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祇園祭とは?

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祇園祭
Gion Matsuri
前祭山鉾 御池通巡行
(2017年7月17日撮影)

【イベントの種類】
祭り
【開催時期】
7月

京都祇園祭(ぎおんまつり)は、京都市東山区八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは祇園御霊会(ぎおんごりょうえ、御霊会)と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く京都の夏の風物詩である。

概要

祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される

。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。山鉾町が主催する諸行事の中でもハイライトとなる山鉾行事は、山鉾が設置される時期により前祭(さきのまつり)と後祭(あとのまつり)の2つに分けられる。山鉾行事は「宵山」(よいやま、前夜祭の意。前祭:7月14日 - 16日・後祭:7月21日 - 23日)、「山鉾巡行」(前祭:7月17日・後祭:7月24日)が著名である。八坂神社主催の神事は 「神輿渡御」(神幸:7月17日・還幸:7月24日)や「神輿洗」(7月10日・7月28日)などが著名で、「花傘連合会」が主催する花傘巡行(7月24日)も八坂神社側の行事といえる。

宵山、宵々山、宵々々山には旧家や老舗にて伝来の屏風などの宝物の披露も行われるため、屏風祭の異名がある。また、山鉾巡行ではさまざまな美術工芸品で装飾された重要有形民俗文化財の山鉾が公道を巡るため、「動く美術館」とも例えられる。

祇園祭は数々の三大祭の一つに挙げられる。京都三大祭(他は上賀茂神社下鴨神社葵祭平安神宮時代祭)、日本三大祭(他は大阪の天神祭、東京の山王祭神田祭)、日本三大曳山祭(他は岐阜県高山市高山祭埼玉県秩父市秩父夜祭)、日本三大美祭(他は前述の高山祭と秩父夜祭)のうちの一つであり、日本を代表する祭りである。

名称

祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代に、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。なお、祇園の語源は祇園精舎の項目を参照されたい。

その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された(ただし「祇園」という名称自体は前述の通り仏教由来である)。

歴史

狩野永徳筆『洛中洛外図屏風』(国宝米沢市上杉博物館)に描かれた祇園会の様子(右隻第三扇)。手前右は船鉾、左は岩戸山。以下手前から奥へ鶏鉾、白楽天山、函谷鉾。右上隅は蟷螂山(右)と四条傘鉾(左)。

祇園御霊会の起源

疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。

864年(貞観6年)から富士山の大噴火が起こって溶岩が大規模に流出して山麓に達し、869年(貞観11年)には陸奥で貞観地震が起こり、津波によって多数の犠牲者が出るなど、全国的に地殻変動が続き、社会不安が深刻化する中、全国のの数を表す66本のを卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされており、2019年(令和元年)には祭の1150周年を祝うほど、長い歴史を持っている。

御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆であるばかりでなく、陰陽道修験道の儀式も含まれていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。

876年(貞観18年)には、播磨国広峯から牛頭天王が京都に遷座し、現在の八坂神社の地に落ち着いた。そこに祇園社として祭られ、感神院と号して比叡山延暦寺に属した。中世を通じて、祇園社は比叡山延暦寺末寺とされ、山門(延暦寺)の洛中支配の拠点となった。比叡山の鎮守である日吉権現の山王祭が行われない時は、祇園御霊会も連動して中止・延期されることが多かった。

山鉾巡行の成立

祇園御霊会は、草創期から現代に至るまで、祇園社の神輿渡御を中心とするが、これに現在見られるような山鉾が伴うようになった時期は明確には分からない。鉾の古い形式は、現在も京都市東山区の粟田神社(感神院新宮・粟田天王宮)をはじめ、京都周辺から滋賀県にかけて分布する剣鉾に残っており、祇園御霊会の鉾もそれに類するものであったと推定される。

現在の山鉾巡行の原形は、鎌倉時代末期の『花園天皇宸記元亨元年7月24日(1321年8月18日)条の記述から窺える。それによれば、鉾を取り巻く「鉾衆」の回りで「鼓打」たちが風流の舞曲を演じたというものである。南北朝時代には、富裕な町人層が競って風流拍子物をくり出し、さらに室町将軍家が調進した「久世舞車」や西陣の大舎人座が出した「鷺舞」など、さまざまな形の付祭の芸能が盛んになった。

室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに趣向を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。それまで単独で巡行していた竿状の鉾と、羯鼓舞を演ずる稚児を乗せた屋台が合体して、現在見られるような鉾車が成立し、さらに主に猿楽能の演目を写した作り物の「山」が加わることによって、室町時代中期には洛中洛外図に見られるような、今日につながる山鉾巡行が成立したものと見られる。

応仁の乱の中断後の1533年(天文2年)には、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを窺わせる。天文二 (1533) 年、天文法華一揆のさなか、延暦寺と結託した幕府の祇園会停止の命令に対して町衆たちが「神事ナクトモ山鉾渡シタシ」と迫り、神事は中止されたものの山鉾巡行は行われたという。町衆の自治的性格を象徴する話として特に有名である。これに先立って1500年(明応9年)に応仁の乱による33年の中断を経て祇園祭を復興するにあたり、室町幕臣(奉行衆)の松田豊前守頼亮が過去の山鉾について「古老の者」より聞き取りを行い、応仁の乱以前の60基(前祭32基、後祭28基)の山鉾を知る唯一の史料とされている「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)として書きとめたほか、初めてのくじ取り式を頼亮私宅で行い、町人主体の祭りとなるよう祇園執行に申し聞かせるなど、祇園祭の再興に尽力し、現在に続く山鉾の数と名称が固定した。頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している。

近世以降の祇園会の発展

1920年代の祇園祭

江戸時代に発生した京都の三大火事によって、祇園祭も大きな被害を受けた。1708年(宝永5年)の宝永の大火では、まだ山鉾も素朴な形式であったために復興が早かった。しかし1788年(天明8年)の天明の大火の被害は大きく、函谷鉾は復興に50年を要した。その後の山鉾復興は、化政文化の波に乗り、山鉾の大型化、部品・懸装品の華美化が進み、曳山の多くも仮屋根から、鉾と変わりない千鳥破風をかけるようになった。しかし、鷹山は1826年(文政9年)の巡行で大雨に遭って懸装品を破損したとして巡行に加列しなくなった。

幕末禁門の変によって発生した1864年(元治元年)のどんどん焼けは、山鉾町に多大な被害をもたらし、ほぼ無事だったのは長刀鉾・函谷鉾・月鉾・岩戸山・霰天神山・伯牙山・保昌山だけであった。引き続いて明治維新の混乱期に入ったため、菊水鉾・大船鉾・綾傘鉾・蟷螂山・四条傘鉾は以後長い間断絶した。

明治維新以後、山鉾巡行を支えていた寄町制度が廃止され、行事の存続が危ぶまれる時期を乗り越えて復興した。巡行コースの度重なる変更や、第二次世界大戦での中断はあったものの、戦後は菊水鉾を皮切りにして、中絶していた「休み山」(焼山)が1980年代に次々に復興した。高度経済成長期の交通事情の悪化により前祭・後祭を統合して合同巡行にした時期(1966年 - 2013年)を経て、2014年からは後祭も再開され、古式を保つ努力が続けられており、祇園御霊会としては1150年を超える歴史を誇る。

明治時代の祇園祭はコレラの歴史でもあり、1886年、1887年、1895年にコレラの影響による祇園祭の延期が確認されている。また、コレラを克服して日本を衛生管理の行き届いた文明国家としてアピールするのは日本の急務であり、屎尿の運搬制限や飲食物の注意呼びかけなどコレラのために様々な対策が取られた。

室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であるが、現在では「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。

第二次世界大戦後、京都市の中心部もドーナツ化現象が進んだことにより、多くの山鉾町の居住者が減少し、山鉾行事の運営に支障が出た。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼することが増えた。その後町内にマンションが建った場合も、新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ、以前は山鉾保存会に入会できなかった。1986年以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を勧める所が多くなっている。以前多かった呉服商などの減少とそのあとに多く建てられたマンションにより、多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。現在では、四条烏丸交差点に近い長刀鉾、函谷鉾の町内は居住人口がゼロで、孟宗山、鶏鉾の町内も人口が極めて少ないが、最も人口が多い蟷螂山町は相次ぐマンションの建築により、人口が約750人に達している。

第二次世界大戦後の祇園祭

祭礼などの行事が国の重要無形民俗文化財に指定され、それとともに屋台・山鉾などの用具が重要有形民俗文化財に指定されているものは日本全国で5例のみで、その中の一つが祇園祭である。

後祭の復活

大船鉾

1965年まで7月24日に巡行を行っていた後祭を、大船鉾の再建に合わせて復活させる気運が高まり、2012年になって、2014年の巡行から大船鉾を巡行に参加させ、同時に後祭を復活させる方針を決めた。ただし、実際の復活には警察や地元町会等との調整が必要で正式の復活発表が遅れていたが、2013年8月に2014年の巡行から前祭の23基と後祭の10基に分かれて宵山や巡行を別日程で行うことになった。

巡行コースは現在の巡行コースの逆ルートとなった。これは、かつての後祭のコースが三条烏丸をスタートして、三条寺町から寺町通を南下し、四条寺町から四条通を西行し、四条烏丸で解散するという時計回りのルートであったことに倣ったものである(そのために、後祭の南北に走る通りに建てられる山は北を正面にして山を建てる。前祭と合同巡行の2013年までは、曳山は四条通まで一旦バックしていた)。現在の三条通や寺町通は曳山の巡行が不可能な構造である(低い位置に電線が通っていたり、アーケードがあったりする)ため、既に巡行に対応済みの現在のルートを使用することになったが、将来的には三条通の巡行を検討する。

山鉾の飾り付けは先祭と同様に宵々々山から開始するが、前祭同様その前日夕刻から飾り付けを開始する山鉾もある。有料観覧席は前祭は寺町御池から新町御池に至るまで設置されるが、後祭では京都市役所前に相当する河原町御池から寺町御池の間だけに設置される。ただ、この区間は山鉾巡行に引き続き花傘巡行が観覧できる場所である。寺町御池から河原町御池から四条河原町の間は山鉾巡行のコースと花傘巡行のコースが重複しており、両方の巡行が一度に観覧できる。

後祭の復活は、祭を本来の姿に戻すという意味のほか、多くの問題の解決策という面もある。山鉾の復興が進んで33基にまで増加した山鉾の巡行は、最後の鉾が解散地点である御池新町交差点に到着するのが13時30分前後までかかり、交通規制が長時間になったことや、先頭から最後までの山鉾を全部見ると2時間を越え、後祭巡行列が来る頃には有料観覧席に空席が目立つようになるなどの弊害が目立っていた。宵山期間の人出の多さも問題となっており、後祭の日程追加により人出の分散が期待された。ただ、2014年の前祭巡行は前年度の山鉾巡行よりも9基も山鉾の数が減ったのに、巡行の終了は逆に20分増加した。また、宵山期間の人出も14日(宵々々山)の露店出店・歩行者天国を中止したところ、7月14日の人出は半分以下の8万6000人になり、7月15日・16日に人出が集中した。特に7月16日(宵山)は前年の27万人の人出から34万人へと大幅に増加するなど、課題を多く残した。

後祭の2014年の人出は21日から23日までの宵山期間の人出はそれぞれ4万人・2万人・5万人で、前祭に比べればかなり少なかったが、落ち着いた雰囲気を評価する声も多かった。巡行は前祭の11万人に対し後祭は6万人を集め、前祭の半分以下の規模であることを考慮するとまずまずの集客であった。しかし、2015年の後祭宵山期間は台風の通過や曜日配列に恵まれず、21日は7000人、22日は5000人、23日は1万7000人と大幅に減少し、集客面での課題を残した。反面、好天に恵まれた後祭の山鉾巡行は前年と同じ6万人を集め、悪天候だった前祭の山鉾巡行とほぼ変わらない集客となった。3年目となる2016年は、宵山期間は8000人、1万人、2万人と、2年目より少し増加した程度であったが、巡行は日曜日と重なったこともあり、10万人を集めた。

諺で時機を逃して用を成さないことを「後の祭り」という。この語源は異説もあるが、前祭では豪華絢爛な鉾が多数巡行するのに対し、後祭では山鉾の数が少なく小規模であることから、前祭を見逃して残るは後祭しかないような状況を指すようになったという説もある。

日程

かつては、旧暦6月に行われていたが、現在ではグレゴリオ暦7月に行われている。新暦移行後も幾度も日程の変遷があるが、以下に示すものは2014年からの後祭復活後のものである。なお、開始時刻は前後することがある。

【時期・日付】
祭事
6月中旬〜下旬 | 
ここからが祇園祭
7月1日 | 
7月1日から | 
7月2日 | 
7月3日 | 
7月4日から9日までの不定日 | 
7月5日頃の不定日 | 
7月5日 | 
7月7日 | 
7月10日 | 
7月10日〜12日 | 
7月11日〜13日 | 
7月11日 | 
7月12日 | 

放下鉾の真木の引き起こし。岩戸山の引き起こし。年にもよるが、12時から15時ぐらいの間に行われる。


7月13日 | 
7月14日 | 
7月15日 | 
7月16日 | 
7月17日 | 
7月17日〜24日 | 
7月18日〜20日 | 
7月19日〜20日 | 
7月19日 | 
7月20日 | 
7月21日 | 
7月22日 | 
7月23日 | 
7月24日 | 
7月25日 | 
7月下旬の日曜日 | 
7月28日 | 
7月29日 | 
出典:wikipedia
2021/03/02 15:35

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