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神奈川大学とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年4月)
【神奈川大学】

横浜キャンパス

神奈川大学 (神奈川県)
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神奈川大学 (日本)
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【大学設置】
1949年
【創立】
1928年
【学校種別】
私立
【設置者】
学校法人神奈川大学
【本部所在地】
神奈川県横浜市神奈川区六角橋3-27-1
北緯35度29分6秒 東経139度37分14秒 / 北緯35.48500度 東経139.62056度 / 35.48500; 139.62056座標: 北緯35度29分6秒 東経139度37分14秒 / 北緯35.48500度 東経139.62056度 / 35.48500; 139.62056
【キャンパス】
横浜(神奈川県横浜市神奈川区)
湘南ひらつか(神奈川県平塚市)
みなとみらい(神奈川県横浜市西区)(2021年度予定)
【学部】
法学部
経済学部
経営学部
国際日本学部
外国語学部
人間科学部
理学部
工学部
【研究科】
法学研究科
経済学研究科
経営学研究科
外国語学研究科
理学研究科
工学研究科
歴史民俗資料学研究科
法務研究科(法科大学院)
【ウェブサイト】
https://www.kanagawa-u.ac.jp/

神奈川大学(かながわだいがく、英語: Kanagawa University)は、神奈川県横浜市神奈川区六角橋3-27-1に本部を置く日本私立大学である。1949年に設置された。大学の略称神大(じんだい)を大学が公式に使用しており、「神大/JINDAI」を併記したいわゆる二段併記商標として2000年商標登録(日本第4372633号および第4404030号)されている。

概観

大学全体

神奈川大学は横浜、湘南ひらつかにキャンパスを持ち、7学部20学科2プログラムと大学院9研究科14専攻を擁する総合大学である。 前身の旧制横濱専門学校は勤労青年のための夜間部を設けた横浜初の私立専門学校であった。また、地方入学試験および給費生制度第二次世界大戦前から導入している。横濱専門学校以来の卒業生は約21万人を数え、国公私立780余りの大学の中で15番目の位置を占める(2016年時)。

校風は、歴史的には蛮カラ愛国心郷土愛が強く、イデオロギー(政治思想社会思想)研究・社会政策の研究を伝統としている。かつてはイデオロギーの影響により過激な新左翼極右民族派の活動が盛んであったが、自治会なき後はノンポリで、特に際立った政治的思想的傾向はない。在校生は地方出身者や勤労学生も多い。

建学の精神

建学の精神は

創設者の米田吉盛(のちの衆議院議員)は、1927年金融恐慌により、農村は深刻な不況に見舞われ、1928年田中義一内閣下での日本共産党党員の一斉検挙、治安維持法改正など混乱した社会の中で、民主主義制度を運用する精神を伴わせる必要性から「民族の危機」を感じた。「自分と志を同じくする中正堅実な青年を一人でも多く育成する」という使命感を持ち、1928年、29歳で前身となる横濱学院を創立する。米田は太平洋戦争戦時下である1942年4月の第21回衆議院議員総選挙で、大政翼賛会の推薦候補制度が導入される中、「政府が選挙に介入することは公選精神に反する」とし、非推薦で立候補して当選し、中正堅実を実践している。

また、学風は1932年に作られた横濱専門学校校歌(作詞:土井晩翠、作曲:岡野禎一、編曲:坂下滉)の歌詞にも以下のように歌われている。

土井晩翠(米田吉盛はみずから仙台の土井宅に足を運び、校歌の作詞を依頼した)

一、
近代日本の文化の曙光
初めてまばゆく照しゝ港
港に基おく吾等が母校
榮えよ 横濱専門学校

二、
基は新たに昭和の御代に
四海の思潮の寄せくる時に
経世実用めあてとなして
榮えよ 横濱専門学校

三、
狂と暗とは暫しの悩み
正義は世界の力の本と
信じて勉むる健兒のやどり
榮えよ 横濱専門学校

四、
祖国の誉と世界の平和
目指して日に日に希望にみちて
向上無窮の使命に進む

榮えよ 横濱専門学校

民主主義制度を運用する精神

米田吉盛の云う「民族の危機」とは、明治から昭和初期にかけての日本国には民主主義制度が導入されたが日本国民には民主主義制度を運用する精神が伴われて居ない事による「民族の危機」を指す。米田吉盛は1950年4月の新制神奈川大学発足完了の新年度を迎えて、次のように所信を表明している。

今、国内至る所、凡ゆる方面に亘り民主主義の制度が実施せられましたが、形式のみは民主主義制度であっても、之を運用する精神が伴って居らぬ為、随所に矛盾と無秩序を抱いております。即ち旧い制度がなくなって之に代わる新制度を採用したが新制度の妙味は未だ発揮し得ない為に御互は不自由と不安に泣いている現状があります。利己主義、背徳、怠惰、無責任、綱紀紊乱、ボスの跳梁、犯罪等…社会悪は増大し正義感は衰へ公明正大の風は失われ、文化国家には凡そ縁遠い世相になりました。此現象は自らの社会は自らの責任で維持経営すると云う自治に対する連帯の責任の完遂が不十分であるからでありませう。教育の目的が人格の完成を目指し、平和的国家及び社会の形成者としての真理と正義を愛し個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期すものである以上教育により、よりよき人間を完成し一日も早く理想の社会建設を見ねばなりません。 — 米田吉盛

建学精神の神髄解明

1963年には「本学の建学精神の神髄解明」とし、米田吉盛は学部長、教員らに意見を求め、当時、神奈川大学法経学部教授としての縁のある高山岩男(京都学派四天王と呼ばれる京都学派哲学を代表する学者の一人)がそれを纏めている。それによれば、「中正堅実」とは極右でも極左でもない中正堅実な青年を育成する事だとし、第二に「質実剛健」とは、民主主義社会の中で陥りやすい付和雷同に対して時流に巻き込まれる事なく、良心に忠実に、思想堅固で正しい信念を貫く事だとし、正しい意味の保守精神に通じるとしている。第三に「積極進取」とは、文化は絶えざる創造の集積であるから、文化の進歩、創造には各人の積極的努力が必要になるが、わが国国民の欠点として急進的に左右に激動する欠点もある事から、第二の「質実剛健」と第三の「積極進取」とがダイナミックに調節される事により、真の進歩が齎されるとする(高山岩男『場所的理論と呼応の原理』および、仏教における中道儒教における中庸も参照)。

学風および特色

神奈川大学横浜キャンパス碑「メビウス”永遠”」

創立当時の学科は法学科(法学部)と、商業理財科(商経学部)である。建学の精神の一を質実剛健とし、また横濱専門学校校歌に経世実用めあてとなしてとあるように実学(経世致用の学、学問は現実の社会問題を改革するために用いられなければならないとする主張。その先駆けは中国朝末の東林学派の主張に見られ、明朝滅亡に伴い、朱舜水が日本に亡命して水戸藩水戸学にも影響を与える)と実践力を重視する学風である。、伝統的に京都学派哲学者が在籍しており、ニーチェマルティン・ハイデッガーカール・ヤスパースらの実存主義哲学から出発し現実の社会問題解決のための比較文明学や社会科学の研究や哲学研究(無限革命論等)に結び付ける研究がある。

創設者の米田吉盛は自らも苦学した経験から、給費生制度を設けて勤労学生を援助した。また「教育は教員にあり」という信念を持っており、中央大学の恩師で当時司法次官だった林頼三郎を横浜専門学校初代校長に招いた。当時、中央大学の講師として米田と知り合った樋貝詮三から資金面の援助を得た。一橋系会計学者太田哲三からは商業系の学科を開設するにあたって援助を得た。法律系の教授陣は米田の母校である中央大学の教員と裁判官、そして、商業系の教授陣は東京商科大学(現・一橋大学)の教員が主流を占めていた。

創設者 米田吉盛

創設者である米田吉盛は、翼賛選挙において非推薦で当選し、終戦の翌年の総選挙(落選)では「私のすべての政策は如上の天皇制擁護と国民協同自治の理念から出発する」 とし、天皇制擁護と国民協同自治の理論を提唱、経済的に窮地に立つ農村は安い肥料で支え、中小企業の振興等の政策を提唱し、また戦後日本の教育を考え衆議院文教委員会で活躍した人物として知られる。保守中道の政治家であり、1957年岸信介内閣改造に伴い厚生政務次官に就任している。横濱専門学校創設の際の教員集めでは、林頼三郎太田哲三の紹介する人物に対して三顧の礼をもってあたった。建学にあたっては徹底した実学主義と、大量教育の排除(マスプロ教育を排除してゼミナールによる少人数教育を推進)を目指し、1950年のヨーロッパ視察でイギリスの教育制度に学びケンブリッジ大学オックスフォード大学の例に鑑み、寮制度を充実をさせチューター (tutor)システム・カレッジを構想し、中山校地を取得したが、学生運動による退陣を以て頓挫した。

横濱専門学校初代校長 林頼三郎

横濱専門学校初代校長林頼三郎は、昭和初期、日中戦争から太平洋戦争に突入する時代背景において司法次官検事総長大審院院長、司法大臣等を歴任した人物であり、特に治安維持法の制定・施行に関与し「思想犯の社会からの隔離」を提言した人物として知られる。これは後の1941年(昭和16年)の新治安維持法において、行刑や思想犯保護観察法も絡め、予防拘禁として盛り込まれた。刑法を専門とする法学者であり、著書に『刑事訴訟法要義』『刑法総論』がある。

横濱専門学校初代理事 樋貝詮三

横濱専門学校初代理事樋貝詮三は、恩給局書記官、法制局参事官内閣恩給局長、保険院長官、第37代衆議院議長皇室典範委員会委員長、国務大臣賠償庁長官などを歴任した人物である。樋貝は資金面の援助のほか、用地選定には米田と同道して助言をしている。樋貝詮三は米田吉盛の最大の理解者であり、米田は樋貝を兄のように慕っていたという。

横濱専門学校法人評議員 太田哲三

一橋系会計学者太田哲三は、中央大学、東京商科大学で教鞭をとる。1929年には米田吉盛の依頼で横濱専門学校(神奈川大学)の商業理財科の創立に協力。商業系の講師(教授)を米田に紹介した。公認会計士の資格では、1950年(昭和25年)2月に公認会計士太田哲三事務所を開業。この事務所は1967年(昭和42年)に日本国初の監査法人となる。東京商大を退官後の1948年4月、長浜ゴム工業株式会社(後に三菱樹脂株式会社に商号変更)の社長に就任(1950年(昭和25年)まで)。著書に『商業簿記』。

また、横浜の財界人、上郎清助(貴族院議員)、渡辺利二郎(渡辺銀行取締役)、綿貫音次郎、渡辺金三、横打弥太郎らも資金面で協力し、評議会顧問に、馬場鍈一(貴族院議員、大蔵大臣、内務大臣日本勧業銀行総裁)、山川端夫(貴族院議員、海軍・外務官僚、国際法学者)、評議員に小林一郎(中央大学教授)、西川一男(中央大学教授)、新保勘解人(大審院判事)、吾孫子勝(大審院判事)なども参画した。

草創期の主な講師陣

草創期の講師陣は主に次の通り

貿易科

1930年、貿易科を設置。米田が設立時から構想していたもので、当時としてはユニークな学科であった。卒業生には外務省に奉職し、タイ王国チェンマイ日本領事館副領事、タイ・トーメン社(現:豊田通商)社長、会長となった西野順治郎等がいる。現代ビジネス学科となる。

横濱専門学校奨学会

1933年、米田は給費金の返還を必要とせず、卒業後の進路について一切拘束しないという魅力ある給費生制度を創設。給費母体の「横濱専門学校奨学会」の設立に奔走し、政治家、財界等から錚々たるメンバーの参加を得る。この給費生制度は戦争中も途絶えることなく継続し、今日に引き継がれる。

商経法学会

教員の研究面も充実を図り、1938年「横濱専門学校商経法学会」を設置。研究紀要『商経法論叢』を創刊、若手の教員陣が論文を多数発表する。創刊時の論文を発表した教員は主に次の通り

商経法学会は法学部、経済学部の分離に伴い、法学会と、経済学会に分離し『商経法論叢』は『神奈川法学』と『商経論叢』になり今日に至る。

工学三科の設置

横濱専門学校工学科(機械工学、電気工学、工業経営の工学三科)は、1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件勃発と、日本が中国との泥沼の全面戦争(日中戦争)に踏み込み、戦争に伴う軍需工業と重化学工業の需要が高まる中、日本政府は工業技術者養成機関の大拡張政策を推進する状況の中で、当時、法学部の産業管理及び能率論の講師だった経営学者上野陽一(フレデリック・テイラー科学的管理法能率学と名付け、端緒的研究者)の提言により、「国策遂行ノ為メ、生産力拡充ノ要ハ焦眉ノ急ナリ、然ルニ斯界ノ実状必ズシモ安恕タリ得ズ、之本校ガ微力ヲモ顧ミズ増設ヲ発起セシ所以ナリ。」という政府の要望に答える形で、「日支事変による時局進展と共に各工業部門の拡大と相俟って必然的に問題化されてきた技術員特に、高等技術員の不足を補充し併せて専門学生として人格を陶冶し国体観念を涵養する目的」(『横専学報』第81号)をもって設置し、横浜高等工業高校(現・横浜国立大学工学部)の有力教員を引き抜いて構成された。

教育および研究

歴史民俗資料研究

外国語学部

法学部

経済学部

経営学部

工学部

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