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神風特攻隊とは?

(神風特攻隊から転送)
空母エセックスに突入を試みる神風特攻隊「香取隊」山口善則一飛曹・酒樹正一飛曹搭乗の艦上爆撃機「彗星」
1944年11月25日空母エセックスに神風特攻隊機が命中した瞬間

神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、しんぷうとくべつこうげきたい)は、第二次大戦大日本帝国海軍体当たり戦法のため編制した、特別攻撃隊。略称は「神風」、「神風特攻隊」、「特攻隊」。大日本帝国陸軍航空機による艦船に対する特別攻撃隊は当初は通称はなかったが、のちに特攻隊の略号「と」をとってと號部隊と呼称された。

目次

  • 1 概要
  • 2 歴史
    • 2.1 創設まで
    • 2.2 創設
    • 2.3 特攻第一号
    • 2.4 拡大
    • 2.5 沖縄戦
  • 3 名称と発表
  • 4 戦果
    • 4.1 艦艇に対する戦果
    • 4.2 人員に対する戦果
    • 4.3 有効率
  • 5 特攻隊員
    • 5.1 特攻志願
    • 5.2 戦没者
  • 6 方法
    • 6.1 機材・爆弾
    • 6.2 攻撃方法
    • 6.3 練習機や水上偵察機による特攻
  • 7 神風特攻隊の一覧
  • 8 注釈
  • 9 脚注
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目

概要

飛行機に爆装して体当たりした「航空特攻」と、特殊潜航艇人間魚雷などの「海上特攻」とがあった。

神風」は猪口力平が名付けた「しんぷう」が正式な読み方であるが、当時のニュース映画が誤って「かみかぜ」と読み上映したことで「かみかぜ」が定着した。

歴史

創設まで

大西瀧治郎

日本海軍の航空機による体当たり戦術は、太平洋戦争および神風特攻隊の創設以前に、日本海軍航空隊の草分けである山本五十六が言及していた。

1924年(大正13年)9月1日、山本五十六海軍大佐は霞ヶ浦海軍航空隊附となる(山本は大正13年12月1日より同隊副長。大正14年12月1日、転任)。 この時、太平洋戦争における神風特攻隊を実施した大西瀧治郎少佐(同隊に大正14年1月7日〜15年2月1日まで配属)と城英一郎大尉(同隊に大正12年2月10日〜昭和2年11月15日まで生徒・教官時代含め所在)も霞ヶ浦海軍航空隊に所属しており、山本・大西・城は親密な関係になった。城英一郎は1926年(大正15年)8月20日に結婚したが、これにより山本栄少佐(同隊に大正11年12月〜15年5月まで配属)の義弟となった。後年、山本栄は神風特別攻撃隊が出撃した第二〇一海軍航空隊司令となった。

1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞く。この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討した。

1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六少将は、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間は、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語ったという。

1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発後、ミッドウェー海戦ガダルカナル島の戦いを経て戦況は悪化した。1943年(昭和18年)春、日本軍はB-29型超重爆の開発情報を掴み「B-29対策委員会」を設置した。4月17日、東條英機陸軍大臣は局長会議で敵超重爆や防空の心構えについて語った際「一機対一機の体当たりで行く」「海軍ではすでに空母に対し体当たりでゆくよう研究訓練している」と述べ、特攻精神を強調している。 翌4月18日い号作戦にともないソロモン諸島を視察中の山本五十六大将(連合艦隊司令長官)は、海軍甲事件で戦死した。 同年6月5日城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列。かつて山本と『航空機体当たり』を検討した事を回想する。6月22日、城は自らを指揮官とする特殊攻撃隊の構想をまとめる。投入予定海域はソロモン諸島およびニューギニア方面で、敵大型艦(戦艦、空母)は大破、特設空母(軽空母)や巡洋艦は大破または撃沈、駆逐艦や輸送船は撃沈を期待というものだった。 6月29日、城は、特殊航空隊の構想を海軍航空本部総務部長大西瀧治郎中将に説明した。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった。 ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感する。「上司としても計画的に実行するには相当の考慮が必要である。自身としては黙認が得られて、航空機と操縦者が得られれば実行可能であり、転出して実行の機会を待つ」の心境であり、その後も個人的に特攻隊について研究し、海軍航空本部高橋千隼課長等にも相談していた。

1944年(昭和19年)2月15日、城英一郎大佐は空母千代田艦長に任命される。 6月下旬、日本海軍はサイパン島の戦いにともなうマリアナ沖海戦に大敗(城も千代田艦長として参加)。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した。

マリアナ沖海戦後、岡村基春大佐も大西へ対して特攻機の開発、および特攻隊編成の要望があった。さらに、252空司令舟木忠夫大佐も「体当たり攻撃(特攻)以外、空母への有効な攻撃は無い」と大西に訴え、大西自身もこの頃には「何とか意義のある戦いをさせてやりたいが、それには体当たりしか無い。もう体当たりでなければいけない」と周囲に語っていた。この頃すでに、日本海軍の中央で特攻兵器の研究は進められていたが、これは神風特攻隊とは関係無い別物だった。

1944年(昭和19年)10月5日、大西が第一航空艦隊司令長官に内定すると、軍需局を去る際に局員だった杉山利一に対して「向こう(第一航空艦隊)に行ったら、必ず(特攻を)やるからお前らも後から来い」と声をかけた。これを聞いた杉山は、大西自らが真っ先に体当たり特攻を決行するだろうと直感したという。大西は出発前、海軍省で海軍大臣米内光政大将に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得ていた。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語ったが、及川は「決して(特攻の)命令はしないように。(戦死者の)処遇に関しては考慮します」「(特攻の)指示はしないが、現地の自発的実施には反対しない」と承認した。それに対して大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。大西は、軍令部航空部員源田実中佐に戦力を持って行きたいと相談するが、源田は現在それが無いことを告げ、その代わりとして零戦150機を準備すると約束した。その際にも、大西は場合によっては特攻を行うという決意を話した。

同年10月9日フィリピンに向けて出発した大西は、到着までに台湾・新竹で航空戦の様子を見学し、多田武雄中将に対して「これでは体当たり以外無い」と話し、連合艦隊長官豊田副武大将にも「(単独飛行がやっとの練度の)現状では被害に見合う戦果を期待できない。体当たり攻撃しか無い。しかし、命令では無くそういった空気にならなければ(特攻は)実行できない」と語った。

フィリピンに到着すると、大西は前任者の第一航空艦隊司令長官寺岡謹平中将に「基地航空部隊は、当面の任務は敵空母の甲板の撃破として、発着艦能力を奪って水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し、心構えを厳粛にして落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか…。いや、司令を通じた方が後々のためによかろう。まず、戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然に続くだろう。水上部隊もその気持ちになるだろう。海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう」と語り、必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して、寺岡から同意を得て一任された。

寺岡から同意を得た大西は、フィリピンで第一航空艦隊参謀長小田原俊彦少将を初めとする幕僚に、特攻を行う理由を「軍需局の要職にいたため最も日本の戦力を知っており、重油ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する。もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため、一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結んで満州事変の頃まで大日本帝国を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。この犠牲の歴史が日本を再興するだろう」と説明した。

同年10月19日、大西はマニラ艦隊司令部にクラーク空軍基地の761空司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐と、マバラカット基地の201空司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し、司令部内にて特攻の相談を行おうとしたが、前田・庄司は司令部に到着して相談できたものの、山本・中島は到着が遅れたため、大西が自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり面会は叶わなかった。しかし、小田原が代わりに山本と面会し、特攻決行の同意を得た。

創設

関行男大尉(戦死後、中佐へ2階級特進)

1944年(昭和19年)10月19日夕刻、マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で大西、201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平、二十六航空戦隊参謀兼一航艦参謀吉岡忠一中佐が集合し、特攻隊編成に関する会議を開いた。大西は「空母を一週間くらい使用不能にし、捷一号作戦を成功させるため、零戦に250kg爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法は無いと思うがどうだろう」と提案した。これに対して玉井は、山本が不在だったために「自分だけでは決められない」と返答したが、大西は小田原が山本と面会して既に同意を得ていることを伝え、同時に特攻を決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい、飛行隊長指宿正信大尉・横山岳夫大尉と相談した結果、体当たり攻撃を決意して大西にその旨を伝えたが、その際に特攻隊の編成は航空隊側に一任して欲しいと大西に要望し、大西はそれを許可した。

「指揮官の選定は海軍兵学校出身者を」という猪口の意向を受け、玉井は関行男を指名した。猪口によれば、関は指名された際にその場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したというが、玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、翌朝になって承諾する返事をしたと語った。いずれにせよ、関は特攻隊指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書き終え、海軍報道班員のインタビューに対して「日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて」「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った。

特攻隊の編成を一任された玉井は、自分が育成した甲飛10期生を中心に33名を集めて特攻の志願を募り、最終的に24名の特攻隊を編成した。飛行長だった中島正によると、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという。

玉井は戦後の回想で、大西の特攻に対する決意と必要性を説明した後に志願を募ると、皆が喜びの感激に目をキラキラさせて全員が挙手して志願したと話している。しかし、志願した山桜隊・高橋保男によれば「もろ手を挙げて(特攻に)志願した。意気高揚」、同じく志願者の井上武によれば「中央は特攻に消極的だったため、現場には不平不満があり、やる気が失せていた。現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた。志願は親しんだ上官の玉井だったからこそ抵抗なかった」という。一方で、志願者の中には特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだことで一同の手がすぐに上がったと証言する者もおり、志願した浜崎勇は「仕方なくしぶしぶ手をあげた」、佐伯美津男は「強制ではないと説明された。零戦を100機近く失った201空の責任上の戦法で後に広がるとは思わなかった」と話している。

猪口は、郷里の道場である「神風(しんぷう)流」から名前を取り、特攻隊の名称を「神風特別攻撃隊」と提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して大西がそれを認めた。また大西は、各隊に本居宣長の歌「敷島の 大和心を 人問わば 朝日に匂ふ 山桜花」から敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊と命名した。

特攻第一号

1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編成された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。同日、一航艦司令部に帰った大西は神風特攻隊編成命令書の起案を副官の門司親徳に命じたが、門司は不慣れであったため、大西と猪口も手伝って起案され、命令書は、連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信された。

機密第202359番電 1944年10月20日発信
「体当り攻撃隊を編成す」
1. 現戦局に鑑み艦上戦闘機26機(現有兵力)をもって体当り攻撃隊を編成す(体当り13機)。本攻撃はこれを四隊に区分し、
敵機動部隊東方海面出現の場合、これが必殺(少くとも使用不能の程度)を期す。成果は水上部隊突入前にこれを期待す。
今後艦戦の増強を得次第編成を拡大の予定。本攻撃隊を神風特別攻撃隊と呼称す。
2. 201空司令は現有兵力をもって体当り特別攻撃隊を編成し、なるべく十月二十五日までに比島東方海面の敵機動部隊を殲滅すべし。
司令は今後の増強兵力をもってする特別攻撃隊の編成をあらかじめ準備すべし。
3. 編成 指揮官海軍大尉関行男。
4. 各隊の名称を敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊とす。

10月21日、大西は甲板撃破のために時間的猶予を得るため、第一遊撃部隊突入時期の延期を南西方面艦隊司令長官三川軍一中将と協議するが、既に同月25日と定めて行動しており、困難であることを知った。また、10月22日には第二航空艦隊司令長官・福留繁中将に二航艦も特攻を採用するように説得したが、これは断られた。

敷島隊の特攻により爆沈した護衛空母セント・ロー

神風特別攻撃隊の初出撃は同年10月21日で、敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊の計24機が出撃したが、同日は悪天候などに阻まれてほぼ全機が帰還したものの、大和隊隊長・久納好孚中尉が未帰還となった。そのため、「特攻第1号」は敷島隊隊長・関行男ではなく、大和隊隊長・久納好孚中尉を未確認ながら第一号とする主張も戦後現れた。各隊は出撃を連日繰り返すも全て空振りに終わり、同月23日には大和隊・佐藤馨上飛曹が未帰還となる。第一航空艦隊航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という。軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している。

10月25日6時58分、レイテ突入を目指していた第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、戦艦大和座乗、いわゆる「栗田艦隊」)が、サマール島沖で上陸部隊支援を行っていたクリフトン・スプレイグ少将指揮の第77任務部隊第4群第3集団の護衛空母群(タフィ3)を発見し攻撃を開始した。離れた海域にいた第77任務部隊第4群第1集団(タフィ1)はタフィ3を援護するため航空機の発進準備を行っていたが、7時40分に菊水隊、朝日隊、山桜隊の4機の零戦がタフィ1上空に到達した。このときにはタフィ1各艦のレーダーには多数の機影が映っており、この4機が日本軍機と気づくものはおらず、気づいたときにはそのうちの1機が高度2,500mから40度の角度で護衛空母サンティに向かって急降下していた。急降下してきた零戦は舷側から5m内側の飛行甲板に命中して貫通し、飛行甲板下で搭載爆弾が爆発して、42㎡の大穴を飛行甲板に開けて、16名の戦死者と47名の負傷者を生じさせたが、幸運にも火災が航空燃料や弾薬に引火することはなかったので致命的な損傷には至らなかった。

続く2機は、護衛空母サンガモンペトロフ・ベイに向かってそれぞれ急降下したが、いずれも対空砲火を浴びて両艦の至近海面に墜落した。残る1機は護衛空母スワニーに向かって急降下してきたので、スワニーは対空砲火を集中した。対空砲火が命中したのか急降下してきた零戦が炎を発したので、スワニーの乗組員は歓声を上げたが、零戦は損傷にめげずにそのまま後部エレベーター付近の飛行甲板に命中、機体と爆弾は貫通して艦内で爆発して、71名の戦死者と82名の負傷者という大きな損害を被った。特攻機が命中したサンティとスワニーの損害は大きかったが、いずれもサンガモン級航空母艦であり、排水量基準:11,400t 満載:23,235tと大型で、護衛空母のなかでも非常に強固に建造されていたため、このあとも任務を続行した。しかし、10月28日にスワニーはもう1機特攻機が命中して、「艦設計の際に考慮されていなかった程の甚大な損傷」を被って戦線離脱している。

栗田艦隊との海戦(サマール沖海戦)で護衛空母ガンビア・ベイと2隻の駆逐艦、1隻の護衛駆逐艦を失い、護衛空母ファンショー・ベイカリニン・ベイなど損傷艦多数を抱えることとなったタフィ3は、栗田艦隊の突然の変針により、ようやく一息をつくことができた。戦闘配置命令も解除されて、命中弾を1発も受けなかったセント・ローの乗組員たちは、沈没したガンビア・ベイの艦載機の収容準備などをしながら、自分たちの幸運について語り合っていた。このときもタフィ1が菊水隊の突入を受けたときと同様に、各艦のレーダーには多数の機影が映っており、関が率いる敷島隊5機の接近に気づくものはいなかった。10時49分、敷島隊の各機はそれぞれ目標を定めると、急降下を開始した。先頭の1機が、戦艦の巨砲の命中でいくつもの傷口が開いていたカリニン・ベイめがけて突入し、飛行甲板に数個の穴をあけて火災多数を生じさせたが、搭載していた爆弾は不発であった。この最初にカリニン・ベイに突入した機が関の搭乗機であったという説もある。カリニン・ベイにはもう1機が海面突入寸前に至近で爆発して損害を与えて、2機の突入により5名の戦死者と55名の負傷者が生じたが、栗田艦隊との海戦で15発以上の命中弾を浴びていたにも関わらず、沈没は免れた。

護衛空母ホワイト・プレインズに向かって急降下していた零戦1機がホワイト・プレインズの対空砲火が命中し損傷したため、目標をセント・ローに変更し、セント・ローの艦尾1,000mから高度30mの低空飛行で、そのまま着艦するような姿勢で接近してきた。その零戦に向けてセントローが搭載していたMk.IV20㎜機関砲とボフォース 40mm機関砲を発砲したが、零戦は退避行動をとることなく、発見された1分後に、飛行甲板中央に命中した。零戦が命中した瞬間に航空燃料が爆発して、猛烈な火炎が飛行甲板を覆い、搭載していた250㎏爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その爆発で格納庫内の高オクタンの航空燃料がまず誘爆し、その後も爆弾や弾薬が次々と誘爆した。あまりの爆発の激しさに、付近を航行していた重巡洋艦ミネアポリスの乗組員が海中に吹き飛ばされたほどであった。もう手が付けられないと悟ったフランシス・J・マッケンナ艦長は特攻機が命中したわずか2~3分後の10時56分に総員退艦を命じたが、その後も何度も大爆発を繰り返して30分後に沈没した。114名が戦死もしくは行方不明になり、救助された784名の半数が負傷したり火傷を負っていたが、そのうち30名が後日死亡した。このセント・ローを仕留めた零戦が関の搭乗機だという説が広く認知されている。他にも護衛空母キトカン・ベイに1機命中したが、爆弾が艦を貫通して海上で爆発したため軽微な損傷を与えたのと、ホワイト・プレインズ直上で特攻機が爆発して同艦に火災を起こさせた。

この日、護衛空母艦隊は戦死1,500名、負傷1,200名と艦載機128機を喪失するという大損害を被り、さらに、母艦を失うか大破して着艦できなくなった67機の艦載機が、占領したばかりで整備不良のレイテ島タクロバン飛行場に緊急着陸を余儀なくされたが、そのうち20数機がぬかるみに脚をとられて破壊された。しかし、このときにはすでに栗田艦隊はすでに反転しており(いわゆる「栗田ターン」)、特攻戦果は作戦成功にはつながらなかった。大西は「神風特攻隊が体当たりを決行し、大きな戦果を挙げた。自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので今後も特攻を続ける。反対するものは、たたき斬る」と語った。

拡大

特攻機が命中して破壊された正規空母タイコンデロガの艦橋

10月26日、及川古志郎軍令部総長は、神風特攻隊が護衛空母を含む5隻に損傷を与えた戦果を奏上した。昭和天皇(大元帥)はこの生還を期さない特攻作戦についてはご存じなく、同月28日には御説明資料も作成された。及川軍令部総長は、「そのようにまでせねばならなかったか。しかしよくやった。」と御嘉賞のお言葉を賜った。そのお言葉は軍令部から全軍に向けて発信され、第201航空隊飛行長中島正少佐は、特攻隊員らの前で電文を読み上げ督励した。また、昭和天皇は、10月30日に米内海軍大臣に、「かくまでせねばならぬとは、まことに遺憾である。神風特別攻撃隊はよくやった。隊員諸氏には哀惜の情にたえぬ。」と仰せられた。

神風特攻隊編成当初は、参謀の猪口が「特攻隊はわずか4隊でいいのですか?」と訊ねたのに対し、「飛行機がないからなぁ、やむをえん。」と特攻は一度きりで止めたいとの意向を示していた大西であったが、敷島隊の特攻が戦果を挙げた後、大西は2航艦長官福留繁中将を説得して、現地で第一航空艦隊・第二航空艦隊を統合した「第一連合基地航空部隊」を編成し、神風特攻隊は拡大した。神風特攻隊の当初の目標は、敵空母の使用不能であり、初回の攻撃でその目標を達成したが、レイテ島付近で戦闘が続いたため、目標を敵主要艦船に広げて、1945年1月下旬には全ての敵艦船が目標になった。

大西は、第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊の攻撃は不可能なので少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすより特攻は慈悲であることなどを話した。また、大西は「特攻隊員への招宴などの特別待遇の禁止」「特攻隊以外の体当たり攻撃禁止」など特攻隊員の心構えなどを強く指導した。その強引な作戦指導に航空幹部の一部が批判的であったが、大西は「今後俺の作戦指導に対しての批判は許さない」と特攻作戦は自分で指導し自らが責任を取るという姿勢を明らかにした。これは大西が搭乗員出身でその心情を一番理解してると自負し、また最後には勝敗の如何を問わず特攻隊員と共に必ず死ぬとの意思表示であったと思われる。1944年10月27日、大西によって神風特攻隊の編成方法・命名方法・発表方針などがまとめられ、軍令部・海軍省・航空本部など中央に通達された。

連合基地航空隊には北東方面艦隊第12航空艦隊の戦闘機部隊や、空母に配属する予定であった第3航空艦隊の大部分などが順次増援として送られ特攻に投入されたが、戦力の消耗も激しく、大西は上京し、更なる増援を大本営と連合艦隊に訴えた。大西は300機の増援を求めたが、連合艦隊は、大村海軍航空隊元山海軍航空隊筑波海軍航空隊神ノ池海軍航空隊の各教育航空隊から飛行100時間程度の搭乗員と教官から志願を募るなど苦心惨憺して、ようやく150機をかき集めている。これらの隊員は猪口により台湾台中台北で10日間集中的に訓練された後フィリピンに送られた。

特攻はアメリカ軍側に大きな衝撃を与えた。レイテ島上陸作戦を行ったアメリカ海軍水陸両用部隊参謀レイ・ターバック大佐は「この戦闘で見られた新奇なものは、自殺的急降下攻撃である。敵が明日撃墜されるはずの航空機100機を保有している場合、敵はそれらの航空機を今日、自殺的急降下攻撃に使用して艦船100隻を炎上させるかもしれない。対策が早急に講じられなければならない。」と考え、物資や兵員の輸送・揚陸には、攻撃輸送艦(APA)や攻撃貨物輸送艦(AKA)といった装甲の薄い艦船ではなく、輸送駆逐艦(APD)や戦車揚陸艦(LST)など装甲の厚い艦船を多用すべきと提言している。またアメリカ軍は、最初の特攻が成功した10月25日以降、病院船を特攻の被害を被る可能性の高いレイテ湾への入港を禁止したが、レイテ島の戦いでの負傷者を救護する必要に迫られ、3時間だけ入港し負傷者を素早く収容して出港するという運用をせざるを得なくなった。

その後も特攻機は次々とアメリカ軍の主力高速空母部隊第38任務部隊の正規空母に突入して大損害を与えていった。1944年10月29日イントレピッド、10月30日フランクリンベローウッド 、11月5日レキシントン、11月25日エセックスカボット が大破・中破し戦線離脱に追い込まれ、他にも多数の艦船が撃沈破された。 特攻機による空母部隊の大損害により、第38任務部隊司令ウィリアム・ハルゼー・ジュニアが11月11日に計画していた艦載機による初の大規模な東京空襲は中止に追い込まれた。ハルゼーはこの中止の判断にあたって「少なくとも、(特攻に対する)防御技術が完成するまでは 大兵力による戦局を決定的にするような攻撃だけが、自殺攻撃に高速空母をさらすことを正当化できる」と特攻対策の強化の検討を要求している。 ハルゼーは指揮下の高速空母群に次々と特攻により戦線離脱するのを目のあたりにして「いかに勇敢なアメリカ軍兵士と言えども、少なくとも生き残るチャンスがない任務を決して引き受けはしない」「切腹の文化があるというものの、誠に効果的なこの様な部隊を編成するために十分な隊員を集め得るとは、我々には信じられなかった」と衝撃を受けている。

フィリピンの戦いを指揮した南西太平洋方面軍(最高司令官ダグラス・マッカーサー大将)のメルボルン海軍司令部は、指揮下の全艦艇に対して「ジャップの自殺機による攻撃が、かなりの成果を挙げているという情報は、敵にとって大きな価値があるという事実から考えて(中略)公然と議論することを禁止し、かつ第7艦隊司令官は同艦隊にその旨伝達した」とアメリカとイギリスとオーストラリアに徹底した報道管制を引いた。これはニミッツの太平洋方面軍も同様の対応をしており、特攻に関する検閲は太平洋戦争中でもっとも厳重な検閲となっている。

1945年1月1日、マッカーサー自ら指揮する連合軍大艦隊が、ルソン島攻略のため出撃したが、その艦隊に対して激しい特攻がおこなわれた。1月4日、神風特攻旭日隊の彗星が護衛空母オマニー・ベイを撃沈した。1月6日に連合軍艦隊はリンガエン湾に侵入したが、フィリピン各基地から出撃した32機の特攻機の内12機が命中し7機が有効至近弾となり連合軍艦隊は多大な損害を被った。戦艦ニューメキシコには、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの名代として、イギリス陸軍観戦武官ハーバード・ラムズデン中将が乗艦していたが、その艦橋に特攻機が突入、ラムスデン中将が戦死し、ラムズデンと40年来の知人であったマッカーサーは衝撃を受けている。マッカーサー自身が乗艦していた軽巡洋艦ボイシも特攻機に攻撃されたが損害はなかった。マッカーサーは特攻機とアメリカ艦隊の戦闘を見て「ありがたい。奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の軍隊輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう。」と特攻がルソン島の戦い帰趨(きすう)を左右するような威力を有していると懸念している。

海軍第1航空艦隊はこの1月6日の出撃で航空機を消耗し尽くしたので、司令の大西は陸戦隊として連合軍を迎え撃つこととし幕僚と協議を重ねていた。そんなときに、連合艦隊より第1航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」となかなか同意しなかったが、最後は大西が折れて、第1航空艦隊司令部と生存していた搭乗員は台湾に撤退することとなった。1月10日に陸軍航空隊より一足早く第1航空艦隊の一部はルソン島から台湾に移動したが、整備兵や地上要員など多くの兵士がそのまま残されて後に地上戦で死ぬ運命に置かれた。残った兵士らは、杉本丑衛26航戦司令官の指揮下で「クラーク地区防衛部隊」を編成し地上戦を戦ったが、大西は残してきた兵士らに気を揉み、台湾に転進後も常々「いつか俺は、落下傘でクラーク山中に降下し、杉本司令官以下みんなを見舞ってくるよ」と部下に話していた。

海軍航空隊はフィリピン戦で特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い、陸軍航空隊は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったのに対して、アメリカ軍は、特攻により22隻の艦艇が沈没、110隻が損傷した。通常航空攻撃による沈没が12隻、損傷が25隻であったのに対して、フィリピン戦で日本軍が戦闘で失った航空機のなかで、特攻で失った航空機は全体のわずか14%に過ぎず、通常航空攻撃に対して、相対的に損害が少ないのに、戦果が大きかった特攻の戦術としての有効性が際立つこととなった。しかし、連合軍は特攻で損害を被りつつも、レイテ島、ミンダナオ島、ルソン島と進撃を続けたので、特攻はせいぜいのところ遅滞戦術のひとつに過ぎないことも明らかになった。

台湾に転進した大西ら第1航空艦隊は台湾でも特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。1月21日に台湾に接近してきた第38任務部隊に対し「神風特攻隊新高隊」が出撃、少数であったが正規空母タイコンデロガに2機の特攻機が命中し、格納庫の艦載機と搭載していた魚雷・爆弾が誘爆し沈没も懸念されたほどの深刻な損傷を被り、ディクシー・キーファー艦長を含む345名の死傷者が生じたが、キーファーが自らも右手が砕かれるなどの大怪我を負いながら、艦橋内にマットレスを敷いて横たわった状態で12時間もの間的確なダメージコントロールを指示し続け、沈没は免れた。

1945年2月19日には、硫黄島にアメリカ軍が上陸し、硫黄島の戦いが始まったが、硫黄島に侵攻してきたアメリカ軍艦隊に対しても特攻が行われた。第六〇一海軍航空隊で編成された『第二御盾隊』は、2月21日に、彗星12機、天山8機、零戦12機の合計32機(内未帰還29機)が出撃し、護衛空母ビスマーク・シーを撃沈、正規空母サラトガに5発の命中弾を与えて大破させた他、キーオカック(防潜網輸送船) も大破させ、護衛空母ルンガ・ポイントLST-477 を損傷させるなど大戦果を挙げた。第二御盾隊による戦果は硫黄島の栗林忠道中将率いる小笠原兵団から視認でき、第27航空戦隊司令官市丸利之助少将が「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見し、士気ますます高揚、必勝を確信、敢闘を誓う」「必勝を確信敢闘を誓あり」と打電するなど、栗林らを大いに鼓舞した。梅津美治郎陸軍参謀総長及川古志郎軍令部総長はこの大戦果を昭和天皇上奏した。及川によれば、昭和天皇はこの大戦果の報を聞いて「硫黄島に対する特攻を何とかやれ」と再攻撃を求めたとされるが、洋上の長距離飛行を要する硫黄島への特攻は負担が大きく、ふたたび実行されることはなかった。『第二御盾隊』の成功の報を台湾で聞いた大西は特攻作戦に対して自信を深めて、この後も特攻を推進していく動機付けともなった。

1945年3月になって、小笠原兵団の勇戦もむなしく硫黄島の戦況がひっ迫してくると、沖縄が攻略されるのも遠くないと考えた軍令部は、1945年3月に練習連合航空総隊を解体し、その搭乗員教育航空隊をもって第十航空艦隊を編制して連合艦隊に編入し、練習機をも特攻攻撃に参加させ、全海軍航空部隊の特攻化が企図された。

詳細は「九州沖航空戦」を参照

1945年3月14日にアメリカ軍の機動部隊は沖縄戦に先立って日本軍の抵抗力を弱体化させるため、九州・本州西部・四国の航空基地や海軍基地に攻撃をかけてきた。それを1945年に新設されたばかりの第五航空艦隊が全力で迎撃し、日本本土と近海で激しい海空戦が繰り広げられ、この戦いは『九州沖航空戦』と呼称された。松山基地を出撃した第三四三海軍航空隊(剣部隊)の新鋭戦闘機紫電改もアメリカ軍艦載機を迎撃し、47機撃墜を報告している。特攻機を含む日本軍の猛攻でアメリカ軍は空母フランクリンワスプが大破、エセックスが中破するなど多大な損害を被った。正式に兵器として採用された特攻兵器桜花は九州沖航空戦が初陣となった。。3月21日に第五航空艦隊司令宇垣纏中将が、第七二一海軍航空隊に、偵察機が発見した2隻の空母を含む機動部隊攻撃を命令したが、第五航空艦隊はそれまでの激戦で戦闘機を消耗しており、護衛戦闘機を55機しか準備できなかった。そこで第七二一海軍航空隊司令の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/01/24 15:27

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