった。

日本の歴史

純然たる舶来品

日本には奈良時代鑑真によって伝えられたとされている。中国においては太宗の時代に西方から精糖技術が伝来されたことにより、持ち運びが簡便になったためとも言われている。当初は輸入でしかもたらされない貴重品であり医薬品として扱われていた。精糖技術が伝播する以前の中国では、砂糖はシロップ状の糖蜜の形で使用されていた。

平安時代後期には本草和名に見られるようにある程度製糖の知識も普及し、お菓子や贈答品の一種として扱われるようにもなっていた。室町時代には幾つもの文献に砂糖羊羹、砂糖饅頭、砂糖飴、砂糖餅といった砂糖を使った和菓子が見られるようになってくる。名に「砂糖」と付くことからも、調味料としての砂糖は当時としては珍しい物だということがわかる。狂言附子』の中でも珍重されている。日明貿易海禁政策の影響を免れなかったということになる。

やがて戦国時代南蛮貿易が開始されると宣教師たちによって金平糖などの砂糖菓子がもちこまれ、さらにアジアから砂糖の輸入がさかんになり(やがてオランダが中継する)、徐々に砂糖の消費量は増大していく。

世界の歴史ではオランダ領東インドの砂糖プランテーションに触れなかったが、それは日本の砂糖事情と密接に関係している。

国産化の試み

江戸時代初期、薩摩藩支配下の琉球王国では1623年儀間真常が部下を福州に派遣してサトウキビの栽培と黒糖の生産法を学ばせた。帰国した部下から得た知識を元に砂糖生産を奨励し、やがて琉球の特産品となった。

江戸時代には海外からの主要な輸入品のひとつに砂糖があげられるようになり、オランダや中国の貿易船がバラスト代わりの底荷として大量の砂糖を出島に持ち込んだ。このころ日本からは大量のが産出されており、その経済力をバックに砂糖は高値で輸入され、大量の砂糖供給は砂糖を使った和菓子の発達をもたらした。しかし17世紀後半には金銀は枯渇し、金銀流出の原因のひとつとなっていた砂糖輸入を減らすために江戸時代将軍徳川吉宗琉球からサトウキビをとりよせて江戸城内で栽培させ、サトウキビの栽培を奨励して砂糖の国産化をもくろんだ。また、殖産興業を目指す各藩も価格の高い砂糖に着目し、自領内で栽培を奨励した。とくに高松藩松平頼恭がサトウキビ栽培を奨励し、天保期には国産白砂糖のシェア6割を占めるまでになった。また、高松藩はこのころ和三盆の開発に成功し、高級砂糖として現在でも製造されている。こうした動きによって19世紀にはいると砂糖のかなりは日本国内でまかなえるようになった。天保元年から3年(1830年から1832年)には、大坂での取引量は輸入糖430万斤と国産糖2320万斤、あわせて2750万斤(1万6500トン)となり、さらに幕末の慶応元年(1865年)にはその2倍となっていた。一方、このころ大阪の儒者である中井履軒は著書「老婆心」の中で砂糖の害を述べ、砂糖亡国論を唱えた。また幕府も文政元年(1818年)にサトウキビの作付け制限を布告したが、実効は上がらず砂糖生産は増え続けた。江戸時代、国内の砂糖の流通は砂糖問屋が行っていた。

自給率の向上

天保の改革にあたり薩摩藩大島喜界島徳之島の三島砂糖買入れ制度を実施した。

明治時代初期、鹿児島県徳之島における砂糖製造は下の図に示す手順で行われた。

明治時代中期、大日本製糖などの独占的な企業体も現われた。これには次のような政治背景がある。

サイパン島の砂糖王公園に現存する松江春次

日清戦争の結果として台湾が日本領となると、台湾総督府は糖業を中心とした開発を行った。また第一次世界大戦の結果、日本の委任統治領となった南洋諸島のうち、マリアナ諸島サイパン島テニアン島ロタ島でも南洋興発による大規模なサトウキビ栽培が始まった。これにともなって日本には大量の砂糖が供給されることとなったが、沖縄を除く日本本土ではサトウキビの生産が衰退した。しかし台湾や南洋諸島での増産によって生産量は増大しつづけ、昭和に入ると砂糖の自給をほぼ達成した。一方、北海道においては明治初期にテンサイの生産が試みられたが一度失敗し、昭和期に入ってやっと商業ベースに乗るようになった。

この砂糖生産の拡大と生活水準の向上によって砂糖の消費量も増大し、1939年には一人当たり砂糖消費量が16.28kgと戦前の最高値に達し、2010年の消費量(16.4kg)とほぼ変わらないところまで消費が伸びていた。しかしその後、第二次世界大戦の戦況の悪化にともない砂糖の消費量は激減し、1945年の敗戦によって砂糖生産の中心地であった台湾や南洋諸島を失ったことで砂糖の生産流通は一時大打撃を受け、1946年の一人あたり消費量は0.20kgまで落ち込んだ。その後1952年に砂糖の配給が終了して生産が復活し、日本の経済復興とともに再び潤沢に砂糖が供給されるようになった。

1976年オイルショックという国際環境で日豪砂糖交渉が行われ、新しい太平洋問題として現出した。

生産と消費

砂糖の総生産量(2003年)
順位 国 生産量
(百万トン)
01 |  ブラジル | 24,8
02 |  インド | 22,1
03 |  中国 | 11,1
04 |  アメリカ合衆国 | 8,0
05 |  タイ | 7,3
06 |  オーストラリア | 5,4
07 |  メキシコ | 4,9
08 |  フランス | 4,4
09 |  ドイツ | 4,2
10 | パキスタン | 4,0
11 | キューバ | 3,8
12 | 南アフリカ共和国 | 2,6
13 | コロンビア | 2,6
14 |  フィリピン | 2,1
15 | インドネシア | 2,1
16 |  ポーランド | 2,0
砂糖主要消費国の年間消費量推移2000-2016。単位は千トン。世界総生産量は右側の目盛。
主要生産国と主要消費国における砂糖生産消費の比較。2015年。単位は千トン。(輸出入比較ではない)

世界

日本軍がフィリピン糖業を破壊すると、キューバの生産量は1939年の300万トンから1947年の650万トンにまで増加した。1948年フィリピンからの輸出が再開されるとアメリカで新たな砂糖法が施行され、キューバが再び減産を強いられた。1953年、新たな国際砂糖協定が生産割当を策定した。1968年から欧州域内で生産調整する砂糖クオータ制度がスタートした。EUとアメリカの貿易摩擦により、この制度は1981年から欧州の補助金付き対米輸出を裏づけるものとして機能するようになった。

砂糖の生産量は増加しており、1980年代には年1億トン前後であったものが2000年代には年1.4–1.5億トン程度になっている。全生産量のうち約30%が貿易で取引される。生産量の内訳は、サトウキビによるものが約70%、テンサイによるものが約30%である。サトウキビからの砂糖の主要生産国は、ブラジルインド中国などであるが、ブラジルは中国の約3倍の生産量、インドは中国の約2倍の生産量である。テンサイからの砂糖の主要生産国は、EU各国(ドイツフランス他)、アメリカ合衆国ロシアである。

一方、輸出国は主要生産国とは異なっている。これは、主要生産国のかなりが生産量は多いものの国内需要を満たすことができないことによる。世界最大の輸出国はブラジルであり、2008年には2025万トン、世界の総輸出量の59.6%を占め、圧倒的なシェアを持っている。次いでタイが510万トン(15.0%)、オーストラリアが389万トン(11.5%)、グアテマラが159万トン(4.7%)、南アフリカが80万トン(2.4%)と続く。

砂糖はさまざまな工業製品の原料として利用されている。オリゴ糖パラチノース食品添加物(乳化剤)のショ糖脂肪酸エステルは砂糖を原料として製造されており、着色料としてのカラメルも砂糖を原料とする。また、ポリウレタンポリエステルプラスチックの原料としても利用されている。近年では石油に代わる燃料としてバイオエタノールが注目された。そこでサトウキビやテンサイがバイオエタノールの製造に多く使用された。糖分を多く含む可食部分を醸造原料に使う限りエタノールは食料と競合するため、2007年-2008年の世界食料価格危機の主因となった。なお、バイオエタノール製造に不可欠なのは糖分であって、サトウキビやテンサイ由来でなくてもよい。

日本

砂糖の日本国内消費・生産は、1995–2004年度の10年間平均値(1995年10月–2005年9月)では、国内総需要は年230万トン(国産36%:輸入64%)、国産量は年83万トン(テンサイ約80%:サトウキビ約20%)である。年毎の動向を見ると、総消費量は、1985年には一人当たり21.9kgだったものが、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/10/11 07:16

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