このキーワード
友達に教える
URLをコピー

神聖ローマ帝国とは?

神聖ローマ帝国
: Heiliges Römisches Reich
: Sacrum Romanum Imperium
 | 800年/962年 - 1806年 | 



(国旗) | (国章)

領土の変遷
公用語 ドイツ語ラテン語イタリア語チェコ語オランダ語フリジア語フランス語スロベニア語ソルブ語ポーランド語
首都 プラハ(1346年-1437年1583年-1611年)
ウィーン(1483年-1806年)
レーゲンスブルク(国会の設置場所として、1663年-1806年)
神聖ローマ皇帝
800年 - 814年 カール1世(フランク・ローマ皇帝初代)
915年 - 924年 ベレンガーリオ(フランク・ローマ皇帝11代、最後)
962年 - 973年 オットー1世(初代)
1155年 - 1190年 フリードリヒ1世(第10代)
1355年 - 1378年 カール4世(第16代)
1508年 - 1519年 マクシミリアン1世(第17代)
1519年 - 1530年 カール5世(第20代)
1792年 - 1806年 フランツ2世(最後)
人口
1550年
17,000,000人
変遷
成立 962年2月2日
金印勅書
1356年
ヴェストファーレン条約
1648年10月24日
【滅亡】
1806年8月6日

  1. ^ フランク王国カール1世フランク・ローマ皇帝戴冠を神聖ローマ帝国の起源とする場合は800年、フランク・ローマ皇帝の継承者を自認するオットー1世の戴冠をあくまでも建国と見なす場合は962年である。
  2. ^ 勅書のうち1から24条は1月10日、24から31条までは12月25日に作成。
各国の歴史

【先史時代から中世前半】

ハルシュタット文化
属州ノリクム
マルコマンニ
サモ王国
カランタニア公国
オーストリア辺境伯領
バーベンベルク家ザルツブルク大司教領ケルンテン公国シュタイアーマルク公国
小特許状
【ハプスブルク時代】

ハプスブルク家
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ハプスブルク君主国
オーストリア帝国
ドイツ連邦
オーストリア=ハンガリー帝国
【第一次世界大戦】

サラエヴォ事件
第一次世界大戦
【両大戦間期】

オーストリア革命
ドイツ・オーストリア共和国
第一共和国
オーストロファシズム
アンシュルス
【第二次世界大戦】

ナチズム期
第二次世界大戦
【戦後】

連合軍軍政期
オーストリア共和国
【関連項目】

ドイツの歴史
ハンガリーの歴史
チェコの歴史

フランスの歴史


先史時代

古代

中世
フランク王国

メロヴィング朝
481–751
カロリング朝
751–987
西フランク王国

フランス王国

カペー朝
987–1328
ヴァロワ朝
1328–1498

近世
ヴァロワ=オルレアン朝
1498–1515
ヴァロワ=アングレーム朝
1515–1589
ブルボン朝
1589–1792

近代
フランス革命
1789
立憲王政
1791–1792
第一共和政
1792–1804
国民公会 1792–1795
総裁政府 1795–1799
統領政府 1799–1804
第一帝政
1804–1814
復古王政
1814–1830
七月革命
1830
七月王政
1830–1848
二月革命
1848
第二共和政
1848–1852
第二帝政
1852–1870
第三共和政
1870–1940
パリ・コミューン
1871

現代
フランス国 · 自由フランス 1940–1944
共和国臨時政府
1944–1946
第四共和政
1946–1958
第五共和政
1958–現在

テーマ別

年表


ドイツの歴史


先史時代
ゲルマン人

民族移動時代
4C-8C

中世
フランク王国
481-887
東フランク王国
843-10C
神聖ローマ帝国
962-1806
ザクセン朝 919-1024
ザーリアー朝 1024-1125
ホーエンシュタウフェン朝 1137-1254
大空位時代 1254-1273
選挙王制 1273-1438
ハプスブルク朝 1438-1806
東方植民
12C-14C
チュートン騎士団 1198-

近世
宗教改革
16C
三十年戦争
1618-1648
プロイセン

ブランデンブルク選帝侯領 1157-1806
プロイセン公国 1525-1618/1701
ブランデンブルク=プロイセン 1618-1701
プロイセン王国 1701-1918

ドイツ統一
ライン同盟
1806-1813
ドイツ連邦
1815-1866
関税同盟 1833-
1848年革命 1848
北ドイツ連邦
1867-1871

ドイツ国
帝政ドイツ
1871-1918
ヴァイマル共和政
1918-1933
国連管理地域ザール 1920-1935
自由都市ダンツィヒ 1920-1939
ズデーテン地方
ナチス・ドイツ
1933-1945
フレンスブルク政府
1945

冷戦
連合国軍政期
1945-1949
西側諸国占領地域
フランス保護領ザール 1947-1956
ソ連占領地域
旧東部領土
ドイツ人追放
西ドイツ
1949-1989
西ベルリン
東ドイツ
1949-1989
ドイツ再統一
1989

再統一後のドイツ

【関連項目】

オーストリアの歴史



神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、ドイツ語:Heiliges Römisches Reich, ラテン語:Sacrum Romanum Imperium, イタリア語:Sacro Romano Impero, 英語: Holy Roman Empire)は、現在のドイツオーストリアチェコイタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。中世以降は国号に「ドイツ国民の」が加えられ(解散時には単なる「ドイツ帝国」)、ドイツ人国家としての性格を明確化したが(ただし、支配下にかなりの他民族領域も含まれる)、同時に国家としての統一性は形骸化し、分立するドイツ諸邦の形式的な連合体へと変質していった。

概要

神聖ローマ帝国はローマ教皇に支持された皇帝を認めた中近世国家、あるいは地域である。西暦800年カール大帝戴冠を始まりとする。理念的には古代ローマ帝国と一体であり、またカトリック教会を含む概念でもあった。教会と教皇の守護者である皇帝は最高権威を教皇と二分し、皇帝の権威は教会を通じて西欧全体に及んでいた。しかし皇帝の実権は封建制の下で制限され、皇帝を直接の君主とする地域は962年オットー1世戴冠をもってドイツと北イタリアなどに限定された。さらにその中でも諸侯都市は領地支配における特権を拡大していき、300以上に分裂した教会領、公領、侯領、伯領、帝国自由都市、その他小貴族の領地は半ば独立した政体となった。「神聖ローマ帝国」の名称はこうした分裂傾向が強まった1254年からのもので、それまでは単に「ローマ帝国」「帝国」と呼ばれていた。近世の神聖ローマ帝国は皇帝を君主とする地域に限定しても複数の民族から構成される国家連合に近いものとなり、末期にはナポレオンによって北イタリアへの宗主権すら失い、実質的にドイツ連邦となり果てていた。帝国の全体像を把握することは困難となり、フランス哲学者ヴォルテールは近世の神聖ローマ帝国を「神聖でなく、ローマでなく、帝国でない」と酷評した。

日本では通俗的に962年オットー1世戴冠を神聖ローマ帝国の始まりと見なし、高等学校における世界史教育もこの見方を継承している。しかしドイツの歴史学界では西暦800年のカール大帝戴冠を神聖ローマ帝国の始まりとするのが一般的である。

帝国史は3つの時期に区分される。すなわち、

である。

「ローマ帝国」期はギリシャのローマ皇帝に対抗できる力を持ったカロリング朝フランク王国の国王カールが、西暦800年にローマ皇帝に戴冠されたことで始まった。歴史学上の用語でカロリング帝国と呼ぶ。領域は当時のカトリック世界ほぼ全域にわたり、古典古代とカトリック、ゲルマンの文化的融合が推進された(カロリング朝ルネサンス)。しかし843年ヴェルダン条約870年メルセン条約でフランク王国は西フランク王国と北イタリアに分割された。その後も帝位はイタリアを舞台にして争われたが、924年に皇帝ベレンガーリオが暗殺されると帝国から皇帝はいなくなった。

「帝国」期は962年に東フランクのオットー1世が皇帝となって帝位を復興したことで始まった。皇帝はイタリア王と東フランク王を兼ねた君主で、1032年からはフランス南東部のブルグント王も兼ねた。帝国の政治的中心は東フランク(後のドイツ)であり、11世紀以降の東フランク王はローマ王を称した。ローマ王はゲルマン王国の伝統に基づいた選挙王制の形式で選出されていたが、ザクセン朝ザーリアー朝ホーエンシュタウフェン朝のいわゆる三王朝時代では事実上の世襲が行われた。実際に選挙原理が働くのは王統が断絶した非常時だけだった。ローマ王はローマで教皇から戴冠しなければ皇帝と名乗れず、そのためドイツ諸侯を率いてイタリア半島へ度々遠征した(イタリア政策)。皇帝は独立性の強い諸侯に対抗する手段として帝国内の教会を統治機構に組み込んでいた(帝国教会政策)。10世紀から11世紀にかけて皇帝権は教皇権に対して優勢であり、歴代皇帝は度々腐敗した教皇庁に介入した。だが教会改革運動が進展すると皇帝と教皇の対立が引き起こされた。11世紀後半から12世紀にかけての叙任権闘争で皇帝は敗北して神権を失い、教皇の権威が皇帝を上回った。この間に諸侯は特権を拡大して領邦支配を確立した。1254年にホーエンシュタウフェン朝が断絶すると20年近くも王権の影響力が空洞化する大空位時代となり、諸侯への分権化がより一層進んだ。

「神聖ローマ帝国」の国号は大空位時代から用いられだした。大空位時代後の13世紀から15世紀にかけてローマ王位は殆ど世襲されず、異なる家門から国王が選ばれる跳躍選挙の時代となった。1356年に皇帝カール4世金印勅書を発布し、ローマ王はドイツの有力な7人の選帝侯による選挙で選ばれると定めた。選帝侯には裁判権、貨幣鋳造権等の大幅な自治権が与えられた。15世紀半ばからはオーストリア大公ハプスブルク家が帝位をほぼ独占した。マクシミリアン1世治世の1495年から行われた帝国改造によって、神聖ローマ帝国は諸侯の連合体として新たな歴史を歩むこととなった。ローマ王は教皇から直接帝冠を受けなくてもローマ皇帝を名乗ることを許され、同時期に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国号が定められた。この頃までには皇帝のイタリア王権、ブルグント王権は失われていた。

「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期の16世紀、皇帝カール5世イタリア戦争でフランスやローマ教皇と戦い、イタリアにおける覇権を手にした。しかし同時期に始まった宗教改革によってドイツはカトリックプロテスタントに分裂した。宗教紛争は最終的に皇帝を中心とするカトリックの敗北に終わり、アウクスブルクの和議によりプロテスタント信仰が容認されるとともに領邦の独立性が更に強化された。それでも宗教対立は収まらず、1618年から始まった三十年戦争ではドイツ各地が甚大な被害を受けた。1648年ヴェストファーレン条約が締結されて戦争は終結し、全諸侯に独自の外交権を含む大幅な領邦高権(主権)が認められた。一方で平和的な内紛解決手段も整えられ、諸侯の協力による帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立することとなった。しかしこのヴェストファーレン体制18世紀になると諸侯間のバランスが崩れることで形骸化し始めた。その中で台頭してきたのはプロイセン王国(ブランデンブルク選帝侯)で、18世紀初頭でのスペイン継承戦争で帝国の兵力はプロイセンに頼っていた。プロイセンは1740年からのオーストリア継承戦争で皇帝のハプスブルク家と決定的な対立関係となった。ハプスブルク家は外交革命で長年の宿敵だったフランスと同盟し、1754年からの7年戦争でプロイセンと相対した。1792年フランス革命戦争が勃発すると帝国はナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、イタリアとライン川以西が事実上フランスに併合された。

1804年に「ローマ=ドイツ帝国」と改称した帝国は300以上あった諸侯を40前後に統合・整理した。しかし新たに生まれた中規模諸侯たちはナポレオンに従属するライン同盟を編成した。既に「オーストリア皇帝フランツ1世」を称していたローマ皇帝フランツ2世1806年に「ドイツ帝国」解散を宣言した。こうして中世から続いた帝国は完全に解体され終焉を迎えた。

名称

神聖ローマ帝国旗(1200年 - 1350年)

古代ローマ帝国の後継を称し、その名称は時代とともに幾度も変化した。

カールは公文書においてローマ帝国の名を用い、彼の後継者達もまた「ローマ帝国の皇帝」 を名乗った。
:Römisches Reich
:Imperium Romanum
羅:Sacrum Imperium
「神聖(Sacrum)」の形容詞は、1157年フリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れる。
独:Heiliges Römisches Reich
羅:Sacrum Romanum Imperium
独:Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation
羅:Sacrum Romanum Imperium Nationis Germanicae
独:ドイツ語: Römisch-Deutschen Reiche - 皇帝称号変更命令による。
独:ドイツ語: Deutschen Reich - 神聖ローマ帝国の解散詔勅による。
ただし皇帝の称号は終始「神聖ローマ皇帝」(ドイツ語: Erwählter römischer Kaiser)を名乗った。

元々、彼らは古代ローマ帝国カロリング帝国継承国を自認していた。カロリング帝国はローマ帝国の継承国を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」の名は(西)ローマ帝国から受け継がれた帝権を継承した帝国であるということを標榜していた。そして帝位にふさわしいと評価を得た者がローマ教皇によりローマで戴冠され、ローマ皇帝に即位したのである。しかし、この帝国は「神聖」の定義や根拠が曖昧で、「ローマ帝国」と称してはいるが、現在のドイツからイタリアまでを領土としていてもローマは含んでおらず、さらに「帝国」を名乗りつつも皇帝の力が実質的に及ぶ領土が判然としない国であった。

また、同時代に古代ローマ帝国の後継を称した国としては、15世紀中期まで東ローマ帝国が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主がローマ皇帝であることも承認しなかった(二帝問題)。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことをローマ帝国であると認めず、「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた。

時代が下って1933年ナチス政権を握ると、彼らは自らを「第三帝国」と呼び慣わしたが、これは神聖ローマ帝国(962~1806年)、ドイツ帝国(1871~1918年)に次ぐ「第三のドイツ人帝国」という意味である。

領域

現在の国の輪郭と神聖ローマ帝国の領域の変遷
プロイセン
ブランデンブルク
ザクセン
プファルツ
ネーデルラント
ボヘミア
バイエルン
オーストリア
シュヴァーベン
シュタイアーマルク
ブルグント
スイス
ミラノ
ローマ

神聖ローマ帝国の領域は今日のドイツ(南シュレスヴィヒ(en)を除く)、オーストリア(ブルゲンラント州を除く)、チェコ共和国スイスリヒテンシュタインオランダベルギー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/07 03:28

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「神聖ローマ帝国」の意味を投稿しよう
「神聖ローマ帝国」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

神聖ローマ帝国スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「神聖ローマ帝国」のスレッドを作成する
神聖ローマ帝国の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail