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硫黄島の戦いとは?

硫黄島の戦い

1945年2月23日、摺鉢山に翻った星条旗M1 カービンを構える海兵隊員。
戦争:太平洋戦争/第二次世界大戦
年月日:1945年2月19日から3月26日
場所:大日本帝国 東京都硫黄島村硫黄島
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国 |  アメリカ合衆国
指導者・指揮官
栗林忠道
千田貞季
市丸利之助  |  リッチモンド・K・ターナー
ホーランド・スミス
ハリー・シュミット
戦力
22,786 | 110,000
損害
戦死 17,845-18,375(軍属82を含む)
捕虜 1,023 | 戦死 6,821
戦傷 19,217
日本本土の戦い


硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい、いおうじまのたたかい、Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、太平洋戦争末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島硫黄島において日本軍アメリカ軍との間で行われた戦いである。アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)。

目次

  • 1 概要
  • 2 背景
  • 3 日本軍の防衛計画
    • 3.1 小笠原兵団の編成と編制
    • 3.2 地下陣地の構築と海軍の反対
    • 3.3 兵力の増強
    • 3.4 防衛戦術
  • 4 アメリカ軍の上陸計画
  • 5 参加兵力
    • 5.1 日本軍
    • 5.2 アメリカ軍
  • 6 戦闘の経過
    • 6.1 アメリカ軍の強襲準備
    • 6.2 アメリカ軍の上陸
    • 6.3 摺鉢山の戦い
    • 6.4 元山周辺の戦い
    • 6.5 総括電報
    • 6.6 組織的戦闘の終結
    • 6.7 アメリカ軍硫黄島占領発表・日本軍玉砕大本営発表
  • 7 日本本土爆撃での硫黄島の役割
  • 8 残存日本兵
  • 9 戦後
  • 10 慰霊と遺骨収容・帰還作業
  • 11 数学的解析
  • 12 硫黄島の戦いを題材とした作品
    • 12.1 ノンフィクション
    • 12.2 歌集
    • 12.3 写真集
    • 12.4 ドキュメンタリー
    • 12.5 映画
    • 12.6 ドラマ
    • 12.7 アニメーション
  • 13 脚注
    • 13.1 注釈
    • 13.2 出典
  • 14 参考文献
  • 15 関連文献
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

概要

硫黄島遠景(2007年)。

1944年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧し終えたアメリカ軍は、日本本土攻略に向けた次の攻撃予定を検討した。同年12月20日にフィリピンレイテ島(後にレイテ島の戦いが生起)に上陸、翌1945年2月20日にはルソン島(後にルソン島の戦いが生起)もしくは3月1日に台湾上陸との作戦計画を立案したが、台湾の代わりにその北にある沖縄諸島を攻略するかはこの時点では決定されていなかった。しかし、アメリカ海軍太平洋艦隊司令部では既に1944年9月にレイモンド・スプルーアンスの献策から、台湾攻略は補給能力の限界に達していることと日本本土への影響力行使の観点から、意味がないと判断した。

硫黄島の星条旗』をかたどった合衆国海兵隊戦争記念碑

日本海軍レイテ沖海戦の結果として大規模な艦隊作戦能力を失ったため、台湾攻略の戦略的な価値が下がったが、アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサーは依然として台湾攻略を主張していた。このため、統合参謀本部で海軍と陸軍は真っ向から対立した。その中、陸軍航空軍ヘンリー・アーノルドがより効果的な日本本土への戦略爆撃が可能になることから硫黄島攻略の意義を唱え、10月2日に硫黄島攻略という基本戦略が40日後の沖縄上陸(後の沖縄戦)への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。

これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が艦載機艦艇の砲撃支援を受けて開始された。上陸から約1か月後の3月17日、栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする日本軍硫黄島守備隊(小笠原兵団)の激しい抵抗を受けながらも、アメリカ軍は同島をほぼ制圧。3月21日、日本の大本営は17日に硫黄島守備隊が玉砕したと発表する。しかしながらその後も残存日本兵からの散発的な遊撃戦は続き、3月26日、栗林大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、これにより日米の組織的戦闘は終結した。

いったん戦闘が始まれば、日本軍には小規模な航空攻撃を除いて、増援や救援の具体的な計画・能力は当初よりなく、守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死あるいは戦闘中の行方不明となった。一方、アメリカ軍は戦死6,821名・戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。太平洋戦争(大東亜戦争)後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が日本軍を上回った稀有な戦いであり、フィリピンの戦い (1944-1945年)や沖縄戦とともに第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の最激戦地の一つとして知られる。

背景

硫黄島と日本本土の位置関係。

硫黄島は、日本の首都東京の南約1,080kmグアムの北約1,130kmに位置し、小笠原諸島硫黄島村に属する火山島である。島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われているところからこの島名がつけられた。長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800mである。面積は21km程度、最高点は島の南部にある標高169m摺鉢山である。土壌は火山灰のため保水性はなく、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかなかった。戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1,000人居住していた。

日本軍は1941年12月の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時、海軍根拠地隊約1,200名、陸軍兵力3,700ないし3,800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていた。開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1,500名および航空機20機を配備した。

1944年2月、アメリカ軍はマーシャル諸島を占領(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)、トラック島へ大規模空襲を行い、多数の艦艇や航空機を含む日本海軍の兵力を粉砕した(トラック島空襲)。日本の大本営はカロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定する。防衛線の守備兵力として小畑英良陸軍中将の指揮する第31軍編成され、配下の小笠原地区集団司令官には、太平洋戦争緒戦の南方作戦香港攻略戦第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた栗林忠道陸軍中将が任命され就任した。硫黄島には3月から4月に増援部隊が到着し、総兵力は5,000名以上に達した。

硫黄島の衛星写真(2000年)。左下が摺鉢山、中央の飛行場は自衛隊が使用している硫黄島航空基地

1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し(マリアナ・パラオ諸島の戦い)、11月以降、従来は中国大陸から行っていたB-29爆撃機による日本本土への長距離爆撃をマリアナ諸島から開始した(日本本土空襲)。しかし、小笠原諸島は日本本土へ向かうB-29を見張って無線電信で報告する、早期警戒システムにおける防空監視拠点として機能していた。特に硫黄島からの報告は最も重要な情報源であった。これにより、日本軍は本土上空で戦闘機をB-29迎撃に向かわせることができた。また、B-29のマリアナ諸島からの出撃では飛行距離が片道約2,000kmと長距離であるため護衛戦闘機が随伴できず、さらに日本上空で損傷を受けたり、故障したり、航法ミスを起こしたりしたB-29がマリアナ諸島までたどり着けず、海上に墜落や不時着水することも多かった。そして、しばしば日本軍の爆撃機四式重爆撃機「飛龍」「銀河」一式陸攻が硫黄島を経由してマリアナ諸島にある飛行場を急襲し、地上で駐機中のB-29に損害を与えていた。とりわけ、12月には硫黄島を飛び立った第一御楯特別攻撃隊機銃掃射によって、サイパン島のイスレイフィールド、アスリート両飛行場で11機のB-29が破壊され、8機が大きな損害を受けた。

摺鉢山(2007年)。総括電報にみられるように、同島の帝国陸軍は「パイプ山」とも呼称していた。

そのため、アメリカ統合参謀本部は、

などを目的として、硫黄島の占領を決定した。フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定され、一連の進攻作戦は「デタッチメント作戦」と命名された。

日本軍の防衛計画

栗林忠道陸軍大将。写真は陸軍騎兵大佐時代のもの。
西竹一陸軍大佐。写真は1930年代初期、愛馬「ウラヌス」と共に写った陸軍騎兵中尉時代のもの。

小笠原兵団の編成と編制

1944年5月、小笠原方面最高指揮官として栗林忠道陸軍中将は父島へ赴任した。当初は要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した結果、アメリカ軍は飛行場適地がある硫黄島へ進攻すると判断した。硫黄島には陸軍の伊支隊と海軍部隊が所在していたが、(陸軍部隊は)他の在小笠原方面部隊と併せ22日に第109師団に改編、師団司令部と主力も硫黄島に移動した(硫黄島に混成第2旅団、父島に混成第1旅団、母島に混成第1連隊を配置)。

制空権制海権を持つアメリカ軍に対して、硫黄島が長く持ちこたえることができないことは明白であった。栗林中将は上陸部隊にできるだけ大きな対価を支払わせ、日本本土への進攻を1日でも遅らせる決意をしていた。防衛計画の第一歩として軍人・軍属を除く民間人全員の疎開が7月後半までに完了した。次に、島の全面的な要塞化が立案された。地上設備は艦砲射撃爆撃に耐えられないため、天然の洞窟と人工の坑道からなる広範囲な地下坑道が建設されることになった。

同年6月26日、大本営直轄部隊たる小笠原兵団が編成された。これは第109師団以下の陸軍部隊を「隷下」に、第27航空戦隊以下の海軍部隊を「指揮下」とし、兵団長は栗林中将(第109師団長)が兼任した。この帝国陸軍の小笠原兵団が硫黄島守備隊であり、その主な基幹部隊としては新たに増強された同守備隊唯一の歩兵連隊(他の歩兵戦力は既存の独立歩兵大隊)である歩兵第145連隊(連隊長池田増雄陸軍大佐)、同じく九七式中戦車(新砲塔)九五式軽戦車を主力とする戦車第26連隊(連隊長・西竹一陸軍中佐)があり、またその他の有力部隊として、秘密兵器である四式二十糎噴進砲四式四十糎噴進砲(ロケット砲)を装備する噴進砲中隊(中隊長横山義雄陸軍大尉)、九八式臼砲を装備する各独立臼砲大隊、九七式中迫撃砲を装備する各中迫撃大隊、一式機動四十七粍砲(対戦車砲)を装備する各独立速射砲大隊が配属されていた。

地下陣地の構築と海軍の反対

ペリリューの戦いにおいて、中川州男陸軍大佐の日本陸軍守備隊は地下陣地を活用して長期の抵抗に成功したが、栗林中将はこの戦術をさらに発展させた。1944年6月8日の栗林中将硫黄島着任前は、タラワの戦いマキンの戦いサイパンの戦いなどで行われた、一般的なバンザイ突撃のための陣地構築が進められていたが、同月20日には中将はそれを無意味かつ貴重な資材や時間の無駄な浪費として撤回させた。代わりに、内陸部に誘い込んでの持久戦遊撃戦(ゲリラ)を基本方針(後退配備)とし、23日には陸軍の伊支隊は後方陣地構築に転換した。しかしながら、これに対して同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍側(同島守備隊および大本営海軍部)から極めて強硬な批判が起こり(水際陣地および飛行場周囲へのトーチカ群の構築を進言等)、陸軍側(栗林中将)が譲歩する形で一部の水際・飛行場陣地構築を約束することとなる(海軍提供資材をもって陸軍が構築協力。栗林中将自身は持久戦(後方・地下陣地構築)方針は一切変更しておらず、水際・飛行場陣地用海軍提供資材の半分を後方・地下陣地構築に転用している)。なお、海軍が要求したこれらの水際・飛行場陣地はアメリカ軍の砲爆撃によって、わずか十数機の海軍機・飛行場機能ともども早々に壊滅した反面、陸軍の地下陣地は耐え抜いて活用されている。

帝国陸軍の歩兵連隊軍旗大元帥たる天皇から親授されるため神聖視され、部隊の精神的支柱であった

栗林中将は後方陣地および、全島の施設を地下で結ぶ全長28kmの坑道構築を計画(設計のために本土から鉱山技師が派遣された)、兵員に対して時間の7割を訓練、3割を工事に充てるよう指示した。硫黄島の火山岩は非常に軟らかかったため十字鍬円匙などの手工具で掘ることができた。また、司令部・本部附のいわゆる事務職などを含む全将兵に対して陣地構築を命令、工事の遅れを無くすため上官巡視時でも作業中は一切の敬礼を止めるようにするなど指示は合理性を徹底していた。そのほか、最高指揮官(栗林中将)自ら島内各地を巡視し21,000名の全将兵と顔を合わせ、また歩兵第145連隊の軍旗(旭日旗を意匠とする連隊旗)を兵団司令部や連隊本部内ではなく、工事作業場に安置させるなどし将兵のモチベーション維持や軍紀の厳正化にも邁進した。しかしながら主に手作業による地下工事は困難の連続であった。激しい肉体労働に加えて、火山である硫黄島の地下では、防毒マスクを着用せざるを得ない硫黄ガスや、30℃から50℃の地熱にさらされることから、連続した作業は5分間しか続けられなかった。飲用となる清水の入手方法が雨水程度のため、将兵は塩辛く硫黄臭のする井戸水に頼らざるを得ず、激しい下痢に悩まされた。またアメリカ軍の空襲や艦砲射撃による死傷者が出ても、補充や治療は困難であった。「一掘りの土は一滴の血を守る」を合言葉に作業が続けられたが、病死者、脱走者、自殺者が続出した。

坑道は深い所では地下12mから15m、長さは摺鉢山の北斜面だけでも数kmに上った。地下室の大きさは、少人数用の小洞穴から、300人から400人を収容可能な複数の部屋を備えたものまで多種多様であった。出入口は近くで爆発する砲弾爆弾の影響を最小限にするための精巧な構造を持ち、兵力がどこか1つの穴に閉じ込められるのを防ぐために複数の出入口と相互の連絡通路を備えていた。また、地下室の大部分に硫黄ガスが発生したため、換気には細心の注意が払われた。

栗林中将は島北部の北集落から約500m北東の地点に兵団司令部を設置した。司令部は地下20mにあり、坑道によって接続された各種の施設からなっていた。島で2番目に高い屏風山には無線所と気象観測所が設置された。そこからすぐ南東の高台上に、高射機関砲など一部を除く硫黄島の全火砲を指揮する混成第2旅団砲兵団(団長街道長作陸軍大佐)の本部が置かれた。その他の各拠点にも地下陣地が構築された。地下陣地の中で最も完成度が高かったのが北集落の南に作られた主通信所であった。長さ50m、幅20mの部屋を軸にした施設で、壁と天井の構造は栗林中将の司令部のものとほぼ同じであり、地下20mの坑道がここにつながっていた。摺鉢山の海岸近くのトーチカ鉄筋コンクリートで造られ、壁の厚さは1.2mもあった。

硫黄島の第一防衛線は、相互に支援可能な何重にも配備された陣地で構成され、北西の海岸から元山飛行場を通り南東方向の南村へ延びていた。至る所にトーチカが設置され、さらに西竹一中佐の戦車第26連隊がこの地区を強化していた。第二防衛線は、硫黄島の最北端である北ノ鼻の南数百mから元山集落を通り東海岸へ至る線とされた。第二線の防御施設は第一線より少なかったが、日本軍は自然の洞穴や地形の特徴を最大限に利用した。摺鉢山は海岸砲およびトーチカからなる半ば独立した防衛区へと組織された。戦車が接近しうる経路には全て対戦車壕が掘削された。摺鉢山北側の地峡部は、南半分は摺鉢山の、北半分は島北部の火砲群が照準に収めていた。

1944年末には、島に豊富にあった黒い火山灰セメントと混ぜることでより高品質のコンクリートができることが分かり、硫黄島の陣地構築はさらに加速した。飛行場の付近の海軍陸戦隊陣地では、予備学生出身少尉の発案で、放棄された一式陸攻を地中に埋めて地下待避所とした。アメリカ軍の潜水艦と航空機による妨害によって建設資材が思うように届かず、また上述の通り海軍側の強要により到着した資材および構築兵力を水際・飛行場陣地構築に割かざるを得なかったために、結局坑道は全長28kmの計画のうち18km程度しか完成せず、司令部と摺鉢山を結ぶ坑道も、残りわずかなところで未完成のままアメリカ軍を迎え撃つことになった。だが戦闘が始まると地下陣地は初期の役割を十二分に果たすことになる。

兵力の増強

四式二十糎噴進砲(I型)。本砲は硫黄島戦で実際に第109師団噴進砲中隊第1小隊が使用した実物であり、2003年(平成15年)8月に靖国神社奉納され遊就館にて収蔵・展示中。
九七式中戦車(新砲塔チハ)。本車は硫黄島戦で実際に戦車第26連隊が使用した実物であり、同戦においてアメリカ軍がほぼ無傷で鹵獲したものである。戦後現在はアバディーン性能試験場陸軍兵器博物館にて収蔵・展示中。
九五式軽戦車。本車は硫黄島戦で実際に戦車第26連隊が使用した実物。アメリカ軍がほぼ無傷で鹵獲し、グアムに移送された当時に撮影されたもの。砲塔側面には戦車第26連隊の部隊マーク・「丸に縦矢印」の図案が薄いながらも判別可能である。

日本軍の増援部隊も徐々に硫黄島へ到着した。栗林中将はまず大須賀應陸軍少将指揮下の混成第2旅団5,000名を父島から硫黄島へ移動させた。旅団長は12月に千田貞季陸軍少将に交代する。サイパン陥落に伴い、池田益雄大佐の指揮する歩兵第145連隊2,700名も硫黄島へ転進した。海軍ではまず第204建設大隊1,233名が到着し、速やかに地下陣地の建設工事に着手した。8月10日、市丸利之助海軍少将が硫黄島に着任し、続いて飛行部隊および地上勤務者2,216名が到着した。

次に増強されたのは砲兵であり、1944年末までに75mm以上の火砲約361門が稼動状態となった。

中でも帝国陸軍の新兵器・ロケット砲(噴進砲)である、四式二十糎噴進砲(弾体重量83.7kg・最大射程2,500m)、四式四十糎噴進砲(弾体重量509.6kg・最大射程4,000m)および、緒戦の南方作戦(シンガポールの戦い等)から実戦投入され、大威力を発揮していたスピガット・モーター(差込型迫撃砲)である九八式臼砲(弾体重量約300kg・最大射程1,200m)などは、航空爆弾に相当する大威力をもつと同時に発射台が簡易構造なことから、迅速に放列布置が可能で、発射後はすぐに地下陣地へ退避することができるという利点を持っていた(また、この噴進砲・臼砲は独特かつ大きな飛翔音を発するため友軍および敵軍に対する心理的効果も備えていた)。

これらの火力は通常の日本軍1個師団が保有する砲兵火力(師団砲兵)の4倍に達しており、また特筆する点として重榴弾砲(九六式十五糎榴弾砲等)や加農(九二式十糎加農八九式十五糎加農等)といった長射程の重砲ではなく、輸送や操砲が容易で面積が狭い硫黄島での運用に適し、隠匿性に優れる迫撃砲・ロケット砲が集中運用されていることが挙げられる。これらの火砲は海空からの支援や補給が絶望的な日本軍守備隊の貴重な大火力であり、また比較的小口径の対戦車砲や野砲も地形を生かした放列布置により多数の戦車・装甲車を撃破するなど、実戦で特に活躍することとなる。しかしながら、海岸砲を主体とする摺鉢山の火砲陣地のみ、海軍の不手際によって敵軍上陸を迎える前に全滅している(同山に展開していた海軍管轄の海岸砲が、栗林中将が事前に定めていた防衛戦術を無視しアメリカ軍の事前砲撃時に発砲を行った結果、火砲位置を露呈してしまい反撃を受けたため)。

さらに、北満駐屯の後に当時は日本領だった朝鮮半島の釜山へ移動していた戦車第26連隊が、硫黄島へ配備された。連隊長は騎兵出身でロサンゼルス・オリンピック馬術金メダリストである、「バロン西」こと男爵西竹一陸軍中佐で、兵員600名と戦車(九七式中戦車・九五式軽戦車)計28両からなっていた。26連隊は陸軍輸送船「日秀丸」に乗り7月中旬に本土を出航したが、7月18日、父島まで250kmの海上でアメリカ海軍のガトー級潜水艦コビア」の雷撃によって撃沈された。この時の連隊の戦死者は2名だけだったが、戦車は他の硫黄島向け資材や兵器とともに全て海没した。補充は12月に行われ、最終的に11両の九七式中戦車(新砲塔)と12両の九五式軽戦車の計23両が揚陸された。硫黄島に前後するサイパン島ルソン島占守島等の戦いと異なり、面積が極めて狭い孤島である硫黄島への戦車連隊の配備は比較的異例であった。西中佐は当初、戦車を機動兵力として運用することを計画したが、熟慮の結果、戦車は移動ないし固定のトーチカとして待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上から分からないよう巧みに隠蔽・擬装された。

アメリカ軍の潜水艦と航空機による断続的な攻撃によって多くの輸送船が沈められたが、1945年2月まで兵力の増強は続いた。最終的に、小笠原兵団長・栗林中将は小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21,000名を統一した指揮下に置くことになった。しかしながら、硫黄島総兵力の半数に達する程の海軍部隊については海軍の抵抗により完全なる隷下とすることができず、また最高指揮官である市丸海軍少将以下兵に至るまで陸上戦闘能力は陸軍部隊には及ばない寄せ集めでありながら、水際防御・飛行場確保・地上陣地構築に固執するなど大きな問題もあった。そのため、栗林中将は海軍の一連の不手際、無能・無策を強く非難し、また陸海軍統帥一元化に踏み込んだ内容を含む総括電報「膽参電第三五一号」(最後の戦訓電報)を戦闘後期の1945年3月7日に参謀本部(大本営陸軍部)に対し打電している。

防衛戦術

栗林中将は硫黄島着任間もなくして島民に対して本土または父島への避難(強制疎開)をさせている。日本軍将兵が総力を挙げて要塞化を進める一方で、栗林中将は防御戦術を練っていた。第31軍司令官小畑中将は、上陸には水際防衛で対抗すべしという当時の原則から海岸近くでの戦闘を命じていた。しかし栗林中将は、水際での抵抗はアメリカ軍の艦砲射撃による防御射撃を招き、意味が薄いと考えていた(実際にサイパンの戦いで水際作戦を取った際には、上陸3日で3万人の守備隊が壊滅する事態に陥っていた)。栗林中将の採用した戦術は、サイパンやペリリューの戦訓を勘案し、従来の水際防御戦術を改めて内陸での持久抵抗戦を主とし、上陸した敵部隊に消耗を強いることを主眼とする以下のようなものであった。

  1. アメリカ軍に位置が露見することを防ぐために、日本軍の火砲は上陸準備砲爆撃の間は発砲を行わない。アメリカの艦艇に対する砲撃は行わない。
  2. 上陸された際、水際では抵抗を行わない。
  3. 上陸部隊が一旦約500m内陸に進んだならば、元山飛行場付近に配置した火器による集中攻撃を加え、さらに、海岸の北へは元山から、南へは摺鉢山から砲撃を加える。
  4. 上陸部隊に可能な限りの損害を与えた後に、火砲は千鳥飛行場近くの高台から北方へ移動する。

火砲は摺鉢山の斜面と元山飛行場北側の高台の、海上からは死角となる位置に巧みに隠蔽されて配置された。食糧弾薬は持久抵抗に必要となる2.5か月分が備蓄された。

だが、混成第2旅団長の大須賀應陸軍少将、第109師団参謀長の堀静一陸軍大佐、硫黄島警備隊および南方諸島海軍航空隊司令の井上左馬二海軍大佐らは、水際作戦にこだわり、栗林中将の戦術に強く反対したため、大須賀少将・堀大佐を賛成派の千田貞季陸軍少将・高石正陸軍大佐にそれぞれ交代し、司令部の意思の統一を図った。

1945年1月に発令された最終作戦は、陣地死守と強力な相互支援を要求したもので、従来の攻撃偏重の日本軍の戦術を転換するものであった。兵力の大幅な損耗に繋がる、防護された敵陣地への肉弾突撃・万歳突撃は厳禁された。

栗林中将が起草し全軍に配布した『敢闘ノ誓』のビラ。アメリカ軍は島内の至る所でこのビラを発見した。上は戦後の遺骨収集団が地下陣地跡で回収したものである。

また、栗林は自ら起草した『敢闘ノ誓』を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底するとともに士気の維持にも努めている。

特に最後の「一 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ」と「一 我等ハ最後ノ一人トナルモゲリラニ依ツテ敵ヲ悩マサン」は、長期持久戦を隷下将兵に徹底させる旨の一文であり、この誓いは実際の戦闘で生かされることとなる。

さらに陣地防御と持久戦を重要視した実践的指導として、同じく栗林が起草・配布した『膽兵ノ戦闘心得』では以下のように詳述している(膽兵の「膽」とは第109師団の兵団文字符)。

2010Happy Mail