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禅宗とは?

(禅宗から転送)

(ぜん)は、大乗仏教の一派である禅宗(ぜんしゅう)の略、もしくは、サンスクリット語の dhyāna (ディヤーナ)の音写、禅那(ぜんな)の略である。また坐禅(座禅)の略としての意もある。本項では宗派についての禅宗について述べる。

目次

  • 1 概要
  • 2 「禅」
    • 2.1 言葉の由来
    • 2.2 禅那
    • 2.3 禅那と瞑想
  • 3 不立文字
  • 4 伝説時代から達磨大師までの禅の歴史
  • 5 中国の禅の歴史
    • 5.1 黎明期
    • 5.2 北宗と南宗への分裂
    • 5.3 六祖壇経と禅の隆盛
    • 5.4 慧能以降の法嗣
    • 5.5 五家七宗
      • 5.5.1 臨済宗
        • 5.5.1.1 黄龍派
        • 5.5.1.2 楊岐派
      • 5.5.2 潙仰宗
      • 5.5.3 雲門宗
      • 5.5.4 曹洞宗
      • 5.5.5 法眼宗
  • 6 日本の禅の歴史
    • 6.1 臨済宗
    • 6.2 曹洞宗
    • 6.3 普化宗
    • 6.4 黄檗宗
  • 7 日本の禅の教義
  • 8 禅宗の坐禅における禅定の種類
  • 9 方便
  • 10 霊魂(精神の永遠性、小我)の否定
  • 11 日中の禅宗比較
  • 12 世界の禅
    • 12.1 近年において
  • 13 注釈
  • 14 出典
  • 15 参考文献
  • 16 関連項目
  • 17 外部リンク

概要

南インド出身で中国にわたった達磨が祖で、坐禅を基本的な修行形態とする。ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、さかのぼって初祖とされたのが達磨である。それ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義大乗の禅である。

中国禅は、からにかけて発展し、征服王朝であるにおいても勢力は健在だったが、の時代に入ると衰退していった。日本に純粋な禅宗が伝えられたのは、鎌倉時代の初めごろであり、室町時代幕府の庇護の下で日本仏教の一つとして発展した。明治維新以降は、鈴木大拙により日本の禅が、世界に伝えられた。

禅宗諸派において、自宗と自宗以外の、すべての教宗とを区別する意味で、禅宗と自称する。

「禅」

言葉の由来

禅は、サンスクリットdhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、あるいは音写である禅那(ぜんな)の略である。他に駄衍那(だえんな)・持阿(じあな)の音写もある。他の訳に、思惟修(しゆいしゅう)・静慮(じょうりょ)・棄悪・功徳叢林・念修。

禅の字は元来、天や山川を祀る、転じて、天子が位を譲る(禅譲)という意味であった。これに「心の働きを集中させる」という語釈を与えて禅となし、「心を静かにして動揺させない」という語釈を与えて定とし、禅定とする語義が作られた。ただし禅那の意味では声調平声から去声に変わっており、現代北京語では加えて声母も変わってshàn(シャン)に対しchán(チャン)になっている。

禅那

詳細は「禅定」を参照

圭峰宗密の著書禅源諸詮集都序には、禅の根元は仏性にあるとし、仏性を悟るのが智慧であり、智慧を修するのが定であり、禅那はこれを併せていうとある。また、達磨が伝えた宗旨のみが真実の禅那に相応するから禅宗と名付けた、ともある。

類似の概念として三昧(サンスクリット: samādhi)がある。禅あるいはという概念は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。ゴータマ・シッダッタも禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては三学の戒・定・慧の一つとして、また、大乗仏教においては六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。

禅那と瞑想

禅那を現代語で俗に和訳すると瞑想となる。ちなみにヨーガ (yoga) も意訳すれば瞑想とされるが、本来は心を調御して統一に導くことをいう。瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字を強調するため、瞑想と禅は区別される。

坐禅を組むこと。あるいは参禅すること。禅那は、仏性の存在を前提に坐禅することをいう。そのため坐禅と同じ姿勢でも仏性を前提としないものは禅那とは言えず、単なる瞑想であるとして区別する。

不立文字

詳細は「不立文字」を参照

禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)を原則とする。不立文字とは、文字・言葉の上には真実の仏法がないということで、仏祖の言葉は解釈によって、いかようにも変わってしまうという意味であり、言語の持つ欠陥に対する注意である。

そのため禅宗では中心的経典を立てず、教外別伝を原則とするため師資相承を重視し、そのための臨機応変な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派である。

伝説時代から達磨大師までの禅の歴史

禅宗での血脈相承法嗣と呼ぶ。釈迦以降の法嗣は次のように伝えている。

釈迦-摩訶迦葉-阿難陀-商那和修-優婆毬多-提多迦-彌遮迦-婆須密多-仏陀難提-伏馱密多-波栗湿縛-富那夜奢-阿那菩底-迦毘摩羅-那伽閼剌樹那-伽那提婆-羅睺羅多-僧伽難提-伽耶舎多-鳩摩羅多-闍夜多-婆修盤頭-摩拏羅-鶴勒那-獅子菩提-婆舎斯多-不如密多-般若多羅-菩提達磨

マハーカーシャパ(摩訶迦葉)はバラモン階級出身の弟子で、釈迦法嗣とされる(法の継承者)。拈華微笑といわれている伝説が、宋代の禅籍『無門関』に伝わる。

世尊、昔霊山(霊鷲山、グリドラクータ)会上に在りて、花を拈(ひね)りて衆に示す。是の時衆皆な黙然として、惟だ迦葉尊者のみ破顔して微笑す。
世尊云「吾に、正しき法眼の蔵にして涅槃の妙心(正法眼蔵・涅槃妙心)、実相・無相・微妙の法門有り。文字を立てず教外に別伝し(不立文字・教外別伝)、摩訶迦葉に付嘱す」と。

— 『無門関』第一巻(世尊拈華)

二十八祖ボーディダルマ(菩提達磨)(南インド出身)が中国に入り、禅の教えを伝えたとされる。達磨は中国禅の始祖となった。

中国の禅の歴史

en:Chan Buddhism」も参照

黎明期

中国禅の歴史は『景徳傳燈録』等の文献にある(※禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信(580年 - 651年)、五祖弘忍(601年 - 674年)以降)。初期の法嗣は次のように伝えられる。

菩提達磨-神光慧可-鑑智僧璨-大醫道信(四祖)-大満弘忍(五祖) (-大鑑慧能)

北宗と南宗への分裂

詳細は「北宗」および「南宗」を参照

五祖弘忍には、弟子筆頭の神秀(606年 - 706年)、その弟弟子の慧能(638年 - 713年)という優れた2人がいた。神秀は修行を通じて徐々に悟得する「漸悟」を規範としたのに対して、慧能は一足飛びに悟得する「頓悟」を旨とする違いはあったが、ともに禅宗の布教に尽力した。やがて神秀は則天武后に招かれ洛陽へ入って破格の待遇を受け、神秀の死後も一派は代帝室や官人の庇護と支持を得た。すると慧能の弟子の荷沢神会(684年 - 758年)が、神秀の教義を「北宗」と呼んで批判したため、東山法門派は北宗と、彼らの南宗に分裂してしまう。しかし南宗は支持を得ることができず一時は洛陽から追放されてしまうが、755年に始まる安史の乱に際し売牒(度牒を売る制度)を進言して粛宗の信頼を得ると、洛陽への復活を果たして徐々に信心を集め始め、神秀に代わり慧能を六祖に定めた。神会は洛陽の荷沢寺に拠点を置いたため、南宗は荷沢宗とも呼ばれたが、762年に神会が没すると求心力を失った。

845年(会昌5年)、武宗による会昌の廃仏で徹底した弾圧を受け、洛陽内の南北宗は廃絶してしまう。しかし、南宗の法嗣を受けた多くの禅僧たちが翌年の武帝の死後も活躍し、唐代から宋代にかけて後に五家七宗と呼ばれるまでに隆盛した。現在に伝わる全ての禅宗はここから派生したとされている。

なお、チベット(吐蕃)で行われたインド仏教と中国仏教の宗論であるサムイェー寺の宗論において、カマラシーラ(蓮華戒)等と対峙した中国禅僧・摩訶衍は、北宗の者であったと言われている。また、神秀の弟子であった普寂の弟子道璿によって、北宗は日本へも伝えられている。

六祖壇経と禅の隆盛

六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』は、神会が六祖慧能を掲げて説いた新しい坐禅と禅定の定義とされる。これを元に後の中国禅宗は確立・発展した。

師衆に示して云く、
「善知識よ、何をか名づけて坐禅とするや。
此の法門中は、無障無礙なり。外に一切の善悪の境界に於て、心念が起こらざるを名づけて坐と為し、内に自性を見て動ぜざるを名づけて禅と為す。
善知識よ、何をか名づけて禅定とするや。
外に相を離るるを禅と為し、内に乱れざるを定と為す。外に若し相著れれば、内に心即ち乱れ、外に若し相を離れれば、心即ち乱れず、本性は自浄・自定なり。
只だ境を見、境を思えば即ち乱るると為す。若し諸境を見て心乱れざれば、是れ真の定なり。
善知識よ、外に相を離るる即ち禅、内に乱れざる即ち定なり。外に禅、内に定なり。是れ禅定と為す。
菩薩戒経に云く『我れ本元自性清浄なり』
善知識よ、念ずるとき念中に、自ら本性清浄なるを見、自ら修し、自ら行じ、自ら成ずるが仏道なり。

— 『六祖壇経』坐禅第五

さらに『景徳傳燈録』に載せる、慧能の弟子の南嶽懐譲(677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一(709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。

開元中に沙門道一有りて伝法院に住し常日坐禅す。
師是れ法器なるを知り、往きて問う、曰く「大徳、坐禅して什麼(いんも、何)をか図る」
一(道一)曰く「仏と作るを図る」
師乃ち一磚(かわら)を取りて彼の庵前の石上に於て磨く。
一曰く「師、什麼をか作す」
師曰く「磨きて鏡と作す」
一曰く「磚を磨きて豈(あに)鏡と成るを得んや」
「坐禅して豈仏と成るを得んや」
一曰く「如何が即ち是れなる」
師曰く「人の駕車行かざる(とき)の如し。車を打つ即ち是れ、牛を打つ即ち是れ」
一、対無し。
師又曰く「汝坐禅を学ぶは、坐仏を学ぶを為すや。若しは坐禅を学べば、禅は坐臥に非ず。若しは坐仏を学べば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、取捨に応ぜず。汝若しは坐仏、即ち是れ仏を殺し、若しは坐相に執さば、其の理に達するに非ず」
一、示誨(じかい、教え)を聞きて、醍醐を飲む如し。

— 『景德傳燈錄』巻第五

この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。

般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。

中国では老子を開祖とする道教との交流が多かったと思われ、老子の教えと中国禅の共通点は多い。知識を中心としたそれまでの中国の仏教に対して、知識と瞑想による漸悟でなく、頓悟を目標とした仏教として禅は中国で大きな発展を見た。また、禅宗では悟りの伝達である「伝灯」が重んじられ、師匠から弟子へと法が嗣がれて行った。

やがて、北宋代になると、法眼文益が提唱した五家の観念が一般化して五家(五宗)が成立した。さらに、臨済宗中から、黄龍派と楊岐派の勢力が伸長し、五家と肩を並べるまでになり、この二派を含めて五家七宗(ごけしちしゅう)という概念が生まれた。

さらに禅は、もはや禅僧のみの占有物ではなかった。禅本来のもつ能動性により、社会との交渉を積極的にはたらきかけた。よって、教団の枠組みを超え、朱子学陽明学といった儒教哲学や、漢詩などの文学、水墨による山水画や庭園造立などの美術などの、様々な文化的な事象に広範な影響を与えた。

慧能以降の法嗣

慧能以降の主な法嗣の系統は、以下の通り。太字五家七宗

五家七宗

臨済宗・潙仰宗・雲門宗・曹洞宗・法眼宗を五家、禅宗五家と呼称し、臨済宗から分れた黄龍派と楊岐派を合わせて七宗と呼称する。それらを併称して五家七宗(ごけしちしゅう)と呼称する。

臨済宗

詳細は「臨済宗#中国における臨済宗」を参照

臨済義玄を宗祖とするが、唐末五代においては、華北に地盤を置いた臨済宗は、義玄の門弟三聖慧然、興化存奨以後、その宗風はさほど振るわなかった。存奨系統の南院慧顒、風穴延沼らが一部でその法統を継承するに過ぎなかった。

北宋代になって、延沼の弟子の首山省念門下の汾陽善昭、広慧元璉、石門蘊聡といった禅匠が輩出して、一気に宗風が振るうようになった。善昭門下に石霜楚円、瑯琊慧覚が出、楚円門下からは楊岐派の楊岐方会、黄龍派の黄龍慧南が出て、その一門が中国全土を制覇することとなった。

の高峰原妙は、その宗風を、痛快という言葉で表現している。

黄龍派
宋代の中期以降に、慧南の系統が勢力を伸長し、楊岐派と共に、五家と肩を並べるまでになった。慧南の門下から晦堂祖心、東林常聡、真浄克文が輩出し、祖心の弟子の死心悟新、霊源惟清が、克文の下からは兜率従悦、覚範慧洪らが出て活躍し、当初は、より盛んであった楊岐派よりも優勢になった。
楊岐派
黄龍派と同様に方会の系統が勢力を伸ばし、七宗の一に数えられるまでになった。白雲守端の門下に五祖法演が出て、その門弟より、圜悟克勤、仏鑑慧懃、仏眼清遠という、三仏と称される禅匠が現われた。南宋になっても、その勢いはとどまらず、克勤の門弟子、大慧宗杲は多数の門弟を集め、大慧派を形成した。その他、虎丘紹隆の虎丘派、虚堂智愚を出した松源派、無準師範を出した破庵派なども活躍した。

潙仰宗

詳細は「潙仰宗」を参照

潙山霊祐仰山慧寂を祖とする。この系統も十国荊南南唐を中心として教勢を張ったが、その後は次第に衰退し、宋代にまで伝わることがなかった。

元の高峰原妙は、その宗風を「謹厳」という言葉で表現している。

雲門宗

詳細は「雲門宗」を参照

雲門文偃を祖とする。文偃門下の香林澄遠・洞山守初・徳山縁密など多くの俊哲が出て唐末に一大勢力を形成し、五代末より北宋にかけて、隆盛を極めた。宋代には、澄遠の系統から現われた雪竇重顕、文殊応真系統の仏日契嵩が活躍した。重顕門下には、天衣義懐が出た。その後も、仏印了元や大梅法英らの禅匠を輩出し、臨済宗とともにもっとも隆昌を極めたが、南宋以後は次第に衰え、元代にはその法系が絶え、二百余年で滅びることとなった。

元の高峰原妙は、その宗風を「高古」という言葉で表現している。

曹洞宗

詳細は「曹洞宗#中国における曹洞宗」を参照

洞山良价を祖とする。良价、曹山本寂の系統は、五代十国荊南南唐に宗勢を張ったが、全体的には余り宗勢は振るわなかった。本寂門下の曹山慧霞、雲居道膺門下の同安道丕、疎山匡仁門下の護国守澄、青林師虔門下の石門献蘊らの活躍が見られる程度である。

北宋代になっても、余り宗勢は振るわなかったが、投子義青が出て中興を果たした。その宗風は、芙蓉道楷、丹霞子淳に継承された。道楷は、徽宗皇帝からの紫衣と師号の下賜を拒絶して、淄州(山東省)に流罪となり、災い転じて福となり、それが華北に曹洞宗が拡大する契機となった。

南宋代には、子淳の下から宏智正覚、真歇清了が出て、「黙照禅」と呼ばれる宗風を維持したが、その宗勢は、臨済宗には遠く及ばなかった。なお、清了門下の天童如浄が、入宋した道元の師である。正覚の門下からは、『六牛図』を著した自得慧暉が出た。慧暉の系統が、その後の曹洞宗を支えることとなった。

河北に教勢を張った鹿門自覚の系統からは、代になって、万松行秀が出現し、大いに教化を振るうこととなる。行秀は、林泉従倫や雪庭福裕耶律楚材らの多くの優れた門弟子を育て、章宗の尊崇を受けた。福裕は、朝において、道教全真教の道士、李志常と論争して勝利を収め、嵩山少林寺に住して教勢を張った。以後、少林寺は、華北における曹洞宗の本拠となり、の後半には、「曹洞正宗」を名乗ることとなった。

元の高峰原妙は、その特色を、「細密」という言葉で表現している。

法眼宗

詳細は「法眼宗」を参照

五家の観念の初源となった『宗門十規論』を著した法眼文益を祖とする。五代十国では、呉越国王の銭氏一族が、永明道潜、天台徳韶永明延寿らの法眼宗に属する僧らを保護したため、江南地方において、その宗勢が振るった。

宋代になると、徳韶、延寿の系統は衰退した。代わって、清涼泰欽や帰宗義柔の系統が、その主となった。泰欽門下からは、雲居道斉、霊隠文勝の師弟が出て活躍したが、次第に衰退に向かい、ついに北宋末には、その系統は断絶してしまった。

元の高峰原妙は、その宗風を、「詳明」という言葉で表現している。

日本の禅の歴史

日本には、公式には13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされる。また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済・曹洞の禅は鎌倉仏教として広がった。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することに始まるが、それ以前に大日房能忍多武峰達磨宗(日本達磨宗)を開いていた事が知られ、曹洞宗の懐鑑、義介らは元達磨宗の僧侶であった。

鎌倉時代以後、武士庶民などを中心に日本仏教のひとつとして広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになったのに加え、五山文学水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。

中国から日本に伝わる禅の宗派に25の流れがあり、臨済宗から独立した黄檗宗を含めると47流になるとされる。

一方で、9世紀(平安時代前期)に皇太后橘嘉智子に招かれての禅僧・義空が来日して檀林寺で禅の講義が行われたものの、当時の日本における禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録も存在する。

日本禅宗25流

臨済宗

詳細は「臨済宗#日本における臨済宗」を参照

唐の臨済義玄を宗祖とする。日本では中国から臨済禅を伝えた栄西に始まり、その後何人かの祖師たちが中国からそれぞれの時代の清規を日本に伝えたため分派は多い。現在の日本の臨済宗は公案禅といわれ、江戸時代に白隠がまとめたスタイルである。公案とは、裁判の公判記録のことであるが、転じて禅語録として伝えられる祖師たちの対話をいうようになった。それぞれの判例を一則、二則と数える。その対話を知ることにより悟りを知ろうとする。公案は論理的な思考によって理解する事ができない内容が多い。

臨済宗のなかでは、妙心寺派が最大である。江戸時代、宗学が発達し、無著道忠(1653年 - 1744年)が現われ、諸本を校訂し、綿密を究めた手法を確立し、膨大な著述を残した。その著書は、近現代においても研究上の価値を失わない水準を有しており、影印版が実用書として出版されている。

曹洞宗

詳細は「曹洞宗#日本における曹洞宗」を参照

以下は曹洞宗の法系の一例である。

釈迦-(中略)-大鑑慧能-青原行思-石頭希遷-薬山惟儼-雲巌曇晟-洞山良价-雲居道膺-同安道丕-同安観志-梁山縁観-大陽警玄-投子義青-芙蓉道楷-丹霞子淳-真歇清了-天童宗珏-雪竇智鑑-天童如浄-永平道元-孤雲懐奘-徹通義介-瑩山紹瑾-...

六祖曹渓慧能洞山良价から曹洞宗とした。日本では中国に渡り印可を得て1226年に帰国した道元から始まる。帰国の翌年には普勧坐禅儀を著し、只管打坐を専らとする宗風を鼓舞した。その修行内容は「永平清規」を厳しく守り、一時的な見性に満足してしまうことや坐禅の他に悟りを求めることを良しとせず、只管に坐禅を勤めることに特色がある。

道元は自分の教えは「正伝の仏法」であるとして党派性を否定し、禅宗と呼ばれることも嫌った。

初期は在家への布教にも熱心であったが晩年は出家第一主義の立場を取った(正法眼蔵十二巻本参照)。その後、総持寺開山瑩山の時代に、坐禅だけではなく、徐々に儀式や密教の考え方も取り入れられ、一般民衆に対し全国的で急速な拡大をした。

曹洞宗の坐禅は公案に拠らず、ただ、ひたすら坐る(只管打坐)ことが、そのまま本来の自己を現じている(修証不二)としているが、公案そのものを否定しているわけではなく、また、法系によっては公案を用いる流れも存在する。

普化宗

詳細は「普化宗」を参照

9世紀に臨済録に登場する普化に因み始まる。普化についての記録はほとんどない。虚托(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。日本から中国に渡った法燈国師が、中国普化宗16代目張参に弟子入りし、1254年に帰国することで、日本に伝わった。本山は一月寺(現在の千葉県松戸市)に置かれていた。

江戸時代に幕府により組織化されたが、江戸幕府との繋がりが強かったため、明治になって1871年明治政府により解体された。宗派としては失われ、臨済宗に編入された(ちなみに一月寺は現在日蓮正宗に属する)。しかし、尺八や虚托の師匠としてその質を伝える流れが現在も伝わっている。

黄檗宗

詳細は「黄檗宗」を参照

1654年(江戸時代)に、明から招かれた中国臨済宗の隠元隆琦禅師により始まる。当初「臨済真宗」を標榜しようとしたが幕府の許可が得られず、臨済の師黄檗希運の名を取り臨済宗黄檗派と称した。明朝風の禅と念仏が一体化した禅浄混淆禅(分かり易く「念仏禅」とも称される。)を特徴とし、読経が楽器を伴う明風の梵唄であることで知られる。また、1663年萬福寺に設けられた戒壇をはじめ、各地で授戒会を開いたことで、江戸時代の戒律復興運動に影響を与えた。江戸時代を通じて一宗として見做されることなく、臨済宗の一派で終始した。黄檗宗を名乗り、臨済宗から独立を果たしたのは、明治維新後の1876年のことであり、明治以後に禅宗中の一宗となった。

日本の禅の教義

中国で成立した禅宗は、本質的に教義を否定する傾向があったが、比叡山の影響の大きい、日本の多くの禅の宗派は、教義を展開する。この節では、現代日本に於ける禅宗の姿を鳥瞰する。

全ての人が例外なく自分自身の内面に本来そなえている仏性を再発見するために、坐禅と呼ぶ禅定の修行を継続するなかで、仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指す。そうして得た悟りから連想される智慧を以て、生滅の因縁を明らかにし、次いで因縁を滅ぼして苦しみの六道解脱して涅槃に至り、その後に一切の衆生を導くことを目的とする。そのため師家が修行者に面と向かって、臨機応変に指導する以外には、言葉を使わずに直に本性を指し示す道であるとされる。

主な修行形態として坐禅を採用するのは、達磨大師が坐禅の法を伝えたとする以外にも、古来より多くの諸仏が坐禅によって悟りを開いてきたからであるとされる。最近は、坐禅によってセロトニン神経が活性化され鍛えられることや、通常とは異なる独特なアルファ波が発生することが、精神的安定や心身の健康の一因であるという生理学教授もいる。 ただし、自分も根本的には仏祖と同一であるという境地に到達した者には、一切の行動にことごとく仏道が含まれているという価値観が生じるため、坐禅に限らず念仏や読経も行うようになる。

禅宗においては、そもそも禅宗とは何かといった、メタな問いかけを嫌う傾向にある。そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して、各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達して後に、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。

文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華迦葉微笑における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥が仏であることを忘れて、経典や他人の中に仏を捜しまわることが、かえって仏道成就の妨げになるからであると説く。

沢庵和尚が、たとえて言うには「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様」で、実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで、到達できるとする。

禅宗の坐禅における禅定の種類

栄西は『興禅護国論』で『楞伽経』を引いて坐禅は四種類あると説いている。

愚夫所行禅
凡夫・外道が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地。達磨大師は、内心に悶えることなく外に求めることもないこの境地が壁のように動かなくなれば、そこではじめて仏道に入ることができると説く。
観察相義禅
小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地。しかし、いまだ仏法・涅槃を求める強い欲心があるがために悟りを開けないでいる。人々がいつまでも苦しみの輪廻を逃れられないのは、このように我が身にとらわれて自分さえよければと欲求することが、結果的に罪業を作る結果となるからである。夢窓国師は、もし自分を忘れ一切の欲を投げ捨てて利他心を起こせば、すぐさま仏性が発揮されて、生き仏になることができると説く。
攀縁如実禅
大乗の菩薩が、中道を覚って三業を忘れ、有るでもなしでもなしと達観する境地。生きとし生けるものすべての生滅の苦しみに同情し、苦しみを抜いて楽を与えるべく苦慮しており、その姿勢にはもはや自他の区別がない。しかし衆生を救う願があるがために如来清浄禅に入ることができない。
如来清浄禅
如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた。禅宗で、坐禅によって本分の田地、本来の仏性に知らず知らずに立ち返る
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出典:wikipedia
2018/11/06 21:56

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